第二十二話 逃走劇、再び
時刻は鴉頭が未だ獣の対処に取り掛かっている頃に戻る。
赤頭巾は包丁を構えながら獣と対峙していた。
慣れない重みに手を揺らしながら瞬きを忘れて獣を見据える。
だが赤頭巾の態度に反して、目の前の男は安っぽい笑みを貼り付けていた。
「こっ、来ないんですか!?」
「おいおい、そんな刃物を向けられたら怖くて近づけねぇよ」
(絶対嘘じゃん……!)
怯える赤頭巾を嘲るように獣は両手を上げてひらひらと振る。
獣の真意を探らせない言動に赤頭巾は子供じみた感想を胸中で叫んでいた。
「ま、悠長に構えてる暇もねぇしな。さっさとやるかぁ」
「っ……」
話し合う余地など疾うになかったが、それでも時間稼ぎすら不可能になった事で赤頭巾は体を強張らせて思わず鴉頭がいた方向に視線を送る。
赤頭巾の様子を目敏く観察していた獣はそれに気づくと下卑た笑みを一層歪めた。
「あぁ、それともカラス野郎に助けでも求めるか?」
赤頭巾は一瞬、本当にそうしようかと悩み、だが即座にその考えを放棄した。
目の前の獣に追われながら複数体の獣に囲まれる鴉頭に助けを乞う事など、ただでさえ足手まといである自分が更に危険を増やす愚行だろう。
いや、それでも鴉頭なら状況を打開する事は可能だろうと赤頭巾は自身の英雄に信頼を寄せていた。
今だって獣に相対する恐怖と不安を鴉頭に取り払って貰いたい。
――だけど。
(私だって……狩人だから!)
これから先までずっと鴉頭の荷物になる気など、赤頭巾には毛頭なかった。
「あなたは、私が倒します!」
「言うねぇ。ならかかって……」
「では!!」
胸に宿る闘志を燃やしてあらん限り声を上げた赤頭巾は獣の反応を待たず背を向けて逃げ出した。
「……はぁ!?」
赤頭巾の宣戦布告を目の当たりにしていた獣は当の本人が一目散に退散したことで驚きの声を上げる。
だが赤頭巾は何も無策で逃走を選択した訳では無い。
獣の目的は赤頭巾の殺害ではなく、確保であると獣本人が宣っていた。
つまり赤頭巾が真に取るべき行動は鴉頭の到着まで獣に拐かされないことである。
そしてあの獣は油断が故か獣化に至っていない。
赤頭巾が付け入る隙はそこしか残されていない事を彼女自身が深く理解していた。
だからこそ敢えて無謀な決意を聞かせて獣の油断を誘いつつ、目的を悟られないように家屋に向かって逃げ出したのである。
「この期に及んで鬼ごっこかよ」
面倒そうに吐き捨てながらも赤頭巾の思惑になど意識を割かなかった獣はおめおめと彼女を追うのだった。
「とっ、おぉい!」
「はっ、おままごとか?」
家屋に逃げ込んだ赤頭巾は所々に血痕を残した家具を倒しながら惑っていた。
小柄な身体を駆使して身を隠す事も考えたが、先ずは獣の意識をより自分に向ける事が先決だと判断した上での行動である。
赤頭巾にとっての最悪の結果は自分もろとも獣が鴉頭から離れてしまう事だがもう一つ、獣が赤頭巾すら無視してこの場から離脱する可能性も孕んでいた。
恐らく最も有力な情報を持つ獣をみすみす逃がすことは鴉頭にとっても好ましくないだろう。
ならば多少の危険を飲み込んで獣の視野をもっと狭くしようと赤頭巾が画策するのも束の間。
赤頭巾は普通に捕まりそうになっていた。
「ちょっ、速くないです!?」
地に伏した家具を背景に息を絶え絶えにしながら赤頭巾は声を上げる。
その間にも如実に赤頭巾との距離を縮める獣は、少女然とした赤頭巾ほど小柄でないとは言えその体躯を生かして倒れた棚や、時には壁を足場に赤頭巾を追い詰める。
その顔には疲労を一切感じさせないあの軽薄な笑みが変わらず浮かんでいた。
「甘いなぁ器の嬢ちゃん。狙いがみえみえだぜ?あのカラス野郎を待ってるんだろ?」
「うぐ、それは……」
「ま、無駄だけどよぉ。雑魚とはいえあの数の獣は流石に瞬殺できねぇ。アテにするだけ無駄だ」
「そ、そんなの」
ともすれば鴉頭を侮るような獣の発言に赤頭巾が反論しようとしたその時だった。
――ヴゥオオオオ……!
