第三話 妖狐暮羽と貴族たち
午後七時――まだ、戌の刻と呼び習わす人も多い時刻。
篝火横丁は、すっかり夜の装いに切り替わっていた。
街路灯の淡い魔術光で照らされる中、軒を連ねる店や品を広げる露店からはひっきりなしに客引きの声が飛んでいる。 一人でも多くの客を呼び込もうと躍起になっていた店主や店員たちだったが、横丁の入り口から歩いてくる姿に、みな一様に眼を止めた。
「おお、おいでなすったか」
「一週間ぶりくらいかね?」
薄闇の中にあって、なお目立つモノクロームの姿。
すらりと伸びた足が動くたび、高いヒールがかつかつと軽快な音を立てる。 白黒の中でひときわ目立つ、鮮烈な紅い視線で周囲を睥睨しながら、彼女は喧騒を割るように大股で歩いてきた。
「え? あ、あれ、御神楽内親王殿下ですよ……ね?」
それを見て、眼を丸くする新人の店員。 横に立っていた年配の番頭が、ごほん、とわざとらしく咳払いをする。
「いいか新米。 そう見えるかもしらんが、ありゃ他人の空似だ」
「え、でも、あんな髪と目の色の御方なんて」
「……もしお前がそれらしい態度でも取ってみろ、何も買ってもらえなくなるんだからな。 したら、給料からその分引くぞ」
「え、ええ?」
「ああ、たまに張り手か蹴りのおまけがつくが、そしたらもっと引くからな」
「理不尽だ!?」
そんな二人の前でヒールの音が止まり、くだんの少女は、にこりと笑う。
「こんばんは、四迷堂さん。 何かいいもの入ってる?」
*****
夜の横丁は、皇国最大の繁華街である祇園に勝るとも劣らない賑わいを見せる。 祇園と違うのは、こちらは飲食店よりも書物、雑貨、服飾、薬品などの専門店が多いことと、親子連れの姿がそこここに見られることだ。 そういった人々の目当ては、西大陸やエル・ネルフェリアから輸入されてきた、ここでしか見られない珍しい品物だ。
では、今しがたこの横丁を訪れたやんごとなき御方の目当てはといえば。
「二本、ちょうだい」
白い指が品物を指す。 その先にあるのは香ばしく焼けた、肉汁したたる腸詰め(フランクフルト)の串焼きが2本。 愛宕山の裾野で育てられた質のいい豚肉を使った腸詰めという触れ込みの屋台は、彼女の後ろにも何人か列ができている程度には繁盛していた。
「あいよっ、二十銭だ」
屋台の親爺の威勢のいい声に、にっと笑って紫苑は硬貨を二枚手渡す。 引き換えに、竹を割って作られた皿に腸詰めが二本乗って差し出されてきたのを受け取り、彼女は踵を返した。
「毎度ありー」
店主の声に、背中越しに手を振る。
「『ご一新』の前はこうやって堂々と豚肉を食べるなんてありえなかったっていうんだから、不思議よねえ」
「紫苑様……はしたのうございます」
紫苑が大きく口を開けたところで、一部始終を見ていた輝夜は、呆れが半分混じったような声でたしなめた。 今にも串にかぶりつこうとしていた内親王殿下は、半眼で見上げる輝夜の視線に対して、不機嫌な表情を作る。
「うるさい、私はついてくるなって言ったでしょうが。 それを門前で待ってて『私もお供いたします』とかね」
まったくもう、とわざとらしく怒ってみせてから、ぱりっと小気味いい音を立てて腸詰めを噛み破る。
「大体さあ、美味しいものは美味しいのよ。 私が何であれ食べ方がどうであれ。 じゃあ、どう食べたっていいでしょう?」
見せ付けるように、さらにもう一口。 それを嚥下したところでふたつめの串を手にとり、紫苑は意地悪く笑う。
「さあ、『ごめんなさい』と言えたら、これをあげるわ。 どうする?」
そうして、目の前にまだ湯気を立てる串を突き出してきた。
輝夜は思わず眼をみはった。 狼人族の例に漏れず、彼女も肉は好きだ。 ぱたぱたと尻尾が振られ、口腔内に唾液が溢れ出すのを自覚し、さっと頬が朱を帯びる。 生理的反応ゆえに仕方が無いとはいえ、意思ではどうにもならぬことが恨めしい。
「う……」
「いらないの? それなら私がいただくけれど?」
にやにやと笑いながら、目の前の主は手にした串を左右に振ってみせた。 焼けた肉と脂の放つ芳香と桜のチップの香り、それが可視化したかのような湯気が、感度のよい嗅覚を刺激する。 しかしてここで折れてしまえば、目付けとしての沽券にかかわろうというもの。 ぎゅっと歯をくいしばり、目をきつく閉じて、輝夜はかぶりを小さく振った。
