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ゴッホの黄色い狂騒  作者: てっぺい
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第5話 鏡の中の狂気

 パリ、ルピック通りのアパート。

 テオドルス・ファン・ゴッホが床に引いた「赤いビニールテープ(絶対不可侵条約線)」は、物理的には見事に守られていた。兄フィンセントは、約束通り自分の「左半分の領地」から一歩もはみ出すことなく、大人しく生活しているように見えた。


 しかし、テオは重大な事実を見落としていた。

 物理的な侵略は防げても、「視覚的な侵略」は防げないということを。


「……う、ううん……」

 ある朝、テオが高級な羽根布団の中で目を覚まし、ふと左側の壁を見た瞬間のことである。


「ヒッ……!!?」


 テオは声にならない悲鳴を上げ、布団を頭まで被った。

 壁という壁が、「フィンセントの顔」で埋め尽くされていたのである。


 カンバス、板切れ、段ボール。あらゆる素材の上に描かれた、およそ20個の自画像が、部屋の左半分からテオの寝顔をギョロリと一斉に見下ろしていた。

 ある顔は毒々しい緑色に塗られ、ある顔は青とオレンジの斑点で覆われ、ある顔は麦わら帽子を被ってこちらを威嚇している。まるで、赤髭の妖怪が大量発生したホーンテッドマンションである。


「テオ! 起きたか! おはよう!」


 その妖怪のオリジナルは、部屋の隅に置かれた「安物の小さな鏡」を血走った目で見つめながら、猛烈なスピードで21個目の自分を描いていた。


「に、兄さん……! なんだその絵の数は! 部屋中がお前の顔だらけじゃないか! 呪われる夢を見るからやめてくれ!」


「失礼な! これは『色彩の実験』だ!」

 フィンセントは絵筆を振り回し、鏡に映る自分の顔を指差した。


「テオ、君が『モデル代は一切出さない、酒場にも行くな』とケチなことを言うから、私は考えたのだ。この世で最も安上がりで、文句一つ言わず、何時間でもポーズを取り続ける最高のモデルは誰か? ……そう! 私自身だ!!」


 フィンセントは胸を張り、ドヤ顔で言い放った。

 史実において、彼がパリ時代に異常な数の自画像を描いたのは「ナルシストだったから」ではない。単純に「モデルを雇う金がなかったから、鏡を見て自分を描くしかなかった」という、極めて現実的で涙ぐましい理由からである。


「最高のモデルなのは結構だが、なぜ顔を緑色や青色で塗るんだ!? まるでセーヌ川に一週間浮かんでいた水死体じゃないか!」


「ばっ、馬鹿者! これが最先端の『点描画法』と『補色』の理論だ!」

 フィンセントはテオのベッドまでずんずんと歩み寄り、赤いテープのギリギリ手前で止まって、自画像を突きつけた。


「私の髭は赤とオレンジだ。その色を最も強烈に発光させるためには、背景や肌の影に、反対色である『青』や『緑』を置かなければならない! 見ろ、この顔に無数に打たれた色の点を! 網膜の上で色が混ざり合い、私の顔は今、宇宙のように振動している!!」


「振動してるのは僕の胃袋だ!! 頼むからその不気味な顔をこっちに向けないでくれ!!」


 テオは泣き叫びながらスーツに着替え、逃げるようにアパートを飛び出した。

 職場であるグーピル商会に着いても、書類の束がすべて「青と緑の斑点を持つ兄の顔」に見えるという深刻なフラッシュバックに悩まされ、テオの神経はすり減っていく一方だった。


 一方その頃、テオが不在の昼下がり。

 フィンセントは、自画像のカンバスを数枚小脇に抱え、意気揚々とモンマルトルの坂を下っていた。向かう先は、彼が「色彩の女神」と崇めるアゴスティーナ・セガトーリが経営するキャバレー『ル・タンブラン』である。


 カラン、とベルを鳴らして店に入ると、昼間の客がまばらな店内で、アゴスティーナがグラスを磨いていた。


「アゴスティーナ! 私の美しい女神よ! 今日も君の瞳は深いオリーブ色に輝いているな!」


「あら、赤髭のムッシュ。今日は弟さんは一緒じゃないの?」

 アゴスティーナは呆れたような、それでいてどこか面白がるような視線を向けた。


「今日はテオはいらん! 私自身の力で、君の店で食事と……あわよくば君の愛を勝ち取りに来たのだ!」


 フィンセントはドンッ! とテーブルの上に、持参したカンバスを叩きつけた。

 それは、今朝テオを恐怖のどん底に陥れた「青と緑の斑点で描かれた自画像」の数々である。


「見ろ! この圧倒的な魂の躍動を! 私の愛のパッションを! アゴスティーナ、これを君の店に飾ってくれ! そして、その対価として、私にガーリックたっぷりのパスタと、とびきりのアブサンを飲ませてくれないか!」


