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久しぶり、日本

「日本か、なんだか戻って来た実感がしないな」

 羽田空港国際ターミナルの中を見渡して独り言をする仁。

 その口調には少しばかりの得意が混ざっていた。

 それもそう、十五歳の未成年が一人で飛行機に乗るなんてめったにない事、それも国際線だ。十分自慢になる。

 予定では父親の妹の内海和美叔母ちゃんが車で迎いに来てくれる。七年も会ってないから顔を覚えてくれてなくて、すれ違ったりしないかと心配だ。

 「俺も叔母ちゃんの顔あんま覚えてないし。まぁ、会えば分かるだろう」

 でもそれは余計な心配だった。

 自動ドアを出て、道路に並ぶ車の中に、もの凄く目立つのが一台あった。

 白いコンパクトカーの上に「仁ちゃん専用」と大きく書いた看板が立っていて、しかも四辺にはピカピカと虹色に光る小さな電球が飾っている。

 黒い半袖に淡緑色の長いボタンスカート、サンダルを履いた美人なお姉さんが車のドアに寄りかかり、きょろきょろと何かをさがしているみたい。

 あれは間違いなく和美叔母ちゃんだ。

 「その車には絶対に乗りたくない!」

 と言いつつ、仁は見なかったふりをし、背を向け反対側へと歩く。

 「仁ちゃんーこっちだよー!」

 振り向くと、和美叔母ちゃんが手を振りながらこっちへ走ってくる。

 「や、やぁ……和美叔母ちゃん久しぶりです」

 「久しぶりー!仁ちゃん。もう、せっかく目立つように看板を立てたのに、仁ちゃん気づかないなんて、バカだな~」

 そんなもの飾るから気づかなかったふりしてるんだよ。それと久しぶりに会った甥子をバカ扱いするのはないと思う。

 七年ぶりなのに和美叔母ちゃんは全くなんの遠慮もなくくっついてくる。両手で腕を掴まれ、ぷにゅっとした胸の感覚がびっしりと感じる。

 「仁ちゃん大きくなったな~昔はそんなに小さかったのに」

 「は、はぃ……」

 「さぁーさぁー行こーう!」

 仁は照れてずっと下を向いているのに、和美叔母ちゃんは馴れ馴れしくどんどん体を寄りかかってくる。

 しょせん子供扱い、それとも大人の余裕なの?

 「あら、仁ちゃんもしかして照れてる?」

 「ぐぅ………」

 「――可愛い!そっかそっか、仁ちゃんもちゃんとした男になったのか。昔はよく叔母ちゃんの胸にうつむいて来たのに」

 「してません!」

 ……多分。

 すると和美叔母ちゃんがからかいに満足したようにふぅふぅっと笑う。

 和美叔母ちゃんのペースに呑まれて、気づいたら車の前までやって来た。

 「……あの、本当にこれに乗るのですか?」

 「うん?そうだよ」

 和美叔母ちゃんが首を傾け、「どうかした?」ってな顔をする。

 「じゃあ、このピカピカしてるのを外してもいいですか?」

 「なんで?ピカピカして綺麗じゃん。叔母ちゃんこれ作るのにすっごーく苦労したんだよ!」

 「外さないと乗りません」

 「もう……仁ちゃんったら反抗期だな!」

 反抗期にはこれっぽっちも関係ないです。

 不本意ながら、和美叔母ちゃんは荷物と一緒に看板を車のトランクに閉まっといた。

 車に乗った二人は、ターミナルを出て首都高速湾岸線に入る。

 長いトンネルを二つ抜けると次は扇島に入った。

 扇島は人工島で重要な港湾施設があるから、関係者以外の立ち入りや島内部についての情報公開は厳しく禁止されている。今は首都高速湾岸線の高架で通過しているが、島に下りることはできない。

