第1話 兄は今日も金をせびる
1886年、春。フランスの首都、パリ。
華やかな馬車が行き交い、着飾った紳士淑女が石畳の並木道を闊歩する「花の都」
モンマルトル大通りにある一流画廊「グーピル商会」の支店長室では、一人のうら若き青年が、優雅なティーカップを片手に、深い、ひたすらに深い絶望の溜め息をついていた。
「……またか。今週で、もう三通目だぞ」
青年の名は、テオドルス・ファン・ゴッホ。
──通称、テオ。御年28歳。
彼はオランダの田舎牧師の次男坊として生まれながら、持ち前の誠実さと商才でパリの一流画廊の支店長にまで上り詰めた、超絶エリート・ビジネスマンである。
パリ仕込みの洗練されたスーツを着こなし、教養にあふれ、顧客からの信頼も厚い。彼の人生は、絵に描いたような「成功者の階段」を順調に上っているはずだった。
ただ一つの、そして最大の「バグ」を除いては。
テオの視線の先にあるのは、上質なマホガニーのデスクの上に無造作に放り投げられた、インクの染みがついた粗末な封筒である。
差出人は「フィンセント・ファン・ゴッホ」
テオの実の兄であり、現在、無職。いや、本人の強い主張によれば「偉大なる画家」である。
テオは胃のあたりをさすりながら、震える手で便箋を開いた。そこには、殴り書きのような力強く、そして非常に読みにくい文字がびっしりと埋め尽くされていた。
『親愛なるテオへ。
ああ、パリの光はなんと素晴らしいのだろう! 私は毎日、この街の色彩に圧倒され、震えている。モネやルノワールといった印象派の連中の絵を見たが、あいつらは分かっていない。光の真髄は、もっとこう、魂を直接焦がすような激しさの中にあるべきなのだ!』
「……うん、まあ、芸術論はいい。そこは飛ばそう」
テオは眉間を揉みながら、便箋の2ページ目に目を走らせた。問題はいつも、この後なのだ。
『……というわけで、私の魂を表現するためには、絶対に、何が何でも「クローム・イエロー(黄色の絵の具)」が大量に必要なのだ。チューブであと20本は要る。それから、キャンバスが5枚。筆を洗う油も底を尽きた。
テオ、私の愛する弟よ。お前の兄は今、芸術の頂に手をかけようとしている。
だから、至急50フラン送ってくれ。
追伸:昨日の昼からパンの耳しか食べていない。栄養失調で倒れそうだ。頼む、急いでくれ』
「50フラン!? 3日前に生活費として100フラン渡したばかりじゃないか!!」
テオの悲鳴が、防音の効いた支店長室に虚しく響き渡った。
当時の100フランといえば、一般の労働者が数週間は暮らせる大金である。それをたった3日で、しかも「黄色い絵の具」のために溶かそうというのか。
「あのバカ兄貴……。絶対に、絶対に今回は1サンチーム(小銭)たりとも渡さないぞ。甘やかすからつけ上がるんだ。私だって、将来は家庭を持って……」
テオが固い決意を胸に立ち上がった、その瞬間だった。
「テオオォォォォォ!! いるかァァァァ!!!」
バンッ!! と、画廊の重厚なガラス扉が、爆発でも起きたかのような勢いで開け放たれた。
「ヒッ!?」
テオは心臓が口から飛び出しそうになった。
画廊にいた上品な貴族の夫人や銀行家たちが、一斉に悲鳴を上げて壁際に避難する。
入り口に立っていたのは、ボロボロのコーデュロイのジャケットを着て、赤茶色の無精髭を生やした、野獣のような男だった。
服の至る所には原色の絵の具がこびりつき、強烈なテレピン油の匂いをプンプンとさせている。さらに、右脇には巨大なキャンバスを三枚も抱え、左手にはなぜか半分かじった生の玉ねぎを握りしめていた。
「フィ、フィンセント!?」
「テオ! おお、我が愛する弟よ! 手紙は読んだか! クローム・イエローだ! 黄色! 太陽の光をそのままチューブに詰めたような、あの黄色が私を呼んでいるんだ!!」
フィンセント・ファン・ゴッホ。御年33歳。
彼は、周囲の貴婦人たちがハンカチで鼻を押さえてドン引きしていることなど1ミリも気に留めず、泥だらけの靴で高級絨毯を踏み荒らしながらテオの元へ突進してきた。
「馬鹿っ、声が大きい! ここをどこだと思っているんだ! グーピル商会だぞ!」
テオは慌てて兄を羽交い締めにし、支店長室へと引きずり込んだ。そして、外の店員に「すまない、ちょっと田舎から親戚が……!」と引きつった笑顔で言い訳をして、バタンとドアを閉めた。
「フィンセント! いい加減にしてくれ! 3日前に渡した100フランはどうしたんだ! 1ヶ月分の生活費だと言っただろう!」
テオは兄をソファに突き飛ばし、怒髪天を突く勢いで説教を始めた。
「ああ、あれか。あれなら初日に全部使ったぞ」
フィンセントは悪びれる様子もなく、生の玉ねぎをシャリッと齧った。
「しょ、初日で……?」テオの目の前がクラクラと揺れた。
「一体何に!? まさか、また怪しげな酒場の女に貢いだのか!?」
「失礼なことを言うなテオ! 私は芸術のためにしか金は使わん!」
フィンセントは立ち上がり、抱えていたキャンバスの1枚をバサリと広げた。
