第三話
「感動してる場合じゃないよ、研修医くん」
信乃さんの声に我に返る。
慌てて目尻をぬぐう。リアルに涙出ったっぽい。
「小児研修してきたんでしょ、赤ちゃん頼むわね」
「えっ」
「保温が一番大事よ、そのバスタオルに包んで」
工具箱の奥にあったバスタオルで赤ちゃんを包み、抱き上げる。小さな命が、おれの腕の中で弾けている。
啼き声が小さいながらも、とても力強い。
浴び朝日を浴びて神々しくもあり、腕にすっぽり収まるサイズ感にちゃんと守らなければならない儚さを感じた。
また目の奥がツンと来たが、信乃さんが俺の腕を叩く。
「救急外来まで赤ちゃん連れて行って! 体温下がる前に保育器に入れないと」
R総合病院には赤ちゃんの集中治療室はなかったが、大学での新生児実習で言われたことを思い出す。新生児の体温低下が低血糖を引き起こし、脳に不可逆的な障害を起こすことを。
現在は産後すぐの沐浴をしなくなったのも、低体温予防のためだと聞いた。
生まれたばかりの新生児は、保温が一番大事。
「―――っ、いってきます」
急ぎながらも、赤ちゃんを大事に抱えて病院に向かうと、ストレッチャーを押す病院助産師と中堅の産婦人科医である長沼医師がいた。産婦さんを病院に運ぶために来たようだ。そういえば信乃さんが、旦那さんに人を呼ぶように頼んでいたんだっけ。
すれ違いざまに生まれましたと報告すると、救急に保育器と小児科医が待機しているという返事であった。長沼医師の頑張ったなの言葉が嬉しかった。
頭を下げ救急に向かうと、先月までお世話になっていた小児科医が赤ちゃんを受け取ってくれた。小児科医の優しい声色に本日3回目の涙が出そうになる。
安心感とともに、どっと疲労を感じた。
配属された朝の、たった30分の出来事であった。
************
「めったにない経験が出来たねえ」
その日の午前外来のあと、外来の奥にあるスタッフの休憩室に腰掛けると信乃さんが声をかけてくれた。彼女たちもこれからお昼なのか、スタッフ全員のお茶を淹れていた。その一つのマグカップが俺の前に置かれる。
「あっ、ありがとうございます」
「病院のほうじ茶だけど、結構おいしいのよう」
遠慮なくお茶をいただくことにする。疲労のせいかほうじ茶の温かさが、心にも身体にも染み渡るようだった。
「あ……なんか懐かしい感じがします。―――やっぱり、車で産まれるとかめったにないんですか?」
「そぉねぇ。車というか、病院に辿りつけずに産まれちゃうのは5年に1回くらいかなあ。うちの分娩数年間500〜600だから、3千分の1ね」
「あ、それはレアっすね」
「この前のは5年くらい前で、自宅のトイレだったわねえ。便だと思ったら赤ちゃんだったってやつ」
「それは……、安産でしたねえ、で、いいのかな?」
「安産よねえ。経産婦は進みが早いから、それなりの経験を積んだけど読みが難しいわぁ。まだ痛くないです、陣痛じゃないかもですって言ってる人が、来院したら全開とかよくあるもの」
「信乃さんくらいの経験でも難しいんですか」
「もう定年になるけど、読めないことばかりよ」
信乃さんのカラカラとした笑い声が、休憩室に響く。ほうじ茶の湯気が立ち上る中、彼女の言葉には30年以上の助産師人生の重みが感じられた。俺はマグカップを握りしめながら、朝の出来事を反芻する。たった30分の出来事が、まるで一日の重さを持っているかのようだった。
「信乃さん、朝のあのスピード…ほんとすごかったですよ。俺、ついていくだけで精一杯で。」
俺が言うと、信乃さんはニヤリと笑って手を振る。
「若い子に負けるわけにはいかないでしょ? 犬の散歩で鍛えた足腰、なめないでよ。」
