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ゴッホの黄色い狂騒  作者: てっぺい
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第8話 ひまわり乱舞

 1888年、夏。

 花の都パリ、ルピック通りのアパートに、つかの間の極上の平和が訪れていた。


「……ああ、空気が美味い。テレピン油の匂いがしない。床に謎の鳥の死骸も落ちていないし、朝起きて壁一面の『青い顔の兄さん』と目が合うこともない」


 テオドルス・ファン・ゴッホは、淹れたての極上コーヒーを啜りながら、ピカピカに磨き上げられたペルシャ絨毯の上で深呼吸をした。

 ポンコツにして天才の兄・フィンセントが「ここはニッポンだ!」と狂喜乱舞しながら南仏アルルへと旅立ってから数ヶ月。テオの胃潰瘍は劇的に回復し、エリート画商としての輝きを完全に取り戻していた。


 だが、テオは知らなかった。

 物理的な距離が離れても、「郵便制度」という近代の利器がある限り、兄の狂気からは逃れられないということを。


「テオ様ー! お手紙です! 今日もズッシリ重いですよー!」

 陽気な郵便配達員が、テオの部屋に「レンガほどの厚みがある封筒の束」をドサリと置いていった。


「……またか」

 テオの顔からスッと血の気が引いた。

 アルルにいる兄からの手紙は、最初は週に1通だったのが、今では「ほぼ毎日」、しかも「便箋10枚以上の長文」という恐ろしい頻度と質量で送りつけられてくるのだ。


 テオは震える手でペーパーナイフを入れ、最新の手紙を開いた。


『親愛なるテオへ!

 雪が溶けたぞ! ついに南仏の真の姿が、このニッポンのような黄金の太陽が姿を現したのだ! パリの灰色の空の下で縮こまっている君に、この圧倒的な光を見せてやりたい!

 世界は青とオレンジ、そして何より「黄色」に支配されている! 私は今、太陽そのものをキャンバスに叩きつけている気分だ!!』


「……うん、元気そうで何よりだ。で、本題はなんだ?」


 テオは芸術論のページを素早く、実に手慣れた動作で7枚ほど飛ばし、手紙の最後尾、「請求書」のコーナーへと目を走らせた。


『テオ、聞いてくれ。私はついに、芸術家たちの理想郷となる完璧な拠点を見つけたのだ! ラマルティーヌ広場にある、外壁がバターのように美しい「黄色い家」だ! 私はここを借りた!』


「家を借りた……!? 僕の仕送りで!?」


『そして、理想郷には仲間が必要だ。未来の巨匠たちが夜通し芸術を語り合うための「椅子」がいる。だから、とりあえず「クルミ材の椅子を12脚」買っておいたぞ!』


「じゅう、に、きゃく……!?」

 テオは椅子から転げ落ちそうになった。

「アルルに知り合いなんて一人もいないくせに、誰が座るんだよ12脚も!! 11人は幽霊か!?」


 だが、手紙の狂気はまだ終わっていなかった。


『もちろん、仲間が寝るためのベッドも必要だ。ガス灯も引いた。テオ、愛する弟よ。至急、大至急、300フランを送ってくれ!』


「300フランゥゥゥ!?」

 テオの悲鳴が、平和なパリの朝を切り裂いた。

 一般労働者の数ヶ月分の給料である。兄は南仏の強い日差しで、完全に金銭感覚のタガが外れてしまったらしい。


『追伸。

 私の理想郷の最初の住人として、どうしても「あの男」を呼びたい。

 そう、ポール・ゴーギャンだ。

 彼の傲慢さとペラペラの塗り絵のような技法は腹が立つが、彼には新しい芸術を切り拓く力がある。テオ、君の力で、どうかゴーギャンを説得してアルルへ送り込んでくれ! 頼む!』


「なぜだァァァ!!」

 テオは手紙を握りしめ、床を転げ回った。

「あんなにパリで絵の具を投げ合って喧嘩してたくせに! なんでわざわざあの『プライド激高の元株屋』を呼びたがるんだよ!! 一人で寂しいなら犬でも飼え!!」


 しかし、テオには分かっていた。

 兄のこの「思い込んだら一直線」のパッションは、要求が通るまで絶対に止まらない。放っておけば、「12脚の椅子に座る仲間を探しにパリへ帰る!」と言い出しかねないのだ。


「……ゴーギャンを、アルルへ叩き込むしかないのか……」

 テオは血の涙を流しながら、コートを羽織ってパリの街へと飛び出した。


 一方、その頃。

 南仏アルル、灼熱の太陽が照りつける「黄色い家」のアトリエでは、フィンセントがまさに狂気の発作のような状態で作画に没頭していた。


「ゴーギャンが来る! あの偉そうなインテリ野生児が、私の理想郷にやってくるぞ!」


 テオからの「なんとか説得してみる」という妥協の返事を受け取ったフィンセントは、有頂天になっていた。

 彼は、ゴーギャンが滞在する予定の客室を、世界で一番美しい絵画で飾り付ける決意をしたのである。


「あいつの度肝を抜いてやる! アカデミーの古典も、印象派の点描も過去にする、圧倒的な生命力! そうだ……『ひまわり』だ!! この南仏の狂おしいほどの太陽を一身に浴びて咲き誇る、黄色い炎の塊を描くんだ!」


