第二話 鴉の来訪
満を持して主人公の登場回です。
赤頭巾が森に入って暫くした頃。
「ここ、どこ……?」
赤頭巾は森の中を彷徨っていた。
赤頭巾の本来の目的である薬草探し自体は順調に進んでいた。いや、順調に進み過ぎていた。
獣が現れた事により手付かずだった森には、貴重である筈の薬草が広範囲に茂っており、実はちょっぴり外で歩きたいと考えていた赤頭巾は調子に乗って森の奥深くまで潜ってしまっていた。
結論として、赤頭巾は迷子になっていた。
そもそも森とは似たような景色の続く迷いやすい場所であるにも関わらず、故郷とは言え森に立ち入ったことの少ない赤頭巾が迷子になる事は当然の帰結である。
だが当の本人にその自覚はないのだからタチが悪い。
「ど、どど、どうしよう?」
赤頭巾は今も目に涙を溜めながら不安の声を漏らした。
態度は大人びていても赤頭巾は未だ十代の子供である。
ましてや、自業自得とは言え獣の居る森で独りとなればその恐怖は想像に難くない。
そして、赤頭巾の恐怖を助長するように森は不気味なまでに静まり返っていた。
生物の気配がしない、と言うのだろうか。
赤頭巾もよく知る村の若衆が一人残らず帰って来なかった森だと言うのに、獣の気配どころか小鳥の囀りすら聞こえて来ない。
やはりこの森は何処か異常性を孕んでいた。
赤頭巾に残された選択肢は二つ。
進むか、進まざるか、である。
恐らく、いや必ず迎えは来ない。
両親は既に赤頭巾を置いて行き、祖母はそもそも家から出る事はできない。あの親身な老人も森に入るほどの危険は冒さないだろう。
だがこの場から動かなければ少なくとも命を落とす事は無い。少なくとも今すぐは。
逆に何の目処も立てず森を彷徨い続ければ、村に帰られるかもしれないが、獣に発見されるリスクも増える。
ただでさえ悪い現状が更に悪化する可能性もあるという事だ。
自分で蒔いた種とはいえ、それは少女に対して余りにも酷な選択だった。
赤頭巾は少し悩んだ後、口を固く閉じてぴしゃりと自らの頬を叩いた。
「……進もう」
赤頭巾が選択したのは、前進。
彼女には勇気があった。
例え両親に見限られようと、家に一歩も動けない祖母が居ようと、生きる事を諦めず必死にもがくことの出来る、強い女の子であった。
故に赤頭巾が前進を選ぶ事は必定である。
だが世界は、そのどちらの選択肢も許さなかった。
「……ゥルル」
静寂だった森に、低い唸り声が響いた。
「え?」
赤頭巾は背後から聞こえたその音に気が付いて後ろを振り向く。
だが何も居ない。
一旦間を置くと今度は何処からかガサガサと草を掻き分ける音が響く。
その音は先程より大きく、また鮮明に赤頭巾の鼓膜を揺らした。
(聞き間違いじゃない)
赤頭巾は咄嗟に口を塞いで周囲を警戒する。警戒した所で意味があるかは判らずとも。
――ガサガサッ!
「ひっ」
音は間違いなく赤頭巾の方へと近付いていた。
もしや気付かれたか、と赤頭巾は勘繰ったが、そんな筈はないと首を振る。
確かに不用意な独り言は多かったかもしれないが今の今まで何も起きなかったのだから。
だから、そんな筈はない。
――獣に、気付かれる訳がない。
どっ、どっと、何かを叩く音がする。
はっ、はっと、何かを吐く音がする。
それが自らの発した音だと、ついぞ赤頭巾が気づく事は無かった。
何故なら次の瞬間、薄暗かった森の暗闇が更に濃くなったからだ。
全神経を過敏なまでに働かせていた赤頭巾は、反射的にその場から飛び出した。そしてそれは、奇跡だった。
「グルァァァァァァァァ!!!!!!」
「ひやぁぁぁぁぁぁぁ!!!???」
ついさっきまで赤頭巾が居た場所に獣が降ってきたのだ。
あの草を掻き分ける音は赤頭巾の前後左右から聞こえていたのではなく、その頭上から響いていた。
つまり、獣は木々の上を通って赤頭巾を強襲してきたのである。
咄嗟に避けた赤頭巾といえば、自分の行動を信じ切れないように固まっていた。
だがしかし、これで赤頭巾に残された選択肢は一つだけとなった。
「はぁ、はぁ、っ、きゃぁぁぁぁ!!!」
――即ち、逃走である。
――――
赤頭巾の少女が村を後にして間もなく、一つの巨大な人影が『アルスフェルト村』と書かれた壊れかけの看板を横切った。
寂れているものの、ある程度は整備された林道を人影がずかずかと迷いなく進んで行く。
その人影は約二メートルに届きそうな身長で、その身を包むのは全身真っ黒のトレンチコート。