 もちろん最初から降りるつもりも理由もない。

 扇島を出るとやっと海が見えてきた。波は静かで海は青い、でも綺麗と呼ぶにはまだ物足りない。日光だ。

 残念ながらまだ高く昇ってない太陽が対岸の建物に隠され、日光が海面にあたらない。もうちょっと昇れば、海面が日光を反射し、キラキラとした美しい光景が見えるでしょう。

 ルームミラーを透して仁を見ると、目を細くして眠そうに車窓から海を眺めていた。

 「この海『東京湾』って呼ぶらしいよ」

 なんの前兆もなく和美叔母ちゃんが話し掛けてくる。

 「……うん」

 「夜になるとすっごく綺麗になるよ」

 「ふん~」

 「…………」

 仁の反応があまりにも薄くて、一度話題が詰まった。でも、また直ぐ和美叔母ちゃんが口を開く。

 「日本は懐かしいでしょ?」

 「うん」

 「久しぶりに日本の料理食べたくない?」

 「うん」

 「後で食べに行く?」

 「うん」

 「ラーメンでいい?」

 「うん」

 「じゃあ……今夜叔母ちゃんと一緒に寝よう」

 「ヤダ」

 表情ひとつも変わらず即答する仁。

 悪だくみが上手くいかなかったようで、「チッ」っと和美叔母ちゃんが舌を打つ。

 「仁ちゃん変わったなー、昔はよく『叔母ちゃん叔母ちゃん』って呼んで飛びかけてくるのに」

 「だって昨日から全然……」

 ふぁ~っとあくびする、

 「……寝てないんすよ」

 例え眠くなくても、もうガキみたいに「叔母ちゃん叔母ちゃん」と呼ばないだろうけど。

 「車で少し寝たら?」

 「今寝たら夜眠れないのでいい」

 「仁ちゃんこれからどうする?叔母ちゃんと一緒に住む?それとも実家に戻って一人暮らしする?」

 「じ……迷惑じゃなかったら、叔母ちゃんの家に住ませてください」

 実家と言おうとしたが、一秒程躊躇って言い直した。

 日本に戻る前、爺ちゃんがくれた金の半分をもらったから、一人暮らしはしばらく大丈夫だけど、でもその金はできるだけ使いたくない。父親が何時日本に戻ってくるのも分からない、例え戻って来たとしても直ぐ安定した仕事が見つかるとは限らない。

 和美叔母ちゃんに世話をかける事になるけど、父親にはできるだけ負担を減らしたい。

 「やったー!じゃあ今夜は叔母ちゃんと一緒に寝るんだね」

 「なぜそうなる!」

 「だって叔母ちゃんの家お布団一つしかないもん~」

 「じゃあソファーで寝ます、ソファーがなかったら床で寝ます」

 「えぇー、可愛い甥子が冷たい床で寝るの心が痛むよ」

 ソファーなしが前提かよ。

 「大丈夫です、ワタシの心は痛まないので」

 「仁ちゃん名前気で可愛くない!」

 「男は可愛くなくて結構です」

 「ふんっ」っと和美叔母ちゃんが頬を膨らませる。すると、不愉快な気持ちをはらしたいのか、急に車のスピードを上げた。

 仁がストレートのせいで、会話はここで終わってしまった。

 しばらく経ってもう一度ルームミラーから仁を見ると、もう寝ちゃっている。

 口では寝ないと言っているけど、しょせんまだ十五歳の子供、夜更かしには勝てない、ブラックコーヒーでも助けられないだろう。

 寝てる仁を見て、和美叔母ちゃん口元をゆるめ、車のスピードを少しずつ落していく。

 

 夜明けで車が少ないから半時間で和美叔母さんの家に着いた。

 マンションの地下停車場で車を止め、後ろの席を見ると仁はまだぐっすりと寝ている。

 「仁ちゃん~着いたよ~」

 小さな声で囁き、起こすつもりはちっぴりもないみたい。

 一度車を降り、仁に近い方のドアまで回り、こっそりと丁寧にドアを開けた。すると右手を口元に当て、また小さく囁く。

 「仁ちゃん~起きないと叔母ちゃんちゅうしちゃうよ~」

 と言いつつ、唇をとがらせる。

 あと一センチもない距離で仁が急に姿勢をくずし、ガンっと二人の額がぶつかった。

 ぼんやりと目を開いた仁は目元を揉みながら「うん?」っと声を漏らす。

 「さ、さぁー荷物降ろすわよー」

 和美叔母ちゃんは何もなかったように車の後ろへと逃げた。

 「あ、……自分で持ちますよ」

 と、あくびを嚙み殺し仁も車から降りた。

 荷物を持って地下停車場のエレベータに入り、和美叔母ちゃんが7階のボタンを押す。ドアが閉じると、仁が目をちょろちょろし、何かを言おうとする。

 「か、和美叔母ちゃん……」

 「なんだい?」

 「そ、その……ありがとうございます」

 「いいのいいの、それに佳佳ちゃんには……」

 ――ピン、7階です。

 「……なんでもない、さぁ、行こう」

 和美叔母ちゃんの微笑がちょっと沈み、何かを言おうとしたが、ちょうどエレベータが7階に着き、話をやめた。

 昔、母親から聞いた事がある、父親に出会えたのは和美叔母ちゃんのおかげだと。

 留学で日本に来た母親は、大学で和美叔母ちゃんと知り合った。その頃の母親はまだ日本語が上手くいえなく、色々と和美叔母ちゃんに助けてもらっていて、何時の間にか仲良くなっていた。