「何を我慢してるのかしら。 別段、私はあなたに帰れと言っている訳ではないのよ? ただ、私の意に反してしまったことを謝れば……」
その反応を見た紫苑はさらに笑みを深めると、紅唇をほころばせ、さらに誘惑の言葉をつむぎだす。
「その罪を赦したうえで、このあなたの好物を賜ろう、と言っているの」
微笑みを貼り付けたまま、ほうれほうれ、と串を鼻先に持ってきては引っ込める紫苑。 この悪魔のごとき所業……! と、輝夜は内心で恨み節を呟きつつ、その香を鼻に届かせまいと、必死に息を止めて耐える。 一方で、押し殺した感情を代弁するかのように尻尾と耳はぴんと立っていた。
いつまで保つかしら、と意地悪く主が呟くのを聞き流し、しかし彼女とて呼吸をせずにいられる時間はそう長くない。 果たして限界が訪れ、輝夜は真っ赤な顔で目と口を開き、足りない酸素を補給するために大きく息を吸い込んだ。 肉と脂と燻製の、食欲をそそる香りとともに。
もう、駄目だ。 食べたい、食べさせろ、食べさせてください――そんな心中の悲鳴にも似た声と共に輝夜の意思は音を立てて砕け、彼女は呼吸を整えると、おずおずと一歩進み出、目を閉じて口をあーんと開いた。
「順番……逆よ?」
指摘され、輝夜の赤みを帯びていた頬がさらに赤くなる。 自らの敗北を認めざるをえず、少女剣士は顔を覆う熱がさらに高まるのを自覚しながら、うつむいた。
「申し訳、ありませんでした」
「よろしい」
鷹揚にうなずいた紫苑は、期待に尻尾と耳をぴんと立てた従者の鼻先へと腸詰めの串を差し出す。 それはやりとりの間に少し冷めてしまっていたが、それでも輝夜は喜んで口を開き、串ごと腸詰めをくわえこんだ。 そのまま咀嚼すると、あふれだす肉汁と豊かなうまみに、知らず顔がとろけそうになってしまう。 紫苑はといえば、半ば輝夜の口の中にある串を持ったまま、唾液と肉汁が口の端から漏れ出すのにも構わず一心に腸詰めをほおばる輝夜を、にやにやと観察していた。
「あ、輝夜、ちょっと私の目を見ながら食べてくれる?」
「は……?」
「いいから。 うん、いい上目遣いだわ」
屋台のかたわら――つまりは往来のど真ん中で行われた、ふたりの少女による一連のやりとり。 当然周囲の耳目は集まり、興味深げな目線が集中していた。 近くを通りがかった親子連れは足早に離れていったり、顔を赤くして二人を見ている人々が居たり。 さらに少ない何人かは、新しい領域を開拓したり。
そんな周囲の目を知ってか知らずか、輝夜に串焼きを食べさせている紫苑の意識は、冷静に周囲を観察していた。
今までにすれ違ってきた人々や、興味津々にこちらを見たり、あるいは足早に立ち去っていったりする群集の中には、女性や親子連れの姿も見えた。 無警戒に今の横丁を歩き回るあたり、行方不明事件の噂は広まっていないようだ、と紫苑は推測する。
「情報を集めるなら……とりあえず暮羽のところに顔を出さないと、か」
さすがにこの子をオトリにするのはねぇ、と物騒なことを呟いて、紫苑は幸せそうな顔で口の中のものを飲み込んだ輝夜を一瞥した。
「よし、それじゃ移動するわよ。 たぶん、あっちは私の意図に気付いてるから、今から行く場所で何か話が聞けるでしょう」
そう言って紫苑はさっさと歩き出し、輝夜は皿と串を手近にあったくずカゴに捨てると、慌ててその後を追うのだった。
*****
酒楼、「天福楼」。 この本店のほか、祇園、羅生門および旧市域を囲む新市街に七、あわせて十もの店舗を持つ大手である。 庶民にとっては珍しい大陸料理が比較的安い値段で供され、かつ味もまた悪くないというこの店は、貴顕から下々まで、幅広い層の支持を得ていた。
二人が通された個室には暖かな色の魔術光が照らす中に大陸風の調度が整えられ、朱塗りの食卓の中央に置かれた花瓶には、鮮やかな色の紅葉をつけた枝が活けてある。 こういった内装の心配りもまた、人気を集めている理由のひとつだった。
