第一話 姫君と従者
冴月んとこの娘か……ありゃ強くなるな、賭けてもいいぜ。
そりゃ当然女だから重みはねェだろうが、あの体捌きと瞬発力は天稟を感じるね。
間違いねェ、何年かしたら、なんかしら大層な渾名を拝領してるだろうよ。
まァ、どこもかしこも銃だらけの今日日の戦場で、剣だけで生き残れるかっていったら怪しいもんだがな……。
――皇国魔道院・右院別当、安倍黒章の評
*****
自分の置かれている状況は、誰が見ても「危ない」と言うだろう。
しかし、不思議と恐怖はなかった。 自身の心が命ずるところを行うのに、何をはばかり、何を恐れることがあろうか。
「さあ、誰からでもいいぞ」
ゆえに、張り詰めた空気の中で発された声は、凛とした自信に満ち満ちていた。
幼さの残るその声の主は、ほどけば背中の中程まであるであろう黒髪を後頭部で一束にまとめ、薄紫の絣の模様の袴をはいた、いかにも女学生といった外見の少女。 まだ服に着られているような背丈と顔立ち以外で眼につく点といえば、その背中に負われた大きな袱紗と、狼人族の特徴である狼の耳、そして袴からのぞくふさふさとした尻尾だろう。 手には、彼女には不釣合いなほど大きな、長さ三尺ほどの樫の木刀が握られている。
彼女は板塀に挟まれた狭い路地で、みすぼらしい風体の四人の男たちに前後を挟まれていた。 見知らぬ気弱そうな少年が、大の男四人に因縁をつけられて路地裏に引っ張り込まれてゆくのを見た彼女は、居ても立ってもいられないとばかりに快速を飛ばして彼らを追いかけ、少年を逃がして自身はここに残ったのだ。
「どうした、私が怖いのか」
さらに彼女は少しも臆することなく、藤色の真っ直ぐな瞳で男たちを睨み据え、言い放った。
「てめえ……!」
その言葉に、いきり立った一人が少女に殴りかかるが、拳は空を切り、直後、その男はがくりと自分の身体の平衡が失われるのを感じた。 さっと身をかがめた少女が、迫る男の脚を手にした木刀で払ったのだ。 平衡を崩した男が殴りかかった勢いのまま塀に衝突したとき、さらに木刀がいま一人の男のアゴをしたたかに打ち上げる。 昏倒した男を、少女の視線は最早見ていない。
「こいつ!?」
左足を軸にして一息に体ごと振り向くと、狼狽している三人目の水月を柄で一突きに、そして四人目が掴みかかってくる手を払いのけ――ようとして、木刀を掴まれた。 初めて、少女の表情が揺らぐ。
木刀を掴んだ男はそのまま、空いている左手で少女の鳩尾を突こうとしたが、踏み込む地面が無いことに気がついた。
「んっ!」
少女の気合と共に、男の体が宙に浮く。 樫の木刀一本を支えに大の男を持ち上げた少女は、袖口がまくれ、淡い光を発する手甲と、さらに白い二の腕が露になるのにもかまわず、木刀を男ごと大上段に振りかぶると、一息に振り下ろした。
振り下ろされる途中で手を放した男は背中をしたたかに打ちつけ、蛙がつぶれたような声を出して伸びた。 これで四人。 そして振り向きざまに、背後に近づいていた男のアゴを、快音とともに叩く。 がくり、とくずおれたのは、最初に塀に衝突した男だった。
倒れた四人がうめく中、少女はひとつ吐息をして、血払いのような動作の後に木刀を帯に差す。 この後は最寄の交番なり、見回り中の警官なりに通報して、ことの次第を説明しなければならないところだが、彼女にも急ぎの用事があった。
「どうしたものかな……」
助けた少年は、とっくどこかに行ってしまっている。 これでは時間に間に合わないだろうか、と考え込む彼女。
「よお輝夜、相変わらず無茶するじゃねえか、ん?」
と、そこに苦笑交じりの声がかかった。
「焔崎さま!」
ゆらめく陽炎と共に現れたのは、長身痩躯、茶色い髪を逆立てた青年。 着流しに皮肉げな笑みを浮かべ、舶来の紙巻煙草をくゆらす彼は、輝夜と呼ばれた少女の知り合いだった。
「どうして、このような場所に?」
「俺んちに近えんだよ。 昼寝しようと思ったトコを騒がしいから来てみりゃ、なあ」
剃刀のような光をたたえる目を細めて、彼はしゃがみこみ、輝夜の瞳を覗き込んだ。
「お父上にも二乗院の殿下にも、あんまり無茶はすんなって言われんだろ? ん?」
