第9話 黄色い家の煉獄
1888年10月23日。
南仏アルルに、秋の冷たい季節風が吹き始めた頃。
テオドルス・ファン・ゴッホの多額の資金援助と引き換えに、ついにポール・ゴーギャンがアルル駅に降り立った。
パリのグーピル商会で、テオは深い安堵の溜め息をついていた。
「……ようやく、兄さんに『保護者』がついた。ゴーギャンは傲慢で金に汚い男だが、計算高く、現実的だ。あの男が財布の紐を握り、兄さんの暴走を止めてくれれば、僕への請求書も減るはずだ。これでやっと、僕の胃潰瘍も治る……!」
テオの目論見は、最初の数週間においては、見事に的中したように見えた。
アルルのラマルティーヌ広場に建つ「黄色い家」。
そこで始まった二人の天才の共同生活は、奇跡的なまでの平穏をもって幕を開けたのである。
「おい、フィンセント。今日からこの家の家計は私が管理する。君の弟から送られてくる生活費は、一つの箱に入れて私が鍵をかける。君のように、手元にある現金をすべて『クローム・イエロー』のチューブに変えてしまうような野蛮人には、1サンチームたりとも触らせんからな」
到着した翌日、ゴーギャンは偉そうにふんぞり返りながら、冷酷なまでのルールを宣言した。
「おお! 素晴らしいぞポール! 君のその合理的な精神こそ、我が理想郷に必要だったものだ!」
フィンセントは怒るどころか、両手を挙げて歓喜した。
「私は絵を描くこと以外、何もできないポンコツだからな! 君が食事も家事もやってくれるなら、私は24時間キャンバスに向かえる! 最高のシステムだ!」
実際、ゴーギャンは有能だった。
彼は料理が非常に上手く、市場で安く買ってきた魚と野菜で、絶品のブイヤベースを作ってみせた。さらに、散らかり放題だったアトリエを片付け、キャンバスや絵の具の在庫を正確に管理した。
テオの目論見通り、ゴーギャンという「強烈なストッパー」を得たことで、フィンセントの生活は劇的に改善されたのだ。
テオの元には、フィンセントから興奮に満ちた手紙が毎日のように届いた。
『テオ! ゴーギャンの料理は最高だ! パリのアブサンより血肉になる! 私たちは夜遅くまで芸術について語り合い、まるで古の修道士のように純粋な生活を送っているぞ! 君のおかげだ!』
手紙を読んだテオは、パリのカフェで美味いワインを飲みながら、「ああ、高い投資だったが、ゴーギャンを送り込んで本当に正解だった」と、涙ぐみながら神に感謝した。
——だが。
神は、テオドルス・ファン・ゴッホに安息を許さない。
二人の「蜜月」は、ひと月も持たなかった。
「……おい、赤髭」
11月の半ばを過ぎた頃。
黄色い家のアトリエで、ゴーギャンが忌々しげに舌打ちをした。
「なんだいポール! 今日の南仏の太陽も、まるで燃え盛るレモンのように美しいな!」
フィンセントは、今日も今日とてイーゼルに向かい、猛烈なスピードで絵の具をキャンバスに叩きつけていた。
「お前、また絵の具を『直塗り』しているのか」
ゴーギャンは、フィンセントのキャンバスをステッキでビシッと指した。
「そんな何センチも絵の具を盛り上げたら、乾くのに何年もかかるだろうが! だいたい、お前はなぜ目の前にある『椅子』や『ひまわり』を、そのままバカみたいに写し取ろうとするんだ。現実の奴隷め」
「現実の奴隷だと!?」
フィンセントの手がピタリと止まり、その目に危険な光が宿った。
「芸術とは想像力だ」とゴーギャンは鼻で笑った。
「目に映るものをそのまま描くなら、写真機で十分だ。目を閉じろ、フィンセント。記憶の中で風景を純化し、不要なものを削ぎ落とし、平面的な色面で再構築するんだ。それが私の『綜合主義』だ。お前の絵は、うるさくて、泥臭くて、見ていて吐き気がする」
「……吐き気がする、だと?」
フィンセントが、ワナワナと震え始めた。
「君こそ、何も分かっていない! 目を閉じてしまったら、この世界に満ち溢れる『光の粒子』と『生命の脈動』はどうなる!? 太陽の熱! ミストラルの冷たさ! 大地の匂い! 私はこの現実の狂おしいほどのエネルギーに直接噛みつき、その血肉をキャンバスに定着させたいのだ!