輝夜自身も何度か父に連れられて、祇園にある大きな支店に行ったことがある。 大抵は忘年会などの大きな行事のときで、門下生や師範代たちも一緒だった。 しかし、紫苑様は斯様な場所にどんな用事があるのだろうか、と、いぶかしげに、目の前に置かれた海鮮餡かけ炒飯を見下ろしながら輝夜は考える。 紫苑は夕食を済ませているため、軽めの点心と杏仁豆腐、そして杏子酒を注文していた。 皇国の慣習においては、男女とも十五歳にて行われる成人の儀を境として、飲酒が解禁されるのだ。
「まあちょっと待ってなさい」
すまし顔で、白磁の匙の上に乗せた小龍包を口に運ぶ紫苑。 箸で割った箇所からあふれ出た肉汁の予想外の熱さに顔をしかめると、彼女は口をすぼめてふうふうと息を吹きかける。 その一方で、輝夜は釈然としない面持ちのまま散蓮華を手にとると、彩り豊かな魚介や野菜の餡がかかった炒飯の山を崩しはじめた。
同じ屋号を掲げているとはいえ、結局は別の店であり、料理の味は少し違ってくる。 海鮮餡かけ炒飯は以前祇園の支店で食べたことはあったが、ここのものの方が美味しく思えた。 さすがは本店、ということだろうか、と輝夜が内心で得心していると、部屋と廊下を仕切る障子戸に、影が映った。
「悪いわね、わざわざ」
紫苑が声をかけると戸は音も無く開き、現れたのは紫苑に劣らず白い肌に、煌びやかな金色の長い髪を腰まで垂らした長身の女性だった。
「紫苑様、この御方は……」
輝夜は眼を丸くする。 白地に金糸で刺繍がほどこされた派手な着物をまとって現れた女性は、もはや人間ではありえなかったからだ。 その耳こそ狼人族のものに近かったが、その尾は髪と同じ色の九尾。 白い肌、金色の毛、そして九に分かれた尻尾――輝夜が思い当たる存在はただひとつ。
「そなた……おお、面影がある。 冴月の娘じゃな」
思わず身構える彼女の機先を制するように、細い目をさらに細めて九尾は口を開く。
「そう構えずともよい、そなたの父君とは旧知での。 聞いておらなんだか?」
「は……その、ええと」
目をぱちくりとさせる輝夜。 目の前の存在は、誰がどう見ても伝説にある九尾の狐である。
「妾の名は葛葉暮羽。 以後よしなにの」
輝夜の困惑をよそに、冷たい印象を与える顔にわずかながら笑みをにじませてそう言うと、九尾は紫苑へと視線を向ける。
「久しいの。 息災かや?」
「おかげさまで。 お父様が亡くなったとき以来かしら」
「さよう。 今はそなたの兄君が宮様だったかの」
「研究馬鹿だったお父様に似たんだかどうなんだか、あれは政略馬鹿になったわ」
「何かひとつを究めんとする気質は、よう似たとみえる。 まあ、月読の宮様がたは皆、あのようであった」
ぽかんとしている輝夜を他所に、旧交を温めるふたり。 見た目相応の年齢の紫苑とは違い、九尾は所作のひとつひとつが老成して見える。 それも、「輝夜が想像する通り」の九尾の狐ならば、さもありなんと思えることだった。
「さて、何の話だったかのう?」
「あら、とうとうボケた?」
とぼけた調子の狐に、紫苑も眼を細めて返す。
「戯れじゃ。 それを何じゃ、妾を呆けたなどと……わかっておる、近頃この界隈で起きておることであろ」
そう言ってから、狐はいまだに身体を強張らせている輝夜の方を扇子越しにちらりと見て、くすくすと笑った。
「ときに、そこな娘御のことは放っておいてよいのかえ? 妾の素性に感づいてこのかた、すっかり固まってしもうて」
「感付くも何も、丸出しでしょうに。 しまっておけるんでしょ、その無駄に大きな九尾」
「そなたとは気心の知れた仲ゆえに、隠す必要もありゃあせんと思っておったが、失策だったかのう」
杏子酒の注がれた杯を傾けながらにやにやと笑い合う二人に、輝夜は思った。 ――ああ、このお二方はご同類だ、と。
さて、白面・金毛・九尾の狐といえば、天竺・唐土・そして本朝――つまり皇国の三国にわたり妖異をなした大妖として、一般にも広く名を知られている。 輝夜が葛葉暮葉と名乗った女性を恐れたのも、そのような逸話を聞き知っていたからだ。
それらの逸話・巷説では、玉藻前という名の九尾の狐は最後に那須に逃れ、三浦と上総の両将によって討伐されたが、殺生石とよばれる巨大な毒石に変じたといわれている。
そのようなことを、話の合間を見計らって輝夜が恐る恐る問うてみると、当の九尾はただ苦笑するばかりだった。
「かの九尾とは遠縁じゃ、無関係とは言わぬが。 妾はそのころ、まだ尾は二本だけじゃったからの。 葛葉狐の逸話は聞いた事が無いのかえ?」
