外伝短編|渡せなかった、バレンタイン
16歳の冬は、思っていたよりも静かだった。
校舎の窓から差し込む午後の光は白く、教室の埃を浮かび上がらせている。
ストーブの音が低く鳴り続けていて、誰かがページをめくるたび、その音に小さく重なった。
机に肘をつき、私はノートの端をなぞっていた。
黒板の文字は目に入っているのに、意味までは追えていない。
視線は自然と、少し前の席へ向かってしまう。
彼は、いつも通りだった。
特別に目立つわけじゃない。
でも、誰に対しても分け隔てなく声をかける。
男子とも女子とも、距離が同じ。
だから、少しだけモテている。
本人は気づいていない顔で、笑う。
小学校からの友達だった。
同じ班になり、同じ帰り道を歩き、中学生の頃はよく話した。
勉強のこと、テレビのこと、将来の話なんて一度もなかったけれど、それでも毎日が続くものだと、疑わなかった。
高校に入って、少し変わった。
クラスが違い、部活も違い、会話の数は減った。
それでも、廊下ですれ違えば声をかけてくれる。
名前を呼ばれるたび、胸の奥がきゅっと鳴る。
私だけが、変わってしまったのだと思う。
バレンタインが近づくと、街の空気が少し浮つく。
駅前の店先には赤やピンクが並び、甘い匂いが風に混じる。
クラスの女子たちは、昼休みに集まって、誰に渡すかを小さな声で話していた。
私は、その輪に入れなかった。
チョコレートを選ぶ勇気がなかったわけじゃない。
ただ、それを「渡す」自分の姿が、どうしても想像できなかった。
代わりに、文房具屋で小さな栞を買った。
紙製で、淡い青色。
夜空みたいな色に、銀色の箔で小さな星が散っている。
裏に短い言葉を書ける余白があった。
直接的じゃない。
重くない。
友達でも、受け取れる。
そう思った。
それを鞄の内ポケットに入れたまま、私は何日も過ごした。
放課後、彼が他の誰かと笑っているのを見るたび、胸の奥がざわつく。
でも、それを顔には出さない。
私は、優しい人でいたかった。
彼にとって「安心できる友達」でいたかった。
優しさは、時々、逃げ道になる。
バレンタイン当日。
朝から雪が降っていた。
細かくて、すぐに溶ける雪。
靴下が湿るのが嫌で、私は歩幅を小さくして登校した。
栞は、今日も鞄の中にある。
昼休み、誰かが彼にチョコを渡していた。
彼は少し困った顔をして、それから丁寧に礼を言っていた。
その仕草が、ひどく彼らしくて、胸が苦しくなる。
放課後、声をかけようと思った。
何度も、口を開きかけた。
でも、言葉は喉の奥で止まったまま、形にならない。
教室を出る彼の背中が、少しずつ遠ざかっていく。
そのまま、私は何もしなかった。
栞は渡されることなく、冬が終わった。
それでも世界は続く。
春が来て、学年が上がり、また同じような毎日が積み重なっていく。
私は、あの日の選択を「失敗」とは呼ばなかった。
ただ、越えなかった。
それだけだった。
⸻
それからも、私は彼のそばにいた。
近すぎず、遠すぎず。
名前を呼ばれれば返事をして、話しかけられれば笑う。
それだけで、関係は続いていった。
友達、という言葉は便利だった。
境界線を引かなくていい。
期待も、説明も、責任も要らない。
彼は、誰にでも優しかった。
困っている人を放っておけない。
話を最後まで聞く。
冗談を言うときも、相手の顔色を一瞬だけ確認する。
その優しさに、私は何度も救われて、
同時に、何度も刺された。
高校2年の頃、彼に恋人ができた。
噂は、本人から聞く前に届いた。
教室の隅で交わされる声。
スマホを伏せて、目線だけで共有される情報。
その名前を聞いたとき、胸の奥が一瞬だけ熱くなった。
すぐに冷えて、何もなかった顔に戻る。
「そうなんだ」
私が言ったのは、それだけだった。
彼は少しだけ照れたように笑って、
申し訳なさそうでも、誇らしそうでもない、
いつもの顔で頷いた。
その顔を見て、私は安心してしまった。
彼が変わっていないことに。
私が、特別な位置にいなくても、
世界がちゃんと回っていることに。
嫉妬は、確かにあった。
放課後、誰かと並んで帰る彼を見た日。
休日の予定を楽しそうに話す声を聞いた日。
胸の奥で、何かが軋む。
でも、その音は小さくて、
無視しようと思えば、出来る程度だった。
私は、その音を選んで無視した。
彼の幸せを願った。
本当に、そう思っていた。
もし私が傷ついたとしても、
それで誰かが救われるなら、
それは、悪い選択じゃない。
そうやって、私は自分の心を静かに殺した。
大学に進み、就職して、生活が変わった。
連絡を取る頻度は減ったけれど、
完全に切れることはなかった。
誕生日に、短いメッセージ。
何かあったときに、思い出したような一言。
彼は結婚した。
私は式には行かなかった。
