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神々の庭のクロニクル  作者: 御神楽てるよふ
黎明の皇国、ふたりの少女
3/13

第二話 少女たちの憂鬱

 皇族、内親王、第六位継承者、姫殿下、月夜見の姫君、皇国最年少の魔導師……

 なるほど、形容やら接頭辞はいくらでも思いつく。 いま挙げたものからもっと下世話なものまでね。

 問題は、問題は、だ。

 そんな言葉で表現しうる場所に、殿下は生まれた時から立ってはおられず、そしてその事を自身がまったくご存じないという事だよ。


 ――皇国魔導院・左院別当、弓削鷹亮ゆげの たかあきらの述懐



 *****



 翌日、輝夜はいつものように二条院を訪れ、いつものように『授業』を受けていた。 

「……要約すると、この世界にあまねく存在する『霊子』、あるいはエーテルと呼ばれるものが術者の想いによってある配列を形作る。 これが『術式』の正体よ。 それに術者が己の意思と精神力を注ぎ込むことで効力を発揮し、現象として発現する。 たとえば炎を出したり、ものを冷やしたりね。 ……大丈夫?」

 それまでの紫苑の説明についていけず、昨日崩落した箇所――元通り雑多な本の山に戻っていたそこをちらちらと見ていた輝夜だったが、やっと要約を理解できて、こくこくと頷いた。 それを見て苦笑する紫苑。 輝夜は恐縮したように赤面して、表情を隠すようにカップに口をつけた。

 今日の飲み物は紅茶だった。 良い葉が手に入ったのよ、と紫苑が上機嫌だったために、珈琲責めを回避しようと輝夜がリクエストしたものだ。 香りもよく、味も苦くなく、また色々な茶菓子に合うこちらの方が、輝夜は好きだった。 もっとも、一番気に入っているのは、結局のところ毎朝飲んでいる安い茶葉で淹れた煎茶だったが。

「ちょっと駆け足過ぎたかな。 とりあえず、応神の魔術学でわかってるのはこれくらい。 いまいち要領を得ないんだけど……まあ、霊子っていうのも天魔戦争前の文献に存在が示されてたから『ある』って言われてるものだし、実験的に証明はできてないのよ。 観察なんてもっと無理。 このへんが今の技術力の限界なのかもしれないわ」

 そう言って、ぱたんと帳面を閉じる紫苑。 表紙には几帳面な字で『魔術概論』と書かれている。 輝夜は知らなかったが、それは紫苑の亡父、先代月読宮が娘にと著した教本だった。

「じゃあ復習。 そもそも、魔術ってどういうものかしら」

 ぴん、と人差し指を立てて、紫苑は輝夜に問う。 輝夜は少しだけ考えるしぐさを見せたが、十秒もしないうちに答えを発することができた。

「意志力、精神力を物理力に変え現象を引き起こす技能……と以前に紫苑様が」

「正解。 じゃ、何をどうして魔術の効果が現れるのか、わかってる?」

「現出させたい効果を念じ、『術式』を練り、力を通わせ、起動する……」

「そうそう。 だから制御が不安定で、現れる効果も人によってまちまち。 術式を上手く練れないのが変に強力な効果を思ってしまうと、それこそ惨事を招くのよ」

 術式は術者の想念、イメージによって形成される。 つまり術者が起こしたいと考える現象に対して深い洞察や正しい自然科学的知識を持っているほど術は成功しやすいし、制御もしやすい。 しかし、イメージを上手く練ることができない術者や、現象に対して見当違いの認識を持っている術者が下手に大規模魔術を行使しようとすれば、意図しない術式が形成される可能性が高くなる。 たとえばライター程度の火を起こそうと思って魔術を使ったところ、巨大な炎が現出してしまった……といった事故が起こる。 こういったことは、京でも年に数件は起こっており、ともすれば大惨事になりかねないことから、魔術についての教育を受けていない一般人が、符無しで術を使用することは厳しく禁止されている。

