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ゴッホの黄色い狂騒  作者: てっぺい
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第6話 傲慢なるインテリ野生児

 パリ、ルピック通りのアパート。

 テオドルス・ファン・ゴッホの胃袋は、この半年間で完全に「鋼の錬金術」を経て、ちょっとやそっとのストレスでは穴が開かないレベルにまで進化していた。


 兄フィンセントによる「部屋の左半分・極彩色化テロ」にも慣れ、強烈なテレピン油の匂いも「パリの最先端のフレグランスだ」と脳に自己暗示をかけることで、なんとかエリート画商としての理性を保っていたのである。


 しかし、運命はテオに安息を許さなかった。

 その日の夕方、テオが画廊から帰宅し、アパートの扉を開けると——


「……おい、オランダ人。お前、絵の具の無駄遣いにもほどがあるぞ。そんなに厚塗りしたら、乾く前にキャンバスが重みで床に沈むだろうが」


「黙れ! 私の情熱は、1ミリの厚さでは収まりきらないのだ! キャンバスが沈むなら、床ごと芸術にしてやる!」


 聞き慣れた兄の怒鳴り声に混じって、もう一つ。

 ひどく傲慢で、鼻持ちならない、それでいて妙に自信に満ち溢れたバリトンボイスが部屋に響いていた。


「……兄さん。また変な浮浪者を拾ってきたのか?」

 テオが呆れ果ててリビングに入ると、そこには見慣れない男が、テオのソファにふんぞり返っていた。


彫りの深い顔立ち、ワシのような鋭い鼻、そして頭には謎の「ブルターニュ風のベレー帽」。服装はボヘミアンのようだが、どこか計算された「インテリの野生児」という胡散臭いオーラを放っている。

 何より許せないのは、彼がテオの秘蔵の高級コニャックを、勝手にグラスになみなみと注いでくつろいでいることだった。


「おや。君が噂の弟君か。エリート画商にして、この狂ったオランダ人の『お財布』殿だな」

 男は立ち上がりもせず、グラスを片手にニヤリと笑った。


「失礼な! 僕はテオドルス・ファン・ゴッホだ。あなたは一体……」


「ポール・ゴーギャンだ。未来の美術史の中心に立つ男さ」

 男——ゴーギャンは、悪びれる様子もなくコニャックをあおった。


「テオ! 紹介するぞ! 彼は天才だ!」

 絵の具まみれのフィンセントが、興奮冷めやらぬ様子でテオの肩をバシバシと叩いた。

「今日、行きつけの画材屋で知り合ったんだ! 彼は元・株式仲買人で、大金持ちだったのに、すべてを捨てて画家に転向したんだぞ! まさに芸術の殉教者だ!」


「元・株式仲買人?」

 テオの頭の中に、ピコーンと危険信号が鳴り響いた。


「ええっと……ゴーギャンさん。すべてを捨てて、というのは?」


「文字通りさ。安定した収入も、パリの豪邸も、妻も、5人の子供たちも、すべて捨ててきた。芸術という至高の目的の前では、家庭などというものは凡人の足枷に過ぎないからな」


 ゴーギャンは、とんでもないクズ発言を、まるで「世界平和に貢献しました」くらいのドヤ顔で言い放った。


(……やばい。兄さんとは別のベクトルで、人間として完全に終わっているタイプだ……!)


 テオは即座に悟った。兄フィンセントは「悪気のないクズ」だが、この男は「計算高いクズ」である。


「で、そんな未来の巨匠殿が、なぜ僕の部屋で僕の酒を飲んでいるんですか?」

 テオが冷たく問い詰めると、ゴーギャンは肩をすくめた。


「金がないからだ。凡人の足枷を捨てたら、財布の中身も一緒に消え失せてね。今はその辺の安宿を転々としている。だが安心しろ、弟君。私ほどの天才が君の画廊で絵を売ってやれば、このコニャックの100倍の利益をもたらしてやる」


「……」

 テオは、無言でフィンセントを見た。

「兄さん。まさかとは思うが、この男をこの部屋に住まわせるつもりじゃないだろうな」


「おお! さすがテオ、話が早い! 今日から彼には、私の『左半分の領地』のさらに半分を貸し与えることにした! 共に芸術を語り合い、切磋琢磨するのだ! パリに新たな『芸術家の共同スタジオ』が誕生する瞬間だぞ!」


