第六話 家族
「明日の朝にこの村を出ようと思う」
赤頭巾の家に再び招かれた鴉頭は、夕餉の準備をする彼女に向かって短く言い放った。
鼻歌混じりにパンをバスケットに詰めていた赤頭巾は手を止めると、ぎこちない動きで首を回した。
「ず、随分急ですね」
「これでも長居している方だ。実は〈鐘鳴らし〉の所で森の地図を見つけてな。これを使って獣を蹂躙するつもりだ」
「えーと、あの、晩御飯は……」
「いらん。時間の無駄だ」
「ですよねー」
そろそろ鴉頭の素っ気ない態度にも慣れてきた赤頭巾は、彼の物言いに落ち込みつつも愛想笑いを浮かべた。
それともようやく〈狩人〉がこの村から消えることに安堵したのだろうか。
「お前には一応世話になった。礼だけは言っておく」
「私の方こそ、鴉頭さんは命の恩人です。ありがとうございました」
「ああ、またな」
「はい!」
赤頭巾のやたら元気な返事に破顔した鴉頭は振り返ることなく彼女の家を出て行ってしまった。
明日の朝に村を出るという事は、夜の内に森の獣を皆殺しにするつもりなのだろう。
狩人にも働き者はいるんだなぁ、などと赤頭巾が社畜シンパシーを感じている所でふと別れ際の言葉に違和感を覚える。
「……また?」
――――
――村人の朝は早い。
いつもの時間に起きた赤頭巾は、いつもの服に身を包み、いつもの朝支度を始め・・・ようと居間に降りてその赤い目を見開いた。
「……鴉頭さん!?」
鴉を模した仮面を被った男が朝日を嫌がる様に項垂れながら座っていたからである。
黒尽くめの外套から血が滴っており、見方によってはまるで死んでいるかのようだった。
しかしそれは間を持たない内に杞憂に終わる。
「お前は朝からうる……元気だな」
「朝起きて家に血塗れの人が座ってたら誰でも同じ反応すると思いますけど!?」
「……それもそうだな、すまん」
「それはいいんですけど、どうして私の家に?今朝には発つって言ってましたよね」
「ああ、逃げられないようにするためだ」
「逃げ……?」
鴉頭の的を得ない返答に赤頭巾が首を傾げる。一体誰が逃げるというのだろうか。
赤頭巾の胡乱な態度は折り込み済みだったのか、鴉頭は自身の対面に位置する席を顎で指す。そこに座れという指図だろう。まるで家主の如き偉そうな態度に赤頭巾は顔を顰めつつ席に着いた。
「あの、家畜たちの世話があるんで早めに」
「お前に聞きたいことがある」
「あ、はい……」
例え早朝でも通常運転の鴉頭に、人のことは言えないじゃんと内心で愚痴りながら赤頭巾は渋々返事をする。
しかし素っ気ないながらも何処か温かった鴉頭の言葉が、今は痛いほど冷たく赤頭巾は無意識に後ずさった。
赤頭巾の態度に気付きつつも、鴉頭はそれを無視して目を細めると短く言い放った。
「お前の祖母はどこに居る?」
「……えっ?」
「お前の祖母は、何処に居るかと聞いている」
苛立たしげな、ともすれば焦燥の見え隠れした鴉頭に赤頭巾は冷や汗が自身の額に伝うのを自覚した。
赤頭巾はようやく気付いたのだ。
鴉頭の逃がさないという言葉の意味とその対象に。
「ど、どうしておばあちゃんを?」
「何を言っている。お前は知っているだろう?最初からな」
「わ、たしは……」
自信を見透かしたような鴉頭の視線に赤頭巾の心臓が今更ながらに警鐘の鼓動を鳴らす。
目の前の〈狩人〉は暴くつもりなのだ。
彼女が……。
「アルスフェルト村の悲劇の元凶。……母胎型獣の正体はお前の祖母だ」
あの日、赤頭巾の本能が必死に蓋をした忌まわしき真実を、彼女自身に向けて。
「……ですか」
「あ?」
「私のおばあちゃんが獣である筈がないじゃないですか!?」
赤頭巾が叫んだのは鴉頭の発言に対する強烈な拒絶だった。
自身の血縁者への絶対の信頼に依る赤頭巾の叫びを、しかし鴉頭は嘲笑した。
「状況証拠だけは揃ってる」
「証拠なんてある訳……」
「では、何故あの老人がお前の家から出てきて獣になった?お前は家畜を見ていたんだろう?」