「その点、符は便利なのですね」

「書いてある術式に魔力を通して起動させるだけだからね。 金属符なら繰り返し使えるし」

「なるほど」

 輝夜が頷くと、満足気に紫苑も頷く。 そんな紫苑の表情を見るたび、輝夜は知らず嬉しくなるのだ。 自身が認められたという喜びなのか、それとも純粋に紫苑の笑顔を見られたのが嬉しいのか、自身でもわかりかねたが。

「それじゃ今日はここまで。 ところで、昨日頼んだ届け物だけど、猫眼庵は何か言ってた?」

「いえ、私の前では何も」

「そう。 まあ中身に不備はなかったはずだから大丈夫でしょう」

 頷いて、紫苑は閉じた帳面を作業机の上に置いた。 放り投げないあたり、昨日のことを教訓にしたに違いない、と輝夜は思う。 会話が途切れかけたが、そこで彼女は、昨日猫眼庵で聞いた話を思い出した。

「ですが、ひとつ気になる話が……」

「うん?」

 輝夜が切り出すと、書棚に手を伸ばしていた紫苑が、興味有りげに相槌を打った。



 *****

 


「子どもが行方不明ねえ……」

 聞きながらページをめくっていた、白い指の動きが止まる。 迷い無く本棚から取り出された一冊の表紙には、輝夜には読めない文字でタイトルが書いてあった。 この乱雑な部屋の中にあって、紫苑が「ものを探した」ところを輝夜は見た覚えがない。 この十四歳の少女にしてみれば心底不思議なことだが、紫苑にとってこの部屋は、本当に「何がどこにあるか」わかる状況なのだった。

「私も外に出られるようになってからの状況しか知らないから、なんとも言えないけど。 確かに、西大陸から来た連中がって話はよく聞くわ」

 栞を挟んで本を閉じ、気だるげにソファへと深く身を沈める紫苑。

「『カナン再臨』以前の西大陸では、こちらほど理解が進んでいなかったのと、聖女教会の教義のせいで、ずいぶんと魔術は迫害されていたらしいの。 そのせいか知らないけど、研究のコトしか頭になくて、そのためならどんな事でもするって連中も多かったみたいでね」

 聖女教会とは、西大陸諸国で大きな力を持っていた、かつてこの世界を覆っていた闇を払い平和をもたらしたという「聖女レフィーリア」を信仰する世界宗教だ。 この教会は魔術に対して否定的なスタンスを取り続けており、強力な政治的影響力を保持していた時代には、大陸全土で魔術師狩りが横行したのだという。 故に西大陸諸国では魔術が応神以上に衰退し、かわりに合理主義に立脚する科学文明が発達した。 この歴史の流れの中で、聖女教会は政治的な影響力を失っていったことは、皮肉なことかもしれない。

 西大陸には皇国魔導院のような魔術師を監視・統括する機構が存在していなかった事も、紫苑の言葉にある状況を後押ししている。 研究のための互助組織は存在していたが、それも一般人のことを考慮するような性格ではなく、聖女教会による迫害から逃れるために『神秘の流出』を防ぐことが、結果的に一般社会に対する影響を限定的にしていただけだった。 そんな組織にも馴染まなかった人々が魔術に対して寛容なエル・ネルフェリアや応神に流れてきた結果、確立されている研究倫理や法を把握できないまま、あるいは知ってなお犯罪を犯す、という事件が多発しているのだ。

「そういう輩って、地方の警察が相手にできるような連中じゃないから、タチが悪いのよね。 しっかし、混沌度がうなぎのぼりの東京ならまだしも、こっちでそんな事をする奴がいるとは、困ったもんだわ」

 組んだ両手の平を頭の後ろに回しながらの愚痴のような言葉とは裏腹に、紫苑の表情には、年頃の少女が浮かべるべきでは決してない類の笑みが浮かんでいる。 自身の選択が誤りだったのではないかという若干の後悔と共に、輝夜は冷めかけた紅茶をすすった。

