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幕間 バケツ被り

本編とは一切関係のない幕間となりますが、バケツ被りくんを知っていただきたくて執筆しました。

まぁもう死んでるんですけどね。


それでも良ければ是非ご一読ください。

 時代は大獣害が起こる更に二十年ほど前に遡る。


 プライセル帝国のとある郊外、その中でも滅多に人の立ち寄らない森の奥にひっそりと聳える教会の門前で一人の赤子が泣いていた。


 赤子はいわゆる捨て子だった。

 縒れたおくるみに手紙もひとつとして残されていない、このまま放置すれば確実に明日を迎える事は無い、身寄りのない孤児がその現状を憂うように慟哭していた。

 まぁ実際はお腹が減っただけだが。


 彼の空腹は置いておいて、この時代において捨て子自体は珍しいものではなかった。


 時は未だ人と人同士が争う時代。

 領地の拡大を狙うプライセル帝国とフラウニースが起こした併合戦争の影響で、夫に先立たれた母親が自身の赤子を手放す事など吐いて捨てるほどあった。

 得体が知れないとはいえ、わざわざ教会の前に捨て置くだけでも幾分かマシな方である。


 そんなありふれた背景で捨てられた赤子の泣き声は流石に教会の中からでも届いたのか、年若いシスターが慌てて飛び出して赤子を見つける。


「まぁ……こんな所に赤ちゃんを置いていくなんて……」


 一目見ただけで全てを察したシスターは赤子を抱きかかえるとさめざめと涙を流した。

 敬虔な信徒である彼女は慈悲深かった。そして利発だった。


「いいえ、これも主の思し召しなのでしょう。新しい家族が増えますね」


 慣れた手つきで赤子をあやすシスターはいそいそと教会の中へ消えていった。



 これが彼の物語の始まりだった。



 赤子はやがて育ち、少年となった。


 少年は大人しく、聡明で、それ以上に優しい人間へ成長していた。


 育ての親であるシスターに憧れを抱き、そうあるべく神父を目指して、実際に洗礼を受けて神父となった。


 幼い頃は騎士になることも夢見た。

 彼の所属する教会には教えがあり、それによると近い将来人類を襲う未曾有の脅威が訪れるというのだ。

 主は、それに抗うために弱き者を育て備えていると。


 そして誰よりも近くで主を守り助ける者だけが『騎士』という名誉ある称号を手にする。

 教会の信徒が目指すその頂点は、神父でも、シスターでも、司教でもなく『騎士』なのである。


 彼も幼い頃はシスターに読み聞かされた騎士に憧れていた。


 だが成長するにつれその考えは変わっていく。

 挫折をしたわけではない。

 彼は優秀で、恐らく望めばその地位に立つことは難しくなかっただろう。


 しかし彼は教会の崇める“主”に対してそこまでの信心を持っていなかった。


 彼にとって最も大事だったのはシスターだった。

 だからこそ主を支える騎士ではなく、シスターを支える神父になることを決心したのだ。


 シスターに見繕って貰った礼服に袖を通し、神父になった彼の一日は始まる。


 この教会は一種の孤児院のようなもので、一般的な祈りの場ではなく彼のような身寄りのない孤児たちを学び育てる場所だった。

 教会に拾われたからといって入信を強制されるわけではなく、傭兵になる者や商人になる者など千差万別である。

 その中でも神父になって残る者は彼が初めてで、現在の教会はシスターと彼の二人で運営されていた。


「しんぷさまー!おはよー!」

「あ、しんぷさま、おはようございます……!」


 彼がシスターの用意した朝食を配膳している間にぞろぞろと起床してきた子供たちが銘々に挨拶を飛ばす。


「おはよう。みんな席に着いてくれ。ルカ、悪いけどシスターに揃った事を伝えて貰っていいかな?」

「はーい」

 

 シスターと神父以外は年端も行かない子供たちが囲む食卓は騒がしく、二人は結局朝食に手をつける暇もなく子供たちの面倒を見る羽目になる。

 だが、彼はそんな忙しない朝が好きだった。


 朝食が終われば子供たちはシスターと勉学に励む。

 その合間に手が空いた彼は家畜の世話と定期的に訪れる商人からひと月分の食糧を受け取ることになっている。

 代金は既に教会側が支払っているらしく、また旨い取引なのか商人たちが配給をすっぽかしたことは今まで一度もなかった。

 

