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ゴッホの黄色い狂騒  作者: てっぺい
11/11

最終話 渦巻く星月夜

 1889年5月。

 耳切り事件という美術史に残る大惨事を経て、フィンセント・ファン・ゴッホは、自らの意志で南仏サン=レミの精神療養院へと入所した。


 パリのグーピル商会でその報せを受けたテオドルス・ファン・ゴッホは、ようやく手に入れた妻のヨー(ヨハンナ)の淹れたハーブティーを飲みながら、安堵の涙を流していた。


「……よかった。本当に、よかった。これでついに、兄さんは専門家(医者)の管理下に置かれた。規則正しい生活、静かな環境。奇行に走ることもない。僕の胃潰瘍も、これでついに完治する……!」


 テオは、神に感謝した。

 しかし、彼は根本的なことを忘れていた。「天才」という名のバグは、鉄格子や病院のルール程度で大人しくなるようなものではないということを。


 療養院からの最初の報告書と請求書を見たテオのハーブティーは、見事に気管へと吸い込まれた。


「ブブーッ!! ゲホッ、ゴホッ! ……な、なんだこれは!?」

 テオの目の前にあるのは、療養院の院長からの手紙だった。


『親愛なるテオ氏へ。

 あなたのお兄様ですが、驚異的な回復力を見せております。……が、少々困ったことがあります。彼は「庭の景色を描く」と言って外に出た途端、猛烈な勢いでカンバスに絵の具を叩きつけ、興奮のあまりチューブから直接絵の具をすすろうとします。

 我々は彼の絵の具を取り上げるべきでしょうか?

 追伸:彼が「キャンバスが足りない! 弟に請求書を送れ!」と叫んで暴れるので、至急新しい画材セットと、今月の療養費を送ってください』


「なんで病院で絵の具食ってだよォォォ!!」

 テオの絶叫が、新婚の甘いアパートに虚しく響き渡った。


 そして数日後、サン=レミから「リハビリとして描いた絵」が木箱に入れられて送られてきた。

 テオが震える手で蓋を開けると、そこには、美術の常識を根底から覆す「化け物」が鎮座していた。


——『星月夜《The Starry Night》』である。


「…………にいさん」

 テオは、その絵を見て完全に言葉を失った。


 夜空であるはずなのに、黒が一切使われていない。深い群青色と鮮やかな水色が、巨大な渦を巻いて空をうねっている。星々は黄色い爆発を起こしたように輝き、大地からは漆黒の糸杉が、まるで炎のように天に向かってうねり上がっている。


「……なんだ、この絵は」

 テオは画商としての冷静な目で分析しようとした。


 だが、無理だった。これは印象派の光でも、ゴーギャンのような計算された平面でもない。フィンセントの狂気に満ちた脳内世界そのものが、暴力的なまでのエネルギーを持ってキャンバスに定着しているのだ。