「面白そうじゃない」

 やっぱり、と輝夜は呆れと諦めが混じったような視線を、紅茶のカップの縁越しに投げかける。 向こうに見える表情は心底から嬉しそうだ。

 ――みんな揃って私に無茶をするな無理をするなと言うが、一番無茶苦茶なこのお方の警護をしていて、無茶せずにいられるものか、とつくづく思う輝夜なのだった。 とはいえ、言うべきことは言わなければなるまい、と彼女は口を開く。

「ですが猫眼庵殿の言がまことならば、事は深刻。 魔導院の賀茂かも様や弓削様にも連絡した方が……」

 紫苑はカップを置いて姿勢をただすと、かぶりを振った。

「無用よ。 というか、魔導院は今動けないわ」

「動けない?」

「そ。 昨日のことだから噂も京には届いてないし、たぶん情報統制が布かれるから公表はされないけど、今東京が大変でね」

 ふふふ、と愉快そうに笑う内親王。

「なんでも、崇徳上皇の生まれ変わりだとかいう魔術師が、怨霊を憑依させた甲冑兵とか鉄巨人兵を大量に従えて、旧江戸城の東京市庁を襲撃したんですって。 昨日の晩餐の途中に報告があってね。 御病気の陛下も珍しくお出ましになられて、即座に禁軍投入を裁可なさったわ」

 そんな愉快とはとても言えない内容を楽しそうに語った後で、私も行きたかったわぁ、と紫苑は不満げに付け加えた。

「……『禁軍』が、動くのですか」

 眼をみはり、身を半ば乗り出して、輝夜。 紫苑は表情にいっそう愉悦の色を深める。

「そう、禁軍。 重砲兵級の火力と、騎兵に勝る機動力と、歩兵以上の即応性を一人一人が兼ね備える皇国の切り札がね。 しかも四神の支隊長まで全員出撃だもの、これでワクワクしなかったら嘘よ」

 禁軍とは、皇国魔道院に所属する魔術師のみで構成された戦闘集団のことで、正式名称は「皇国魔道院・戦闘魔導団」という。 陸軍・海軍に次ぐ、皇国の第三の軍と言われているが、いかなる場合においても軍務省参謀本部の指揮下に置かれることはなく、常に指揮権は光皇自身が保有している。 そのために皇帝の軍、すなわち『禁軍』と呼ばれているのだった。 人員は百名に満たないが、それぞれが非常に強力な魔術師で、大半は敵地での単独行動を伴う諜報活動などに従事しており、京には有事の際の機動戦力として二十名ほどが常時待機している。 その二十名を、東京に投入することが昨晩決定されたのだ。

「まあ、だから京にはそのさらに上の決戦兵器みたいな人たちしか残ってないのよ。 陛下の腹心に、子どもが行方不明程度の未確定情報だけで動いてもらうわけにも行かないじゃない?」

 その理屈でいくと内親王殿下が動くようなことでもないんではなかろうか、と輝夜は思ったが口には出さない。 結局のところ、紫苑は「自分がやりたいからやる」というだけで、『禁軍』の戦力が残っていないだの、情報の確度がどうのだの、そんなことは無関係なのだ。 輝夜は、紫苑と出会ってからの日々で、そのことは重々承知していた。

「それでは、いかがなさいますか?」

「動くにしても情報が足りなすぎるし、まずは情報収集ね。 まあ、面白くなってきたら輝夜にも出番をあげるわ」

「……そのう、私の役目をご存知ですよね」

「私の小間使い。 違ったっけ?」

 しれっと言う紫苑に、輝夜ははあ、と溜息をつくしかない。 彼女が非難がましい目つきで目の前のにやけ顔を見上げると、その視線を受けた紫苑は立ち上がるとわざわざ真面目くさった表情を作り、腕を組んで、厳かな調子で言葉を発した。