「ですが、義を見てせざるは勇なきなり、とも言います」
見返す藤色の瞳は、どこまでも真っ直ぐだ。
「へ、小娘がいっぱしに孔子かよ」
焔崎は苦笑して立ち上がり、伸びている男の一人を脚で小突く。
「まァいい、ここは俺が引き受けてやる。 二条院だろ、さっさと行きな」
親指で表通りに続く方を彼が指差すと、輝夜は、ありがとうございます、と会釈して駆けてゆく。 彼は輝夜が知るうちでも有数の使い手であり、また公権力を司る身でもあった。
振り向けば、頬を叩かれて意識を取り戻し、目の前の顔を見て仰天する男の姿が見える。 これで安心だ、と彼女は元の道を急ぐことにした。
向かう先は大宮大路をさらに北、大内裏のすぐ隣に位置する大邸宅――青年が口の端に上らせた、「二条院の殿下」とその妹の住まいだった。
*****
天原は、大小九十九の島嶼群からなる生活圏であり、九十九島とも呼ばれる。
かつては神が住まった土地と言われるそこは、この零紀元二九九八年の現代においては、世界でもっとも豊かな文化と繁栄を享受する地域のひとつだ。
基本的に穏やかな気候風土に、豊かな四季とその恵み、変化に富んだ自然。 その中で、神の子孫と伝えられる天照家を中心に緩やかな共同体として始まった国家は、瑞穂・豊葦原・秋津・華音と呼ばれる四つの大きな島を中心に、現在ではおよそ四千万人もの人々が住まう世界でも五指に入る大国である。 国号は、『応神』といった。
脈々と受け継がれてきた天照家の血統は『光皇』と号す国家の元首として、代々瑞穂島の中西部、ただ京と呼ばれる都に君臨し、血筋を分けた宮家や建国の功臣たちの子孫である貴族を従え、権力を振るう。 民もまた繁栄の恩恵を十分に享受し、豊かな日々を送っている。 まさに、絶対君主の君臨する国家としては理想的といえた。 少なくとも――表面的には、そう見えた。
はっきりとした陰りは、二九九八年二月末から見られるようになった。 昨年から病の床に臥せっていた、光皇の容態がいよいよ悪化したのだ。
二十年前に武家政権を倒した、「大帝」とも言われた帝が倒れたともあって、新聞は扱いの大小こそあれ毎日のようにその容態を報じ、天照家が身近な存在である京の市民たちは、市街の北、光宮の方角を見ては、帝の病状について噂しあった。 一方で、帝の容態についてより多くの情報を手にすることができる貴族達の間では、帝の病状は深刻であり、進行を遅らせることはできても快癒することはまずないだろう、という統一見解が浸透しつつあった。
そして問題になったのは、帝の二人の息子たちはともに夭折して既に亡く、孫達はいずれも正式に太子として冊立されていないという事実である。
――誰が次の帝となり、誰がその後見となるのか?
これこそが貴族達のもっぱらの関心事であり、既にして今上帝の長男の遺児である七歳の長良親王を擁する九条家と、次男の遺児である五歳の篤良親王を擁する綾小路家との間には、不穏な空気が渦を巻き始めていた。
その中にあって、当事者である両家以上にその行動に注意が払われたのが、皇家に連なる一族の中でも、こと最高の家格を有し、光皇に代わって政務を執りえる「摂政」に任ぜられる資格をもつ有栖川家と、御神楽家だった。
有栖川家の歴史は古い。 零紀元一六〇〇年代の末、天下を二分する大乱が起こり、いっとき皇家の権威は地に堕ちた。 その際に諸国に割拠した国司達をことごとく討伐し、皇家の威光に再び従わせた伝説の皇子を祖とする、代々武門の重鎮を輩出してきた家系である。 初代の功績を称えて「泰華宮」の称号を有する名家だが、今代当主である陸軍大将・有栖川影幸は「軍人は政に口を挟むべからず」と、今回の事態に関しては不干渉を決め込んでいた。
そこで一層の注目を集めることになるのが御神楽家だった。 初代天照光皇の実弟である月読尊を祖とし、それにちなんで「月読宮」との称号を戴く御神楽家は、代々魔術師の家系として知られ、皇国魔導院の長官を最も多く輩出している。 また優秀な官吏も多く出しており、最高官である太政大臣にまで上り詰める者もあったこともあって、政治的影響力は非常に大きいのだった。