君の絵は、頭でっかちで、まるで幼稚園児の塗り絵のようにペラペラじゃないか!」
「なんだと!? 貴様、私の芸術を侮辱する気か!!」
「君が先に侮辱したんだろうが!!」
ガチャン!!
イーゼルが蹴り飛ばされ、絵の具のチューブが壁に激突する音が、黄色い家に響き渡った。
生活のペースが整ったことで、皮肉にも二人は「芸術の方向性の違い」という、絶対に妥協できない根本的な対立に直面してしまったのである。
パッションと直感で現実に食らいつくフィンセント。
計算と知性で記憶から世界を構築するゴーギャン。
二人はまさに、水と油だった。
さらに、ゴーギャンはフィンセントの「異常なまでの執着心」にも辟易し始めていた。
「ポール! なぜ君は私と同じ風景を描かないんだ!」
「ポール! 私の選んだこの鮮やかなクローム・イエローをどう思う!? 最高だろう!」
「ポール! なぜ寝るんだ! まだ色彩論の続きが終わっていないぞ! 起きろ!!」
フィンセントは、ゴーギャンを「理想の芸術家仲間」と崇拝するあまり、24時間体制で彼に絡み、同意を求め、少しでも意見が食い違うと烈火の如く怒り狂った。
ゴーギャンにとって、それは「面倒くさい」を通り越して「恐怖」ですらあった。
そして12月。
アルルに、連日のように冷たい雨が降り始めた。
外にスケッチに出ることもできず、二人の男は狭い「黄色い家」の中に完全に閉じ込められることになった。いわゆる、最悪の『密室空間』である。
雨の音だけが響く薄暗いアトリエで、息の詰まるような沈黙と、終わりのない罵倒が繰り返された。
「……君の弟から貰っている月150フランは魅力的だが、私の神経はもう限界だ」
ある夜、ゴーギャンはテオ宛の手紙に、冷酷な一文をしたためた。
『テオ氏。あなたの兄は完全に狂っている。私はもう彼とは一緒に暮らせない。近いうちにパリへ帰るつもりだ』
数日後。パリの画廊でその手紙を受け取ったテオは、胃のあたりを激しく押さえてその場にうずくまった。
「……ウソだろ。あんなに高い金を出したのに、たった2ヶ月でクーリングオフだと……?
頼むゴーギャン、もう少しだけ、もう少しだけ耐えてくれ……!!」
しかし、テオの悲痛な祈りは届かない。
アルルでは、ゴーギャンがある「一枚の絵」を描き上げたことで、二人の関係は完全に修復不可能な決定的な破滅へと向かっていた。
「おい、フィンセント。お前を描いてやったぞ」
ゴーギャンがニヤリと笑いながら見せたキャンバス。
それは『ひまわりを描くゴッホ』というタイトルの肖像画だった。
そこに描かれていたのは、虚ろな、まるで発狂した半獣のような目をして、ひまわりに向かって機械的に筆を突き出すフィンセントの姿だった。
その絵を見た瞬間。
フィンセントの顔から、一切の表情が消え失せた。
「……確かに、これは私だ」
フィンセントは、絞り出すような低い声で言った。
「これは間違いなく私だ。……だが、完全に狂ってしまった私だ」
「フッ。芸術家とは皆、どこか狂っているものさ」
ゴーギャンは悪びれる様子もなく、ワイングラスを傾けた。
フィンセントの中で、何かが音を立てて崩れ去った。
尊敬する友に、自分は「狂人」として見下されていた。自分の命を懸けた「ひまわり」すら、ただの滑稽な道化の小道具として描かれたのだ。
「……ああ……ああああ……ッ」
外では、アルルの冷たい雨が降り続いている。
黄色い家の「理想郷」は、もはやお互いの精神を削り合うだけの、底なしの煉獄へと変貌を遂げていた。
そして、運命の12月23日が、すぐそこまで迫っていたのである。