「そ、それは……でもそんなの疑ってくれって言ってるようなものじゃないですか!」
「俺がそう判断したのはそれだけじゃない」
そう言って鴉頭が机の下に隠していた右腕から取り出したのは、昨日彼が墓地のはずれで見つけた土塗れのドレスだった。
傍から見ればただの薄汚れたドレスだが、目の前の少女にとってはそうでない事を揺れる瞳が雄弁に語っていた。
「最初に見たときは何も思わなかったんだが、何かが引っかかってな。で、これを思い出した」
そう言って鴉頭は机の上に置いてある家族写真を指差す。出口の近くに立て掛けていた物を態々持ってきたのだろう。
そこには銘々に笑顔を浮かべた赤頭巾の家族が写っている。白いドレスを身に付けた赤頭巾の母親も。
「このドレスはお前の母親の遺品だ。違うか?」
「そ、れは……」
卑怯だ、と赤頭巾は心の中で唇を噛んだ。
母の遺品ではないと否定するのは簡単だ。
だが認めてしまえばあの日、深夜に嗚咽を漏らしながらドレスを供えた意味が無くなってしまう。
逃げ道を塞がれた赤頭巾は、鴉頭を睨みながら小さく溢した。
「それが……母の遺品だとして、何が問題なんですか?」
「あ?」
「私の両親が死んだからって!私がそれを受け入れられなかったからって、鴉頭さんには関係ないじゃないですか!?」
「残念ながら大アリだ」
「だから何が……!」
どれだけ赤頭巾が感情を発露しようとも、鴉頭が動じる事は無かった。
寧ろ情報を引き出す為にわざと赤頭巾を挑発しているかのようですらあった。
「このドレスに穴が空いているが、これは間違いなく獣の爪に依るものだ。そして血の乾き具合からして死亡したのは少なくとも一ヶ月前ほどだろう。……そう言えば、この村で獣が出現したのはいつ頃だった?」
「……推定で、二週間前です」
「それは木こりの失踪時期だ。恐らくもう少し前、一ヶ月前程度に母胎型獣は活動を始めたはず。つまり、お前の母親の死亡時期に合致する訳だ」
赤頭巾はようやく鴉頭の言わんとする所を理解した。
獣の出現時期に合わせて死んだ赤頭巾の両親、そして始まった村の悲劇。
それの示す事柄はただ一つ。
「お前の両親はこの村の初めての被害者だったんだな?」
「……それと、おばあちゃんに何の関係が?」
「獣の初の犠牲者という事は、初の目撃者でもあるという事だ。だが何故かこの家で獣に殺されていない奴が二人いる。……お前と、お前の祖母だけだ」
「……」
最早反論の余地を失った赤頭巾は一言も放てないまま項垂れる。
全て、この〈狩人〉に見透かされていた。
自身が祖母と鴉頭の面会を嫌がったのも、両親との別れの経緯を誤魔化した事も、そしてその全てをありもしない虚偽で塗り固めていた事も。
見透かした上で、泳がされていたのだ。
だが赤頭巾にはまだ最悪の結果を回避する術が残っていた。
「例え鴉頭さんの言う事が全て真実だったとして、私のおばあちゃんが獣であるという証拠はあるんですか?」
「……無い」
そう、鴉頭が握っているのは飽くまで状況証拠のみだ。
しかも老人の獣化以外はすべて確証なき妄想に過ぎない。
未だ赤頭巾の祖母は限りなく黒に近い白でしかないのである。
「だから、会わせろ」
「うっ」
しかしその曖昧な証拠の提示こそが鴉頭のねらいだった。
本来であれば強行突破が可能な〈狩人〉が住人の了承を必要とする意味はない。
その上で、赤頭巾の祖母を疑う至極真っ当な理由をあげつらうのは鴉頭なりの誠意だろう。
言い換えれば暴力に訴えないという最後通牒なのだ。
赤頭巾は大いに悩んだ。悩んだ末に結論を出した。
「分かりました。着いてきてください」
「ああ……」
少女の出した結論は協力だった。
それは秘密を暴かれないという確固たる自信からくるものだろうか。
それとも〈狩人〉の脅しに屈してしまったからだろうか。
――またはそのどれでもなく、ただ解放されたかったのか。
それは今からわかることだ。
――――