その噂の御神楽家は、都の北東、鬼門を守護する方角に「二条院」と呼ばれる大邸宅を構えている。 築何年が経つともしれない木造の蒼古たる大建築は、一説には、この地に都が定められた時から存在するといわれる。
檜と檜皮で造られた優雅な意匠の門と、その向こうに広がる広壮な庭園、そして奥に見える寝殿造りの古風な館。
広壮な庭園の片隅には、母屋と比べれば新しい、書院造の小さな離れが建っている。 中には畳敷きで由緒正しい様式に則った一室と、つい最近、先代が行った改装で整えられた、板敷きの床に西大陸風の丁度が揃えられた一室があった。
先代の書斎兼実験室だったそこには、皇族に連なる月夜見宮家の一員、つまりこの国で最も権威ある一族のひとりとしてだけでなく、遠目にもそれとわかるはっきりとした異貌と奇異な趣味、そして多方面における才能の非凡さで知られる存在が今は住んでいるのだ。
そこに来訪する者がひとりあった。 先程裏路地で大立ち回りを演じた少女、輝夜だ。
彼女は冴月という、古くから帝に仕える武家の生まれであり、一昨年までその家の後継者とも目されていた。 背負っている袱紗とその中身はその出自に似つかわしいものだが、ふつうは皇族の住まいを佩刀して訪れられる身分ではない。
しかし、彼女は慣れた様子で門番に来訪を告げ、使用人に挨拶をし、庭園をここまで歩いてきたのだった。
*****
「冴月輝夜、参りました」
硝子の羽目板で飾られた引き戸の横、鳩の装飾がされた呼び鈴を鳴らして名乗ると、やがて戸が開き、中から現れた姿があった。 輝夜の目が釘付けになるその姿は、ゆったりとした単衣を纏った、雪のように白い肌と青みがかった銀色の髪の少女。 名工の手になるような整った顔立ちの中には、血の色に光る瞳があった。 その姿はさながら精巧な磁器人形じみていたが、頬や手に僅かに差す朱が、生気の彩を加えている。
少女の名は御神楽紫苑、歳は十七。 今代の御神楽家当主・蘇芳の妹であり、皇国で最高位に類される魔術師に贈られる『魔導師』の称号を、最年少で手にした才媛にして、第四位の皇位継承権を持つ内親王だ。
「さっき魔導院から使いが来て、聞いてるわ。 お手柄だったそうね」
「はいっ」
紫苑の言葉に輝夜が瞳を輝かせて頷くと、紫苑が踵を返し、中に入るよう輝夜に促す。 かたや皇族、かたや名門とはいえ一介の士族である二人の間柄は、皇族と士族、主と従者というものとは、だいぶ趣が違っていた。
「珈琲淹れましょ。 輝夜も飲むわよね?」
「……牛乳と砂糖をたっぷりとお願い致します」
ぎこちない声で嘆願する輝夜に、紫苑はにやにやと笑う。
「却下」
底意地の悪そうな微笑を美しい顔に貼り付けて、鼻先をとん、と一押し。 ぴんと輝夜の耳が逆立つのをあははと笑って、紫苑は指を二つ鳴らした。 すると、テーブルの上に置いてあったサイフォン式抽出機の下部フラスコの中に水がごぽごぽと満たされ、その下に据えられたアルコールランプに火が灯る。 そうしてから紫苑は戸棚から密閉瓶を取り出して、豆をスプーンで二杯、より小さなものに移し替えた。
「今日はちょっと粗めにするか」
そしてまた指が鳴ると、瓶の中に巻き起こった小さな竜巻によって、豆は粉々に挽き砕かれた。
「本当に、器用に術を使われますね……」
「符でいくらでも代用できるし、それこそ海を挟んだ向こう側じゃあ機械でこういうことをするらしいじゃない。 大して役立つ特技じゃないわよ」
ひらひらと手を振りながら、紫苑はフィルタをサイフォンにセットし、挽いた豆をその中に放り込む。
「それでも、私は上手く扱えませんから……羨ましく思います」
「私からすれば、あなたの身軽さの方が羨ましいんだけどね」
やがて抽出が終わり、二つのカップに液体が注がれてゆく。 ことり、と音を立ててオーク材のテーブルの上、自分の目の前に陶製のマグカップが置かれ、取っ手から白磁のような指が離れてゆくのを、輝夜は眉をひそめて見つめていた。 視線を上げてみれば、内親王殿下がその美しい顔立ちに、また意地の悪そうな微笑みを浮かべてこちらを見ている。
マグカップの中身は黒々とした、しかしかぐわしい芳香をあたりに漂わせる液体。 昨今紫苑が凝っているという、珈琲という舶来の飲料だった。