 母親が初体験の花火大会で和美叔母ちゃんに無理やり付きやいされ、内海一家と同行する事になり、そこで父親と出会い恋に落ちたと。

 親友から家族になり、母親と和美叔母ちゃんは一度も揉めたことはなかったが、でも一回だけ喧嘩をした、その喧嘩が最初で最後だった……。

 何時もここまで話すと、母親は和美叔母ちゃんのように沈んだ顔をする、そして適当に話しを流して終わらせる。

 元々忘れかけていた事だったが、今の和美叔母ちゃんの表情で思い出してしまった、多分二人の表情には何かしらの関係があるのだろう。

 でも、今は何も聞かない方がいいと、仁は思った。

 和美叔母ちゃんの家は廊下の角にある701号室。

 ドアを開けて玄関に入ると、和美叔母ちゃんが子供の様で、靴を足で投げ出すように脱ぎ、散り散りにとばしたまま上がった。

 それを見て仁は呆れた顔で一ため息吐き、上がるついでに和美叔母ちゃんの靴も揃えてあげた。

 リビングに入るとこれはまた凄い光景。帽子、上着、ズボンにスカート、いろんな着物がソファーにほっぱらかしてある。もうソファーがタンスみたいな物、座れる隙間もない。

 だから「ソファーなし」が前提だったか。

 なのに和美叔母ちゃんはそれらを気にせず、ダルン~と体を服の山にうつ伏せる。

 まだこれだけじゃない。

 あっちこっちに捨てられている下着と靴下。丸めた靴下はバラバラに捨てられていて、おそろいのやつが一つも見当たらない。

 ありえない事に、キッチンのフライパンに紫色のレースパンツが一枚入っている。よく見たらなんだか少し焼けているみたい……。

 この光景を目にして、仁は呆然とたっていた。呆れたってレベルではない、驚愕で行動も言葉も失ったのだ。

 すると、ぺタっと何かが頭に落ち視界を奪う。手で取って見ると、それは長くて黒い物。

 「タイツ……?」

 不思議に呟きつつ顔を上げると、思わず「え?」っと声を漏す。

 なんと、天井の照明にもう一枚おそろいのタイツがひっかかっていた。

 「和美叔母ちゃんすみません、やっぱ僕、一人暮らししますよ。失礼しました」

 「仁ちゃん、待って……うわっー!いったー!」

 和美叔母ちゃんが出て行こうとする仁を止めようとしたら、服の山が崩れ床に倒れた。何より致命なのは、倒れる時、足の小指が思いっきり机の角にあたった。

 和美叔母ちゃんが再びソファーから顔を出すと、頭にブラジャーが乗せている。

 「仁……ちゃん……」

 目をぷるぷると潤せ、和美叔母ちゃんが小さく呼び掛ける。

 「はいはい、分かりました……」

 ため息を吐き、

 「叔母ちゃんも一緒に片付けますよね?」

 と言ったら、和美叔母ちゃんが「うんうん」と頷く。

 「あ、仁ちゃん」

 「こんどは何ですか?」

 「先に荷物を部屋に入れといたら、そうした方が片付けやすいし」

 「……部屋って?」

 「もちろん仁ちゃんの部屋だよ、それともやっぱり叔母ちゃんと同じ部屋がいいの?」

 「部屋って一つしかないんじゃなかったのですか?」

 「それは嘘、部屋は二つあるよ、もちろんお布団も」

 テヘっと和美叔母ちゃんが舌を出す。

 「……」

 呆れすぎて、もう仁には怒るのにも突っ込むのにも気力がない。

 ほんと、どっちが子供でどっちが大人、どっちが客でどっちが主人なんだろう。

 

 何時の間にか太陽が高く昇り、日光がようしゃなく仁の目に刺してくる。リビングを見渡すと、大分きれいになってきた。こうして見ると意外と広い。

 「ふぁ~」

 最後の一着を畳み終わると、仁が一あくびする。

 「ごめんね仁ちゃん、一晩寝てないのに手伝ってもらって」

 「いいえ、居候してるからこれぐらい当然です、当たり前の事をしただけです。それと、やる事がなくても寝るつもりはないので、体内時計がずれますので」

 目元を揉めながら返事をする。

 「ふん~、車の中で寝てしまったのに?」

 「そ、それは……その、不可抗力って言うか……」

 返答に困ってる仁を見て、和美叔母ちゃんが面白そうに笑いを我慢する。

 「……」

 からかわれているのに気づき、無言で和美叔母ちゃんを睨みつける仁。

 笑いを嚙み殺してから和美叔母ちゃんが咳払いをする。

 「ゴッホン、それにしても、これだけの服どこに置けばいいのかな?」

 「……どこって?」

 「だって部屋のタンスもう入らないの」

 「え……?」

 疑問と驚きに仁が口を半開きにする。

 「なによ、年頃の女の子がいっぱい服を持ってるのって普通でしょ!」

 「年頃って……叔母ちゃん僕の母さんと同じ年ですよね、ならもう……」 

 「――モウ?」

 「……なんでもないです」

 和美叔母ちゃんの口は笑ってるのに目が笑ってるように見えない。あまりにもの殺意で仁が言いかけた言葉を無理やり呑み込んだ。

 次の瞬間、和美叔母ちゃんが何時ものふざけた笑顔に戻った。

 「捨てるのももったいないし、仁ちゃんの部屋に入れていい?」

 「は、はい!」 

 まだ鳥肌が立っていて、考えもなく答えてしまった。まぁ、居候しているから、最初から拒否できる立場じゃない。

 二人は服を一組ずつ持ち部屋へと運び出した。

 服を全部仁の部屋のタンスに入れても別に大した影響はない。男だからあんま服はないし、収納が必要なら中国から持ってきたスーツケースで十分。

 強いて言うのなら、生理的な……影響?

 「……まぁ、それはねぇーか。うん、ないないない」

 仁が頭を振りながら無意識に言葉を口に出す。

 「何がない?」

 和美叔母ちゃんが横から顔を覗き込む。

 「なんでもないです」

 「そう」

 さりげなく返してくると、和美叔母ちゃんが急に足を速めだした。

 そう言えばさっきから動きが速い、仁がまだ一往復目なのに和美叔母ちゃんはもう何回も往復している気がする。積極すぎて怪しい。

 部屋に入ると和美叔母ちゃんがちょうど部屋から出て来た、しかも楽しそうに鼻歌を歌っている。やはり怪しい。 

 部屋のタンスは開いていた、でも仁はすぐに服を入れようとしなかった。タンスから少し離れた所で立ち止り、目を細めて訝しい顔で首を伸ばしタンスの中を覗き込む。

 ――普通のタンスだ。

 だが、仁はまだ諦めをついていないみたい。一度手に持ってる服をベットに置き、タンスの前で涎を飲む。

 爆弾でも仕掛けたように、右手で丁寧に慎重にタンスの中の服を捲ると……なんと服の下にもう一着の服があった!

