第零話 逃亡劇
――独りの少女が、駆けていた。
荒れ果てた獣道を、その小さな手足を懸命に動かしてひた走る。
高木の聳え立つ薄暗い森林。
人の気配を捨て去った孤独感。
そして、背後から迫るけたたましい跫音。
それら全てが少女の恐怖を増長させ追い詰めていく。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、」
――独りの少女は、逃げていた。
絶え絶えとなった呼吸は一息吸うごとに少女の肺を刺し、苦悶の表情を浮かばせる。
夥しい量の汗が頬を伝い、長い睫毛に溜まっていくがそれを気にかける余裕は少女に無かった。
ただ灼けるように熱を孕む両脚で花を踏みつけ土を蹴り飛ばす事だけに意識を割く。
――逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ。
代わり映えのしない景色が目まぐるしく過ぎ去る中、少女の思考は焦燥と不安に塗り潰されていく。
それでも尚、少女は理解していた。
アレに追いつかれた時が自分の最期であると。
窮地に陥り行く少女は賭けに出た。
獣道を敢えて外れ更に狭い樹々の隙間を逃走経路に選んだのだ。
少女の小柄な体型でギリギリ通れるほどの幅しかないこの道ならば、後ろの存在への牽制になると考えたからである。
しかしこれは少女にとっても苦肉の策だった。
というのも荒れた道は更に険しく、道と呼ぶことすら烏滸がましい。
また辺りに生え揃った小枝は少女の白い肌を容赦なく切り裂いて赤い線を幾本も描いた。
だが最早追い詰められた少女にとってその程度の痛みは些事でしかなかった。
(これで多少は距離が稼げるはず……!)
――否。
少女の賭けは既に負けていた。
「グルルルァァァァァァ!!!!!!」
「うそ・・・!?」
後ろの存在は、そんなものは児戯だと言わんばかりに木々をなぎ倒しながら進行を続けた。
静かだった森に木々の倒れる轟音が鳴り響く。
彼我との距離は徐々に、しかし着実に縮まってきていた。
それでも、だとしても、少女は諦めていなかった。
涙を溜めた瞳を見開き、血の味がへばりつく乾いた口を固く結び、全身に力を込める。
(……死にたくない!こんな所で、死にたくないっ!)
生への渇望が瀕死の少女を動かした。
「私はっ、……家に帰るんだぁ!!!」
しかし、自然は弱者の存在を許容しない。
「……あぅっ!?」
――独りの少女は地に堕ちた。
少女の意志を砕いたのは背後から迫る存在でもなく、己の惰弱な臆病さでもなく、自然という大いなる存在だった。
少女は大地に波打つ大樹の根によって撃ち落とされたのだ。
だがそれは当然の結果であった。
獣道を外れた事で少女の視界は更に狭くなり、加えて地面に対しての注意など以っての外だろう。
そう。少女はなるべくしてその命の行き先を決められたのだ。
「……ぅ、ぁ……」
少女は無様にも転げ落ち、その衝撃によって身体は途端に硬直してしまった。
あんなにも熱を帯びていた足は今や感覚を失い、まるで下半身全体が異物のように感じられる。
所々に存在する切り傷も今更痛みと熱を主張し出した。
変わらないのは今も少女の胸を苛む呼吸だけだった。
そして少女を追う存在がその隙を見逃すはずもない。
「ハァァ……」
背後から響いたのは聞くに堪えない唸るようなため息だった。
自らの死期を悟った少女はせめてもの思いで死神と対峙するべく、最後の力を振り絞り体を翻した。
その行為が全くの無駄であることも知らずに。
――それは、獣というより他なかった。
巨大な体躯。
筋骨隆々の四肢。
それらを覆う赤黒い体毛。
何故か肩を大きく開き、その足を窮屈そうに畳む姿はまるで人間を無理矢理四足歩行に当て嵌めたようであった。
しかしその醜悪な顔面は明らかに狼のものだ。
突き出した口には血塗れの牙が生え揃っており、その顔料の惨状は想像に難くない。
異常に充血した瞳は薄暗い森で真っ赤に反射しその獰猛さを更に掻き立てていた。
「ハァァァァ……」
あれほどしつこく追ってきた癖に、獣は少女を見定めるように汚い溜め息を吐くばかりだった。
少女と言えばその心はぽっきりと折られたのか、身体を恐怖に震わせ瞳に溜めた涙を流し、股間から生温かい小便を情けなく漏らすだけだった。
きっとこの時、少女は獣にとっての『獲物』から『餌』へと成り下がったのだ。
不意に、どろりと。
獣の口から腐臭の漂う粘液性の唾液が滴り落ちた。
それは少女の股下に落ち、少女により濃厚な死の気配を自覚させる。
「ひっ……!?」
少女の悲鳴を合図に獣はその醜悪な面を更に歪めて余りにも赤い口を開いた。
「ガァァァァァァ!!!!!!!!」
誰もいない森に、獣の咆哮が虚しく響き渡った。