しかしこの珈琲、曲者であった。 素晴らしい香りに反して、味はその漆黒に似つかわしく、途方もなく苦いのだ。 煎茶のそれとは違う、口の中に後々まで残るような苦味が、輝夜は苦手だった。
――輝夜は一度、聞いてみたことがあった。
「このようなものの、何処が美味なのですか?」
「まだまだね。 この苦味に慣れてくると、それに隠された深い味わいがわかるようになるの」
そんなことを言って、紫苑はマグカップを優雅な仕草で傾けたものだった。 百歩譲って彼女からすれば善意のことなのかも知れないが、輝夜にはその善意が重い。 口には出さないが。
輝夜がその黒い飲み物を啜って眉をしかめると、目の前の内親王殿下は満足げに頷く。 初めて珈琲が出されたときなどは、輝夜が知らず一口に飲んでしまって顔をくしゃくしゃに歪める様を、紫苑は大笑いして見ていたものだ。 そんなことがあったので、絶対に反応を楽しまれている、と輝夜は思っているが、実のところそう悪い気はしていない。
「あら、ついさっき使った? ふむ……術式の動作に問題もないみたいね」
カップに口をつけながら、輝夜の袖口から除く手甲を一瞥し、紫苑。
術式とは、魔術を行使する際に、術者の想念から構築される一連の工程表のようなものだ。 術式は純然たる術者の想いから構成されているが故に、構築した者でなければ認識できない。 しかし、ある魔術師が「礼式」と呼ばれる特殊な言語を開発し、想いから成る術式を翻訳したことで、目に見える形で記述することができるようになった。
その魔術師こそが応神皇国の始祖、始祖魔術師と呼ばれる伝説的な術者のひとりである初代天照帝だ、と伝えられている。 以来、皇国の民はこの技術を用いる符術の恩恵に存分にあずかり、現在に至るのだ。
「はい。 不思議なことですが、私とこの『式』が、日に日になじんでゆくように思えます」
袖をまくりながら、輝夜。
「そりゃあ、そうよ。 そう組んでるもの」
ふふん、と紫苑が自慢げに笑うかたわら、ぱちん、ぱちんと留め具を外す音をさせながら、輝夜は今しがたまで服の袖と裾に隠れていた手甲と脚甲を、机の上に置いてゆく。 木と金属が触れ合ったとは思えないほどに、そのときの音は軽い。
青白い光沢をもった金属で鍛造されたそれらの表面には、いずれもびっしりと細かな文字が刻み込まれていた。 紫苑が手ずから、といっても魔術を用いて彫り込んだ術式だ。 いわば、この二対の防具そのものがひとつの符なのだ。
刻まれた式は身体強化。 所持者の意思と魔力が通えば、人体が持つ能力を、二倍、三倍、それ以上に増幅する。 身体的負担は決して無視できるものではないが、可能な限り押さえ込めるような工夫がしてあった。
この式が、武門に生まれて剣の道に打ち込んできたとはいえ、十四歳の少女でしかない輝夜を、大の男と渡り合えるまでにしている。 とはいえ、その力に振り回されずに使いこなす、輝夜の剣士としての才覚もまた優れているのだ。
「駆動時間の超過は一度も無しか。 いいつけは守れたようね? ……それにしても、式が少しも磨耗してない。 凄いなコレ、エル・ネルフェリアの最新技術を駆使した魔力との親和性が高い軽合金って触れ込みだったけど、本当だわ」
いい報告ができそう、と呟く紫苑は、輝夜から見ても楽しげだ。
宮中行事や公務で、きらびやかな礼装に身を包んで周囲に完璧な愛想を振り撒く紫苑は遠目に見ても美しかったが「実際あんなん何も楽しくないのよね」と彼女は輝夜にこぼしたことがあった。 ここでこうして術式を弄ったり、本を捲ったり、珈琲を飲んでいるほうが余程、とも。
「一番は、派手な魔術を使って、派手に爆発でもさせるときかしら」
そのあとにこう続けたため、聞いていた輝夜としては台無しな気分になったものだったが。
「さて、それじゃ。 いつもの、はじめましょうか」
手にとっていた防具を置き、紫苑は代わりに机の上に広がる雑多な品物の中から、洋紙を糊で綴じた帳面を拾い上げる。 表紙には、『皇国史:3』と、お世辞にも綺麗とは言えない字で書き付けてあった。
*****
ばりばりと、薄い窓ガラスを風が揺らす音が、講義をする紫苑の声に混じって室内に響く。
