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ゴッホの黄色い狂騒  作者: てっぺい
10/11

第10話 沈黙のための生贄

 1888年12月23日。

 南仏アルルは、数日前から続く陰鬱な氷雨に見舞われていた。

 太陽の光を失い、冷たい泥水に沈んだ街の中で、「黄色い家」だけが異様な熱を孕んで孤立していた。


 アトリエの空気は、もはや呼吸するのすら困難なほどに毒されていた。

 キャンバスの前に座るフィンセントの背中は異常に丸まり、目は充血し、爪を噛みながらブツブツと誰にともなく恨み言を呟き続けている。


「……ポール。君は本当に、パリへ帰るのか?」


 部屋の隅で、無言でトランクに衣服を詰め込んでいるゴーギャンの背中に向かって、フィンセントが亡霊のような声で尋ねた。


「ああ、帰る。もう限界だ。これ以上君と一緒にいたら、私の芸術まで泥にまみれてしまうからな」


 ゴーギャンは振り返りもせず、冷酷に言い放った。

「君の『芸術家の理想郷』とやらは、完全なる失敗だった。それだけのことだ。私は一人で、より高尚な芸術を追求する」


 パタン、と。

 トランクの留め金が閉じられる音が、フィンセントの頭蓋骨の中で、雷のように響いた。


「失敗……。私の、光が……。私がテオの金を使い込んでまで用意した、12脚の椅子が……」


 フィンセントの視界が、どす黒く歪んでいく。

 彼にとって、ゴーギャンに去られることは、単なるルームシェアの解消ではない。「己の芸術、己の存在そのものを完全に否定され、世界から見捨てられること」を意味していた。


 だが、彼を決定的な崩壊へと追いやったのは、ゴーギャンの言葉だけではなかった。

 その日の朝、パリのテオから届いた一通の手紙。そこに書かれていた内容が、フィンセントの精神の「最後の命綱」を鋭利な刃物で断ち切っていたのだ。


『親愛なる兄さん。ついに報告できる日が来たよ。僕は、ヨー(ヨハンナ)と婚約したんだ。春には結婚する。これからは彼女と共に、温かい家庭を築いていくよ』


 普通なら、愛する弟の慶事である。手放しで喜ぶべきことだ。

 しかし、極限の孤独と狂気の中にいたフィンセントの脳髄は、その手紙を全く別の「死の宣告」として変換してしまっていた。


(テオが、結婚する……? 家族を持つ……?)


(ならば、私はどうなる? 私はただでさえ、毎月毎月、弟の稼ぎに寄生して生きているだけの無価値な男だ。テオに家庭ができれば、私という「金食い虫の狂人」は、邪魔なだけの重荷になる……)


 ゴーギャンが去り、テオも去る。

 誰からも理解されず、誰の役にも立たず、ただ絵の具を浪費してカンバスを汚すだけのバケモノ。それが、今の自分なのだ。


 その日の夕方。

 たまらなくなったゴーギャンが、息抜きのために一人で雨のアルルの街へと散歩に出た時のことである。


 カツン……カツン……。

 背後から、不規則な足音がついてくる。


 ゴーギャンが訝しげに振り返ると、そこには、雨に濡れそぼり、うつむき加減で歩くフィンセントの姿があった。


 そして、フィンセントの右の手には、ギラリと鈍く光る「剃刀かみそり」が握りしめられていた。


「ヒッ……!?」

 ゴーギャンの心臓が跳ね上がった。

「お、お前……何をする気だ……!!」


 フィンセントは無言のまま、血走った目でゴーギャンを睨みつけた。

 その刃先が誰に向けられていたのか、フィンセント自身にも分かっていなかった。ゴーギャンを切り裂いて引き留めたかったのか、それとも、彼の目の前で自分の喉を掻き切って永遠のトラウマを植え付けたかったのか。


 刃物を向けられた恐怖と、自分より一回り大きなフィンセントの狂気を前に、ゴーギャンは咄嗟に「威圧」することを選んだ。彼はステッキを構え、フィンセントの目を射抜くように、冷たく、ただジッと睨み返したのである。