「多分ないわね。 ほら、安倍の血筋には妖狐の力が宿っている、なんて話なら聞いたことあるでしょ?」
「安倍家といいますと……黒章さまの?」
輝夜の脳裏に思い浮かぶのは、魔導院首脳の一角を占める安倍黒章の、ふてぶてしい髭面だった。
「さよう、あれは我が不肖の子孫なる。 妾が腹を痛めて生んだ晴明は目も醒めるほどの美男子に育ったというに、子孫はああも下品になってしもうて悲しう思うておるのじゃ」
くっくっと笑う暮葉、あははと手を叩く紫苑。 その一方で輝夜はどう反応したものか困っていた。 安倍黒章といえば従三位・天文博士、輝夜にしてみれば父の縁で顔を見たことがあるとはいえ、雲の上のような存在だからだ。 蘇芳と紫苑との会話に輝夜が居合わせても、大抵こういったことになるが、そう慣れられるものではない。
「さて、本題に移るといたそう。 そこな娘も、猫眼庵に聞いておるのだったな」
「ええ、輝夜が聞いて、私に伝えてくれたのよ」
「ほう、輝夜とな。 なよ竹の姫と同じ名とは、そなたの名付け親もずいぶんと奮ったものよのう。 しかしてその鴉の濡れ羽色の髪に、愛らしい顔立ち。 これは数年先が楽しみじゃな」
「え、あ、は……」
「顔を紅うしてしどろもどろになる様が、また愛いのう……と、また話が逸れるところだったの」
さらに輝夜が赤面するような事を言うと、暮葉はさっと表情を変える。 続いて紫苑も、杏酒の杯を置き、緩んだ頬を引き締めた。
「横丁の行方不明事件。 噂は広まっていないようだけど、一体何が起きてるわけ?」
「ふむ……耳に入れて快い話ではないぞ、良いのかや?」
「そもそも、私はそれを聞きにきたのよ」
「いやいや、殿下は斯様なことにはよぉく慣れてらっしゃるであろうからのう、妾も安心できるのじゃが。 輝夜、そなたのことよ」
ぴくりと眉間が引き攣る紫苑を他所に、暮葉は輝夜に向き直る。
「まあ、軍人志願というあたり、覚悟はできておるのじゃろうが……」
「志願ではありません。 この右近衛少尉・冴月輝夜、若輩なれど光皇陛下より賜りし任、この身朽ち果てましても勤め上げる覚悟にございます」
若干の緊張はあったものの、淀みなく紡がれた言葉はまぎれもなく輝夜の本心だった。 そう、彼女はそうしたい一心で、この場までついてきたのだ。 傍らで忠義を捧げる対象が「さすがに死んでからは嫌だわ」と呟いているのを聞き流しながら、輝夜は真っ直ぐに、目の前の大妖の金色の瞳を見据えた。
「……よかろう」
頷いて、彼女は口を開いた。
*****
翌日、光宮。
何かが静かに唸るような、どこか矛盾した音と共に扉が開く。 手をかける場所さえない白い板が戸袋に吸い込まれて行くのを、御神楽蘇芳は無感動に見つめていた。 最初こそ驚いたが、最早この程度のことには慣れてしまった。 この、皇国において至尊にして至聖の存在がおわす白亜の巨塔には、建設から数千年建ってなお稼動し続ける神秘が溢れているのだから。
扉の向こうに広がっているのは、この三十五階の大部分を占める大広間だ。 清浄な光で満たされ、真紅の絨毯が敷き詰められた部屋には、錦で縁取られた畳の座が十数。そして 最奥には光皇臨席の場たる高御座。
そこには既に何人かの人間が座っており、彼らは蘇芳を恭しい礼をもって出迎えた。 官位は公卿と呼ばれる人々の中でも最下位たる三位とはいえ、彼は皇族の中でも天照家に次ぐ家格をもつ宮家の当主なのだ。
「おお、殿下。 妹君は息災ですか」
笑顔を浮かべて声をかけてきたのは、小太りといった風な青年。 参議・二条実篤、年齢は蘇芳より五歳上の二十七だ。
「はは、あれの気性を二条殿はご存知でしょう。 病魔や厄の方が願い下げでしょうな」
「これは確かに。 私の貧相な想像の翼では、内親王殿下が御病気で臥せっていらっしゃるところなど、到底思い描けませぬなぁ」
ともすると失礼極まりない実篤の言葉に込められた意図を、蘇芳は判断しかねた。 この二条実篤という男は、まだ五十数歳だった父親の急死によって二条家の家督を継いだ、言わば『お坊ちゃま』だったが、光皇や周囲がある程度の評価を与える程度の政治手腕は持ち合わせていた。 そのことと家格の高さが合わさり、二十代の若さで公卿の地位に在るという結果を生んでいるのだ。