 しかしこの日は違った。


 家畜の様子を確認した後、見回りも兼ねて商人たちとの待ち合わせ場所に向かった彼だが、待てど暮らせど商人は現れなかったのだ。

 

「ふむ……行き違いかな。そんな事は一度もなかったんだけど……一応シスターに報告だな」


 雑務をこなした上に商人を待っていればかなりの時間が過ぎていた。

 昼になれば休憩が入る。この時間になっても自分が帰ってこないとなるとシスターに要らない心配をかけることになってしまう。

 彼は急いで教会に戻るのであった。



「せいばーい!!」


 足早に教会へ戻った彼に待ち受けていたのは中庭で騎士ごっこに勤しんでいた男児だった。

 その辺で拾ったであろう木の棒に、兜代わりに被ったバケツは騎士を模したものか。

 本物の騎士が見れば噴飯ものだろうが所詮は児戯だ。

 騎士を諦めたとはいえ、護身のために日頃から身体を鍛えていた彼は難なく奇襲を受け止めた。


「おっと」

「あっ!?」


 悪戯が失敗したミニマムなんちゃって騎士はぶかぶかのバケツをぶるんと震わせて間抜けな声を上げる。

 打って変わって彼の方は、既に子供たちが昼の自由時間を謳歌している事に微かな焦燥を覚えた。

 もっと幼い子供は昼寝の時間、だがそれは例外なく昼食を終えてからだ。

 つまり彼が商人を待ち呆けている間にシスターが一人で子供たちの面倒を見ていた事になる。


 無論、シスターがそんな事で怒るほど狭量でないのは彼も理解している。

 しかしその事実と彼自身が抱く罪悪感は別問題である。


 真っ先にシスターの下へ駆け付けたい気持ちを飲み込んで、彼はまず男児に向き合った。

 ただの悪戯だが彼にはこれを正す神父としての義務がある。


「マルコ、突然人をぶつと危ないだろう」

「うっ、でも神父さまは平気じゃんか」

「ぶつ相手を選ぶ騎士などいないよ。それよりも先に言うことがあるんじゃないか?」

「……ごめんなさい」

「あぁそうだ。よく言えた」

 

 元々、男児に彼を害するつもりは無かったのだろう。

 少し諭せば謝罪の言葉はすんなりと出てきた。


「それにしても良い兜じゃないか。似合っているよ」

「そ、そうかな……?おれ、大人になったら騎士になってシスターと神父さまを守ってあげるんだ。できるかな?」

「きっとなれるさ。その為にももっと勉強しないとな」

「…………がんばる」


 随分と嫌そうに言う男児の頭を撫でて、彼はシスターの下へ急いだ。



「申し訳ありません。遅くなりました」

「あら、心配したのよ。何かあったの?」

 

 改めて教会に戻ってきた彼は早速シスターに報告を行った。


 家畜の様子に問題がないこと、教会の周辺は変わらず安全だったこと、そして何故か食糧配給の商人たちが現れず待ちぼうけを食らったこと。

 全ての報告を最後まで聞いたシスターは、やはり商人たちの不在に思案顔を作って唸った。


「そうですか……そんな事はあり得ないはずなのですが」

「ええ、これまで無かったですし……私が落ち合う場所を間違えた可能性も捨てきれません」

「いいえ。貴方がそのようなミスを起こしたとは考えられません。やはり商人側で何かあったのでしょう」

「まぁ、ある程度なら食糧も持ちます。シスターは本部に連絡を?」

「はい。今は取り敢えず経過を待つしかありませんね。貴方には苦労を掛けました」

「いや、苦労を掛けたのは私のほう……」


 再び謙遜を重ねようとする彼の口をシスターが人差し指で遮る。


「これ以上の卑下は許しません」

「シスター、でも……」


 申し訳なさそうに眉尻を下げる彼に対してシスターは口元に当てていた人差し指を自身の口元に寄せると悪戯気に笑った。


「だって、お話が進まないもの。ね?」

「……それは確かに大変だ」

「ふふ、でしょう。だからこの話はおしまい。そんなことより子供たちはどうだった?」

「変わらず元気ですよ。マルコの奴なんか……」


 シスターが変えた弛緩した雰囲気に彼は乗っかって、しばし彼女との二人きりの会話を楽しむのであった。


 