理由は、特にない。
忙しかったし、遠かったし、
それ以上に、行かないほうが自然だと思った。
時間は、私を置き去りにしなかった。
気づけば30歳になっていた。
仕事を覚え、生活を回し、
それなりに笑って、それなりに疲れる毎日。
恋をしなかったわけじゃない。
誰かと付き合ったこともある。
でも、心の奥の引き出しには、
いつも触れない場所があった。
開ける理由も、閉める理由もなく、
ただ、そこに在り続けるもの。
それが、あの冬だった。
⸻
30歳になった年の春、同窓会の案内が届いた。
スマホの画面に表示されたグループ名は、高校のクラス番号だった。
懐かしさよりも先に、現実味のない感じがした。
もう戻れない場所の名前を、ただの文字として見ている感覚。
参加者一覧を、私は最後まで見なかった。
彼の名前があるかどうかを確認するのが、怖かったわけじゃない。
見つけてしまったとき、自分がどう反応するのかを想像したくなかった。
忘れていたわけでもない。
毎日思い出していたわけでもない。
ただ、人生の奥に仕舞われた一枚の写真みたいに、
必要なときだけ、静かに浮かぶ存在だった。
同窓会まで、まだ少し時間があった。
その夜、私は久しぶりに部屋の奥の引き出しを開けた。
引っ越しのたびに一緒に運ばれ、何度も位置だけ変えてきた場所。
古い通帳、使っていないケーブル、保証書。
役目を終えたものばかりの中に、
小さな箱があった。
指先で触れた瞬間、思い出した。
淡い青色。
紙製の栞。
高校1年の冬、
バレンタインに渡そうとして、渡さなかったもの。
箱を開けると、栞はそのままの形で入っていた。
折れも、色褪せも、ほとんどない。
裏の余白には、短い言葉が書かれている。
当時の自分の字だった。
少しだけ丸くて、今よりも迷いのない線。
読み返しても、内容は特別じゃない。
応援の言葉と、ありきたりな一文。
それなのに、胸の奥が静かに反応した。
痛みではない。
後悔でもない。
ただ、時間が一瞬だけ重なった感覚。
私は栞を手に持ったまま、しばらく動かなかった。
もし、あの日渡していたら。
もし、言葉にしていたら。
そういう仮定は、もう浮かばなかった。
浮かんだのは、もっと現実的なことだった。
渡さなかったから、ここまで来られた。
越えなかったから、今が壊れていない。
その事実だけが、静かに残る。
同窓会の当日、私は会場の前まで行って、入らなかった。
ガラス越しに見える笑い声と、
少しだけ変わった顔立ちの人たち。
その中に、彼がいるかもしれない。
でも、それを確認する必要はなかった。
私はそのまま踵を返し、
近くのカフェに入った。
窓際の席。
外は曇っていて、街の色が均一だった。
コーヒーを待つ間、鞄の中で指が栞に触れる。
持ってきたわけじゃないのに、
なぜか、今日は入っていた。
偶然なのか、無意識なのか。
その区別は、もうどうでもよかった。
私は栞を取り出し、テーブルの上に置いた。
誰にも渡されなかったそれは、
誰かの未来を変えなかった代わりに、
私の時間を、きちんと繋いでいた。
そのとき、窓の外を一人の男性が通り過ぎた。
一瞬だけ、視線が重なる。
彼だった。
変わっている。
でも、変わっていない。
隣には、誰かはいなかった。
それだけで、十分だった。
私たちは、何も言わない。
声もかけない。
彼はそのまま歩き去り、
私はコーヒーを一口飲んだ。
時間は、越えなかった。
それでも、
ちゃんと、ここまで来ていた。
カフェを出ると、空気が少しだけ冷えていた。
夕方と夜の境目。
街灯が点くにはまだ早く、看板の光だけが浮いている。
どこも同じ色で、同じ温度で、少しだけ遠い。
私は栞を鞄の奥にしまった。
引き出しに戻すつもりは、もうなかった。
渡さなかったものを、
またしまい込む必要はない気がした。
それは未練でも、後悔でもない。
思い出と呼ぶには、まだ生活に近すぎる。
駅までの道を歩きながら、
スマホを取り出して、明日の予定を確認する。
仕事の通知が一件。
返信は、後でいい。
信号が変わる。
人の流れに合わせて、足を進める。
泣くほどじゃない。
笑うほどでもない。
その中間が、
どんな感覚だったか、
思い出せなかった。
心が動かないわけじゃない。
ただ、動いた理由が、すぐには分からないだけだ。
感情は、いつも少し遅れてくる。
それでも、生活は先に進んでいく。
私は歩きながら、
あの冬を「失敗だった」とは思わなかった。
越えなかった。
それだけのことだった。
でも、その選択があったから、
今の私は、ちゃんとここにいる。
電車が来る音が、遠くで響く。
その音を聞いてから、私は初めて足を止めた。
今日という一日が、終わろうとしている。
世界は壊れていない。
私も、壊れていない。
それで、充分だった。