さらに言えば二条家は、守旧派と改革派の間での水面下の争いに関して中立を守っている。 その中立が、勝者となるであろう側に恩を高く売りつけることを意図してのことであれば、この実篤はなかなか油断ならぬ人物ということになる。
しかし、やはり育ちのせいなのか、この男には裏表というのものがどうにも無いように蘇芳には思えた。 先程の言葉にしても、失礼な皮肉と取られかねないものが、どうやら本心から出ているようなのだ。それはそれで性質の悪いことだが。
「いやしかし、先代の宮様が秘蔵されていらっしゃった深窓のご令嬢と聞いておりましたが、なんとも快活な美しさをお持ちだ! あの御方は、太陽の下に在られることが最も相応しく思えますな。 しかしあのご気性、亡き父君もさぞ手を焼かれたことでしょうなあ。 兄君としても、楽ではないのではありませぬか?」
実篤が紫苑に初めて会った際の蘇芳に対しての言葉が、以上のようなものだ。 恐らくはかなりの猫を被っていたであろう紫苑の気性を見抜いた慧眼は注目に値するが、あからさまな追従が混じった賞賛と、さらに後の言葉との整合性がなんとも取り難い。 実際蘇芳の苦労は絶えないが、普通面と向かってそれを指摘してよいものでもない。
これらの理由があって、蘇芳はこの青年貴族に対する評価を定めかねていた。 仮にそれだけの価値があるならば自陣に加える甲斐もあろうが、金を手に入れたつもりで掴んだものが真鍮では面白くない。
「おや、権亜相どの」
「おお、お早う御座います」
そばに現れた姿に、二人は揃って礼をする。
神経質そうな細面を不快げに歪ませている相手は、九条宗重――左大臣・九条頼常の子息であり、後継者と目される人物だ。 蘇芳と同年代と政界では若輩ながらも、権大納言という大臣に次ぐ地位を得ている。 権大納言の「権」は「定員外」の意であり、実質的な権限はそれほど強くないが、名門の後継たる彼がこの地位を得ているということの意味は大きかった。 (亜相とは、大納言の別称)
「宮様におかれましては、ご機嫌うるわしゅう」
表情を作り変え、皇族たる蘇芳に向かって宗重は丁寧に礼をした。 会話はそれだけで終わり、彼は足早に自身の席へと向かってゆく。
「やれやれ。 私も嫌われたものです」
「権亜相殿は左府様に輪をかけての外国嫌いですからなあ……」
苦笑する蘇芳に、実篤もたるんだ頬を振るわせるような苦笑で返す。 国粋派の中で純粋培養されて育ったような宗重は、ひどく外国由来の文物や外国人を嫌っており、そんな彼を蘇芳は内心で軽蔑していた。 向こうも向こうで、改革派とその旗手たる蘇芳を敵視する態度を隠そうともしない。 もっとも、その程度の相手ならばかえって行動を御しやすいから、むしろ助かるとも蘇芳は考えていた。
「左府様もいらっしゃった。 我々も席に着くといたしましょう」(左府:左大臣の別称)
九条頼常が議場に現れたのを見て、つかみどころのない笑顔を浮かべたまま、実篤が去ってゆく。 蘇芳は宗重が歩いて行った方を若干の感情が混じった視線で一瞥すると、自身も席についた。
宗重について気になる点といえば、攘夷系の地下組織との繋がりが指摘されているところだ。 昔はよかったと懐かしむ向きはいくらでもあるが、昔に戻そうと実力行使に走り出す過激な輩も少数ながら存在する。 特に妹の紫苑は皇族の中にあって特に西洋趣味に傾倒しているためか、何度か襲撃にすら遭っていた。 それらの企みのすべては未遂――どころか、行使した実力以上の反撃に見舞われ、壊滅の憂き目に遭っていたが。
思考を中断。 そこで、脈絡なく気になる点に思い至った。
あの二条実篤は、自分と相対したとき、やたらと妹のことを話題にするような。 初対面のときも妹の事を問われ、そして何度かあった接触の機会の際も、妹のことを気にしていた。 そして、先程も。
……まさか。
導き出された推測は、あまりにも想像の埒外。 蘇芳は下を向き、こみ上げる衝動をやっとの思いで押さえ込んでから、あたりを見回す。
「本日も聖上はお出ましになられないのですか?」
遠くで、右大臣・岩倉秀仁が内大臣・小野宮透に問うている。
「やはり御玉体が優れない御様子。 本日もご臨席はかなわぬとおっしゃられた」
「左様でございますか……」