十一月の風は寒さをますます増してきていたが、この部屋に限って、二人はそれと無縁でいられた。 テーブルの下で赤い輝きを放つ、海外から先代が買い付けたという、一度魔力を込めれば穏やかな熱を長時間放ち続ける不思議な石のおかげだ。
「さて」
空になったカップをテーブルの上に置くと、紫苑は改めて帳面を取り上げた。
「やっと『カナン再臨』の年ね」
白い指が付箋がついている頁をめくる。 居住まいを正して、輝夜は話が再開されるのを待った。
「十世紀の『天魔戦争』で姿を消した、天空の魔導王国エル・ネルフェリア……ああ、そもそも『天魔戦争』って覚えてる?」
こくり、と輝夜は頷いて、記憶している内容を口にした。
「それ以前に栄えていた魔法文明を崩壊させたという大戦ですね。 ……世界から、魔術が失われかける原因になった――」
「そう。 零紀元前から残っていた魔法文明の知識や遺産もほぼ全滅、そうすると魔術はただのめんどくさい代物に成り下がって、より手軽に扱える機械技術が発達するにつれて衰退していった。 うちは符術があったから良かったものの……ま、戦国の時なんて、金に困った公家の小遣い稼ぎに使われてたんだけどさあ――と、話が逸れた。 それで、二九七三年」
「二十五年前……」
その年にあった大事件はもう誰もが知っていることで、当然輝夜も知っていた。 天魔戦争で海中に没したとも、跡形も無く消え去ったともいわれる伝説の魔法王国エル・ネルフェリアが、東大洋上にその姿を再び現したのだ。 史家たちが否定した、伝承に語られる姿そのまま。
「浮遊諸島カナン。 上空一千米に浮かぶ島々なんて非常識な代物、確かに実際見ないと信じられるものじゃない。 天魔戦争以前の世界のことが書いてある記録なんて、ほとんど残ってないしねえ」
うんうんと頷くと、紫苑は解説を再開する。
「で、このエル・ネルフェリアが何をしてくるのか、主要国は畏れた。 日ごろ戦争してばっかりの西大陸の国々が一致団結する構えまで見せたっていうんだから、相当だったでしょうね。 当然国内も動揺したんだけど、もともと幕府は財政難で思想統制も有名無実になって改革も失敗して飢饉が起こる火山も噴火する地震まで起こるで大変だったから、状況はあんまり変わらなかった」
「変わらなかったのですか」
「一揆と打ち壊しと新興宗教の押し売りの頻度がちょっと増えたくらいだってお父様はおっしゃってたわ」
それは相当に末期的な状況だったのではないか、と輝夜は思う。 その年は幕府成立から二百五十年ほどのころだが、泰平の世の終わりがひしひしと感じられたのだろう。
「まあ、そんなだから皇家にとっては色々と好都合だったのよ……それはともかく、応神にもエル・ネルフェリアの飛空艇が来たの。 幕府は大慌てだったらしいわ、長らく平和ボケしてたせいでロクに大砲なんて無かったらしくてね。 平和ボケしてなくても、空飛ぶ船なんて非常識な代物に対応できたとは思えないけど。 結局うちに泣きを入れて、お父様を始めとした魔導院の主要人員が相模の片田舎に勢揃いしたらしいわ。 豪華にも程があると思わない?」
そのせいで幕府の権威がガタ落ちしたのよね、と付け加え、紫苑は続ける。
「で……その船が持ってきたのは、宣戦布告でもなんでもなく、ただの通商協定だった。 カナンはちょうど東大洋の中央にあるから、東西大陸の貿易の中継地として今は機能してるのよね。 そのはじまりが、この協定だったワケ」
「鎖国はこのときをもって放棄されたのですね」
「ええ。 この協定がもたらしたのは、何も東大陸の物産だけではないの」
そう言って、紫苑は机の上の置き時計を取り上げる。 魔力を伝達する媒体である霊子の揺らぎの振幅が1/600秒であることを利用して針を動かす機構が内臓されているその時計は、エル・ネルフェリアからもたらされた技術をもって、応神国内で生産されたものだ。
「エル・ネルフェリア内では既に枯れているけれど、私たちにとっては数百年は進んでいる魔法技術を手に入れることもできた。 仮にこれを容れず、鎖国を解いてなかったら、皇国は他国に大きく遅れをとることになったでしょう」