 ――はい、つまり普通のタンスでした。

 「はぁっ、何もないか」

 ほっとしたため息を吐いたが、顔は少しばかりがっかりしている。

 「ォォォオー!仁ちゃんどいてどいて!」

 振り向くと、和美叔母ちゃんが顔を隠すほどの大量な服を持って部屋に戻ってきた。

 多すぎる服を一度ベットに散らかし、そして、また一着一着ずつ畳みなおしタンスの中に入れていく。

 横で見てる仁は手伝いに入ろうとしても入れない。和美叔母ちゃんの動きが速すぎてどのタイミングで入るのか分からない。

 手を伸ばし一着ぐらい畳もうとしたら、和美叔母ちゃんがわざと狙ってるみたいで、仁が目につけた服を優先にして片付ける。

 狩でもしているみたい。なんでこんな事で熱くなってるんだろう。

 あっという間にベットに散らかした服が片付け終わった。ついでに仁が持ってきた分も。

 一仕事が終わると和美叔母ちゃんが両手を叩いて腰に当てる。すると、ドヤ顔で仁に向く。

 「やぁー、久しぶりに張り切ったなぁ。リビングにもうちょと残ってるから、仁ちゃんに頼んでいい?」

 「はい」

 仁はすこし怪訝な顔をしているが、即答した。

 それもそうだ、あの和美叔母ちゃんが真面目に仕事しているんすよ、あの和美叔母ちゃんだぞ?リビングをむちゃくちゃにした張本人ですよ?

 それとも実はやれば出来る大人なの?

 それはともかく、和美叔母ちゃんは仁の倍以上片付けたのは事実だ、残りを仁がやるのは当たり前の事。何しろ、こっちは居候しているのだから。

 仁が部屋を出てリビングへとゆっくり歩くと、和美叔母ちゃんが同じペースで後に付いて来る。何より気になるのはそのニコニコとしている顔、まるで悪戯がもう直ぐ成功する悪ガキのような顔だ。

 絶対なにかたくらんでる!

 ハラハラドキドキした気持ちでリビングに来たのはずだが……。

 「なるほどな」

 と、仁が呆れた声で漏らしす。

 確かにリビングに残っている服は少ない、て言うかない。あるのはエロいブラジャーとエロいパンツだけ。

 「これはあれですか?健全な男の子が大人の下着を見て、照れる姿を楽しもうとする厭らしい悪ふざけですか?」

 「や、やだなー。たまたまだよたまたま……たまたま残ったのが、ぐ、偶然下着だったのだよ!そう、うん……偶然偶然」

 和美叔母ちゃんは顔を逸らして、言葉を噛んでいた。

 これは悪行確定ですね。

 はぁ~っと、ため息を吐き、仁は平然な顔で下着を拾い集め胸元に抱く。

 「母さんが病にかかってから、家の洗濯物は全部僕が洗ってるので、こう言うのにも慣れてます」

 「……」

 亡くなった母親の事を口にすると、和美叔母ちゃんが黙り込んだ、ふざけていた笑顔も沈んだ。まるで親にしかられた子供みたい。

 仁に良くない記憶を思い出させた自分を責めているのもあって、仁の母親を懐かしむのもあるのだろう。

 だが、その沈黙も直ぐに破られた。

 仁の鼻が急につんつんして、何やら刺激的な匂いがする。すると、視線を胸元に抱いてる下着に落とす。

 「……和美叔母ちゃん、もしかしてまだ洗ってない?」

 「……!」

 今更思い出したような顔をして、和美叔母ちゃんが頬を少し赤くして目を逸す。

 「じゃあ……、タンスの中の服も?」

 「半分洗ってる……半分洗ってない……かな?」

 「…………」

 仁は和美叔母ちゃんを睨み、和美叔母ちゃんは仁から目を逸らす。こうやって二人は再び沈黙に入る。

 無駄仕事だった……。

 

 和美叔母ちゃんはクリーニングに行って、仁一人が家に残された。

 「ふぁ~」

 ぼーっとソファーに座りあくびをしながら、時計を見詰める。

 時針が8を指し、分針は2から3までの二つ目の点を指していた。つまり、八時十二分。

 秒針が三周走り、三分経って分針が丁度3に止まると、仁はようやく時計から目を外し、目の前のカップ麺に視線を落とした。

 まさに日本料理――ラーメン――カップ麺。

 カップ麺の蓋を外し、麺を一箸挟んで口に入れようとした時ふっと何かを思い出し、麺をカップに戻した。すると、箸を横にしてカップの口に置く。

 ぱっと、両手を合わせて、

 「いただきます」

 と、言ってから再び箸を手に持ち、すすっと麺を口に吸い込む。

 中国では食べる前「いただきます」をする習慣がなく、七年間も中国にいて危うく万物への感謝を忘れる所だった。

 郷に入っては郷に従え。中国は中国で、日本は日本でのルールを従わないと。

 「やっぱ日本のカップ麺はうまいやー。この味を口にするとやっと日本に戻ったって実感するよ」

 日本のカップ麺に感心しつつ、どんどん口に麺を運んでいく。最後に、残りのスープを一飲みした。カップの底が見えてから、仁はようやく満足そうに背中をソファーに寄り付けた。