憂いを含んだ表情で、座るべき者の居ない高御座を見やる右大臣。 光皇が病に倒れ、御前会議という名称が形骸化してから、もう数ヶ月にもなる。 光皇の裁可が得られにくい状況とあって議論は紛糾することが多くなり、皇国の政治は半ば停滞の様相を呈しつつあるのだった。
「聖上も現状を憂いてあらせられる。 諸卿においては聖上の意をよく汲み、建設的な議論をお願い申し上げる」
周囲を見回し、内大臣は釘を刺す。 彼の小野宮家は皇統整理令以前の宮家で光皇の信頼も篤く、透自身も光皇の秘書官たちを率いる役職を与えられていた。
「では、始めると致そうか」
咳払いと共に、太政大臣・一条兼良が切り出した。 一条家はかつて摂関を多数輩出した藤氏の筆頭という臣下の最高格だ。 魔導院長官として光皇を支えた蘇芳の亡父と同じく、貴族の重鎮として、また光皇の有能な右腕として、これまで辣腕を振るってきた政治家だが、老境に入った今となってはいまひとつ精彩を欠く、と蘇芳は評価していた。
「先に、皆があまり割れぬ議題を評議するとしよう。 まずは西大陸シュティーア王国式の新式軍制の導入について……軍務卿、説明を」
粛々と会議は進んでゆく。 より機能的な新式軍制の導入についての議決、創設されて一年が経った新しい官僚試験制度の運用報告。 そして次の、海外出身の人々に対する応神の法律の周知のための方策――ここで議論がにわかに沸き立った。
「やはり居留地制を撤廃すべきではなかったのではないか。 我らと彼らの生活の有り様はあまりに違いすぎる」
「しかし、それは西大陸五カ国の共同要求を容れてのこと。 同時に片務的な治外法権と、あちらにおける皇国の民の居留地も撤廃されたのですから、反故にするわけにはいかんでしょう」
「東京では既に庶民の生活様式が変化しはじめたと聞く。 これは神国の伝統の危機でもあるのだぞ」
茶番だな、と蘇芳は思う。 光皇が倒れてから、外国や伝統が絡むといつもこうなるのだ。 応神の独自性をあくまで守り通すべきか、諸外国から学ぶべきことを学び、よいものは積極的に取り入れ、結果として多少の変質はやむなしとするか。 どちらの論にも一定の筋は通っているが、西大陸の列強やエル・ネルフェリアと互角の位置に立てるように、それも可能な限り早急に、ということを考えれば、採用すべきは明白だ。
しかし、これでは恐らく結論は出まい。 この後にさらに厄介な話題が控えている今、これにあまり時間をかけるのは得策ではない、と判断した蘇芳は、収拾をつけるべく発言する。
「確かに生活習慣や文化の違いからくる摩擦、そこから生ずる問題は無視しえませぬ。 ですが、この場で一度に結論を求むるは拙速に過ぎると考えます。 現在は各省からの散発的な意見が存するのみですが、関係各省から人員を出し合って分科会を作り、その場でいくつか草案を作成し、主上の裁可を仰ぐべきと考えます」
「宮様の意見に賛同する。 これは実際に制度の運用に携わる者達の意見を集めるべきであろう」
「我らでは方向性は提示できても、具体案の作成まではできかねますからな。 出来上がったものを聖上に御覧戴くのが最もよろしいかと存じまする」
蘇芳の言葉に、橘・二条の参議二人が賛意を示す。
「では採決を行う。 御神楽参議の提案に反対のものは挙手するように」
太政大臣に言葉に、手を上げるものは誰も居ない。 要するにただの先送りを蘇芳は提案したのであり、省間協議の段階で自身の意見を捻じ込む余地はいくらでもあるからだ。
「では御神楽殿の提案を採用する。 さて、では……本題だな」
太政大臣の表情には苦笑がにじんだ。 この議題の議論には既に一週間を費やし、未だに結論は出ていない。 光皇の裁可を仰ごうにも、議論は堂々巡りを繰り返しており、そもそもの提案が纏まらないのだ。
「――東大陸本土への、わが国の進出について。 皆の賢明な議論を期待しよう」
来たか、と蘇芳は居住まいを正す。 一瞬議場がざわつき、すぐに静まった。
旧士族を慰撫し、反乱を武力制圧しつつ内治の安定を志向するか、あるいは不平士族を取り込んでさらなる陸軍師団増設を行い、東大陸進出の足がかりを確保するか。 このふたつの方針のどちらを採るかで対立が発生しているのだが、問題は、それぞれの方針に同数の閣僚が賛意を示していることだ。 これは数年前にも御前会議において議論されたが、その際は内治優先という方針が光皇によって採決された。 結果として、倒幕からその当時まで皇国陸軍の重鎮だった薩摩の佐々木行家他数名の閣僚が下野し、不平士族に祭り上げられて反乱を起こすという事件にまで発展している。