「……ッ」

 その氷のように冷たい、完全に「狂人を見る目」を前にして、フィンセントはハッと我に返った。自分がどれほど浅ましく、恐ろしい化け物に成り果てているかを悟ったのだ。


 彼は何も言わずにクルリと背を向けて、黄色い家の方へと走り去っていった。

「……あ、危ないところだった。あいつ、完全に頭がイカれやがった……!」

 ゴーギャンは冷や汗を拭い、黄色い家には戻らず、そのまま近くのホテルへと逃げ込んだ。


 一方。

 一人で黄色い家に逃げ帰ったフィンセントは、極限のパニックと絶望の底で、洗面台の鏡の前に立っていた。


「私は……私は何をやっているんだ……! 友を傷つけようとするなど……!!」

 

 鏡に映る自分の顔。

 それは以前、ゴーギャンが『ひまわりを描くゴッホ』として描いた顔と全く同じだった。落ち窪んだ目、薄汚れた髭、正気を失った獣の顔。


「私は狂っている。テオの重荷だ。ポールの邪魔者だ。私は……生きている価値のない、醜いバケモノだ……」


 その時だった。

 静まり返った黄色い家の中で、突然「声」が聞こえ始めたのだ。


『野蛮人め。お前の絵はただの絵の具の泥遊びだ』


『テオの寄生虫。お前がいなければ、弟はもっと幸せになれる』


『役立たず。狂人。消えろ。消えろ!』


 それはゴーギャンの声であり、世間の声であり、他でもないフィンセント自身の内なる声だった。


 幻聴である。長年のアブサンの過剰摂取と、極度のストレス、そして生来の精神の脆さが引き起こした、脳の致命的なエラー。


「や、やめろ……! 黙れ!!」

 フィンセントは両手で耳を塞いだ。しかし、声は外からではなく、頭の奥底から直接響いてくる。キーンという耳鳴りと共に、無数の罵詈雑言が嵐のように吹き荒れる。


「うるさい……! 私を責めるな! 私だって、光を描きたかっただけなのに……! ああ、音が……声が、頭を割るように響く……!!」


 恐怖と混乱の中、フィンセントの脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。

 それは、ここアルルの円形闘技場で見た「闘牛」の光景だった。


 太陽の下、血まみれになって敗れ去った猛牛。

 闘牛士マタドールは、その敗北した牛の「耳」を剣で切り落とし、勝利の証として、観客席にいる美しい女性へと捧げるのだ。


 狂気に侵されたフィンセントの脳髄が、恐るべき「論理」を弾き出した。


(そうか……。私は、敗れた牛なのだ)


(テオの愛を失い、ゴーギャンの尊敬を失い、芸術の戦いに敗れた、惨めな獣)


(ならば、生贄が必要だ。このけたたましい幻聴を黙らせ、私の罪をあがない、魂を浄化するための、物理的な『供物』が!)


 声はどこから入ってくる? 耳だ。

 私を狂わせている諸悪の根源は、この、汚れた言葉ばかりを吸い込む「右耳」だ!!


「……これで、静かになる」


 フィンセントの瞳から、恐怖が消えた。

 代わりに宿ったのは、殉教者のような、歪みきった純粋な覚悟だった。

 彼は右手に握りしめていたカミソリを、ゆっくりと、ためらうことなく自分の右耳の付け根に押し当てた。


 ザシュッ。

 ゴリッ、という軟骨を断ち切る鈍い音が、脳内に直接響いた。


「ァァァァァァァァァッッ!!!」


 南仏の冷たい夜に、獣のような、それでいてひどく悲痛な絶叫が響き渡った。

 フィンセントは、自らの手で、自分の右耳を根元から切り落としたのである。


 鮮血が噴き出し、洗面台が、床が、そして彼の愛した黄色い壁が真っ赤に染まっていく。


 常人ならショック死してもおかしくない激痛。しかし、フィンセントの顔には、痛みに歪みながらも、どこか憑き物が落ちたような安堵が浮かんでいた。


「……ああ……静かになった……。声が、聞こえなくなった……」

 物理的な激痛が、一時的に幻聴を上書きしたのだ。


 彼の行動は、完全に常軌を逸していた。

 彼は血だらけの手で、切り落とした自分の耳を拾い上げ、丁寧に水で洗った。そして、部屋にあった「新聞紙」にそれを包み、まるでお菓子でも包むかのように、綺麗なラッピングを施したのである。