 それからは不可解な事は何も起きなかった。

 夕方から夕飯まで子供たちの面倒を見て、それから彼らが寝た後は明日の支度、夜の見回りを終えた彼はシスターに挨拶を済ますと自室のベッドで眠りについた。


 そしてその日が彼の覚えている。



 ――最後の平和な日常だった。



 どうして目が覚めたのか、彼には分からなかった。


 物音だったのか、悲鳴だったのか、それとも全くの偶然か。

 だが窓の外の暗闇に、身体が朝の訪れに反応したわけではない事だけは分かっていた。


 不意の覚醒のためか冷や汗と動悸が止まらない。

 苛む頭痛に眉を顰めながら彼は教会の台所へ向かった。


 無性に喉が乾く。

 胸の奥から湧いてくる虚無感と不快感は今まで彼が体験したものの中で比べられないほど酷かった。


(クソ……なんなんだ、これは)


 水を飲みながら止まらない冷や汗を彼が乱暴に拭っていたその時。



 ――ぐちゃ、ぐちゃ。



 一定に鳴る水音のようなものを耳が拾った。

 水音というには不愉快な、粘着質なノイズが礼拝堂の方から確かに鳴っていた。


(いや、ここから礼拝堂は近くない。なぜそれが分かる?)


 聞き取れるかも怪しい音を、それも出所までを瞬時に判断した自分に彼は疑問を抱く。

 しかしこれが山勘に頼ったものではない事をほかでもない彼自身が理解していた。


 取り敢えず見に行くしかない。

 何故かそう判断する本能に従って本来なら蠟燭がなければ何も見えないほどの暗闇の中を、彼は悠々と歩いていった。

 

 歩を進めていけば進めるほど不愉快な水音は大きくなっていく。

 疑いようもなかったがやはり音の出所は礼拝堂内のようだ。


 一体こんな時間に誰が、何の目的でこんな不愉快な音を鳴らしているのだろうか。

 ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃと、まるで……まるで、なんだろうか。

 こんな音は聞いたことがない。


 だがその答えはもう直ぐ分かる。


 この礼拝堂の扉を開けば、全てが分かるはずだ。


 警鐘のように鳴る心臓の鼓動も収まるはずだ。


 何故か震える黒い体毛が茂った手で両開きの扉を開く。



 ――この時、人間としての彼は死んだ。



「……は?」


 あの暖かな礼拝堂は真っ赤な血に沈んでいた。

 数多の子供たちだったであろう死体が乱雑に散らかされたまま。


 その四隅で“獣”が小さな肉塊にかぶりついていた。


 森で見かけるような獣ではない。


 それは初めて目にする生物だった。

 一般的な成人男性程度の体格に血走った瞳。四つん這いになってはいるものの肩を大きく開いて足を窮屈そうに縮めている姿はまるで人間のようだ。

 だが全身にびっしりと生えた体毛と遠目から光る牙がこの生物を獣であると形容していた。


 ともあれ、あの不愉快極まりない音はこの獣が肉を咀嚼している音だったのだ。


 その光景を見て彼は混乱していた。

 少なくとも一切の状況を理解できなかった。


 ――しかしその獣を目にした瞬間、自分でも気付かぬ内に彼は飛び出していた。


 無意識にではない。彼はこの感情を知っている。

 これは怒りだ。憎悪だ。確固たる殺意だ。


 あの獣が子供たちを()()()()()()()()()

 彼は自身でも気付かないほどに簡単に子供たちの死を受け入れていた。


 だって、そんな事はどうでもよかった。

 あの獣が平気な顔をしてのさばっていることの方が堪えられない。堪えてはいけない。


 殺さなくてはならない。


「……っらァ!!」

「ギャァ!?」


 彼に気付かないほど夢中で肉に食らいついていた獣は背後からの奇襲に悲鳴を上げる。

 身体を仰向けに倒した獣に上から乗り上げた彼は寸分の間も開けず獣の首を両手で締めた。


「っが、ぁあ、死ね、死ね、死ねよぉ……!!」

「ギ……ッ、ゥ……」


 譫言のように殺意を言葉にする彼の両手が獣の首をぎりぎりと音を立てながら締め上げる。

 