そのことが改めて議論されているのは、東大陸の北東部沿岸に、大規模な資源の存在が確認されたが故だ。 精製すると水晶に似た透明な結晶体になることから魔晶石と呼ばれるそれは、魔力を貯蔵、増幅し、任意に取り出すことのできる性質を備えている稀有な物質である。 小さな魔晶石結晶を術式機関に組み込むことで、一般人が有する微弱な魔力を、大型車両を稼動させることができる規模にまで増幅できるため、皇国の産業革命において不可欠な資源と認識されているのだ。
このような理由から、内治派に属す蘇芳も、魔晶石の存在を無視することはできないと考えていた。 今のところ魔晶石結晶の精製技術を保有しているのは応神一国だけだが、石炭を利用した産業革命を推進してきた西大陸の勢力も、魔晶石の性質に注目し始めているのだ。 所有権の主張は、可能な限り迅速に行う必要があった。
(陛下なくては、こうもなってしまうか)
蘇芳の中には忸怩たる念がある。 これが平時ならば、意見が出尽くしたあたりで光皇による方針決定が行われていたのだが。 あるいは、これが勅令政治というものの限界なのかもしれない、と蘇芳は思い始めていた。
*****
そのころ、輝夜は蘇芳の妹に連れられて、事件の現場を訪れていた。
「ここか……」
あたりを見回して、紫苑が確認の呟きを発する。
「ただの路地裏に見えますが」
と、輝夜。 彼女には、この場所は立ち並ぶ家や店の裏側にある何の変哲も無い路地裏に見えた。 しかし、主が導いた洞察は違う。
「いや、違う。 魔術灯に魔力供給をしているレイライン――ようは人工の地脈の交点ね、ここ。 魔術師や妖怪がこっそり潜んで傷を癒すには適した場所と言えるわ」
ふむ、と輝夜は頷くしかない。 地脈の有無など、常人に感じ取れるようなものではないからだ。 魔力に対する鋭敏な感覚がなければ解りえない事をさらりと述べる主に、このお方はやはり特別なのだ、という思いが新たになる。
――妖狐が言うには、この場所に死体が打ち棄ててあったとのことだった。 行方不明事件は、その実連続殺人事件だったのだ。 死体の有様は酷いもので、血の量や残骸の形、質などからかろうじて人間の子どもだと認識できる、というほどのものだったという。 むろん、身元識別のしようはなく、行方不明になった子供のうちの誰か、ということしかわからない。、
「あれほど無残な殺し方をするからには、相当に飢えておったのじゃろうな。 或いは、そうすることに意味を見出しよった外道か」
苦々しげに、そう暮葉は言っていた。
「七、八割は欠けてたってことは、ホントに『喰った』のかしら」
一方で紫苑はこのように評した。 こちらの方がどうにも直球で、輝夜はげんなりした面持ちになったものだったが。
実際現場に漂う空気はどこか淀んでおり、鉄錆の匂いすらも内包しているように輝夜には思える。 ふと、視界の端に見えた小さな白いものが写り、
「!」
よもや人骨かと慄然としたが、よくよく見てみればそれはただの白い陶器の欠片だった。
「うーん、何もないわね。 片付けた時にも物証は残ってなかったみたいだしなあ……」
こちらに背を見せてかがみ込んでいた主が、立ち上がりながら言った。 彼女はすぐさま銀の髪を翻し、歩き出す。
「次行くわよ」
しかし『喰われたような』女性が死んでいたという第二の現場にも、これといったものは存在していなかった。
そして第三の現場。 ここではまた子どもが死んでいた。 最初と違うのは、ほぼ原型を留めたままだったというところだ。
血の匂いもしない。 輝夜は若干の安堵感と、そして、今までとは違う周辺の空気に、少々の戸惑いを得ていた。
板塀、日が当たらない湿った土の地面、雑草や小石といった要素は、今までと大差ないにもかかわらず、だ。
なぜ気味が悪く思うのか、そもそもそれがわからない。 前の二箇所は凄惨な現場であり、輝夜の嗅覚には未だに残るかすかな血の匂いすらも届いた。 そこで感じた気味の悪さは、起こったことと血の匂いというものに誘発された、おそらくは生理的なものだ。 一方、こちらは漠然としている。