 要するに「絵でメシを食わせろ」の要求である。

 アゴスティーナは、テーブルの上の「水死体のようなフィンセントの自画像」を冷ややかな目で見下ろした。


「……ねえ、ムッシュ・ゴッホ」

「なんだい、私の愛しい人よ」

「こんな不気味でしかめっ面の男の顔が壁にズラリと並んでいたら、お客の食欲が失せると思わない?」


「なっ……!?」

 フィンセントは雷に打たれたような顔をした。

「ふ、不気味だと!? これは最先端の印象派を超える光の表現で……!」


「光だろうが何だろうが、飲食店には『華』が必要なのよ」

 アゴスティーナは布巾でテーブルを拭きながら、バッサリと切り捨てた。

「あんたの絵の具の使い方が面白いのは認めるわ。厚塗りで、色が爆発してるみたいでね。でも、モチーフが最悪。自分のおっさん顔じゃなくて、もっと綺麗で、お客が喜ぶものを描きなさいよ。たとえば……『花』とかね」


「花……?」


「そう。薔薇とか、アイリスとか、ひまわりとか。それを描いて持ってきたら、パスタでもシチューでも、好きなものを食べさせてあげるわ。どう? 悪くない取引でしょ?」


 したたかな女主人からの、極めて現実的な提案。

 フィンセントの芸術家としてのプライドが「妥協するな!」と叫んだが、それよりも先に、三日間パンの耳しか食べていない彼の胃袋が「ギュルルルル!!」と凄まじい轟音を鳴らした。


「……契約成立だ、マダム」

 フィンセントは真顔で頷いた。

「花だな。よーし、世界で一番生命力に溢れた、凶暴なまでの花を描いてやる!!」


 それから数日後。

 残業を終え、心身ともにボロボロになったテオが、ふと『ル・タンブラン』の前を通りかかった時のことである。


「……ん? なんだあれは」


 テオは目を疑った。

 少し前まで薄暗く怪しげだったキャバレーの窓辺や壁一面が、色鮮やかな「花の静物画」で埋め尽くされていたのである。

 燃え盛るような赤と黄色の薔薇、深い青のアイリス。どれも、尋常ではない絵の具の厚みで描かれ、まるでカンバスから花が飛び出してきそうな強烈なエネルギーを放っている。


 恐る恐る店内を覗き込むと、一番奥の特等席で、フィンセントが山盛りのガーリックパスタを頬張りながら、アゴスティーナに愛の詩を朗読していた。


「おお、テオ! 見ろ、私の絵がこの店を占拠したぞ!」

 弟の姿に気づいたフィンセントが、パスタを口の周りにつけたまま満面の笑みで手を振った。


「兄さん……。そのパスタ代は、まさか……」

「ああ! 私の描いた『花』と交換だ! アゴスティーナは私の芸術の最大の理解者だ! 私はここで、絵を描きながら永遠にメシが食える永久機関を完成させたのだ!! ガハハハ!」


 カウンターの奥で、アゴスティーナがテオに向かって「あんたの兄さん、扱いやすくて助かるわ」とばかりにウィンクをした。


 実際、フィンセントの極彩色の花の絵は客の間でも「変な絵だが、妙に引き込まれる」と評判になり、店の売上にもわずかに貢献していたのである。(※史実でも、ゴッホはこの時期に花の静物画を大量に描き、色彩の実験を急速に進めました)


「……」

 テオはその場で膝から崩れ落ちた。


 兄は、パリという冷酷な資本主義の街において、現金を介さずに、己の「異常なまでの絵の具の厚塗り」だけで経済圏を確立してしまったのだ。

 原始時代の物々交換を、19世紀のパリの中心でやってのける、この生命力。


「……もう、どうにでもなれ……」

 テオは空の胃薬の瓶を握りしめ、パスタをすする兄の姿を虚ろな目で見つめ続けた。


 かくして、パリの最先端の色彩理論と、アブサン、そしてガーリックパスタで栄養を得たフィンセントの才能は、テオの想像を絶する速度で「化け物」へと進化していく。


 しかし、平和な物々交換の日々は長くは続かない。


 パリ特有の灰色の冬の到来と、血の気の多い他の画家たちとの出会いが、ゴッホ兄弟の生活に、かつてない最大級の嵐を巻き起こそうとしていたのである。


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