時計を置いて、彼女は椅子から立ち上がる。 指し示すのは、硝子窓と白壁の土塀の向こうに見える、さらに白い壁。 壁、否、それは大内裏にそびえ、この国を統治する光皇が住まう『塔』だ。 それは古の文人が「蒼穹をつらぬく剣のごとし」と形容した、この国とこの街の歴史を二千年以上の長きにわたって見守ってきた存在。 二百米もの高みに達する塔の基部は数区画分にも及ぶほどで、故に西側に位置する彼女の部屋からは壁のように見えるのだ。
「で、そのついでに――あの塔が、かの魔法王国の技術と同じようなもので成り立ってることがわかってきた……話が逸れたかな、本筋に戻そっか」
この「授業」は、数ヶ月前から続いていた。 ある日唐突に紫苑が、「人にものを教えてみたいわ」と言い出したのが始まりだ。 輝夜は中学校に通うようになり、剣の修行をする時間が以前よりも取り辛くなったことに不満をもらしていた頃だったが、紫苑が授業をすると言うと二つ返事で了承した。 真面目に返答したつもりが、紫苑の唇の端が引きつったようになっていて、まるで笑いを堪えていたようだったのを輝夜は覚えている。 自分がぶんぶん尻尾を振っていたことまでは、覚えていない。
*****
「って、もうこんな時間じゃない」
その後も紫苑はしばらく話を続けたが、窓の外を見て日が傾いでいるのに気がついた。 時計を見てみれば、針は午後四時を指している。
「そろそろ終わらせないと……二九八〇年に大政奉還、そのあとゴタゴタが色々あって魔導院が旧幕府軍相手に無双して、それで旧幕府も恭順したんだけど、まだまだ全てが皇家に従ったワケでもなくってね」
紫苑が指差し、輝夜の視線が動く先にあるのは新聞の一面だ。 そこには先月二十四日に西方の筑紫で発生した小規模な反乱についての記事が載っていた。 不平士族による反乱が勃発、筑紫鎮台司令部があわや襲撃されかけるも、たまたま現地に在った魔導院の人員により鎮圧さる。 死者は居宅を襲撃された筑紫鎮台司令官、秋月陸軍中将および鎮台兵三名と、『神風党』の構成員百七十九名――そんな内容の。
「また反乱ですか?」
「……まあ、変革には反動がつきものってことよ」
うーむ、と考えこむ輝夜の目には入らなかったが、紫苑の表情は暗い。 その憂いを吹き飛ばそうとするかのように、彼女はたん、と叩きつけるように一歩を踏み出した。
「今日はここまで!」
宣言し、手にした帳面を無造作に机の上に放り出す。 それは絶妙な均衡を保っていた和洋入り混じる本の小山に衝突し、結果、大崩落を引き起こした。
――沈黙が場を支配する。 紫苑はゆっくりと放り投げたままの腕を下ろし、輝夜のぽかんとした表情を真正面から見ると、にこり、と笑顔を作った。
「私は光宮の晩餐会に行かなきゃいけないから」
「あのう」
「支度をしなくちゃいけなくてね」
「その、後ろの……」
「で、ちょっと頼みたいことが」
「紫苑様、恐れながら……」
輝夜には確信があった――これは明日もそのままだろう、と。 明日も我慢しないといけないのか、と。 そうでなくとも、この部屋は彼女を刺激するものが満載だというのに。
ごちゃごちゃとなにやら書き付けられた紙片が散らかった床。 高さも厚みも著者も乱雑に詰め込まれた書棚。 よくわからない液体が入っているガラス瓶と一緒に並んでいる食器。 講義に集中している間はあまり気にならないが、こうなると衝動が湧き上がるのを抑えられない。
……お片付けしたい。
「今日こそは、私にこの部屋の」
「はいはい、気持ちはありがたいけど時間がないの」
手をひらひらと振って輝夜の言葉を遮った紫苑は、大崩落を起こした机の上でかろうじて無事な、よもぎ色の風呂敷包みを取り上げ、輝夜に手渡した。
「私の代わりに、届け物をしてほしいのよ。 場所は、篝火横丁の猫眼庵って店。 それじゃよろしく」
*****
夕暮れ時の大宮大路。
「結局、今日も掃除できなかった……」
はあ、とため息。 仮にも内親王殿下とあろう御方があんな汚らしい御部屋に、という義憤と生来の綺麗好きのせいで、あの部屋に招かれるたびに掃除をしたい衝動に駆られる輝夜だったが、その度に紫苑にははぐらかされ、かわされている。