 「ふぁ~。いかん、腹を満たしたら余計眠くなってくる。風でも浴びて、目を覚ましてくるか」

 と、言いつつ、ゆっくりと立ち上がり、背伸びしながらベランダに出る。

 まだ六月の中旬、ちょうど今年の梅雨が一時的に停まり、気温がすこし上がった、寒くも熱くもないちょうどいい頃、風もちょうど良く気持ちい時期。

 もう少し経ったらまた梅雨が降り始め、そして次の梅雨明けはもう真夏に入るだろう。

 長い間山の中にこもっていたせいか、けして高くない7階のベランダから街を見渡すと、不思議な気分になる。通る車を数えるだけで面白く思う。

 土日なのに、たまに何名か制服すがたの学生がマンションの下を通って行く。

 「学校……ねぇえ……」

 学生達を見て、仁が深くため息を吐く。

 仁はもう半年近く学校に通ってない。母親は病院で何時亡くなるのか分からない、父親は母親の体が虚弱になるほど腐った大人に成っていく。もう、学校に行く気持ちなんてこれぽっちもない、両親もあんな状況で誰もかまってくれない。学校なんてどうでも良かった。

 「ふぁ~、やっぱ全然目が覚めない。はぁ……」

 ため息を吐き、リビングに戻ろうとする。

 「――ウアアァァッ!」

 ベランダからリビングに上がろうとした瞬間、後ろから喚き声が聞こえた。

 振り向くと、目の端で制服を着た女の子が落下する姿を一瞬だけ視界に捉えた。喚き声も一瞬だった、女の子がベランダから通り過ぎ視界から出て行くと同時に喚き声が消えた、何の余韻もなく、まるで動画の停止ボタンでも押した様に、声が断ち切られた。

 「えっ?」

 一秒だけの喫驚の後、急いでベランダから見下ろすと、下には何もなかった。血まみれで道に落ちているはずの墜落少女の姿はどこにも見当たらない。あるのは片手の指で数え切れるほどの学生達。

 なにより妙なのは、それらの中で誰も頭を上げる人がいない。誰も不思議に思わない、まるで最初から墜落少女なんてなかった、喚き声なんて聞こえなかったの様に。

 自分が見間違えでもしたかと思って、一回腕で両目を拭いてからもう一度見下ろすと、やはりなにも変わらなかった。

 「えっ?」

 あまりにも奇妙な事に、仁がまた声を漏らす。

 三秒程呆然と立っていたまま、やっと気を取り戻した。

 「幻……覚?」

 眉をひそめながら呟き、リビングに戻る。

 「すーっ、ふぅー」

 ソファーに座り、深呼吸して気持ちを整理する。

 「眠すぎて幻覚を見ちゃっ……た?やっぱ、ちゃんと寝たほうがいいかな、でも体内時計はずらしたくないなぁ、今寝たら絶対夜眠れなくなるし……ふぁ~、ちょっとくらい寝ても大丈夫よね」

 あくびをはさみながら独り言をする仁。

 ついさっきまで奇妙な事が目の前で起きているのに、何故だが、目が覚ますところかより眠くなっている。

 「ふぁ~、もう無理、少しだけ寝よう……」

 言いながら目がだんだん細くなっていき、最後は足掻くのをやめてそのままソファーで寝てしまった。

 六月風が閉じ忘れた窓からこっそりと入り込み、仁の髪の毛をなぶる。

 彼は思いもしなかっただろう。その「幻覚」は始めての出会い、そして久しぶりの再会。

 

 

 何千何万人もが集まる海岸、だがけして騒がしくはなかった、波の音が聞こえるほど静かだった。

 人々の視線は全て海の向こうを向を見詰めている。カメラ、スマホ、それらの画面に映るのは海と夜空。呼吸を忘れるほど集中し、夜空を照らす光の花を待っていた。

 でも、二人だけ違っていた。海岸の隣にある丘陵、泣いている女の子に一人の男の子が手を差し出す。

 『どうしたんだい?迷子?名前は?』

 女の子は泣きながら顔を上げる。

 『私の名前は……』

 ――ピュ、パーン。

 海面から打ちあがる花火、大きくて、輝くて、夜空を照らし、海を照らし、何千何万人の顔を照らし、そして涙に滲ませた女の子の顔を照らす。その音は雷の様に威嚇的で、大鐘の様に心を揺らす。

 花火の音が女の子の声を覆い被せる。

 それでも、男の子には聞こえたようだ、

 『そっか、俺が親の所に連れてやるよ』

 と、男の子は差し出した手を優しく女の子の頭に置いた。

 

 なでなで、もふもふ、大きくて柔らかい髪……うん?