「おばあちゃん?入るよ」
ぎぃ、と耳障りな摩擦音を立てながら赤頭巾は扉を開く。
鴉頭が案内されたのは家屋の最奥に位置する部屋の一角だった。
黒幕が隠れ住むには些か平凡に過ぎる内装に鴉頭は肩透かしを食らいつつ、警戒を解かないで部屋へと踏み入る。
寝たきりの老婆は首だけを重そうに動かして赤頭巾に目を合わせた。
「赤頭巾?朝食にはまだ早い……おや?」
視界に赤頭巾以外の人影を見た老婆はその容姿を見て驚いた様子を見せた。
奇怪な仮面を付けた偉丈夫。それが〈狩人〉であると気づくのに大した時間は必要ない。
だが気づいてなお、老婆の態度に変わりはなかった。
年長者ゆえの余裕か、それともしらばっくれているのか。
「その人は?」
「えっと、鴉頭さんっていう〈狩人〉だよ」
「〈狩人〉がどうしてここに?」
老婆の尤もらしい疑問に答えたのは赤頭巾ではなく、鴉頭だった。
「お前が元凶だな?」
「鴉頭さん!」
飽くまで老婆を獣と見なして扱う鴉頭に赤頭巾が窘めるが、老婆は気に留めず微笑みながら赤頭巾の頭を撫でた。
「安心しなさい。私は獣なんかじゃないよ」
「おばあちゃん……」
「随分擬態が上手いんだな」
「いい加減にしてください!」
鴉頭の無礼な態度にとうとう赤頭巾の堪忍袋の緒が切れた。
「何処からどう見てもおばあちゃんは人間じゃないですか!こうして会話だってできます!一体なんの確証があって……」
「知能を持った獣も、人間の姿を維持する獣も存在する。だが所詮は猿真似に過ぎない。当然獣の兆候が出ているはずだ。……首の後ろを見せてみろ」
「首の後ろ?」
鴉頭が頑なに赤頭巾の祖母と対面したがっていた理由はそこにあった。
人間と獣を見分ける方法はいくつかあるが最も簡潔に判断する方法が首の後ろ、つまりうなじを見ることである。
獣の唯一の弱点が頸椎であるためか、獣のうなじは赤く腫れ上がる。
それは獣化の自覚がない時点でも判別可能な、いわば隠しようのない楔なのだ。
敢えてその情報だけは意図的に隠していた鴉頭は、この土壇場でそれを明かしたのである。
「……どうした獣?早く見せてみろ」
恐らくこの情報を知らないのは赤頭巾だけだと鴉頭は考えていた。
人間の姿を保てる獣は往々にして知能が高い。もしも作為的に身を隠しているのなら知っていても違和感は無い。
態々ベッドに仰向けになっているのもその証左だ。
鴉頭が老婆に警戒を解かなったのはうなじを隠されていたからだ。横向きに寝ていたならば鴉頭は即座に殺すかどうかの判断ができていた。
「……やるな。〈狩人〉」
「おばあちゃん?」
上体を起こしながら諦めたように呟いた赤頭巾の祖母――そのふりをしていた獣の体が肥大化していく。
身体中から夥しい体毛を生やし、顔つきは人間のものからイヌ科のようなものに変化していく。
それは紛れもなく森の中で赤頭巾を襲った、そしてあの老人が獣化した姿に酷似していた。
――いや、この獣こそが全ての元凶だという姿だった。
「これで私の計画はパァだよ」
「知ったことか」
獣化していく祖母に狼狽えた赤頭巾が離れていくのを確認した鴉頭は【鋸鉈】を振り下ろした。
容赦なく振り下ろされた【鋸鉈】はベッドごと切り裂き、静かな朝に爆音を響かせる。
(手ごたえがない)
床から【鋸鉈】を引き抜いた鴉頭が辺りを見渡すと腕から血を流す獣が正面に立っていた。
恐らく鴉頭の奇襲を反射的に飛び去って回避したのだろう。
如何やら鴉頭の動きを多少は調べていたらしかった。
「まさか本当にいきなり切りかかってくるとはね」
「死にぞこないが」
「吠えるなよ」
二人は短い応酬を交わすと同時に飛び出した。
一瞬で詰められる距離の中で獣は首元を腕で防御しながらほくそ笑んだ。
鴉頭は必ず獣の弱点である首を狙う。
弱点なのだから当然だと思うかもしれないが、寧ろ弱点であればこそ対策は練られているというものだ。加えて鴉頭は馬鹿の一つ覚えのように奇襲まがいの一撃でしか獣を狩っていない。
