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外伝短編|渡せなかった、バレンタイン

作者: 安剛
掲載日:2026/03/14

 16歳の冬は、思っていたよりも静かだった。


 校舎の窓から差し込む午後の光は白く、教室の埃を浮かび上がらせている。

 ストーブの音が低く鳴り続けていて、誰かがページをめくるたび、その音に小さく重なった。


 机に肘をつき、私はノートの端をなぞっていた。

 黒板の文字は目に入っているのに、意味までは追えていない。

 視線は自然と、少し前の席へ向かってしまう。


 彼は、いつも通りだった。


 特別に目立つわけじゃない。

 でも、誰に対しても分け隔てなく声をかける。

 男子とも女子とも、距離が同じ。


 だから、少しだけモテている。

 本人は気づいていない顔で、笑う。



 小学校からの友達だった。


 同じ班になり、同じ帰り道を歩き、中学生の頃はよく話した。

 勉強のこと、テレビのこと、将来の話なんて一度もなかったけれど、それでも毎日が続くものだと、疑わなかった。



 高校に入って、少し変わった。


 クラスが違い、部活も違い、会話の数は減った。

 それでも、廊下ですれ違えば声をかけてくれる。

 名前を呼ばれるたび、胸の奥がきゅっと鳴る。


 私だけが、変わってしまったのだと思う。



 バレンタインが近づくと、街の空気が少し浮つく。

 駅前の店先には赤やピンクが並び、甘い匂いが風に混じる。


 クラスの女子たちは、昼休みに集まって、誰に渡すかを小さな声で話していた。


 私は、その輪に入れなかった。


 チョコレートを選ぶ勇気がなかったわけじゃない。

 ただ、それを「渡す」自分の姿が、どうしても想像できなかった。


 代わりに、文房具屋で小さな栞を買った。


 紙製で、淡い青色。

 夜空みたいな色に、銀色の箔で小さな星が散っている。

 裏に短い言葉を書ける余白があった。


 直接的じゃない。

 重くない。

 友達でも、受け取れる。


 そう思った。


 それを鞄の内ポケットに入れたまま、私は何日も過ごした。


 放課後、彼が他の誰かと笑っているのを見るたび、胸の奥がざわつく。

 でも、それを顔には出さない。


 私は、優しい人でいたかった。

 彼にとって「安心できる友達」でいたかった。


 優しさは、時々、逃げ道になる。



 バレンタイン当日。


 朝から雪が降っていた。

 細かくて、すぐに溶ける雪。

 靴下が湿るのが嫌で、私は歩幅を小さくして登校した。


 栞は、今日も鞄の中にある。


 昼休み、誰かが彼にチョコを渡していた。

 彼は少し困った顔をして、それから丁寧に礼を言っていた。

 その仕草が、ひどく彼らしくて、胸が苦しくなる。


 放課後、声をかけようと思った。


 何度も、口を開きかけた。

 でも、言葉は喉の奥で止まったまま、形にならない。

 教室を出る彼の背中が、少しずつ遠ざかっていく。


 そのまま、私は何もしなかった。



 栞は渡されることなく、冬が終わった。


 それでも世界は続く。

 春が来て、学年が上がり、また同じような毎日が積み重なっていく。

 私は、あの日の選択を「失敗」とは呼ばなかった。


 ただ、越えなかった。


 それだけだった。



 それからも、私は彼のそばにいた。


 近すぎず、遠すぎず。

 名前を呼ばれれば返事をして、話しかけられれば笑う。

 それだけで、関係は続いていった。


 友達、という言葉は便利だった。

 境界線を引かなくていい。

 期待も、説明も、責任も要らない。


 彼は、誰にでも優しかった。


 困っている人を放っておけない。

 話を最後まで聞く。

 冗談を言うときも、相手の顔色を一瞬だけ確認する。


 その優しさに、私は何度も救われて、

 同時に、何度も刺された。



 高校2年の頃、彼に恋人ができた。


 噂は、本人から聞く前に届いた。

 教室の隅で交わされる声。

 スマホを伏せて、目線だけで共有される情報。


 その名前を聞いたとき、胸の奥が一瞬だけ熱くなった。

 すぐに冷えて、何もなかった顔に戻る。


「そうなんだ」


 私が言ったのは、それだけだった。


 彼は少しだけ照れたように笑って、

 申し訳なさそうでも、誇らしそうでもない、

 いつもの顔で頷いた。


 その顔を見て、私は安心してしまった。


 彼が変わっていないことに。

 私が、特別な位置にいなくても、

 世界がちゃんと回っていることに。


 嫉妬は、確かにあった。


 放課後、誰かと並んで帰る彼を見た日。

 休日の予定を楽しそうに話す声を聞いた日。


 胸の奥で、何かが軋む。

 でも、その音は小さくて、

 無視しようと思えば、出来る程度だった。


 私は、その音を選んで無視した。


 彼の幸せを願った。

 本当に、そう思っていた。


 もし私が傷ついたとしても、

 それで誰かが救われるなら、

 それは、悪い選択じゃない。


 そうやって、私は自分の心を静かに殺した。



 大学に進み、就職して、生活が変わった。


 連絡を取る頻度は減ったけれど、

 完全に切れることはなかった。


 誕生日に、短いメッセージ。

 何かあったときに、思い出したような一言。



 彼は結婚した。

 私は式には行かなかった。


 理由は、特にない。