 仁がゆっくりと目を開く。ぼんやりと視界に最初に入ったのは和美叔母ちゃんの顔、何故か和美叔母ちゃんの瞳は下を向いている。同じように視線を落すと、次に見えたのは大きくてふっくらした胸を握る男の手。

 一瞬きすると、二人の目が合った。

 「……」

 「……」

 「やだー、仁ちゃんってば大胆」

 「ウヮッ! ウワワヮヮッー!」

 あまりにものサプライズで、仁がソファーから座りあがり慌てて体を後ろに避ける。だが、避けすぎてソファーから落っこちてしまった。

 「イテテテ……もうなんですか、叔母ちゃん」

 「『なんですか』って何なのよ、そっちがセクハラして来たくせに」

 「……」

 仁は頬を赤くして言い返せる言葉がない。

 「ヘックシュン」

 立ち上がった途端仁がくしゃみをする。

 「ソファーで寝るからだよ、しかもベランダの窓も閉めないで」

 窓の外を見ると、空が夕日でオレンジ色に染めている。慌てて時計を見るともう午後五時を過ぎている。

 「もうこんな時間?」

 「そうだよ」

 「今夜絶対眠れないよ……」

 ため息吐いて、仁がソファーに座り戻る。

 「いいじゃん、別に今週は学校に行かないし、なんの問題もないよ」

 と言いつつ和美叔母ちゃんも横に座った。

 「それもそうだけど……うん?今週って、まるで来週から学校に行くような口振りなんだけど」

 「あら、言ってなかった?」

 「全然聞いてないんだけど!て言うか、日本ってあと一ヶ月で夏休みだよね?普通は休み明けに入るでしょ!」

 「何言ってんの、仁ちゃんもう中三だよ、もう直ぐ高校受験だよ、一日でも早く学校に行って勉強しないと」

 「それは、その……学校なんて……いい……」

 戸惑った顔をして、仁が小さく呟く。

 中学校生活で一番最後の時期に入学なんて絶対に馴染めない、その上注目される。目立っているのに孤立される。何もしてないのに変に視線が送られる、異物扱い、気になっているのに近寄ること拒否する。

 日本と中国では新学年の始まりと終わりは半年近くずれている。だからまだ小学の頃、仁はもうこのような体験を一度した事がある。

 「あら、もしかして学校で友達が作れないのが心配?」

 「ち、ちが……ぅ。友達なんて要らない」

 仁が顔を逸らす。

 「大丈夫だって、仁ちゃんイケメンだから、女友達なんかぱぱっと出来ちゃうよ。もしかしたら彼女も出来ちゃうよ~」

 「……」 

 顔を逸らしたまま、仁が頬をすこし赤くする。 

 予想通りの反応だったのか、和美叔母ちゃんがにやりと口角を上げた。すると、ソファーの隣から白箱を取り出し机に置いた。

 「これは?」

 仁が問う。

 「学校の制服だよ、クリーニングのついでに取りに行ったの」

 「制服ってこんなに丁寧にパッキングされてんの?」

 「……そう?」

 箱を開けると、綺麗に畳んだ制服の上に保証やら説明書みたいな紙が何枚か置いてある。

 「なんだか……高級スーツみたい」

 仁が心から感心な言葉を上げる。

 「そう……かな?ちょっとした四万円はしたけど」

 「四万?タカ!」

 「反応大げさすぎ、これぐらい普通だよ」

 和美叔母ちゃんには分からないだろう、日本の制服で一セットの値段は、中国では余裕で十セット以上も買えられる。

 でもその分中国の制服は日本の制服ほど精巧ではない。たいてい白黒または白青のシンプルなジャージに長ズボン、体操着みたいな感じ。簡単に言えば中国では体操着=制服、男も女も同じ。体操着だから包装も簡単、ビニール袋一枚で結構。

 「ほらほら、早く着替えてみたら」

 「ぐぅ……」

 仁は顔をしかめて、嫌そうに目の前の制服を見詰める。でも結局着替えた。

 しょうがない、七年も中国にいた仁にとって、日本の制服は一つのロマンとも言える。不可抗力だ、学校は行きたくないが、着る事には何の罪もない。

 上着はちょっと濃い目の青色、ボタンはいっぱいあるけど、ボタンホールは下に二つしかない。中は普通の白シャツ、ズボンも普通の灰色ズボン。特に個性的な点はない、どの学校でも似たようなデザインだ。