それを裏付けるように先ほども鴉頭は奇襲を用いた。
全てあの老人の報告通り。捨て駒ながら存外役に立ったと、獣は内心ほくそ笑みながら突貫する。
――そして獣の腹部に衝撃が走った。
「は、あ?」
「短絡的で大いに助かるよ。間抜けが」
首を防御している、つまり下半身ががら空きだった獣の腹部を鴉頭は蹴り飛ばした。
「ぐっ、ああああああ!!?」
鴉頭は自身が監視されていることに気が付いていた。
そもそも一撃必殺を主とした戦闘を得意としているがそれは相手が格下であった場合のみだ。
だが敢えてこの村での戦闘は奇襲を前提として戦っていた。
監視している何者かに自身を侮らせるために。
そう、鴉頭の下らない小手先にまんまと引っかかたのだ。この獣は。
貫通こそしていないものの、内臓を悉く潰された獣は最早死に体だった。
獣は強力な再生能力を有しているが、破壊された組織が複雑であればあるほど治癒に時間がかかる。鴉頭はそれを狙って内臓の集中した腹部を蹴ったのである。
「これで終いだ」
「グ、ぅぅ」
立ち上がらない獣に鴉頭は【鋸鉈】を振り上げ、落とそうとした所で小さな影が前へ立ちふさがった。
「待って!」
「っ!?馬鹿が!!」
傍観者であったはずの赤頭巾が両者の間に割って入ったのだ。
咄嗟に動きを止めた鴉頭は珍しく声を荒げた。
それも無理はない。
赤頭巾によって鴉頭の動きが止まった事を視認した獣が赤頭巾ごと鴉頭を叩き潰そうと飛び上がってきたからだ。
やはり反撃の機をうかがって敢えて死に体を演じ、その場に留まっていたようだ。
鴉頭であれば避けられる攻撃。
だが鴉頭の方を見る赤頭巾では回避不能の必殺。
時が緩慢に流れる中、鴉頭は武器を持たない方の素手を前に掲げると、声高らかに叫んだ。
「【反転】しろ!」
「なっ、はぁぁぁ!?」
その瞬間、前に向かって飛び上がっていたはずの獣が引っ張られたように後ろへ飛んで行った。
後ろの壁に向かって消えていった隙を狙って鴉頭は赤頭巾を抱えると家の出口へ真っ直ぐ駆けて行く。
このまま狭い空間で赤頭巾を庇いながら戦闘するのは不利だと悟ったのだ。
朝日が水平線から半分だけ顔を出す青空の下。
赤頭巾の家から脱出した鴉頭は彼女を降ろすと忌々し気に声を上げた。
「何をしている!死ぬ所だったぞ!?」
「おばあちゃんもです!」
「アレはお前の祖母ではない!」
「それでもっ!最後に残った私の家族です!!!」
鴉頭に負けない程の大声で赤頭巾は叫んだ。
真っ赤な両の瞳から大粒の涙をこぼして。
「例え偽物でも、そうだと分かっていてもおばあちゃんの声と顔で頭を撫でてくれたんです!もう家族に取り残されたくないんです!!」
それは孤独な少女の悲痛な吐露だった。
祖母を奪われ、大好きな両親の仇だったとしても赤頭巾にとってはかけがえのない家族なのだ。
それを守るためならば死んでもいいと覚悟を決めた少女に、鴉頭はしゃがみ込んで赤頭巾の肩を掴んだ。
「ひぅっ」
危害を加えられると肩を震わせた赤頭巾に鴉頭は視線を合わせた。
仮面のせいで見えないが、初めて目の合った鴉頭は何故か優しいと赤頭巾は感じた。
「いいか、よく聞け」
「は、はい」
「お前の好きだった祖母は、人を容易く殺す人間だったのか?」
「……違います」
「お前を蔑ろにするような人間だったのか?」
「そんなこと、絶対しません」
「そうだ。獣はお前の好きだったおばあちゃんを穢す害虫だ。生者を侵す許されざる存在だ」
赤頭巾を説得しているはずの鴉頭の肩を掴む力が強まっていく。
「お前に残された選択肢は三つある。このまま獣に殺されるか、全て捨ててこの場から逃げるか。……その目で祖母を見送るか。赤頭巾、自分自身で選べ」
「わ、私は……」
鴉頭の強い視線に貫かれた赤頭巾はかすれた声で逡巡する。
この選択は自身の人生を左右する重要なものであると赤頭巾は理解していた。
自分の気持ちか、命か、祖母の気持ちか。