「いや、犬の散歩でそこまで鍛えられるもんですか? 信乃さん、実はマラソン選手とかじゃないですよね?」
「ハハッ、残念ながらただの助産師よ。でも、産婦さんが待ってる時は、1秒でも早く駆けつけたいじゃない。それで走れるようになっただけ。」
その言葉に、朝の信乃さんの背中を思い出す。半袖白衣で冷たい風を切り裂き、迷いなく交差点を駆け抜けた姿。まるで産まれる命を導くための使命感そのものだった。
隣でカップを手に持ったあかねさんが、からかうように口を挟む。
「廉先生、初日からあのバタバタでヘロヘロでしょ? でもさ、信乃さんに鍛えられたら、1ヶ月後には別人よ。覚悟しなさいね!」
「別人…ですか。なんか、今日だけで半分別人になった気がしますけど。」
俺が苦笑すると、休憩室にいた他のスタッフもクスクスと笑い出す。
信乃さんがマグカップを置きながら、ふと真剣な目で俺を見る。
「廉先生、小児科の研修で新生児扱った経験が今日ちゃんと活きたわよ。赤ちゃんをしっかり抱えて、落ち着いて運んでた。初めての状況でそれは立派だった。」
「え…そう、ですか? 俺、ただ必死だっただけで…」
「必死でも、ちゃんとやることやってたじゃない。そこ大事よ。研修医ってのは、必死で学びながら育っていくもんなの。」
信乃さんの言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。朝の緊張と疲労でガチガチだった心が、ほうじ茶と一緒に少しほぐれていく気がした。
その日の昼過ぎ、産婦人科の病棟に様子を見に行った。朝の妊婦さん――今はもう母親になった女性が、ベッドで赤ん坊を抱いていた。旦那さんが隣でニコニコしながら、スマホで写真を撮っている。
「先生、信乃さん、ほんとありがとうございました。」
女性が穏やかな声で言う。赤ん坊は小さな手を動かしながら、すやすやと眠っている。
「いや、俺はほんと、信乃さんに引っ張られただけなんで…」
俺が頭をかくと、信乃さんが笑いながら言う。
「ママが頑張ったからよ。こんな元気な子、なかなか産まれないわ。」
旦那さんが照れくさそうに言う。
「いや、ほんと、車の中で産まれるなんて…今思い出しても夢みたいっす。名前、なんか今日にちなんだのにしようかって話してて。」
「渋子は却下されたけどね!」と女性が笑うと、病室に笑い声が広がる。
信乃さんが赤ん坊を覗き込みながら、柔らかく言う。
「この子、強い子よ。朝日を浴びて産まれたんだから、きっと明るい人生になるわ。」
夕方、病棟の業務が一段落すると、俺は救急科の出入り口近くのベンチに座って一息ついた。北陸の春はまだ肌寒く、夕暮れの風がスクラブの隙間を通り抜ける。朝のあの慌ただしさから、まだ半日しか経っていないなんて信じられない。
ふと、信乃さんの言葉が頭をよぎる。
「読めないことばかりよ。」
命の誕生は、どんなに経験を積んでも予測できない瞬間がある。渋滞の車の中で、冷たい風の中で、それでも赤ん坊は力強く産声を上げた。俺はその瞬間に立ち会い、ほんの少しだけ手助けできた。それが、研修医としての第一歩だったのかもしれない。
ポケットのスマホが振動する。着信は小児科研修中の同期からだった。
「よお、廉! 産婦人科初日どうだった? なんかやらかした?」
「やらかすって…いや、初日から車で赤ちゃん産まれたわ。」
「は!? マジ!? 詳細話せよ!」
電話の向こうで騒ぐ同期の声を聞きながら、俺は笑って空を見上げる。
北陸の空は、夕焼けに染まり始めていた。
明日も、きっと何か新しいことが待っている。
信乃さんの背中を追いかけながら、俺はこの町で、どんな医者になっていくんだろう。