「ダメだ……。こんな絵、今のパリの市場じゃ絶対に売れない。完全に狂人の幻覚じゃないか……ッ!」

 テオは頭を抱えた。しかし、絵から放たれる圧倒的な「何か」から、どうしても目を逸らすことができなかった。売れないと分かっているのに、魂が惹きつけられてしまう。


「……チクショウ。また請求書通りに送金するしかないじゃないか……」

 テオのパトロンとしての呪縛は、一生解けない運命だった。


 1890年5月。

 療養院を退院したフィンセントは、テオの計らいで、パリ近郊の穏やかな村「オーヴェール=シュル=オワーズ」へと移り住んだ。


 ここには、芸術家に理解のある精神科医、ポール・ガシェ医師がいる。テオは「彼なら兄の暴走を止めてくれるはずだ」と一縷の望みを託した。


 しかし、テオがオーヴェールに様子を見に行くと、そこには予想の斜め上を行く地獄が広がっていた。


「おお、テオ! ガシェ先生は最高だ! 彼は私の芸術の最高の理解者だぞ!」


 フィンセントが満面の笑みで出迎えた。

 その隣で、ガシェ医師が深ぁぁぁい溜め息をつきながら、テーブルに突っ伏していた。


「……ああ……世界はなんと悲しいのだろう……芸術も、人生も、すべては虚無だ……」

 ガシェ医師は、重度の「憂鬱症メランコリー」を患っていた。


「医者が落ち込んでどうするんだァァァ!!」

 テオはガシェの胸ぐらを掴んで揺さぶった。


「兄さんの精神のケアを頼んだのに、なんであんたの方が暗い顔で兄さんに慰められてるんだ! 逆だろ!!」


「テオ、怒るな。ガシェ先生のこの憂鬱な顔は、最高のモデルになるんだ。見ろ、この肖像画を!」

 フィンセントが見せた『ガシェ医師の肖像』は、青い背景の中で、医者がこの世の終わりみたいな顔をして頬杖をついている、見事なまでに暗い傑作だった。


「もうダメだ……この村にはツッコミ役が僕しかいない……」

 テオは完全に悟った。兄は、もう誰にも止められない。


 実際、オーヴェールでのフィンセントの創作意欲は「異常」の域に達していた。

 なんと彼は、この村での約70日間の滞在中に、70枚以上の油絵を描き上げたのである。1日1枚のペースで、文字通り命を削ってキャンバスに絵の具を叩きつけ続けた。


 麦畑、教会、カラス。

 彼の目に見える世界は、日に日にうねりを増し、色彩は狂暴になっていった。

 そして同時に、彼の心の中にある「弟への罪悪感」も限界まで膨れ上がっていた。


「テオには妻子ができた。テオは病気がちだ。それなのに私は、1枚も絵が売れないまま、弟の金を食い潰している。私がいる限り、テオは幸せになれない……」


 天才のパッションと、狂気、そして極端すぎる兄弟愛。

 そのすべてが臨界点に達した1890年7月27日。


 黄金色に輝く、巨大な麦畑のど真ん中で。

 フィンセントは、誰から手に入れたとも知れない古いリボルバーを、自らの腹部に向けた。


「……テオ。これが、私の最後の光だ」


 パーンッ、と。

 乾いた銃声が、カラスの群れを空へと追いやった。


 しかし、ここでも彼はポンコツだった。

 心臓を狙ったはずの弾丸は急所を外れ、腹部の奇妙な位置に留まってしまったのだ。


「……い、痛い……! すっごく痛いぞ!!」

 フィンセントは腹を押さえ、血を流しながら、なんと自力で数キロ先の宿屋までトボトボと歩いて帰ったのである。


「すまん、親父さん。ちょっと自分で撃ち損ねた。ベッドを汚して悪いが、寝かせてくれ……」

 宿屋の主人は腰を抜かし、大慌てでパリのテオに電報を打った。


 翌日。

 血相を変えてオーヴェールに駆けつけたテオが、屋根裏部屋の薄暗いベッドに飛び込んできた。


「にいさん!! 兄さァァァん!!」

 テオは、ベッドで青白い顔をしている兄の手を力強く握りしめた。


「……おお、テオ。すまないな、仕事が忙しいのに。また君に迷惑をかけてしまった」

 フィンセントは、痛みに耐えながらも、ふにゃりと笑った。


「バカなことを言うな! なんで撃ったんだ! お前は天才なんだぞ! これからもっと描く絵があっただろう!!」


「……テオ。もういいんだ」

 フィンセントは、静かに弟の目を見た。その目には、パリで絵の具を投げ合っていた頃の狂気はなく、ただ静かで、澄み切った青空のような光が宿っていた。


「私の絵は、いつか必ず、私の命以上の価値を持つ。……だから、悲しまないでくれ。La tristesse durera toujours(悲しみは、永遠に続く)……だが、光もまた、永遠だ」


「兄さん……!」

「テオ。最後に一つだけ、頼みがある」


「なんだ! なんだって聞く! 最高級のクローム・イエローか!? キャンバスか!?」


「……今月の絵の具代のツケ、画材屋のタンギー爺さんに払っておいてくれ……」


「最後まで金の話かァァァァァ!!!」

 テオの涙声のツッコミが、屋根裏部屋に響き渡った。

 フィンセントは「ガハハハ」と楽しそうに笑おうとして、ゲホッと咳き込み、そのまま静かに、永遠の眠りについた。


 享年37歳。

 売れた絵は生前たった1枚。残した借金と請求書は星の数。


 美術史において最も不器用で、最も迷惑で、最も純粋なポンコツ天才画家は、パトロンであり最愛の弟であるテオの腕の中で、その嵐のような生涯を閉じたのである。


*    *    *


 兄の死後。

 テオドルス・ファン・ゴッホの精神と肉体は、文字通り「糸が切れたように」崩壊した。

 生涯のすべてを懸けて支え続けた巨大な星を失った彼は、後を追うように急激に衰弱し、兄の死からわずか半年後、33歳の若さでこの世を去った。


 後に残されたのは、テオの若き妻ヨーと、生まれたばかりの赤ん坊。


 そして、アパートを埋め尽くす「世間からは無価値の狂人の落書き」と見なされていた、数百枚の油絵の山だった。


「……テオ。あなたの人生を狂わせたお義兄さんの絵……絶対に、無駄にはしないわ」


 ここからが、美術史最大の逆転劇である。

 テオの妻ヨーは、画商の妻として培った人脈と、持ち前の凄まじい「商才」をフル稼働させた。


 彼女は兄フィンセントの手紙を整理し、展覧会を企画し、「狂気の天才画家とその弟の悲劇」というストーリーを見事にブランディングして、ヨーロッパ中の美術市場にゴッホの絵を売り込んだのだ。