 獣は苦しみながら呻き声を上げているが、それでは彼には足りなかった。

 そう、足りない。

 まだ死んでいない。殺せていない。


「なら、首をへし折ってやるっ……!」

「ギゥ……ァ、ガァ!!」


 彼の爪が獣の首の皮の下に食い込むと同時に獣も反転攻勢に打って出た。

 地面に落ちていた自身の腕を持ち上げて彼の顔面にめがけて振り上げる。

 

「……ゔっ!?」


 両手が塞がっている彼は防御姿勢も取れずに顔面への殴打をモロに食らう。


「……フーッ、フーッ、その、ていど……かよ……っ!」


 爪の生えた拳が直撃した彼の右目から潰れた眼球と血液がぼたぼたと滴るが、それでも彼は手を緩めなかった。

 寧ろその痛みと熱を怒りに変換してより手に込める力を増していく。


「ァ……ッ…………」



 ――ぐちゅ、バギッ。


 最初に肉の潰れる音が、次いで首の骨がへしゃげたような音が鳴ると、牙を剝き出して呻いていた獣も血の混じった泡を噴くと、終ぞ動くことはなかった。

 彼は偶然にも獣の弱点である頸椎を破壊していたのである。


「はぁっ、はぁっ……!はっ、はは……やった!死んだ、死んだぞ……!」


 手のひらにこびりついた獣の首の肉片と体毛、そして血液を握りしめて彼は歓喜に打ち震える。

 

 獣の死体がどろどろの粘液に溶けていくのも束の間。

 急速に冷えた彼の脳裏に一人の人物が浮かび上がってきた。


「ははっ、はっ…………そっ、そうだ、シスターは!?」


 言わずもがな、彼にとって最愛の人であるシスターだ。

 辺り一面に転がる子供たちの死体は、文字通り子供の死体ばかりでシスターらしきものは見当たらない。

 

 つまりシスターはまだ生きている可能性が高いということになる。

 

 先ほどは自身でも不思議なくらいに獣への殺意が抑えきれなかった。

 いや、今でもそれは変わらないが、殺すべき対象が居ないので多少は落ち着いている。


 そして冷静になった頭は置かれている状況を理解し始めていた。


 教会の中心に位置する礼拝堂。

 その最奥にはこの教会の託児施設の性質上、教壇や懺悔室ではなくシスターの私室が所狭しと設置されている。


 いつあの獣の襲撃があったのか彼には知るすべがない。

 しかしシスターが全員を礼拝堂に集め、あろうことかそこが襲われ、最終的に私室に逃げざるを得なくなった。


 そういった推測が立てられる。

 シスターだけが私室に逃げ込むかは彼女の性格を鑑みると違和感が浮かぶが、取り敢えず確認した方が早い。


 彼は急いで奥の扉に手をかけるが開かない。

 どうやら鍵をしているらしい。獣のことを考えれば当然だろう。

 しかし今は一分一秒でも惜しかった。


「フッ!」


 やむなしと彼は更に力を込めて扉を押すと鈍い音を立てて扉が開く。


 そこには薄暗い闇の中でへたり込むシスターが怯えた顔で彼を見つめていた。

 青ざめた表情と、きつく閉じた瞳から涙がこぼれている。

 その様子はあの惨状に怯えているというより、たった今扉を開けた彼に怯えているようだった。

 シスターの過剰な反応に首を傾げながらも彼はシスターの方へ近付いた。


「シスター?無事だったんですね!?」

「貴方は……もしかしてヴァルなのですか?」


 やはりというべきか。

 如何やらシスターは彼を彼だと認識できていなかったようだ。


 では何故か?


 目覚めたときから感じていた違和感。

 それが今さら首をもたげてきたのを彼は感じていた。


 どうしてこの惨状を経てなお一切目覚めなかったのか?

 どうして恐ろしい化け物があれほど憎かったのか?

 どうして敵うはずのない獣を容易く屠れたのか?


 ――どうしてシスターの瞳に映る自身を認識したくないのか?