 フィンセントは、アルルの野原からひまわりを15本刈り取ってきて、素焼きの壺に無造作に突っ込んだ。


 そして、パレットの上に「クローム・イエロー」と「カドミウム・イエロー」を、チューブから直接、歯磨き粉のようにドバドバと絞り出した。


「ハァ……ハァ……! 急がなければ! ひまわりはすぐに枯れてしまう! 時間との勝負だ!」


 彼の筆の動きは、もはや人間のそれではなく、何かに憑りつかれた修羅のようだった。

 黄色い背景に、黄色い花瓶、そして黄色いひまわり。

 普通なら色が同化してのっぺりしてしまうところを、彼は絵の具の厚みと、強烈な筆跡だけで、花びらの一枚一枚が蠢くような立体感を生み出していく。


「おおおおお!! 私は今、マルセイユ人がブイヤベースを平らげるような猛烈な勢いで描いているぞ!!」

(※ゴッホの手紙に本当に書かれていた名言である)


 朝から晩まで、食事もとらず、カンバスに向かって奇声を上げながら黄色い絵の具を塗りたくる男。

 窓の外を通りかかったアルルの住人たちは、「あの黄色い家のオランダ人は、ついに太陽の熱で頭がイカれたらしい」とヒソヒソ噂し合ったが、フィンセントの耳には入っていなかった。


「出来た……! 第1のひまわり、第2のひまわり、そして……最高傑作の、15本のひまわりだァァァ!!」


 部屋中に、絵の具の塊のような「ひまわり」の絵が並べられた。

 強烈な黄色の嵐。それは美しくもあり、同時に、見る者を圧倒するような「狂気的な執着」に満ちていた。

 あとは、この完璧な部屋に、主賓であるゴーギャンを迎え入れるだけである。


 しかし、その頃パリでは。

 テオとゴーギャンの間で、極めて世俗的でドロドロの「買収交渉」が行われていた。


「アルルへ行けだと? 冗談じゃない」

 うらぶれたカフェの席で、ポール・ゴーギャンは鼻で笑った。


 彼は現在、ブルターニュ地方のポン=タヴァンという田舎町で活動していたが、相変わらず無一文で、借金取りに追われる日々を送っていた。


「私は今、ここでの芸術活動で忙しいんだ。あの騒々しい赤髭のオランダ人と、田舎町で共同生活なんて真っ平ごめんだね」


「……いくらだ」

 テオは、一切の感情を排した目でゴーギャンを睨みつけた。


「ん?」

「いくら払えば、兄さんのところへ行ってくれるんだ。あんたが今抱えている宿代の借金、画材のツケ、全部僕が肩代わりしてやる。さらに、アルルにいる間は『毎月150フラン』の生活費を保証しよう。画廊での君の絵の独占販売権と引き換えだ」


 その言葉を聞いた瞬間、ゴーギャンの目の色が変わった。

 毎月150フラン。借金まみれの彼にとって、それは悪魔の……いや、天使の囁きだった。


「……フッ。そこまで言うなら、君の画商としての熱意に免じて、オランダ人の面倒を見てやらないこともない。私ほどの天才が南仏の光を浴びれば、さぞかし凄い絵が生まれるだろうしな」


傲慢な態度は崩さないまま、ゴーギャンはテオの差し出した「契約書」にサインをした。


「(……やった!! これで兄さんは大喜びだ! しかもゴーギャンをパリから遠ざけられる! これで本当に僕の人生に平和が……!)」

 テオは心の中でガッツポーズをした。


だが、テオは致命的な思い違いをしていた。

「純粋すぎるパッションの塊」と「計算高くエゴの塊」。この水と油の二人の天才を、南仏の狭い「黄色い家」という密室に閉じ込めることが、どれほどの爆発力を秘めているか。


 1888年10月23日。

 テオの財布から出た汽車賃で、ポール・ゴーギャンがアルル駅に降り立った。

 駅のホームでは、フィンセントがひまわりのような満面の笑みで、両手を広げて待ち構えていた。


「おお、ゴーギャン! 私の魂の兄弟よ!! よく来てくれた!!」


「フン。相変わらず騒々しい男だ。まあ、しばらくは付き合ってやるよ」


 美術史における最も有名で、最も劇的で、そして最も凄惨な結末を迎える「共同生活」が、いよいよ幕を開けようとしていたのである。

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