 強いと言うならネクタイかな、クリップ式で一々結ばなくても簡単に襟に付けられる。

 「おおおぉぉ、仁ちゃんかっこいいよ!」

 和美叔母ちゃんがにやにやしながら言っていて、褒めているのか、それとも、からかっているのか判らない。

 「これなら彼女なんか余裕だね」

 「一言余計です、もう着替えちゃいますので」

 「えぇー、まだ写真取ってないのに、一枚だけ!」

 「ヤ、デ、ス。今後その写真でからかわれると困りますので」

 「しないってばー、叔母ちゃんがそんな人に見える?」

 「さぁ、どうでしょうね」

 と言って、背中を向き部屋へ戻ろうとする。

 すると、後ろから「カチャ」ってスマホのシャッター音がした。振り向くと、和美叔母ちゃんがスマホを持ってカメラの方を仁に向けている。

 「う……しろ……だけっ」

 口の端を上げ和美叔母ちゃんが気まずそうな顔をする。

 それを仁は無言で受け止め、三秒程見詰めた後、ゆっくりと微笑だす。もちろん、別の意味で。

 「もちろん、消しますね?」

 「……」

 「……」

 二つの沈黙の後、和美叔母ちゃんが口をつぐみ頭を小さく振る。

 それを見て、仁は微笑ながら少し首を傾ける。

 「……」

 「……」

 また二つの沈黙の後、仁が急にすばやく和美叔母ちゃんの手前まで歩き、反応しきれないスピードでスマホを奪い、写真を消して和美叔母ちゃんの手に戻した。

 「アァー!仁ちゃんのケチ!」

 「なんとでも言ってください、からかわれるよりはましです」

 「後ろぐらいいいでしょ!」

 「髪の毛一本でもダメです」

 「ケチケチケチ、ケーチ!そんなんじゃモテないわよっ!」

 ふんっと和美叔母ちゃんが腕を組む。 

 「モテなくて結構です!」

 捨て台詞を言い放し、こんどこそ部屋へ戻った。

 部屋に戻った仁は直ぐに制服を脱がなかった、からかわれたくないのは本当だけど、この制服に不満と言ったら嘘。

 部屋の窓を鏡代わりにして襟、ネクタイを整える。そして満足気な顔で横を見たり後ろを見たり、最後に右手をズボンのポケットに挿しモデルみたいなポーズを決める。

 「そう言えば、朝見た学生の服もこれと同じだった気が……」

 仁がポーズのまま独り言をしているところで、

 「仁ちゃん、晩御飯何が食べた……」

 と、部屋のドアが頭一つ分開かれ、和美叔母ちゃんがその隙間から顔を覗き込んでいる。

 「……?」

 「……!」

 無言のまま、二人が三秒程見詰めあった。

すると、先の口を開いたのは和美叔母ちゃんだ。

 「ほう~、かっこいいよ」

 「ノ、ノックをして下さい!」

 「これは失礼」

 さらりと謝りドアを閉めた。

 と思ったら和美叔母ちゃんがまた急にドアを開く、

 「まだ晩御飯……」

 「だからノックをーっ!あと、晩御飯はなんでもいいです!」

 「了解~」

 こんどこそ和美叔母ちゃんは去ったと思って、仁が「はぁ~」っと重いため息を吐ける。

 ――コンコン。

 ドアをノックする音。

 「今度はなんですか?」

 「開けてもいい?」

 「どうぞ」

 合図を出すとドアが小さく開く、すると、「カチャ」っとスマホのシャッター音のあと、ドアが直ぐに閉じられた。

 …………。

 部屋に残されたのは長い沈黙と、今でも右手をズボンのポケットに挿したまま呆然と立っている仁。その瞳は、死んだ魚の目のように、輝きを失っている。

 「死にたい……」

 

どんな黒歴史が生まれても、人は強く生きらなきゃいけない。一生懸命黒歴史を忘れ、でも時々不意に思い出してしまう、その屈辱に立ち向かい、そしてまた一生懸命に忘れようとするのが波瀾万丈な人生で不可欠な一環である。

 なのでついさっきまで「死」を吐いていた仁は、屈辱とやりあった後ちゃんと私服に着替えてから食卓にやって来た。

 食事は悩みを忘れさせてくれると良く言う、でもそれはおいしい物に限る……。

 「なんですか、これ?」

 皿の中に入っている黒まみれな「存在X」に向かって、仁が心の底から疑念を吐いた。

 「やぁー、ほら、仁ちゃん日本に戻って来たばかりだから……いきなり日本の料理は口に合わないと思って、チンジャオロースを作ってみたんだけど……」

 テヘっと、和美叔母ちゃんが舌を出す。

 「でっ、そのチンジャオロースの『チンジャオ』はどこですか?」

 チンジャオ、正式な和名はピーマン。ビタミンCを多く含む緑色の野菜、成熟すると赤色や黄色に変化する。

 そんな色豊かな野菜が、今では和美叔母ちゃんの手により肉と区別がつかないほど真っ黒に焦げている。

 「み、見た目はこうだけと、味は……」

 言いながら和美叔母ちゃんが箸で「チンジャオロース・ブラック」を一枚挟んで口に入れると、一瞬で言葉を失った。

 はぁ~っと仁がため息を吐く。

 「全く、料理が出来ないなら最初から言えばいいのに、僕が作りますから。ほんと、叔母ちゃんに会ってからため息しかない」

 テヘへへーっと和美叔母ちゃんが頬を少し赤くして照れ笑いする。

 「……褒めてませんから」

 突っ込みを入れ、仁はキッチンへと移動する。

 冷蔵庫を開けると、中にあるのは一層ぱんぱんに詰まったビールと卵三個、あと未開のソーセージ一袋。次にキッチンを見渡して何かを探す、すると視線が炊飯器に停まった。炊飯器の蓋を開け、中には冷えたご飯が大量に入っている、三人分はある。