「僕の家だァァァァァ!! 勝手に領土を分譲するなァァァ!!」

 テオの悲鳴がパリの夜空に響き渡った。


 ついに、テオの極小アパートに、「情熱暴走型クズ」と「計算高い傲慢クズ」という、美術史最強の厄介者コンビが同居することになってしまったのである。


——翌日から、テオの部屋は完全に「思想の戦場」と化した。


「おい、フィンセント! お前はなぜ目の前にある『腐ったキャベツ』をそのまま描こうとする!? 芸術とは想像力だ! 記憶の中で純化され、再構築された形こそが真実なんだ! 目を閉じろ! そして心の中のキャベツを描け!」

 ゴーギャンが、偉そうにステッキでキャンバスを叩きながら説教をする。彼のキャンバスには、平面的で、輪郭線がくっきりとした、どこか宗教画のようなキャベツが描かれている。


「馬鹿を言うなゴーギャン! 目を閉じたら光が見えないだろうが!!」

 フィンセントは顔を真っ赤にして反論した。

「このキャベツの葉脈に宿る、圧倒的な生命の終わり! 腐りゆくからこそ放つ、強烈な茶色と緑のグラデーション! 私は現実に噛み付いて、その血と肉をカンバスに叩きつけたいのだ!」


「野蛮人め! そんなに絵の具を塗りたくったら、ただの『絵の具の泥遊び』だ! お前の絵はうるさくて仕方ない!」


「なんだと!? 君の絵こそ、薄っぺらくてまるで『塗り絵』じゃないか! 色が死んでいるぞ!」


「塗り絵だと……!? 私の『綜合主義クロワゾニスム』を侮辱するかこの赤髭!!」

「やるかこの元・株屋!!」


「やめろォォォォ!! 僕の部屋で絵の具を投げ合うなァァァ!!」

 帰宅したテオが、宙を舞う「クローム・イエロー」と「プルシアン・ブルー」のチューブを顔面で受け止めながら絶叫した。


 この二人の相性は、控えめに言って「最悪」だった。

 直感とパッションで現実を切り取るフィンセントと、知性と想像力で画面を構成するゴーギャン。芸術に対するアプローチが水と油なのだ。


 しかし、ゴーギャンがテオの部屋から出て行かないのには、明確な理由があった。

 テオが「飯を食わせてくれるから」である。


 ある夜、いつものようにモンマルトルのキャバレー『ル・タンブラン』に繰り出した三人。

 女主人アゴスティーナは、新顔のゴーギャンを見るなり、氷のように冷たい視線を向けた。


「あら。フィンセント、また変な野良猫を拾ってきたの? 今度は随分と偉そうな野良猫ね」


「マダム、美しい人だ。私はポール・ゴーギャン。私の絵を一枚店に飾れば、客は今の3倍に増えるだろう」

 ゴーギャンはキザな笑みを浮かべ、アゴスティーナの手の甲にキスをしようとした。


 バシッ!!

 アゴスティーナは布巾でゴーギャンの手を容赦なく叩き落とした。


「お生憎様。うちの店は、フィンセントの『変だけどなんか元気が出るヒマワリの絵』で間に合ってるのよ。あんたみたいな『頭でっかちでプライドだけ高い無一文』は、注文の前に財布の中身を見せなさい」


「なっ……! 貴様、私を誰だと……!」

 プライドをへし折られたゴーギャンが立ち上がろうとした瞬間、フィンセントが割って入った。


「待ってくれアゴスティーナ! 彼は凄いんだ! 性格は最悪で、絵は塗り絵みたいにペラペラだが、彼の中には間違いなく『新しい芸術の形』がある! だから、今日の彼のアブサン代は、私が払う!」


「えっ」テオが嫌な予感に顔を引きつらせた。


「テオ! 財布を出せ!」

 フィンセントが、当たり前のように弟に手を差し出した。


「なんで僕なんだよ!! 兄さんが払うって言ったじゃないか!!」

「私は『払う意志がある』と言っただけだ! 現実的な支払いはお前がやれ! それがパトロンの役目だろう!」


「そうだぞ弟君。未来の巨匠二人に投資できるなんて、君は世界一幸運な画商だ」

 ゴーギャンまでが、ちゃっかりとテオの肩を抱いて便乗してきた。


「お前ら……本当に、本当に地獄に落ちろ……ッ!」


 テオは血の涙を流しながら、二人の寄生虫の飲み代を精算した。


 この日、テオの胃には、ついに「もう一つの新しい潰瘍」が誕生したという。


 しかし、このゴーギャンという劇薬との出会いが、フィンセントの「色彩への執着」をさらに狂気的なレベルへと引き上げていくことになる。


 二人の天才の激突は、やがてパリという街の枠を超え、輝く太陽と狂気の地、「南仏アルル」への逃避行へと繋がっていくのである。

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