「冴月少尉」

「はっ!?」

 いきなりの変化に声が上擦る。 逆立つ耳と尻尾の毛が忌々しい。 これがあるから、ますます自分の感情はこのお方に筒抜けなのだ、と理不尽な思いすら湧き出てくる。

「汝に陛下が賜い給うた大任、よもや失念してはおるまいな?」

「め、滅相も御座いませんっ!」

「申してみよ」

「右近衛少尉たる小官の任は――殿下の護衛にございます」

「然り」

 ゆっくりと頷いて、紫苑は表情を戻す。 そう、冴月輝夜は皇国陸軍・右近衛府所属、階級は少尉という軍人だった。 中学生ながらに任官しているのは、彼女がこの二条院、仮にも皇族の住まいに足繁く通うにあたって相応の名目というものが必要だからだ。

「でもね、護衛役ったって、ただただ私の周囲に目を光らせてればいいってものでもないのよ?」

「……と、仰られますと?」

「優秀な護衛っていうのはね、言わずとも主の意を汲んで、それを間違いなく遂行するくらいのことはやるものなのよ」

「は、はあ……」

 そう言われて、自分は果たして満足にそれを勤めてこれただろうか、と真面目な顔で考え込んでしまう輝夜。 はぐらかした方はというと、上から見下ろす姿勢のまま、周期的に振れる輝夜の尻尾を見て、にやにやと笑っている。

「当然、私があなたに控えていてほしいと思うときは、控えているべきなのよ。 わかる?」

「はあ……って、紫苑様!」

 気づいた輝夜が憤慨した面持ちで頭を上げ、こらえ切れなくなった紫苑は声を上げて笑いだした。

「……っ、あはは、あー、面白い」

「私は面白くも何ともありません!」

 いかにも「怒っています」と肩をいからせる輝夜の前で、紫苑はまだ身を震わせて笑っている。 ぷい、と輝夜が顔をそむければ、窓越しに、冬の装いに移りつつある二条院の庭園と、そびえる『塔』の白い壁が目に入った。 今日も木枯らしは激しく木々の枝を揺さぶり、落ち葉があちらこちらへと散ってゆく。

「冬めいて、きましたね」

 笑声が止んでからしばらくして、輝夜。

「そうね。 東北では、もう雪が降ったそうよ」

 輝夜の横に立って、紫苑。 手にはいつの間にか、鶴の絵が入った扇子がある。

「寒くなりそうですね」

「そうね……」

 音を立てて扇子を広げ、口元に当てる紫苑。 その動作に何の意味があるのか輝夜には理解しかねたが、直後、紫苑は小さく、「でも」とつぶやいた。

「ゆっくり寒さを感じてる暇は、ないかもね」

「……?」

 いぶかしげに、扇子に半ば隠された紫苑の表情をうかがう輝夜。 しかし、細められた紅い眼から、感情を読み取ることはできなかった。



 *****



「それじゃ、また明日。 気をつけて帰るのよ」

 平凡な文句とともに、笑顔で手をひらひらと振る紫苑。 新人の番兵が自分のことを不可思議なものを見る眼でちらちらと見てくるのにも構わず、輝夜は黙って一礼し、踵を返した。

 紫苑はたまに気まぐれを起こして、こうして輝夜を門前まで見送りに出てくることがあった。 別れの言葉を告げてから、しばらく何も言わずに佇んでいるのもいつものことだ。 輝夜がちらりと二条院の方を振り返ると、やはり今日も紫苑はずっとこちらを見ていた。

 長襦袢の上に一枚、打掛うちかけを羽織っただけで佇むその表情は、どこか寂しげだ。

 ――まだ若い輝夜にも、御神楽家において紫苑が微妙な立場にあることは容易に想像がつく。 そうでなければ、宮家の内親王ともあろうお方が、どうして本邸ではなくて離れなどで一日のほとんどを過ごすだろうか。