「見ろ! モンマルトルの風車だ! この空の青さを表現するために、最高級のコバルトブルーをチューブ5本分、一気にキャンバスに絞り出してやったんだ! おかげで絵の具が乾くまで半年はかかりそうだがな! ガハハハ!」
「絵の具を……チューブから直接、キャンバスに絞り出しただと……?」
テオは絶望的な顔で絵を見た。
確かに、そこには凄まじいエネルギーが渦巻いていた。絵の具が何センチもの厚さで盛り上がり、まるで彫刻のように立体化している。当時の常識である「薄く、滑らかに塗る」というアカデミーの技法を根底からガン無視した、暴力的とも言える表現だった。
「お、お前……絵の具代だけでいくら使ったんだ……」
「コバルトブルーに30フラン。それから、モデルを頼んだ酒場の親父に20フラン。カンバス代と、あとはアブサン(強い安酒)を少し飲んだら、財布が空っぽになった。だから今は玉ねぎを主食にしている。玉ねぎはいいぞ、血が綺麗になる気がする」
「気がするだけだ!! 栄養失調で死ぬ気か!!」
テオは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
この兄は、本当に金銭感覚が狂っている。オランダにいた頃からそうだ。伝道師になろうとして失敗し、本屋の店員になっても客と喧嘩してクビになり、最終的に「私は画家になる」と言い出してからは、テオが稼いだ給料の半分以上を、毎月毎月、底なし沼のように吸い尽くしている。
「フィンセント……。いいか、よく聞け。パリには今、何千人という画家がいるんだ。その中で絵が売れて生活できているのは、ほんの一握りだ。お前のように、基本も無視して絵の具を泥遊びのように浪費する画家の絵なんて、誰も……」
「誰も買わない、か?」
フィンセントのギラギラとした瞳が、スッと細められた。
「ああ、分かっているさ。今の連中には、私の絵の真価は理解できない。連中の目は、綺麗に化粧されたマネキンのような絵にしか反応しないようだからな」
フィンセントは、先ほどの騒々しさが嘘のように静かな声で言った。
そして、2枚目のキャンバスをゆっくりと裏返した。
「だがな、テオ。私は描かずにはいられないんだ。この世界が、あまりにも激しく、美しく燃え上がっているから」
バンッ。
テオの目の前に突きつけられたのは、一足の「古びた靴」の絵だった。
ただの、泥まみれの労働者の靴である。
しかし、それはテオの知っているどんな静物画とも違っていた。使い古された革のひび割れ、泥の重み、そしてその靴を履いて何万歩も大地を踏み締めてきたであろう「名もなき人間の生々しい人生」が、キャンバスから強烈な熱を伴って放たれていたのだ。
「……」
テオは言葉を失った。
一流の画商として、毎日何百枚という名画を見ているテオの目が、本能で理解してしまったのだ。
この男は、狂っている。社会不適合者で、金食い虫で、迷惑極まりないポンコツだ。
だが——紛れもない『天才』だ。
モネのような光の反射ではない。レンブラントのような計算された陰影でもない。フィンセントの絵には、見た者の魂を鷲掴みにして揺さぶるような、呪いにも似た生命力が宿っている。
「……テオ。黄色が要るんだ」
フィンセントが、縋るような目で弟を見た。
「私の心の中にある、あの焼け焦げるような太陽を表現するには、黄色が足りない。あと少しなんだ。あと少しで、私は本当の光を掴める。だから……」
テオは深く、深く天を仰いで、特大の溜め息をついた。
この構図だ。いつも、この構図なのだ。
兄のあまりの生活能力の無さに激怒し、絶縁してやろうと決意するのに、彼が描き出す圧倒的な「作品」を見せられると、美術商としての血が、いや、兄を愛する弟としての魂が、それを突き放すことを許さないのだ。
「……分かった」
テオは懐から最高級の革財布を取り出すと、中から50フラン紙幣を抜き出し、乱暴に兄の胸に押し付けた。
「50フランだ! これで絵の具でも何でも買え! だが、絶対にパンと肉も買うこと! 玉ねぎはもう齧るな、息が臭い!」
「おおお! テオ! ありがたい! お前は最高のパトロンだ!!」
フィンセントは小躍りして喜んだ。その勢いで、残っていた半分の玉ねぎをポイッと窓の外に放り投げた。
「よし! 今すぐ画材屋に行って、棚にあるクローム・イエローを全部買い占めてくる! テオ、夕食は君のアパートでご馳走になるからな! 肉をたっぷり用意しておいてくれ!」
「お前、今パンと肉を買えって言ったばかりだろうが……!!」
テオのツッコミも虚しく、フィンセントは嵐のように画廊を飛び出していった。
再びガラス扉がバンッ!と音を立てて閉まり、画廊の中には、強烈なテレピン油の匂いと、ドッと疲れたテオだけが取り残された。
「……胃薬。誰か、強い胃薬をくれ……」
テオはソファに沈み込み、テーブルに残された「古びた靴」の絵を見つめた。
こうして、芸術の都パリで、ポンコツ兄貴と不憫なエリート弟の、地獄の、そして後世の美術史をひっくり返すことになる共同生活が幕を開けたのである。
テオの財布が完全に空になるまで、あと——数日。




