「S」【夏のホラー2024】
漆黒の闇の底に山羊の黄色い目玉が妖しげに浮かび上がる。縦長の瞳孔は爬虫類の様にも見える。時折、灼熱の炎の様な色の舌が闇の中で垣間見える。この邪悪な存在の真の姿を見てはいけない。名前を知ってもいけない。
世の中には決して知ってはいけない事がある。知ってしまったばかりに全てを失ってしまった後にいくら後悔しても時既に遅しなのである。
噂というものは最初は小さく無力であるが、それが段々と周囲に広まり不思議な力を徐々に宿して、噂はやがて現実となるのだ。
黄昏。灰色の雨雲と陰鬱にさせる湿気、そして卵が腐った様な汚物の悪臭が生温い風と共に窓から部屋へと吹き込んできた。
それはただでさえ憂鬱な気分をより一層不快にさせた。鼻先にまとわりつくこの忌々しい悪臭の正体は一体何なんだろうか。
その答えを確認すべく大聖は気怠く重い体をベッドから起こした。白いシャツは汗でびっしょりと肌に張り付き、大聖の背筋の形に布地が靭やかに波打つように隆起している。
窓際まで近づくとその異様な臭いは強烈に鼻腔を刺激した。
「髪染め液の臭い!?」
アンモニア臭なのか硫黄の臭いなのか得体のしれない卵が腐った様な刺激臭は、その存在感を誇示するかの如く強烈さを増し目がヒリヒリと痛みだし涙が出てきた。
窓の外から見えるのは住宅街の通りをスマホを操作しながら歩いている独りの女子高生の姿だけだ。熱心にスマホの画面を見つめながら両手の指を巧みに使いこなして画面を操作している。この光景はまるでこの世界には今自分しか存在しないかのように、周囲には全く関心がない様に見えた。
おそらくこの異様な悪臭にも気づいていないのかもしくは、この悪臭はここの住宅街から発している地域の問題であるからと無関心なのかまたは自分以外の存在を見下しているため興味がないのかもしれない。
突然、横殴りの激しい俄雨が降り出す。大聖は慌てて窓を閉める。窓硝子には雨粒が打ち鳴らす旋律のセレナーデが奏でられていた。
一瞬、天を裂くような眩しい閃光とゴロゴロと地獄の地響きに似た激しい雷鳴音が轟いた。一瞬の出来事であったが、それは永遠の一秒にも感じられた。
先程までスマホを操作していた女子高生の姿はもうそこにはなかった。
雨で濡れた黒いアスファルトの上には主を失ったスマホだけが淋しげに取り残されていた。
翌朝、いつもと変わらない一日の始まり。普遍的な日常生活が繰り返される退屈な現実。
テレビのニュースで全国的に失踪や行方不明が頻発していると報道されていたが、昨年も同じことを報道していた。毎年、人は突然いなくなるし自ら命を絶つ人もいる。その数字が毎年伝えられる。数字はただの数字として認識されてそれ以上は興味も関心もない人がほとんどなのかもしれない。だが、今伝えられたその数字は一人ひとりの命の数なのである。実際にその一人ひとりの命の死の数に向き合うことがないため単なる数字としてしか認識されていないのだろう。
そんな事を考えつつ大聖は相変わらずの蒸し暑さに耐えながら大学へと向かった。通勤通学の時間帯のバスの車内は身動きができないほど窮屈であった。そんな状況でも皆スマホを操作して何かに夢中になっている。お互いに関心は無いというそんな素振りだが、己が一番であり周囲の人は自分よりも劣っている存在だと思っているのが雰囲気で伝わってくる。ここで誰かが突然姿を消しても誰も気づかない否、消えたとしても劣っている存在なのだから自分には関係ないとさえ真剣に思っている人がこの中にはたくさんいるのではないかとそんな考えが脳裏を過ぎった。
バス停で停車しさらに人が車内へ乗り込んでくる。人が狭い車内に乗り込む度に乗車している人たちの険しい表情が増え空気も重く感じる。人たちから発せられる負のエネルギーが肌で感じられるほどだった。蒸し暑い車内は汗の臭いで噎せ返るほど酷い。昨日の硫黄の臭いもしていた。だが誰もその臭いについては何も言わない。
バスに乗り込んできた人の中に友人の衛の姿を見つけた。
「おはよう。今日も相変わらず蒸し暑いな」
「そうだな。そう言えば、最近ネットでも話題になっているある噂があるの知ってるか?」
大聖は大学の友人である衛からある噂話を聞きはじめた。それはスマホにいつの間にか「S」というアプリがインストールされているというものだった。
「そんなのたまたま何かのゲームとか広告とかを気づかずに指で触れてインストールしたんじゃないのか?」
「俺も最初はそう思ったんだ。だが、噂はこれだけじゃないんだ。そのアプリを起動させると消えるんだ……」
「消える!? アプリがアンインストールされるってことか?」
「違う! そうじゃない! ネットでもこの噂が広まっていて、実際に人が消えるんだよ! 行方知れずになって見つからないんだ……」
「それって、噂話だろう!? ネットとかでネタで流してるやつだろう!?」
「俺も……そう思ったんだ……」
「……衛!?」
顔面蒼白になっている衛が忽然とその場から姿を消した。
先程まで衛の手にあったスマホが無機質の鈍い音を立てて大聖の足元に落ちてきた。
主を失い無残に床に取り残されたそのスマホの画面には「S」のアプリが表示されていたのだった。
目の前で人が一人姿を消しても、自分が一番であり他人に無関心な人達はその事さえも気づかないのである。他人を労わり想いやる心が失われた現実社会の末路がここにはあった。
スマホの画面に表示されているアプリの「S」は悪魔のサタンの頭文字の「S」であり、あらゆる手段を用いて人間の傲慢さを嘲笑しているのかもしれない。悪魔は常に人間の弱い心の隙間に巣くい人間の人生と魂を破滅させるきっかけを与え続けているのである。
一体どれ程の人が周りの環境変化に気づいているのだろうか。学校の友人がずっと欠席していたり、職場の同僚が次々と辞めてしまったり、通い慣れた道のお店が突然閉店していたり……
知人が立て続けに亡くなったり、飼い猫が突然死んていたり、アパートの隣の部屋の人や隣近所の人が次々と引っ越していったり、あんなに頻繁に連絡を取り合っていた友人が突然音信不通になったり……
突然、姿を消した友人が再び現れた時に今までの友人とは何か違うと違和感を感じたらその人は本当にあなたのかつての友人なのだろうか。今一度よく観察すべきである。
もし、姿は同じでもその友人はまったくの別の「ナニカ」と入れ代わっているのかもしれない。それは全て「S」という名のアプリがこの世とあの世の扉の役目を果たしていることなのかもしれない。