これまでとは一線を画す意思を感じさせる獣の雄叫びが赤頭巾たちにも木霊する。
それを聞いた赤頭巾は鴉頭の優位性を確信すると獣に倣って不敵な笑みを浮かべた。
「わからないんじゃないんですか?」
「……だな」
同じく獣の咆哮を耳にした獣は目を細めると身体の動きを加速させる。
だがそれは赤頭巾が狙っていた獣の焦りという隙だった。
「……今!」
獣が足元も見ずに家具を足場に飛び越えて赤頭巾に差し迫った所で彼女は進行方向を反転させる。
敢えて小柄な自身であれば通れるほどの隙間を作りながら家具を倒していた赤頭巾は、それらを一切動かすことなく家屋の入口から脱出を果たした。
「よしっ、上手くいった!」
「チッ、逃がすかよ」
まんまと赤頭巾の子供騙しに嵌った獣は額に青筋を浮かべて赤頭巾の後を追って扉を蹴破る。
少し赤頭巾を見失いかけながらも、獣は違う屋敷に入っていく彼女を視界に入れると歩幅の短くなった足取りで彼女の向かった屋敷に侵入する。
しかし屋敷を見渡しても赤頭巾は姿を忽然と消していた。
「鬼ごっこの次はかくれんぼかぁ?」
獣のより億劫そうな声を赤頭巾はクローゼットの中で耳を澄ましながら聞いていた。
獣から逃げた赤頭巾は次に身を隠す事を選択した。
一見すると袋小路に追い詰められた形になるが赤頭巾は無謀な賭けに出たわけでも、ましてや諦めたわけでもない。
ただこのまま逃げ続けるばかりではジリ貧になる事を、そして搦め手を用いずに自身が獣を殺す事など不可能であると理解していた。
つまり赤頭巾は決して獣の気を引くためだけに発言したのでは無かったのだ。
獣を倒すという大言壮語を。
「だが分が悪いんじゃねぇの?匂うぜ、人間の匂いがよぉ」
赤頭巾の心中など知る由もない獣は薄暗い屋敷で彼女の恐怖を煽り立てるように軽口を続ける。
しかし獣は匂いだけで赤頭巾の居場所を掴めていなかった。
それ故に赤頭巾の息遣い、身体の震えをより鮮明にするためにわざわざ彼女を追い詰めるかのように振舞っていたのだが、その効果は早くも結果を出す事になる。
――パリン。
「ほら、ボロを出したな?」
閑散とした屋敷で無情にも響き渡るガラスの割れる音を耳ざとく拾った獣はその場所めがけて浮き足気味に近づく。
そして確かに音の鳴った地点にあるクローゼットを発見した。
「見ぃつけた」
舌なめずりしながらクローゼットに近づいた獣はその横にある柱時計の扉を開けた。
鴉頭に小賢しいと評される程度の知能を持つ獣は血液瓶の存在を認知していた。
人間どもが発明した獣を標的に陽動を目的とする投擲物だが、それには明確な弱点が存在していた。
まず初めに当然のことながらガラスの割れる音がする。
単純な事だがそれを知っているだけで陽動として意味を為さなくなってしまう。
特に人間の血液であろうと過剰な反応を抑制できる獣には無用の長物でしかない。
加えて人間の匂いを嗅ぎ分けられる獣は必然的に血液の違いも嗅ぎ分ける事が可能なのである。
そして血液瓶に含まれる血液は本人のものではない。
それ故に獣は先ほどのガラスの割れる音が血液瓶のものであり、クローゼットの中から漂う匂いが赤頭巾ではないことにも気づいていた。
であれば赤頭巾は何処に居るのか。
少なくとも血液瓶を投げた後ならば遠くに隠れることはできない。
それに何より柱時計からは濃厚に過ぎるほど赤頭巾の匂いが漏れ出ていた。
性根の腐り切った獣は怯えているであろう赤頭巾に心を躍らせながら柱時計の中を見て、今まで変わることが無かった表情を初めて明らかに歪めた。
「これでくだらねぇ遊びも終わ、り……!?」
果たして獣が目に映したのは赤頭巾ではなく、鮮やかな血溜まりだけだった。
(……かかった!)