そんなものはとうの昔に決まっている。
「赤頭巾んんん……絆されるなァああ」
想いを伝えようと赤頭巾が口を開きかけた瞬間、渇いた血を纏った獣が家から身を乗り出して赤頭巾を制した。
だが獣の自由を〈狩人〉が許すことはない。
「さっさとしろ。俺は待たないぞ」
赤頭巾の肩から手を離した鴉頭はこれ以上の言葉は不要だと、獣の方へ向き直る。
その背中が赤頭巾にはとても大きく見えた。
「余計な事を考えるな赤頭巾!この〈狩人〉を殺してまた二人でェ……」
「そう、だよね」
「そうだ!お前は一生私の言うことを聞いていればいい!!」
「もう……おばあちゃんはいないんだよね」
「っ、お前!」
悲しげにくしゃりと顔を歪ませて涙を落としそうになった赤頭巾は、それを自分の手で拭い去ると鴉頭を真っ直ぐ見返して叫んだ。
「〈狩人〉さん!私の家族の仇を、取ってください!!!」
「ああ、それでいい」
赤頭巾の答えを聞いた鴉頭は振り返らない。
だが赤頭巾から見えないその表情はきっと笑顔なのだと、赤頭巾は確信していた。
「これだから・・・子供は嫌いなんだよォォォ!!!!」
「もうお前は口を開くな」
怒号を上げて突貫してきた獣に鴉頭は吐き捨てると首元に向かって【鋸鉈】を振り下ろす。
腕を切断された獣は勢いを変えずに鴉頭の横を通り過ぎた。
(避けたのか)
鴉頭が真っ先に首を狙うと見越して獣は身体を横に逸らすことで致命傷を回避したのだ。
しかし所詮は回避。鴉頭の後ろを取ったのには別の目的がある。
狙いは赤頭巾?
いいや違う。彼女は鴉頭の近くから離れていない。
赤頭巾すら無視して向かった先にあるのは広大に広がる森林だ。
おめおめと敗走するのかと鴉頭が思った矢先。
「ゥオオオオオオ――――――ン!!!!」
獣が森に向かって咆哮を上げた。
母胎型獣には〈狩人協会〉ですら掴んでいない能力があった。
それは【号令】である。
母胎型獣の繫殖能力とは【号令】の副次効果に過ぎず、その真価とは自己増殖個体に指向性の簡易な命令を従わせるというものなのだ。
獣にとって最後に残していた正真正銘の切り札。
勝利を確信した獣が横に伸びた口角を引き裂かんばかりに上げる。
――が、いつまで経っても獣が集うことは無かった。
「なぜだ、なぜ来ない!?」
「哀れなものだな。無知ってのは」
「まさか……いや、あり得ない!」
獣の言う通り、これは有り得ない事だった。
母胎型獣が獣に変異させた木こりと討伐隊の数はおよそ五十である。
【大獣害】とは比べくもない数だが、知能を持たない下級の獣が五十匹も集まれば要塞都市に充分な被害を出せる戦力だ。
それを目の前の〈狩人〉はたった一晩、たった一人でこれを全滅させたのである。
獣が有り得ないとこぼすのも当然だろう。
「幾ら【干渉者】といえどもそんな事は不可能だ!お前、一体何者だ!?」
もはや戦意を失った獣は恐怖を隠すこともできないで喚き散らした。
この時、獣は〈狩人〉にとって『獲物』から『餌』へと成り下がった。
「聞くまでもないだろ。ただの〈狩人〉だ」
「フッ、ザケルナァァァァァァ!!!!!!」
鴉頭の軽蔑に怒髪天を突かれた獣は怒りに逆らわず、その頭を砕かんと大口を開けて突っ込む。
そして分離した頭だけが身体を置いて鴉頭を通り越して赤頭巾の前へ墜ちた。
「は?」
無様にも鴉頭に迫った獣はその勢いを利用されて、そのまま通りすがりに首を切断されたのだ。
あっけない幕引き。
地面に這いつくばった獣が最期に目に焼き付けたのは引き抜かれる自身の頸椎だった。
――――
液状化していく肉の塊を眺めながら赤頭巾はため息がちに安堵の声を漏らした。
「終わったんですね」
「あぁ、こいつはな」
消え去っていく骨灰を鬱陶しげに振り払った鴉頭もまた声を漏らす。
「ぁ……」
不意に自身を射す強い光に赤頭巾は目を細める。
いつの間にか昇り切っていた朝日は、鴉頭と赤頭巾だけを煌々と照らしていた。
次回で第一章完結です。