 気になるところはまだある。 京の人々の間でその特異な容姿が噂になり始めたのが、輝夜の記憶に拠れば四年前だ。 その以前から冴月家と御神楽家の付き合いはあり、先代月読宮の娘の話を父がしていたのを輝夜は覚えているが、どんな娘か、ということを聞かされた覚えはなかった。

 また、紫苑はいつだったか、「自分は十四歳になるまで、一度も屋敷の外に出た事が無い」と輝夜に話してくれたことがあった。 あれだけ目立つ彼女に関する風聞が出始めた時期が、自分がはじめて彼女と会った時期と一致するということからして、それは事実なのだろうと輝夜は思う。

 これらの状況の原因は一体なんなのか。 輝夜には、紫苑のもつ異質な風貌と、類を絶する魔術の才が関係しているように思えた。

 魔術を使えば、ものを燃やすことくらい誰にだってできる。 風を起こすことも、水溜りをつくることも簡単だ。 剣術をなりわいとする家に生まれた輝夜とて、その程度の初歩の魔術は、制御を誤らないレベルで修めている。 問題はその速度と精度だ。

 そもそも魔術を使用する際には、さきほどの「授業」で紫苑の質問に輝夜が答えたとおり、得たい効果を念じ、術式を練り上げ、魔力を充填し、式を起動するという四つの工程を踏む必要があり、当然それ相応の時間を使う。 そして現れる効果の精度は、たいてい大雑把なものだ。

 昨日の珈琲を、輝夜は思い出す。 紫苑はアルコールランプの先端に正確に火を灯し、サイフォン式の抽出機に一滴もこぼさず水を満たし、密閉瓶を少しも傷つけることなく小さな竜巻を巻き起こした。 これほどの精度の術を、ものの数秒で三回も行使できる力量が普通でないと確信したのは、輝夜がいつか父親に連れられて訪れた、『禁軍』朱雀支隊長・焔崎兵吾ほむらざき ひょうごの自宅に、ごく普通にマッチが置いてあり、彼がそれを使って煙草に火をつけていたのを見たためだった。

 一体、「御神楽紫苑」とは、どのような存在なのか?

 疑問は尽きないが、そこに踏み込んでいくのは、臣下としての分を超えたことだろうな、とも彼女は思う。

 そんなことを考えながら輝夜が二条大路を西へと歩いているうちに、朱雀門の前までたどり着いていた。 京の北部中央、市街と大内裏だいだいりを隔てる門が、同じ名前の大路を見下ろすその場所は、門の向こうの官庁街から溢れてくる人々でごった返している。

 その人ごみの中に、輝夜はふと見慣れない姿を認めた。 朱雀門の色と同じ、燃えるような紅色の髪を無造作に伸ばし、竜人族の証左である長い耳と短い角をもつ青年が、行き交う人波に揉まれるようにしてこちらに歩いてくる。 身長は六尺を越えようかという長身で、回りを歩く人々から頭ひとつ分ほど突き抜けていた。 そのために、小柄な輝夜の眼にも留まったのだが。

 まるで鷹のような眼だ、と輝夜は思う。 竜人族特有の金色の瞳から放たれる鋭い眼光は、油断無く周囲を探り、警戒しているように見えた。

 よく見れば青年は、砂色の頭巾を目深にかぶった子供の手を引いていた。 行き交う人々にさえぎられ、さらに頭巾のために顔はよく見えないが、頭巾の端から青年と同じ色の髪が覗いている。 その髪の長さと下半分だけ見える顔つきから、妹かな、と輝夜は類推した。

 二人はとうてい、旅行者には見えなかった――特に兄のほうが。 京を観光に訪れたただの外国人にしては、なにぶん纏う気配が鋭すぎたのだ。 二人組が何者なのか興味を持った輝夜だったが、あまりじろじろと人を見るのは失礼に当たる。 二人から視線を外すと、自分のしたことに若干のばつの悪さを覚えつつ、輝夜は家路を急いだが、ひとつ、脳裏にひっかかるものがあった。

 視線を外す一瞬前ちらりと見えた、少女の真紅の瞳に覚えた既視感。

 ――はて、私はあの子と、前にどこかで会っていたか……?