その一部始終をテーブルの下で見ていた赤頭巾は未だに硬直する獣の背後から近づき包丁を振り落とした。
「やぁっ!」
「ぅ、ぉおおっ!?」
――だが赤頭巾の刃が獣の命に届くことは無かった。
赤頭巾が振りかぶった包丁は獣の首を掠めることもせずに空を切ると無様にも無防備な状態で獣の前に躍り出る。
「そんな……」
千載一遇の好機を逃した赤頭巾が絶望の吐息を流す間に、ただ幸運がためだけに一命を取り留めた獣はへたくそな笑顔を作ると安堵のため息をついた。
「はっ、はは、ひひっ、あはははは!あっっぶねえ!!マジで死ぬとこじゃねぇか!?」
まさか赤頭巾ごときに命を脅かされるとは思ってもいなかった獣は壊れたように笑い続ける。
だが落ち着きを取り戻した脳裏は赤頭巾の評価を変えていた。
血液瓶は確かに陽動だった。
だがそれは獣を殺すための布石に過ぎなかったのである。
柱時計にある血溜まりは間違いなく赤頭巾のものだ。
それは彼女の左手に今も刻まれている切り傷が証明していた。
つまり血液瓶で獣を誘き寄せて自身の血液を用いて本命に偽装した柱時計へ気を逸らし、背後を取って一撃で仕留めるつもりだったのである。
「くはは、本当にヤバかったなぁ。ありがとよ器の嬢ちゃん」
「何を言って……」
落胆を隠せないでいる赤頭巾は礼を言ってきた獣に首を傾げる。
疑問を呈された事を逆に獣が疑問を浮かべるが直ぐに真意を掴む。
「あぁ、気付いてないのか」
「だから何が」
「お前、俺を殺すのを躊躇っただろ?」
獣の言う通りだった。
今回の作戦に於いて赤頭巾の不備は何一つ一切存在しない。
獣の油断もあったがそれでも無防備な背後を晒すまでの流れは完璧であった。
今も赤頭巾の左手にジンジンと響く痛みでさえ攻撃の手を緩めた要因にはなり得ない。
ならば何故赤頭巾の刃を虚空を切ったのか。
ただ単純に赤頭巾は獣を、生物を殺す事を躊躇した。ただそれだけの事だった。
その無意味な優しさの所為で彼女は失敗したのである。
「さぁて、これで満足したか?」
「う、あああ!!」
「させねぇよ」
自暴自棄気味に包丁を突き立てて向かってきた赤頭巾を獣はいとも容易く避けると、通りすがりざまに足払いで赤頭巾を転倒させる。
「うぁっ……!」
「甘いんだよ。この期に及んでまだ殺す勇気もねぇのか?」
「そんな、ことっ」
「あるんだよなぁ。だってお前、さっきも包丁を俺の心臓から逸らしただろ」
獣の心臓を狙う意味は体力の消耗以外に存在しない。
獣との継戦能力を持たない赤頭巾が狙う意味などもってのほかなのだが、それすらも赤頭巾は恐れた。
獣の言葉通り赤頭巾は甘かったのだ。
その甘さでなんとか死を逃れた獣に棚上げされて嘲られる程度には優しすぎたのである。
「その程度の認識で獣が殺せるかよぉ?えぇ?」
「うっ!、ぐぅっ……」
赤頭巾から逃走の意思を潰すべく、そして己の加虐心を満たすために獣は赤頭巾の包丁を持つ右手を踏み躙り、彼女の手放した包丁を遠くへ蹴り飛ばした。
「本当は腕の一本ぐらい切り落としてやりてぇ所だが……やり過ぎて死なれても困るしな。それにゆっくりしてる暇もねぇか。保険があるとはいえ、な」
「保険……?」
「俺は慎重でね。自分の勝てる勝負しかしないんだよ」
言外に赤頭巾が自身を討てる訳が無かったと獣は嘲笑う。
過程がどうであれ、実際に彼女は獣を殺すには至らず無様に地を這いつくばるだけであった。
――あの狩人が居なければ。
「なら、俺にも勝って貰おうか」
獣のすぐ真後ろで普段のそれよりも一層低くしゃがれた鴉頭の声が響いた。
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