一度、紫苑が部屋を離れている間に机の上の整理を敢行したことがあったが、翌日にはさらに酷い状態になっていた上に、「何処に何があるかわからなくなったじゃない!」と怒られた。 どうやらあの酷い状態こそが、内親王殿下にとっては「どこに何があるかわかる」状態だったようだった。 それ以来、もう半分諦めてはいるのだが。
それにしても変わったお方だ、と輝夜は思う。 平民、士族、華族、そして皇族にすら分け隔てのない態度で接し、趣味といい服装といい古来の伝統に囚われない。 故に保守的な人々からの評判は良くないが、京の人々からはそれ以上に親しまれるのが、御神楽紫苑という少女だった――「あのおみ足がたまらん」「絶対領域は正義」「踏んでもらいたい」など、妙な声も混じっているが。
整備されたばかりの街路灯が夕暮れの光の中で弱々しく瞬いている下を、輝夜は風呂敷包み片手に歩いてゆく。 目指す先は左京の南、かがりび横丁と呼ばれている一帯だ。
その横を、キイキイと木製の車輪が軋む音がして、古来の牛車に見立てて造られた乗合バスがゆっくりとすれ違っていった。 動力は符だ。 エル・ネルフェリアからもたらされた術式機関という考え方は、符を連関させて一つの機構を作るという形となって応神に取り入れられ、開国から20年経った今ではこのようなものも作られるようになったのだ。
「篝火横丁か……」
苦手なんだけれどなあ、と輝夜は心中で呟いた。 別段危険な場所ではなく、むしろ左京南部という繁華街の中にあっては最も治安がいい部類に入る場所だ。 が、この京における魔術文化の中心地としての雰囲気が、どうも自分には馴染まない気が、輝夜にはしていた。
とはいえ紫苑からの頼みごととあっては、疎かにするわけにもいかない。 そうしていると今度は後ろから走ってきたバスに追い越され、彼女は小走りに前方の停留所へと急ぐ。
一銭硬貨二枚を料金箱に放り込んで車内を見回せば、座席は全て埋まっていて、乗客の何人かは吊革や柱につかまっている。 そんな中で、輝夜は二本の足以外の支えに頼らずにいることにした。 定期的に均されるとはいえ舗装されていない土の道は相当に揺れるが、彼女には平衡を崩さない自信があった。
窓から見えるのは官庁か邸宅かという風景がしばらく続いたが、京の中央を横に貫く五条大路を過ぎると、一気に雰囲気が華やいだ。 昔ながらの町屋の中にぽつりぽつりと漆喰や煉瓦作りの建物が見え始め、商店の呼び込みの声や、流しの歌声が窓越しにも聞こえてくる。
大宮大路と六条大路の交差点付近にある停留場、そこが目的地に最も近いところだった。 バスから降りれば、正面にある露店に並んでいる輸入物の香辛料が発する香気が感じられる。
横丁までの道には外来の装飾品や菓子を扱う露店も数多い。 武家の娘とはいえ、輝夜も年頃。 呼び込みの声の方にちらちらと眼をやりながらも、足は止めずに小路を目指す。
角を二回曲がれば、夕闇に覆われて薄暗い道を、宙に浮かぶ色とりどりの淡い光が幻想的に照らす小道が広がっている。 まだ日が沈んでいない時間帯とあって人はまばらだが、太陽が姿を隠せば、この一帯は東京の秋葉神社界隈と並ぶ皇国有数の魔術の街にその姿を変えるのだ。
足を踏み入れると、硬質なものと柔らかなものが入り混じったような不可解な感覚が輝夜を一瞬だけ包み、すぐに消えた。 直後、輝夜の嫌いなあの空気が全身を包み込む。
魔術に関わる品物を扱う店が多いかがりび横丁は、事故が起きたときに備えて結界を張っているのだというが、これを通過するたび、輝夜はこの街について回る噂――「地図に比べてこの街は明らかに広い」だとか「空間が歪んでいる」だとか、そんなことを思い出してしまうのだ。
目指す猫眼庵は、紫苑の行きつけの道具屋兼材料問屋だ。 どのような経路で商品を仕入れてくるのかは知らないが、質のいい品を安値で手に入れられるらしかった。
場所は街のはずれ、傾いだ二階建ての古い建物だったはずだ。 以前何度か紫苑に連れられてきた記憶を頼りに、輝夜はさらに街の奥へと向かう。