「さあ! お義兄さんの『ひまわり』! 今なら特別価格よ! そこのゴーギャンさん! あんたも宣伝に協力しなさいよ!!」


 彼女の執念のプロモーションにより、フィンセントの絵の価値は瞬く間に暴騰。

 彼が命とテオの胃袋を削ってカンバスに叩きつけた「クローム・イエロー」は、数十年の時を経て、数十億円、数百億円という天文学的な価値を生み出すこととなる。


 パリの空の下、あるいはオーヴェールの麦畑の風の中で。

 天国で再会した二人の兄弟は、今の自分たちの絵の値段を見て、きっとこう言っているに違いない。


『見たかテオ! 私のパッションは世界を制したぞ! これで画材屋のツケは全部払えるな!』


『馬鹿野郎! お前が生きている時にその値段で売れていれば、僕の胃に穴が開くこともなかったんだァァァ!!!』


 ——永遠の光と、永遠の請求書。

 ゴッホ兄弟の騒がしくも美しい愛の物語は、彼らのキャンバスの中で、今も強烈な色彩を放って生き続けている。


fin

『ゴッホの黄色い狂騒』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。


今回は「高尚な芸術」を「弟の胃袋崩壊・超迷惑同居コメディ」にしてみましたが、いかがだったでしょうか? ポンコツだけど絵筆を握ると圧倒的な光を放つ男と、文句を言いつつも最後まで見捨てられなかった不憫な弟の愛の物語、楽しんでいただけたなら嬉しいです。


さて、本作を読んで「どこまでが史実で、どこからが作者の妄想なの?」と疑問に思った方も多いはず。ここで少しだけ解説と、作中に登場した名画たちの紹介をさせてください!


【本当の話】


請求書と金の無心: これ、ガチです。ゴッホが残した手紙の大部分はテオ宛てで、ほぼ毎回「絵の具が足りない」「キャンバスが要る」「至急お金を送れ」という要求が書かれていました。テオはまさに生涯の「お財布パトロン」でした。


絵の具を食べる狂気: 最終話で療養院の院長が悲鳴を上げていましたが、史実でも発作が起きると絵の具をチューブから直接吸ったり、テレピン油を飲もうとしたりする危険な行動をとっていました。


耳のプレゼントと闘牛の逸話: 耳を切り落として馴染みの娼婦レイチェルに渡したのは事実です。第10話で描いた「闘牛の敗れた牛の耳」という思考回路は、彼の狂気を紐解く上で現在も有力な学説の一つとして語られています。


【実はフィクションの話……だけど?】


赤いビニールテープの不可侵条約: パリのアパートでテオが赤いテープを引いたのは現代的なコメディ演出です。しかし、兄の傍若無人な振る舞いにテオが完全にノイローゼ気味になり、「もう一緒に住めないかも……」と妹宛ての手紙でガチの愚痴をこぼしていたのは本当の話です。


「日本=アルル」の強引なプレゼン: 作中ではテオが嘘をついてアルルへ行かせたことにしましたが、実際はゴッホ本人が浮世絵にドハマりし、「南仏の光は日本と同じに違いない!」と勝手に思い込んで旅立ちました。大雪を見て「まるで雪の蒲原だ!」と喜んだのも彼自身のポジティブ(?)な勘違いです。


【作中に登場した絵画たち】


本作の裏の主役とも言える、テオの胃を削って生み出された「絵の具の化け物」たちをご紹介します! ぜひ検索して、実際の絵の具の厚みを確認してみてください。


『古びた靴』: 第1話でテオを絶句させた一枚。ただの泥だらけの労働者の靴から、生々しい人生の重みを描き出しました。


『自画像』の数々: 第5話でテオの部屋を埋め尽くした青や緑の顔。モデルを雇う金がなかったため、安い鏡を買って色彩実験の被写体にしていました。「点描」の跡がよくわかります。


『ひまわり』: 第8話でゴーギャンを迎えるために狂ったような執念で描き上げた黄色い炎。彼にとって「ひまわり=感謝と友情の象徴」でした。


ポール・ゴーギャン作『ひまわりを描くゴッホ』: 第9話で二人の破滅を決定づけた一枚。「確かに私だが、狂ってしまった私だ」とショックを受けたエピソードは有名です。


『星月夜(The Starry Night)』: 最終話、精神療養院の鉄格子越しに見えた景色から生まれた一枚。黒を使わず、うねるような群青色と黄色で描かれた夜空は、彼の最高傑作の一つとされています。


『ガシェ医師の肖像』: オーヴェールで出会った憂鬱な精神科医を、そのまま憂鬱そうに描いた傑作。後に日本の実業家が当時の史上最高額(約125億円)で落札したことでも知られています。


それでは、また次の「黄色」が輝くキャンバスの前でお会いしましょう!


てっぺい

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