 恐怖と焦燥に震える身体がふと、シスターの私物であるドレッサーの鏡に映る自分を見つけてしまった。



 薄暗い闇の中で鏡に映し出された彼の姿は、あの礼拝堂で子供たちの骨をしゃぶっていた()()()()()()だった。


 どれだけ鍛えようと人間にはおおよそ付かないであろう筋肉。

 顔まで覆いつくすどす黒い、返り血に照らされた体毛。

 そして血走った瞳とあまりに醜悪な獣面。


 あの唾棄すべき醜い獣に、自分自身が身を窶しているという事実に彼は耐えられなかった。


「こ、こっ……これ、が、おれ……?」

「ヴァル……」


 覚束ない足取りで鏡ににじり寄った彼はシスターの声も無視して、自分の顔にそっと触れる。

 その手から届く情報は彼の姿が間違いないものであることを伝えていた。

 

 ざらざらの肌に気色悪いほど生えそろった体毛は触れても、抓っても、剝がれることなく彼の身体に縫い付けられていた。


「ちがう……違う。ちがう、チガウチガウチガウ……!」

 

 ――ガリガリッ!


 もはや正気を失った彼は譫言を並べながら自身の醜い顔面を己の手で搔きむしり始めた。


「こんな……こんなのっ!俺の顔じゃない!!俺のじゃっ、ない……!!」


 ――ガリガリガリガリッ!!

 

 懸命に、嗚咽と涙を流しながら彼は自身の顔面を執拗に爪を立てる。


 例え顔からどれだけ血が流れようと、搔きむしった爪に毛が詰まろうと、そんなことよりも顔面に張り付いた獣面を剝がすことの方が重要だった。

 

 「はっ、ひゃはは!よし、よしよしッ!!剝がれてきたっ!このっ、醜い獣が!!……死ね、死ね死ね!!」


 実際は毛と生皮が剝がれて血まみれになった肉の表面が露出しているだけだが、そんな真実は彼にとって心底どうでもよかった。

 鏡に映る(じぶん)を殺したくて堪らなかった。

 だがどれだけ剝がしても獣となった彼の顔はその程度の傷など忽ち治癒してしまう。


 故に彼の自傷行為は永遠に続く。


 そうなるはずだった。


「やめなさい!」


 必死に顔を搔きむしる彼の腕を、汚れることも厭わずにシスターが両手で包み込んで制止する。


「シス、ター……?」

「これ以上はやめて!おねがいです……!」


 自分以上に泣きながら引き留める悲痛なシスターを見て彼もその手を止める。

 それでも獣の殺意に震える腕を抑えながら彼はシスターに向かって感情をぶつけた。


「でも、シスター!おれは!……俺は……化け物です」

「そんなこと……」

「こんな姿の人間なんていないでしょう!?主も、主だろうと……俺は救えない」

「それは、ですが……」


 彼はこの切迫した心境でも冷静だった。

 教会の流布していた終末論とはこのことだったのだ。


 人類への未曾有の脅威。

 まさか未知の獣の襲来だとは予想だにしなかったが、その人類そのものを変異させるのであれば納得もできる。

 そして今や彼はその教会の仇、叛逆の使徒という訳だ。


 腐っても騎士を目指し、洗礼を受けて神父にまでなった彼にとってこの事実は抱えるには余りにも重かった。


「……そうだ!シスター、俺を殺してください。貴方になら……いや、他でもない貴方に殺されたいんです!」

「バカな事を……うぅっ」


 彼の嘆願を尚も拒否するシスターだったが、突然彼にもたれかかる形で倒れこむ。

 

「シスター!?」

「……ごめんなさい。私ももう……」


 咄嗟にシスターを支えた彼の目に彼女の腹部からの夥しい流血が飛び込んでくる。

 薄暗くて彼は気づいていなかったが、彼女も既に獣の凶刃に倒れていたのだ。

 あの青ざめた顔は怯えだけでなく血色も失っていたのである。

 