更にインナーにズボン、靴に至るまでが黒く街中に居れば憲兵に警戒されてもおかしくない風貌だった。
だがもっと奇怪な部分が目立つ所に有った。
それは顔である。
これまた黒い、シルクハットとロビンフッドハットの中間みたいな帽子をかぶり、顔には鳥類を思わせる長い嘴が付いた仮面を着けていた。
道化とも言われ兼ねない背格好の人影だが、この世界でそう思う人間は居ない。
「ここが例の村か」
その低くしゃがれた独り言から、人影は男のようだった。
手に持った地図と羊皮紙を見比べると確認を済ませたのか、そのまま門番の居なくなった村に足を向けた。
仮面の男の腰にぶら下がった鋸のような巨大な刃物が太陽に照らされて怪しく光る。
仮面の男の名前は、鴉頭。
この村に派遣された〈狩人〉である。
鴉頭は早速村に入ると、ずかずかと足を進めていく。
ここまで辺鄙な村に来た事は無い上に恐らく歓迎されないだろうが、鴉頭は自信を持って歩を進めた。
鴉頭は小さい事を気にしない狩人なのである。
やがて村の中心部に近付いて行くと白髪の老人が目に入った。現地人だろう。
目に付いた男は穏やかそうに森の方向を見つめていたが、鴉頭の気配に気がつくとその雰囲気をガラリと変えた。
「お前……!〈狩人〉か!?」
全くの初対面。にも関わらず老人は鴉頭に敵意を剥き出しにして睨みつけた。
だが、鴉頭はそんな虚仮威しに怯むような男では無かった。
「あぁ。“獣”が出たらしいから俺が来た。この村の〈鐘鳴らし〉は何処にいる?」
「……狩人に話す事は無い。失せろ」
「そうか。邪魔をしたな」
初めから返答に期待していなかったらしい鴉頭は、適当に礼を述べると老人の前を平然と横切った。
老人も態度以上に鴉頭を追求するつもりは無いのか、睨み付けるだけでその場から動く事は無い。
そして鴉頭も仲良く笑って雑談出来るとは思っていなかった。
老人がおかしいのではなく、〈狩人〉に対する態度とは世間一般的にあんな物だったからだ。
【大獣害】によって衰退した人類だったが、やがて“獣”を殺して回る集団が現れる。
それが〈狩人〉であった。
“獣”と同じ膂力と再生能力を持ちながら、人間としての理性をも持つ〈狩人〉は狂ったように“獣”を蹂躙したのだ。
まるで今まで殺された人類の怒りを体現するかの如く。
〈狩人〉に勇気付けられたのか、はたまた“獣”の数が減ったのか。
斯くして反転攻勢を強めた人類は何とか絶滅という最悪の事態を免れ、今に至る。
しかしまた別の問題が起きた。
各地で暴走する〈狩人〉が散発し始めたのだ。
誰彼構わず殺すならまだしも、“獣”の兆候が見られると言って無作為に人々を殺して回ったのである。
恋人を目の前で殺された者、自身の子供を殺された者、兎に角被害者が後を立たず、結果として〈狩人〉は憎悪と畏怖の対象となった。
つまり〈狩人〉は“獣”を殺す力を持ちながら、いつ人殺しを始めるか分からない、出来れば関わりたくない相手なのだ。
閉鎖的な村に現れたとなれば、その警戒が露骨になるのも頷ける、と鴉頭は思っていた。
幸いにもアルスフェルト村は都市ほど広くはない。
矢鱈と目立つ場所に建つ関所に目を付けた鴉頭は変わらぬ足取りでそこへと向かった。
自分を出迎えた村の看板からここに至るまで相変わらずボロい村の施設に顔を顰めながら、と言っても仮面をしているため表情は見えないが、鴉頭は『狩人協会支部』と書かれた表札のある木の扉を開いた。
部屋に入ってすぐ、左側にあるカウンターには誰も居ない。小さな村にまで協会の人員が割けない事は鴉頭も承知している。
寧ろ口出しされない分、手間が省けて好都合ですらあった。
誰もいない事を良い事に鴉頭は無遠慮な足取りのままカウンター脇にある階段を登って行く。
――チリーン、チリーン。
頂上に近づくにつれ、不気味な、それでいて何処か心地よい鈴音が聞こえてきた。
(感心だな)
ここまで村の人口が減っていて尚、鈴を鳴らし続ける〈鈴鳴らし〉に鴉頭は感嘆の混じった感想を吐く。
だが鴉頭が背後に立った今でも、〈鐘鳴らし〉はその存在を無視するように鈴を鳴らしていた。これにもまた、鴉頭は慣れていた。
「おい」
「……おや」
鴉頭が声をかけると漸く〈鐘鳴らし〉は振り向いた。
黒いローブをすっぽりと被った痩せ細った身体の〈鐘鳴らし〉の顔は、幽鬼の様に真っ白の肌に無表情を浮かべている。その手には小さな鐘を持っており、鈴音の出所はこれである。
声を出した割に白々しい態度だと思いつつ、既に今更なので鴉頭は早速本題に入った。
