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水は全て覚えている

作者: こやっしー

朝、私はいつも通り蛇口をひねった。

流れ出る水の冷たさは、眠気を覚ます儀式のようで、何の疑いも抱いたことはなかった。


けれどその日は違った。


手に触れた水は妙にぬるりとしていて、どこか生温かかった。心なしか微かな生臭さも感じた。

「あ~そう言えば最近、メンテナンスがあったから、そのせいかな」

そう思い込み、私は気のせいだと流すことにした。


出勤準備をしながら、キッチンでコーヒーを淹れるためにヤカンを満たす。

ふと、流しにたまった水面を覗き込むと、自分の顔がぼんやりと映っている。

その瞳が、僅かに動いた――ような気がした。

「え?」

動揺して顔を上げたが、部屋の中は誰もいない。

水面が静かに波紋を描くだけだった。


その日から、家のあちこちで水に違和感を覚えるようになる。 風呂場の排水溝から水が逆流し、真夜中にぽたぽたと止まらぬ水滴が落ちる音が響いた。

水道の蛇口も、しっかり閉めたはずなのに、朝起きると必ず少し開いて水が垂れている。


そして一番恐ろしかったのは―― ある晩、寝ている間に遠くから雨の降る音が聞こえてきたこと。


カーテンを開けると、外は晴れており、地面も乾いたまま。

ふと窓ガラスを見ると、そこには雨粒のような水滴が、外側から玉のように無数についていた。

外に手をかざしてみても何も感じないのに、窓に顔を近づけたその瞬間、ビシリ、と水滴が一斉に内側へと走り、まるで何かを狙っているように私へと這い寄ってきた。

慌てて後ずさると、窓ガラスに何かの輪郭をなぞるように冷たい水跡を残しながら形取る。その形は、まるでこちらを手招きする掌だった。


次の日、会社でも妙なことが続いた。

窓際に座っていたはずの私の肩や髪が、気づくとしっとり湿っている。

外は快晴。誰も傘を持っていないはずなのに、私のデスクだけがわずかに水気を帯びる。

同僚に確認しても「濡れてないよ?」としか言われない。誰も、私の周囲だけに降る見えない雨に気付かない。


不安になった私は、学生時代からの友人、理子に相談した。


「マコ、それってさぁ……あのさぁ、昔のことって覚えてる?」

そう言って理子は私の顔を心配そうに覗き込んだ。


――昔のこと。

それは私が幼い頃、一度だけ近所の池で溺れたことがあった時の記憶。


意識を失いかけた瞬間、水の中で冷たい手に腕を掴まれ、引きずり込まれそうになった記憶がある。

その時は誰も信じてくれなかった。

でも今、その時と同じ感覚が、私の生活をじわじわと蝕んでいる。


理子は真剣な顔で言った。

「水ってね、全部繋がってるんだって……人間が見えてないだけで。そういう目にあった人を、呼び続けることもあるらしいよ。水道も、排水口も、お風呂も、そして……雨も」


私は笑えなかった。


その晩、夢を見た。湿った暗闇の中、水音が響き、鳴り止まない。

見知らぬ顔が、水面の下から私をじっと見上げている。

近づくほどに、自分の顔と似てくる。――いや、それはあの日、溺れた私自身だった。


夢の中で、上から絶え間なく冷たい雨粒が落ちてくる。

水面の私が口元で微笑み、天を指す。

次の瞬間、雨粒が私の体に吸い込まれるようにまとわりつき、溺れるような息苦しさに襲われる。


朝目覚めると、部屋中がずぶ濡れだった。

カーテンも布団も、まるで沈んだ水底から引き揚げられたばかりのように滴っていた。

窓を見ると、ガラスの内側にびっしりと水滴が張り付いている。その一粒一粒が、私を見ているように感じた。

蛇口も確認したが、水道は固く閉まっていて、水一滴も出ていない。


鏡を見ると、水滴のついた自分の顔が映っていた。

その背後――水滴の向こう側に、ぼやけたもう一人の自分が、笑っていた。


私は気づいてしまった。

水は、あの日のまま「私」を待っていた。

それはもう水道だけじゃない。あの空から降る雨さえも、私を探し、つながろうとしている。

逃げ場なんて、どこにもない。


あぁ……また、雨が降りはじめた。


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