 自問するも、記憶は答えを返してくれなかった。



 *****



 輝夜の姿が見えなくなってから紫苑が踵を返すと、微妙な表情でこちらを見ている若い女中が視界に入った。 おそらく何かの用事があって庭に出ていた人間だろうが、自身の記憶を検索してみても、該当する人物は見当たらない。

 ふと、兄がまた何人か新しく使用人を雇ったと言っていた事を思い出す。 その時はまたかと思ったが、実際のところ、紫苑と蘇芳の二人と父の代から残っている使用人達で管理するにはこの邸宅は広すぎ、手の回らない箇所が多々あったため、正しい判断だと今は認めている。 ということはこの女中は新人で、自分についても良く知らないのだろう、と紫苑は結論づけた。

 よって、実行する行動は、まずこの人物のことを自身の記憶に記銘するためのもの。

「あなた、名前は?」

 言葉を発して問うと、女中は予想外だったのか眼をぱちくりとさせた。 さもありなん、と紫苑は思う。 この京に住まうたいていの貴族は、自身の邸宅で働いている使用人、それも管理職でない下っ端の名など、基本的に気にはしないからだ。

「か、か、加藤理緒と申しますっ、殿下」

 我に返った女中は鯉のように数度口を開閉すると、バネ仕掛けのような素早さで頭を限界まで下げて名乗った。 頭の位置とは逆に、半分裏返ったような甲高い声。 そのさまに、紫苑は何とも言い様の無い感情を覚える。

 内親王、継承権第四位、月読宮の妹、皇国魔導院先代長官の娘、帝の孫娘――自分の立場や、ついて回るさまざまな肩書きの事を紫苑は知らないわけではないし、意識しないわけでもない。

 しかし、それらは御神楽紫苑という存在がもつ属性の一部を表現するものではあっても、そのすべてを満たすものでは決して無い、と紫苑は考えている。 この理緒という女中は、「御神楽紫苑」を構成する属性の一側面を視て、畏怖を覚えているだけなのだ。 それが紫苑には不満だった。

「顔を上げなさい、理緒」

「は、はいっ」

 今しがた知った名を呼ぶ。 声に若干の不快な感情が混じり、それを感じ取ったのか、女中がまたバネ仕掛けのように頭を跳ね上げる。 顔面は蒼白で、手足は小刻みに震えていた。 古参連中から一体何を吹き込まれたやら、と紫苑は呆れたが、それを表情には出さず、震える焦げ茶色の瞳をその真紅の視線をもってじっと見据える。

 ……可愛い顔してるわね。

 思考に混じったノイズはあえて排除しない。 彼女は自分に正直に生きることにしているのだ。

「いま、貴女のことを憶えたわ。 だから、貴女も私の事を憶えなさい」

 ふるふると震えていた女中は、優美な微笑みとともに発されたその言葉に緊張を少し解き――罰の類ではないとわかったからか――きょとん、とした表情で小首をかしげた。

 ……小動物っぽくていいわ。 私の側に置こうかしら。

 またしてもノイズ。 何となくだが、紫苑はこの理緒という女中のことを気に入り始めていた。 彼女に声をかけられて、逃げようとしなかった新人は久々だったのだ。

「私だっていっつも内親王殿下やってるわけじゃ無いのよ。 疲れるんだ、あれは」

「は、はあ」

「ここにいる私は、ただの『御神楽紫苑』。 必要以上の礼儀は無用よ」

 笑みを悪戯っぽいものに変えて言うと、紫苑はすたすたと歩き出した。 肩越しに相手の方へと振り向き、ひらひらと手を振ってやる。 背後で理緒が何か呟き、「変」だとかなんだとか聞こえたのを気にも留めずに、彼女は離れへと戻っていった。