「ここのは生命維持に必要な霊子を失っていただけ……それなら」
そんな中で、にやりと紫苑は笑い、目を閉じて集中しはじめる。 輝夜にはその意味がわからない。 魔術に関する先天的な感覚の差か、と改めて舌を巻く想いの輝夜を他所に、紫苑は自身の周囲に陽炎となって漏れ出る魔力や、熱が生む微風に煽られて広がる白い髪、額から垂れる汗にもかまわず、大きく息を吐いて肩を上下させ――
「捉えた!」
快哉を上げた。 にわかに顔色を変えた彼女のかたわらに、慌てて輝夜は駆け寄り、主の顔を見上げる。
「何かわかったのですか!?」
「そんな……いや、まさか」
問うと、紫苑は普段の彼女らしからぬ深刻な表情を浮かべ、あごに指を当てて考え込んでしまった。
「どういうことなのですか?」
二条院に帰る途上で、輝夜は上目遣い気味に問うた。 あれからしばらく考え込んでいた紫苑は四人目の現場を検分せず、そのまま帰ると言い出したのだ。 御神楽紫苑という人間は確かに頭が切れるが、自身で結論を出して行動に移すまでの過程を一切説明しないために、周囲は彼女についていけなくなるのだ。 もちろん、聞けば教えてくれるのだが。
「理屈としては簡単よ。 吸血痕も性行為の形跡もなく霊子を抜かれたということは、相応の魔術を行使したということ。 魔術が行使されれば、術者が術式に込めた魔力は霊子としてふたたび放出される。 これにはね、行使者の特徴が出るの」
歩みを止めて肩越しに振り向き、人差し指を立てて講義口調の紫苑。
術式に込められる魔力は式が起動した際に全て消費される訳ではなく、周辺の霊子が魔術行使によって少なくなるのを補うかのように、空間に一部が放出される。 放出された魔力が周辺の霊子と完全に混ざり合って均一化するには三日程度かかると言われ、その間の残留魔力には行使者の痕跡が残るのだ。
内務省や魔導院はこれを利用して魔術を悪用した犯罪の捜査を行っている。 そんな残留魔力だが、一方で魔導院が擁する最強部隊『禁軍』には、あえて自身が放出するそれに特徴を色濃く残すことで、相手に自身の存在をあえて知らせる者もいた。
「魔力の残滓から個人を容易く特定されかねない、だから魔術も符術も正直言ってこそこそした事には向いてない。 力量のある魔術師の数なんてそう多くないんだし、ね」
やっぱり魔術の本領は大規模破壊よ、という物騒な呟きを聞き流しながら、輝夜は両手の拳を突き合わせた。
「ならば、今すぐにでも下手人を捕らえに参りましょう!」
「それはダメ」
勢い込んだ言葉は、ぴしゃりと紫苑に却下されてしまった。
「……何故、です?」
正直意外だった。 紫苑の性格ならば、ここでただ突撃あるのみ、即解決、だと輝夜は思っていたのだ。
「なんでって、相手は魔術師だもの。 何の準備もなく戦えるような相手じゃない」
「ですが!」
輝夜は紫苑を見上げたが、立ち止まった紫苑は輝夜を見なかった。
「それにね、私は午後から公務があるの。 舞鶴まで行かないといけない。 だから、今日明日は動けないのよ」
「五人目が出ないとも限りません!」
「それでも、皇族として最低限の責は果たさないといけないでしょう」
食い下がる輝夜からは、振り向かない紫苑の表情は伺えない。 平板な声は感情を押し殺しているかのようだったが、輝夜にはそれが殊更冷たく聞こえたのだった。
彼女はうつむき、拳を握り締める。
「……ならば、私一人ででも」
「駄目!」
振り向くと同時に放たれた強い調子での否定に、輝夜はびくりと震え、それでも紫苑を見据える。 こちらを向いた白い少女と、剣士と、二人の視線がぶつかりあった。 紫苑の手が震えていることには、輝夜も、紫苑自身でさえも気付かない。 藤色の視線の先の紅の瞳には、明らかな戸惑いと怖れの色があったのだが。
「……今は魔導院にだって人が居ないの。 あなた単独での行動は許可できない」
「 私とて冴月の者、外道一人に……」
「とにかく、駄目!」
輝夜の言葉を遮ると、紫苑はもう話すことはない、とばかりに背中を向けて歩き出す。
「……は」
不承不承輝夜は頷き、その後を追った。
胸中に、ある決意を秘めながら。