「獣が出らしいな。数は?」
「知らない。だが出たのは確実だ」
「……そうか。分かった」
言葉少なに会話を交わした鴉頭は、必要な情報は得たとばかりに頷くと既に〈鐘鳴らし〉から背を向けていた。
〈鐘鳴らし〉もまた鴉頭に興味を失ったのか、もう鈴を鳴らし始めていた。
〈鈴鳴らし〉は『狩人協会』が派遣した言わば見張りである。
工作員でも無ければ、ましてや狩人ですらない彼等に鴉頭が期待した事など無く、またその考えが覆された事も無い。
(獣が見つかっているだけマシか)
獣の殺害から発見に至るまでが自身の仕事であり、悲願でもある事は鴉頭も自覚していた。
故に彼は無駄を厭い、依然として歩みを止めず森へと向かうのだった。
――――
「さてと……まずは何処から手を付けるべきか」
鴉頭は誰に問う訳でもなく、目下の課題について独り言を呟いた。
場所は広域に広がる森林。その上獣の所在は不明。
この時点で絶望を覚えそうなものだが、鴉頭は森の探索に対して経験がある。
自身の装備を確認しつつ、鴉頭は培った経験に沿って獣の捜索を敢行した。
まず〈獣避けの鈴〉がある為、村近辺に獣が居ないと踏んだ鴉頭は、懐に忍ばせていた短刀で木を切りつけ始めた。
森で迷わないように、自然では付くことのない水平な切り傷を目印にする為である。
次いでまだ踏み荒らしていない地面を確認する。
そこにはぬかるんだ地面と、以前から付いていたであろう野生動物の足跡。そして、目新しい小さな人の足跡が残っていた。
「なんだ?この足跡」
疑問に思いつつ、その答えは一つしかない。
つまり十代程度の少年、又は少女が鴉頭より前に森に踏み入ったと言うことだ。
「……村の連中は何を考えている」
獣が出た森に子供一人で放るなど正気の沙汰では無い。最もあそこまで寂れた村で森に入る子供を咎める人間が残っているとは思えないが。
少なくとも今すぐ結論が出る問題では無い。出たとすれば面倒が増えたという結論だけだろう。
森の状態を見て僅かな逡巡を終えた鴉頭は独りごちる。
「少し急ぐ必要がありそうだな」
だが悠長に森の観光を続けている訳にも行かなくなった。鴉頭に元々そんなつもりは微塵も無かったが。
〈狩人〉に村民を助ける義務は無いのだが、獣に人が喰われるのもそれはそれで癪なので、鴉頭は獣の撲滅と村民の救出を並行することに決めたのだった。
“獣”は悪食である。
と言うのは『狩人協会』が公式に認めた獣に対する特徴の一つである。
獣はその悉くが脅威的な再生能力を持つ。
四肢は幾ら切断しようと生えてくるし、全ての生物に共通する弱点の首ですら致命傷にはならない。
しかしその代償として獣は消費熱量が人のそれとは比べ物にならないほど大きいのだ。
故に獣は目に映る物を全て喰らう。
あの【大獣害】の原因も殆どは獣が飢餓状態であった為と今では言われている。つまり腹ペコだったから人を襲った訳である。
獣の死因の十パーセントは餓死とも言われているし、とにかく獣は生態系を破壊するほど過剰に喰い殺すのだ。
それはこの森でも変わらないようだった。
獣が出た森は静まり返る。何故なら獣が森に棲む生物を全て喰い荒らすからだ。
「だがそれにしても静か過ぎるな……」
獣が森の生物を喰い荒らすと言っても、勿論優先順位が存在する。つまり、獣も殺す相手を選ぶと言う事だ。
実際、高所に逃走できる鳥類などは生き残るケースが多い。
だが鴉頭が森に入って未だ囀りさえ聞こえてこない。
ここまで末期状態の獣害が出ている事は非常に稀有だ。
しかしここまで稀有過ぎると逆に作為的にすら鴉頭は思えてきた。
何より森の生物が全滅するほど獣が森に長居しているのに、何故未だ村に一切の被害が及んでいないのか。
「まさか母胎型獣が……?」
鴉頭がある一つの可能性に気付こうとする瞬間。
「きゃぁぁぁぁ!!!」
少女の叫び声が森に木霊した。
「っ!!」
鴉頭は思考の沼に陥った自身を無理矢理に引き揚げ、叫び声のした場所まで走り出した。
〈狩人〉は身体能力が人間に比べて非常に高く、聴覚も例外ではない。
ただの人であれば位置を特定できない様な声だろうと、〈狩人〉である鴉頭は一瞬にしてその出所を察知した訳である。
「間に合えよ……!」
鴉頭にしてみれば、鴨が葱を背負ってきた状況だが、葱が鴨に喰われる可能性がある今、悠長にしては居られなかった。
鴉頭はこれまた一般人を凌駕する速度で、少女――赤頭巾の場所まで駆け出したのであった。