 *****



 やがて日も沈みかけたころ、使用人が運んできた夕食を適当に片付けた紫苑は、行動を開始することにした。

 立ち上がり、何をどのように着ようか考えながら、応神のものとはまるで違う服たちを和室の箪笥から取り出す。 本邸にも彼女の部屋はあるが、見つかると色々と面倒な洋装はだいたいこちらに置いてあった。

 帯を解くと、締め付けるものが無くなった襦袢がはらりと肩から落ちる。 一糸纏わぬ姿になると、畳まれた衣類の一番上から、彼女の肌と対照的な黒いレースの下着を取り上げ、てきぱきと身に着ける。 豊かな胸が締め付けられる感覚に少し眉をしかめながら、シンプルな白のブラウスを羽織り、慣れた手つきでボタンを留め、下着と同じ色のニーソックスと、膝上まで丈が絞られた赤黒のタータンチェック模様のスカートを穿き、ブラウスの裾を外に出すとその上から鋲のついた革のベルトを締め、さらに鮮やかな赤色のリボンタイを襟元にあしらう。

 着替え完了。 続いて髪を整え始めた紫苑が覗き込んでいる鏡台には、個人輸入で取り寄せた、表紙にエル・ネルフェリア語の文句が踊るファッション雑誌が積まれていた。

 エル・ネルフェリア王国唯一の国土である浮遊諸島カナンは、短く見積もっても千数百年間という年月の間、外界から隔絶されていた。 そのため、人種・文化的な源流と考えられる西大陸に存在する各国とは、また次元が違った文化を形成している。

 紫苑はその文化の中で形成されてきた独特の服飾センスがいたく気に入っていて、外出時にはエル・ネルフェリア製の服を好んで着用しているのだった。

「これでよし、と」

 櫛を置き、最後の仕上げに黒い外套をばさりと音を立てて羽織り、伊達眼鏡を装着。 眼鏡は赤いセルフレームの輸入品だ。 こういった紫苑の嗜好は、ただの外国かぶれだと言われることも多く、特に宮中の公家達からの評判は良くない。 肉親の蘇芳や、日々接している輝夜からの反応も良いものとはいえないし、すれ違う人々からは奇異の目線が飛んでくる。 が、当然、彼女は毛ほども気にしていなかった。

 ちなみに、「月読宮内親王殿下の奇異な服装の趣味」は、皇家がらみのゴシップも躊躇無く扱うタブロイド各紙の読者を中心として、広く市中に知れている。 ゆえに紫苑の行動範囲に住む住人から半ば名物扱いされているのだが、本人は知る由もない。

 財布を外套の内ポケットに突っ込んで行動開始。 勢いよく引き戸を開き、大股で庭園を横切って本邸へ向かう。 古参の使用人とすれ違うたびにぎょっとした顔をされるのは何故だろう、と思う紫苑だったが深く追及はしない。 記憶の中の最短距離を辿って、たとえそこが廊下でなくても構わずに、目指す場所へと突き進む。

 最後の襖を勢いよく開け放てば、そこは彼女の兄の部屋だ。

「お兄様!」

「なんだ、騒々しい」

 紫苑の呼びかけに対して顔を上げるのは、部屋の中央、文机に向かって何か書き物をしていたとおぼしき青年。 線の細い身体を簡素だが仕立てのよい着物で包んでいるこの貴人こそ、現在の月読宮、御神楽蘇芳みかぐら すおうだ。

「外出許可をいただきに来たわ」

「ふむ、やるからさっさと行くがいい」

 そっけなく言って、彼は再び目線を文机に落とす。 そんな態度をとった兄に対して何となく腹が立った紫苑は、蘇芳が何か言う前に空気を押し固めた即席の椅子を作って、そこに腰掛けた。

 蘇芳の部屋は離れにある紫苑のそれと違い、純和風の装いだ。 畳敷きの室内には香が焚かれ、橙色の魔術光が灯された灯篭が、薄暗がりをぼうと照らしている。 やはり大きな書棚はあったが、そこに収められているのは政治や思想、歴史に関する書物が大半だった。