「そんな……!教会は!?騎士の連中は何を……!」

「ヴァル……ヴァリマール。逃げなさい」

「…………は?」


 彼の胸の中で、呻くようにシスターは彼に逃走を促した。

 久しくシスターの口から聞いていなかった自身の名前を耳にすることで、彼はシスターの真剣さを思い知る。


「でも、シスターが!教会の支援さえ待てば……」

「いいえ。獣となった貴方を主は絶対に許さないでしょう。そしてその貴方を擁護する私も」

「っなら!俺を殺せばそれで全て解決する!!そうだろう!?」


 彼とシスターは再び押し問答に立ち戻る。

 彼の言う通り逃げる必要などなかった。

 死にたい彼と、生き残るべき敬虔なシスター。答えは自明の理だった。


「それは、できません」

「どうして!?」

「私にとって最も大事なものは、主でも、教えでもない……子供たちです」


 腹部を抑えて痛みに喘ぎながらシスターは必死に心情を語る。

 その気丈な姿は、彼に反論を許さないほど強いものだった。


「その子供たちも貴方を残してみんな死んでしまった。貴方まで失う訳にはいかないのです……」


「私が拾った子供の中でも、貴方は特に私の事を気にかけてくれていました。そんな貴方だけでも生き残ってくれた。これもきっと運命なのでしょう」

「も、もういい……!これ以上、今生の別れのような言葉はやめてくれ!!」

「バカな子ね……。最期だからこうして話しているのよ……?」


 涙と血を流しながら微笑んだシスターは、すっかり変わってしまった彼の頬を昔と変わらない優しさで撫でる。

 

「もう一度だけ言うわ」


「逃げなさい。逃げて、生きなさい。例えどれだけ辛くても、生き延びて……」

「や、やめてくれ……置いていかないで……独りは嫌だよ…………母さん」

「もう……本当に……っ」


 もはや息も絶え絶えになりながら首を振る彼を見て、シスターは今更死期に向かう自身を呪った。

 彼は、ヴァリマールは、シスターにとって確かに家族で、息子だった。

 彼女も彼の行く先を見届けたかった。獣に堕ちた彼を救ってあげたかった。


 だが、それはもう叶わない。


 だからシスターはせめて、死の間際で彼に一言だけ、しかしどの言葉よりも伝えたい言葉を紡いだ。


「ヴァリマール……愛し、て……る……」

「あ、ぁああぁ、待て、待って……」


 彼の言葉を嘲笑うように、時間も、シスターも、誰も彼を待たなかった。

 彼の頬に添えていたシスターの手は重力によって地に落ち、動かなくなったシスターはただの肉塊に変わってしまった。



 たった一人残された彼は満足するまで泣きわめくと、シスターの遺体を抱きかかえて礼拝堂に戻ると他の子供たちの遺体のすぐそばに彼女をそっと横たわらせる。

 彼の葬った獣は既に粘液と化して辺りの血だまりに溶けていた。


 嗚咽交じりに礼拝堂を出た彼は教会の敷地内全てに火を放った。

 ここに存在していた全ての子供たちが、シスターが、思い出がもう戻って来ないように。


 

 ぼうぼうと煙と灰を吐き出すかつての家を彼が眺めていた時、不意に適当に捨て置かれたバケツが目に入る。

 

 つい先日、マルコという少年が騎士の兜を模して被っていたバケツだ。

 きっと遊び終わった後に片付けもせずに捨てたのだろう。目出し穴の付いたバケツなど何の価値もない。

 だが、醜い獣の顔を隠すぶんにはちょうど良かった。


「皮肉なもんだな……」


 所々が錆びているみすぼらしいバケツを彼はおもむろに被る。


 幼いマルコには大きかったそれは皮肉にも彼の頭にすっぽりと嵌った。


「シスター……俺は生き延びてみせます」


 被ったバケツのせいでくぐもった声を出しながら彼は亡きシスターに誓いを立てる。


「生きて、生きて、生き延びて……」



「そして、殺してみせます」



「獣どもも、俺たちを見捨てた教会の連中も、全部、ぜんぶ、ぶち殺してやる……」



「殺して、殺して、殺し尽くしてやる……!!」


 それは誓いというより呪詛の類だった。


 瞋恚の炎が、教会を、家族を、獣を、――彼を、燃やしていた。


 

 炎に照らされた地面に映る彼は、人間でも、獣でも、ましてや騎士でもない。



 この日、彼は狩人になった。


 彼の名は、“バケツ被り”。



 彼の物語の行く末はまだ誰も知らない。




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