 忙しかったし、遠かったし、

 それ以上に、行かないほうが自然だと思った。


 時間は、私を置き去りにしなかった。


 気づけば30歳になっていた。


 仕事を覚え、生活を回し、

 それなりに笑って、それなりに疲れる毎日。


 恋をしなかったわけじゃない。

 誰かと付き合ったこともある。


 でも、心の奥の引き出しには、

 いつも触れない場所があった。


 開ける理由も、閉める理由もなく、

 ただ、そこに在り続けるもの。


 それが、あの冬だった。



 30歳になった年の春、同窓会の案内が届いた。


 スマホの画面に表示されたグループ名は、高校のクラス番号だった。

 懐かしさよりも先に、現実味のない感じがした。

 もう戻れない場所の名前を、ただの文字として見ている感覚。


 参加者一覧を、私は最後まで見なかった。


 彼の名前があるかどうかを確認するのが、怖かったわけじゃない。

 見つけてしまったとき、自分がどう反応するのかを想像したくなかった。


 忘れていたわけでもない。

 毎日思い出していたわけでもない。


 ただ、人生の奥に仕舞われた一枚の写真みたいに、

 必要なときだけ、静かに浮かぶ存在だった。


 同窓会まで、まだ少し時間があった。


 その夜、私は久しぶりに部屋の奥の引き出しを開けた。

 引っ越しのたびに一緒に運ばれ、何度も位置だけ変えてきた場所。


 古い通帳、使っていないケーブル、保証書。

 役目を終えたものばかりの中に、

 小さな箱があった。


 指先で触れた瞬間、思い出した。


 淡い青色。

 紙製の栞。


 高校1年の冬、

 バレンタインに渡そうとして、渡さなかったもの。


 箱を開けると、栞はそのままの形で入っていた。

 折れも、色褪せも、ほとんどない。


 裏の余白には、短い言葉が書かれている。


 当時の自分の字だった。

 少しだけ丸くて、今よりも迷いのない線。


 読み返しても、内容は特別じゃない。

 応援の言葉と、ありきたりな一文。


 それなのに、胸の奥が静かに反応した。


 痛みではない。

 後悔でもない。


 ただ、時間が一瞬だけ重なった感覚。


 私は栞を手に持ったまま、しばらく動かなかった。


 もし、あの日渡していたら。

 もし、言葉にしていたら。


 そういう仮定は、もう浮かばなかった。


 浮かんだのは、もっと現実的なことだった。


 渡さなかったから、ここまで来られた。

 越えなかったから、今が壊れていない。


 その事実だけが、静かに残る。



 同窓会の当日、私は会場の前まで行って、入らなかった。


 ガラス越しに見える笑い声と、

 少しだけ変わった顔立ちの人たち。


 その中に、彼がいるかもしれない。

 でも、それを確認する必要はなかった。


 私はそのまま踵を返し、

 近くのカフェに入った。


 窓際の席。

 外は曇っていて、街の色が均一だった。


 コーヒーを待つ間、鞄の中で指が栞に触れる。

 持ってきたわけじゃないのに、

 なぜか、今日は入っていた。


 偶然なのか、無意識なのか。

 その区別は、もうどうでもよかった。


 私は栞を取り出し、テーブルの上に置いた。


 誰にも渡されなかったそれは、

 誰かの未来を変えなかった代わりに、

 私の時間を、きちんと繋いでいた。


 そのとき、窓の外を一人の男性が通り過ぎた。


 一瞬だけ、視線が重なる。


 彼だった。


 変わっている。

 でも、変わっていない。


 隣には、誰かはいなかった。

 それだけで、十分だった。


 私たちは、何も言わない。

 声もかけない。


 彼はそのまま歩き去り、

 私はコーヒーを一口飲んだ。


 時間は、越えなかった。


 それでも、

 ちゃんと、ここまで来ていた。



 カフェを出ると、空気が少しだけ冷えていた。


 夕方と夜の境目。

 街灯が点くにはまだ早く、看板の光だけが浮いている。

 どこも同じ色で、同じ温度で、少しだけ遠い。


 私は栞を鞄の奥にしまった。

 引き出しに戻すつもりは、もうなかった。


 渡さなかったものを、

 またしまい込む必要はない気がした。


 それは未練でも、後悔でもない。

 思い出と呼ぶには、まだ生活に近すぎる。


 駅までの道を歩きながら、

 スマホを取り出して、明日の予定を確認する。

 仕事の通知が一件。

 返信は、後でいい。


 信号が変わる。

 人の流れに合わせて、足を進める。


 泣くほどじゃない。

 笑うほどでもない。


 その中間が、

 どんな感覚だったか、

 思い出せなかった。


 心が動かないわけじゃない。

 ただ、動いた理由が、すぐには分からないだけだ。


 感情は、いつも少し遅れてくる。

 それでも、生活は先に進んでいく。


 私は歩きながら、

 あの冬を「失敗だった」とは思わなかった。


 越えなかった。

 それだけのことだった。


 でも、その選択があったから、

 今の私は、ちゃんとここにいる。


 電車が来る音が、遠くで響く。

 その音を聞いてから、私は初めて足を止めた。


 今日という一日が、終わろうとしている。


 世界は壊れていない。

 私も、壊れていない。


 それで、充分だった。

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