第二話
「研修医くん行きますよっ」
信乃さんと呼ばれた助産師は、工具箱みたいな小さめの箱を持って走り出した。
俺は慌てて後ろを追いかける。年配女性と思えぬ足の速さだ。
「え、どこに…」
「まず救急科に寄って、その救急車出入り口からが一番近いのよ」
「昨年から研修してるんで、場所は大丈夫ですが……」
「あら、そうなの。前はどこいたの?」
「小児を研修してました」
「ちょうどいいわね。産まれた赤ちゃんをよろしくね」
「ちょうどいい、って―――」
走りながら息切れもなくはっきり話せるあたり、普段から走っている人のようだ。落ちないスピードのまま、信乃さんは救急科に入ると「ちょっとごめん〜」と救急科看護師長に声を掛ける。
「渋滞に巻き込まれた産婦がいるの、なんかあったら手を貸してね」
師長の返事を聞く間もなく、信乃さんはそのまま救急車出入り口から外に飛び出す。俺は唖然とした表情の師長に軽く会釈をして、信乃さんを追いかけ自動ドアをくぐる。
「寒っ……!!」
季節は春先。冷たい風が身体を刺していく。
北陸はまだ雪が残るこの時期、俺はいつもの装備―――半袖のスクラブにカーディガンを羽織っているわけだが、カーディガンの隙間はめちゃくちゃ風を通っていく。歯がガチガチするくらいには寒い。
しかし、偉大なる先輩が半袖白衣で走っているのに文句も言えない。どんどん遠くなる背中を追いかける。
それにしても、足が速い。
「ち、ちょっと待ってください〜」
「若いんだから、もっと走れるでしょー?」
「いや、ちょ、早くない……? ハァ、ハア……あの人何歳なん……?」
道路脇を快調に走っていた信乃さんがピタリと止まり、院内携帯片手にウロウロと辺りを見回していた。車道にいる白衣の小柄な女性が珍しいのか、渋滞に巻き込まれてるトラックの運ちゃんがジロジロ見ていた。そりゃあ、不思議だよなあ。半袖だし。
話に出ていた交差点まで追いつくと、更に南方面に手を振る人影が見える。もう進むのを諦めたのか、路肩に車が停めてあるようだ。
「アレね」
「手を降ってるのが旦那さんですかね」
「……あらあ〜、いよいよなのかも」
「えっ、いよいよ……って、足早っ!」
びゅんという効果音が見える勢いで、信乃さんは車に飛び込む。焦った顔の旦那さんが、急に痛みが強くなってとしどろもどろに説明をしていた。
俺が旦那さんに落ち着くよう話している間に、信乃さんは車の扉をあける。
白いファミリーカーの助手席には、苦顔の女性が丸まっていた。明らかにイキんでいる様子で、ドラマで見たまさに産まれそうな妊婦だった。信乃さんは座席を倒して、女性を横にする。
「研修医くん、ちょっとカーディガン貸してね」
「えっ、ハイ」
「あと、この箱とりあえず、持ってて」
俺のカーディガンを女性の膝に掛けてから、信乃さんはぱちんと音を立てて滅菌グローブを装着した。これからしようとすることが想像出来てギョッとする。ここで内診をするつもりだ。止める間もなく信乃さんは小さな身体を折り込む様にして、女性の股の間に潜り込む。俺は窓を閉めたり、出来るだけ周りから見えないようにするしかなかった。
「破水もしてるし、すでにハツロね。これだけイキんでいたら、間に合わないわ」
「ハツ…ロ…?」
「"発露"ね。陣痛の間欠期にも赤ちゃんの頭が腟口から見えている状態」
「えっ、じゃあ……」
「ここで産むしかないかな。」
「――っ、えぇぇ…!!」
「旦那さん、病院にもう一度電話して人を寄越して!! 研修医くんは、その箱開けて!!」
渡された工具箱には滅菌シーツや滅菌クーパー、ディスポの手袋、臍帯グリップ、ディスポの吸引器など分娩に必要な最低限と思しきモノが入っていた。
つまり分娩介助要員である俺は、腹を決めるしかなかった。とりあえず、手伝うためにディスポ手袋をはめる。
「シーツ!!」
信乃さんの声に合わせて物品を広げる。滅菌シーツを妊婦の下に敷き、信乃さんの手の届く位置に滅菌シーツで清潔野を作る。清潔野には必要と思われるクーパーやガーゼを、不潔にならないように置く。
狭い車内では、何が起きているのかよく分からない。俺は信乃さんの後側にいて、妊婦の姿は常に白衣の背中で見えなかった。ただ痛いと言う声と、信乃さんの繰り返す"大丈夫、大丈夫"という優しい声だけがする。
だんだんいきむ声にリズムがついてきて、分娩が近づいている予感がした。
朝の交通渋滞で車の排気音などもしているはずであったが、今の俺たちには聞こえていなかった。
「もう、お顔が出たわよ! 力を抜いて、口で呼吸して! ハァ、ハァって」
「ハァ、ハァ、ハァ」
「肩のところが出るから、もう1回、ウンってして――」
「ぅ゙ううん、ん、ん~~」
「ほらほら、いい子ね。ハイ、産まれますよ!!」
妊婦の股に折り込まれていた白衣の背中が、ぐいっと起きあがる。
彼女の手の中に赤いものが動いて、弾けるような声がした。
「――――おぎゃあっ」
光輝く朝日を浴びた、赤ん坊が今産声を上げた。