「敗れた牛の耳は……愛する者に、捧げなければならない……」


 彼は頭にタオルをぐるぐると巻きつけ、激しい出血を抑えることもせず、夜のアルルの街へとフラフラと歩き出した。


 向かった先は、彼とゴーギャンがよく通っていた売春宿である。


「レイチェル……レイチェルはいるか……」

 深夜の娼館のドアを叩き、出てきた馴染みの娼婦のレイチェルに、フィンセントは新聞紙の包みを、恭しく両手で手渡した。


「これを……敗北した獣の、私の魂の欠片を、大切にとっておいてくれ……」

「やだ、ムッシュ・ヴァンサン。何これ。クリスマスの贈り物? 開けるわよ……って、ギャアアアアアアアアアア!!!」


 血まみれの「人間の耳」を見た女の絶叫が、アルルの歓楽街をパニックに陥れた。

 騒ぎを聞きつけて駆けつけた警察によって、フィンセントは翌朝、血の海となった自室のベッドで昏睡状態のところを発見され、そのまま市立病院へと緊急搬送されたのである。


 ——そして、翌日の朝。

 花の都、パリ。


「……ああ、ヨー。君の淹れてくれるコーヒーは最高だ。この数週間、ゴーギャンからの苦情の手紙がパッタリと止んだよ。きっと二人はついに分かり合い、芸術の高みへと登り始めたに違いない」


 テオドルス・ファン・ゴッホは、美しい婚約者ヨーと共に、人生で最も優雅で幸せなクリスマスイブの朝を迎えていた。


 兄という名のバグが遠く離れた南仏で大人しくしているおかげで、彼の胃の粘膜はかつてないほどの健康を取り戻し、未来は希望に満ち溢れていた。


 そこへ、息を切らした郵便配達員が転がり込んでくる。

「テオ様!! ア、アルルから至急の電報です!! ゴーギャン様からです!!」


「えっ? ゴーギャンから?」

 テオが嫌な予感を全開にして電報を受け取ると、そこには簡潔かつ、テオの人生のすべてを破壊する絶望的な数行が記されていた。


『君の兄が完全に発狂した。自らの耳を切り落として娼婦に送りつけ、現在病院で生死の境を彷徨っている。至急アルルへ来られたし。なお、私はもう一切関わりたくないので、このままパリへ直行して帰る。ポール・ゴーギャン』


「…………」


 テオの手から、電報と、最高級のコーヒーカップが滑り落ちた。

 ガチャン、と陶器が砕ける音と共に、テオの完全に治癒したはずの胃に、過去最大級の『超巨大なブラックホール』が物理的に貫通した。


「み、耳……? 耳ィィィ!? なんで耳なんだァァァァァ!!!」


 テオの絶叫が、パリの空気を切り裂いた。

「喧嘩したなら絵の具を投げ合えよ!! キャンバスを破れよ!! なんで自分の耳を切って、しかも娼婦にプレゼントするんだ!! 意味が分からない!! 意味が分からないぞォォォ!!」


「テオ! しっかりして! 息をして!」

 パニックを起こして床を転げ回るテオを、ヨーが必死で介抱する。


「……行くしかない……。僕が行かないと、兄さんが死んでしまう……」


 テオは顔面蒼白のまま、這うようにして立ち上がった。

 婚約したばかりだ。自分の幸せな人生が始まろうとしている。


 しかし、どれだけ迷惑をかけられても、どれだけ金と胃の粘膜を搾取されても、彼を見捨てることだけはどうしてもできない。テオにとって、フィンセントの狂気は、もはや自分の魂の半分そのものだったのだ。


「ヨー……すまないが、今月の結婚式の準備資金、アルルへの汽車賃と病院代に回してもいいかな……」


「もう、しょうがない兄弟ね。早く行ってあげなさい!」


 こうしてテオは、クリスマスの祝祭に沸くパリを後にし、地獄の釜の底へと落ちた兄を救うため、極寒のアルルへと全速力で向かったのである。


 南仏の強烈な太陽が引き起こした、短くも濃密な共同生活の果て。

 己の「右耳」と「正気」を代償にしてまで幻聴を消し去り、光を求めたフィンセントを待っていたのは、鉄格子のある精神療養院と、そこで描かれることとなる、美術史最大の「夜空の渦」であった。

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