「相変わらずの手紙魔ぶりね」

 からかうような妹の言葉を無視するかのように、筆を運ぶ兄。

「今度は誰に送るのよ?」

「幽斎と、伊達と……それと、絢胤だな」

 ふうん、と頷いて、紫苑は名が挙がった三名のことを思い出す。 八人いる参議の首席である旧宮家の橘幽斎たちばな ゆうさい、軍務卿で旧仙台藩主の伊達明宗だて あきむね、内務卿で長門藩出身の絢胤容堂あやたね ようどう。 いずれも皇国政府の中核を占める人々だが、もう一つ共通点があった。

「……あれ、ね?」

「ああ」

 紫苑が指を立てると、蘇芳は軽く頷く。 短いやり取りだったが、それだけで兄妹の間で全てが伝わった。

「前々から思ってたんですけれど。 あえて、平地に乱を起こす気?」

「平地なものか。 この国はまだまだ大工事の半ばなのだ。 それを、主上の御病気に乗じて元の木阿弥にしようとする企みは、到底許されることではない」

 眼を細め、声を低くしての妹の問いに、兄は淡々と答えた。 『連中』というのは、左大臣の九条頼常くじょう よりつね以下、光皇が半ば不在の現政府にあって主導権を握りつつある国粋派の公家達のことだ。 未だに尊皇攘夷を掲げてはばからない者すらいる彼らがそのような地位に着いたのは、ともすれば急激に過ぎる現在の改革に対して、一定の反対意見を述べる者が居たほうが良いという帝の計らいによるものだったが、帝が臥せりがちな今となってはその判断が裏目に出る格好になった。

 橘幽斎、伊達明宗、絢胤容堂、そして御神楽蘇芳。 この四名の共通点というのはつまり、国粋派による専横を快く思わないという点において団結している、ということだった。

「まあ、論理の筋としては通ってるわ。 手段の正当化に使えるかはともかく」

「何か問題があるか? 平地に乱というが、乱という程のものも起こるまい」

「確かに、連中の悪事の証拠なんて幾らでも掴めそうだわ。 おまけに軍務と内務が味方とくればね」

 呆れ半分で吐息した紫苑に、蘇芳は初めて笑みを見せる。

「ずるいと、思うか? 紫苑よ」

「まさか。 現実にルールは無いわ」

「だろう?」

 同じように、口の端を吊り上げて笑う紫苑。

 襖を開けた使用人がどす黒い空気に中てられてたまらず踵を返すのにも気がつかず、この高貴な兄妹はしばらく悪辣な笑みを浮かべていた。

 ややあって、紫苑は話を戻そうと表情を変える。

「それで、出かけていいのよね?」

「構わぬ構わぬ。 どのみち、私が許可しなくても出かけるのだろう?」

「まあね」

 悪びれもせずに言う紫苑に、今度は蘇芳が吐息した。

「だが騒動は起こしてくれるなよ、家一軒吹き飛ばすなどというのは、勘弁してくれ」

「ご心配なく。 目撃者も纏めて吹っ飛ばすから……というのは冗談だけど、今日の予定にはないわ」

「相変わらず物騒な事を言う」

 紫苑の言葉が冗談に聞こえず、苦笑するしかなかった蘇芳だったが、やおら何かに気付いたかのように表情を険しいものにする。

「待て、ちょっと待て」

「なに?」

「……今日は、と言ったな?」

「ええ。 降りかかる火の粉は、元を吹っ飛ばしてやるに限ると思わない?」

 優美な所作で立ち上がった紫苑は、そんな兄を見下ろして、意地悪っぽく言うのだった。



 「従者の日常」ではとにかく適当な感じの人でしたが、本来「御神楽紫苑」という女性はこういうキャラクターです。 基本的に合理的思考と好奇心に基づいて行動する、学者気質でかつ天才肌、というところ。


改:誤字訂正・表現修正など

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