旧東市界隈にあたる横丁の中央付近は、この一帯でも最も霊子の密度が濃い場所だ。 故に変異種や暴走符が寄り集まった魔法生物のような、人に危害を及ぼしかねないものが時々出没する。 そのためこの付近は心得のある者しか立ち入らず、そういった人々だけが利用する少々「危ない」店が多く営業している場所でもあった。
果たして、目的の店は街の中心の十字路に面した場所にあった。 古い二階建ての建物の入口に掲げられた申し訳程度の大きさの看板には、下手な字で「猫眼庵」と屋号が記されている。
暖簾をくぐれば、土間を挟んだ左右には金属フレームにガラスの羽目板をした大きな陳列棚が鎮座し、様々な調合材料や薬品が並んでいた。 外の薄暮よりもさらに薄暗い店内を、薄赤い魔術光が封じられた鈍色のランプが細々と照らしている。
「もし、猫眼庵殿はおられますか?」
呼びかけるが、土間の奥、畳敷きになっているところで火鉢が炭の爆ぜる音を立てているだけで、店主の姿は見えない。 かわりに、どこからか猫の間延びした声が聞こえてきた。
「店主殿ー?」
「おや、いらっしゃいませぇ」
「っ!?」
後ろから聞こえてきた声に、思わず尻尾が逆立つ。 輝夜に気配さえ感じさせなかった灰色の着物の小男は、元々細い眼をさらに細めて、にんまりと笑った。 彼こそがこの店の主だが、もっぱら屋号で呼ばれているために本名はあまり知られていない。
「珍しいねぇ、輝夜ちゃんだけかい」
「は、はい……。 お届けものなのですが、紫苑様は御務めがあられますので、私が代わりを仰せつかりました」
言いながら包みを手渡す。 ずしりと重かった包みの中身が気になったが、数回のこのような届け物の中身を聞いて酷く後悔した経験が、輝夜を思いとどまらせた。 そのうちの一度などは、いまだ汗をかき続ける人皮で装丁されたいわくつきの魔術書が中身で、うっかり表紙に触ってしまったときの感触をその後三日は忘れられなかったものだ。
「そうかい、お使いご苦労様」
表情を崩さずに、店主。 収まりの悪い赤茶色の髪の中で、猫の耳がぴくぴくと動いている。 さらに上衣の裾から垂れ下がっている二股の尻尾が眼を引いた。 猫人族は狼人族と並んで数の多い亜人種だが、このような二股の尻尾を持っている者は珍しい。
「お茶でも飲んでいくかい?」
「いえ、この後は稽古がありますので」
「頑張るねえ……」
そう言う店主の顔には、わずかながら憂いの色があった。
「殿下をお守りするためにも、修練を欠かすわけにはまいりませんから」
「無理だけはしないようにねぇ。 それで身体を壊したり、怪我をしたりしちゃいけない」
「……はい」
今日、その無理をしたばかりだという事は、輝夜は黙っておくことにした。
「それじゃ、これお駄賃……ああ、そういえば」
「なにか?」
渡された十銭硬貨を袴のポケットにしまってから、小首をかしげて問い返す輝夜。
「最近、このあたりで子どもが何人か行方不明になってるみたいでねえ」
「子どもが……ですか?」
「そう、輝夜ちゃんと同じくらいか、もっと小さい子がねぇ」
猫眼の間をしかめ、声を低くして、店主。 表情からはあまり深刻さを読み取れないが、それはきっと常に細められた彼の目のせいだろう。
「最近はこの界隈の勝手がわからない新参も増えたからねぇ。 特に外国から来る連中が好き勝手して困るんだ」
「ですが、そこまでの事件ならば、魔導院も動くはずです。 解決まで、そう時間はかからないと思います」
「だといいけどねぇ……輝夜ちゃんも気をつけるんだよぉ」
「お気遣い、ありがとうございます」
では失礼いたします、と型通りの一礼をして、きびすを返す輝夜。 その背中に向けて、にゃーん、と、猫が鳴きかける。
「……やっぱり、どっか危なっかしいんだよねぇ」
既に店を出た輝夜の耳に、その声は届くことなく。
「殿下も、あれではさぞご心配なことだろうねえ……」
誰も居ない店内に響く声が途切れると、尻尾が二又に分かれた猫が一匹、店の奥の暗がりへと消えていった。
お読みいただき、ありがとうございます。 てるよふです。
こんなものも始めてしまいました。 試行錯誤しながら完走を目指して頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いします。
改:ルビ修正、誤字訂正など