 「これ何時炊いたんですか?」

 「昨日……おととい?かな?」

 「ふん~、で、なんでこんなに大量ですか?」

 「この炊飯器買ったばかりで、ご飯炊いた事ないし……少し入れただけなのに炊き上げるとこんなにいっぱいとは思わなかったの……で、食べるの忘れちゃった」

 テヘっと和美叔母ちゃんがまた舌を出す。

 仁が呆れた顔でもするかと思ったら違った、ただ無言でそのバカ顔を受けとめ支度にもどった。仁にもうすうす感じていただろう、和美叔母ちゃんが炊飯器を買ったのは自分の為だと。朝、最初に和美叔母ちゃんの家に入った時めちゃくちゃだったキッチンも、自分の為に料理の練習をしていたと。

 でも、練習した結果があの「存在X」とは、これもまた悲しい事だ……。

 棚から一番大きいお碗を出し、しゃもじで冷めたご飯を炊飯器からお碗に移した。

 「仁ちゃんその米食べるの?もうカタカタだよ」

 「大丈夫ですから、叔母ちゃんはそこで大人しく待っていて下さい」

 「了解」

 冷えたご飯を全部移した後、冷蔵庫からわずかな卵とソーセージを全部取り出す。これで必要な食材は全部そろった。

 まず、ソーセージを袋から四本取り出し、少し太めに切り、予備用に小さな皿に入れる。

 次に卵、仁は手馴れているみたいで、片手で卵を割れる。三個目を割ろうとした時、和美叔母ちゃんが何時の間にかキッチンに入り、隣で、

 「かっこいい、片手で割れるんだ」

 と、煽てる。

 それに仁が動揺したのか、それともビックリしたのか、思わず力を入れすぎて、殻ごとお碗の中に割った。

 仁は無言で和美叔母ちゃんを睨み、目で「出て行って下さい」でも言っているみたい。和美叔母ちゃんもメッセージに察知したように、大人しくキッチンを出て行く。

 殻をお碗から取り出し、卵を箸で掻き混ぜたあとソーセージと同じく予備用に隣に置く。

 最後にメインのご飯。まず、ご飯に醤油を少し入れる、出来るだけ大範囲で、後で混ぜやすいから。そし……て?

 「叔母ちゃんー」

 「なになに?もう出来たの?」

 和美叔母ちゃんがわくわくした表情でキッチンに顔を出す。

 「そんなに速い訳ないよ」

 「じゃあ、なに?」

 「塩は何処ですか?」

 「し……お?」

 和美叔母ちゃんが疑問に首を傾ける。その表情はまるで「塩っなんですか?」でも言っているみたい。

 「じゃあ、味の素は?」

 「あじの……もと?」

 こんどは首を反対側に傾けた。

 「……」

 仁はそれ以上聞かなかった、聞いても無駄だと分かったから。

 「やっぱなんでもないです」

 「そう?じゃあおいしい料理待ってるね!」

 和美叔母ちゃんがキッチンから出たあと、仁が一ため息を吐き、

 「醤油だけでもいっか」

 と、呟きながら醤油をもう一回多目に入れ、ご飯を掻き混ぜ始めた。

 醤油とご飯を均等に混ぜる、色の差がなくなればOK。これで全ての準備が完了、いよいよ料理に入る。

 まずフライパンを暖める。火を最大に開けたあと、手を開き、ぎりぎりフライパンに触れる距離まで置く、火傷に注意。そのまま少し待って、フライパンから温度が伝わってきたら、それが暖め終わった合図になる、それから油を入れる。

 最初に炒めるのは掻き混ぜた卵。初心者、または油が飛ぶのが怖い方は火を少し弱めてから入れよう。

 ここで注意、卵を入れた後ぼーっとしない、シャベルで入れた卵を固まる前にぐちゃぐちゃにする。散り散りに固まって来たら切ったソーセージを入れて一緒に炒める、後でもう一度炒めがあるから、数十秒で良い、焦げる前にフライパンから使わない皿に移す。

 全部移したら、次は用意したご飯をフライパンに投入。ご飯は焦げにくいから、火を最大にしてゆっくり炒めてもOK、ただし手は休まない、シャベルでご飯を何度も圧し散し翻す、スピードはできるだけ速く。

 ご飯がだんだん柔らかくなり、いい感じになったら、さっき移し出した卵とソーセージを再び入れ、ご飯と一緒に炒める。手はもちろん停めない、シャベルで圧し散し翻す。

 良い匂いがしてきたら、完成!十分もいらない、誰でも作れる、例えすこし焦げても美味しい、簡単な家庭版チャーハンが出来上がり!

 出来上がったチャーハンを二つの皿に移し、リビングへ持って行く。

 「オオオォォー、仁ちゃんの愛情満々な料理だ!美味しそうー」

 キッチンの出口から食卓まで、和美叔母ちゃんはチャーハンから目を離さなかった。

 「やめて下さい、気色悪いです」

 「素直じゃないなぁ~」

 「いたたぎます」と感謝を込めた後、和美叔母ちゃんは直ぐスプーンでチャーハンを口に運んだが、仁は動かなかった、和美叔母ちゃんが食べるのを見て反応を期待している。

 「美味しい!宵越しなのに米が全然硬くない!」

 「チャーハンは宵越しこそ魂が含まれているんですよ」

 仁がドヤ顔になる、

 「炊きたてのご飯はふんわりしてベタベタしてるから炒めるとトロトロな食感になる。でも宵越しのご飯は水分がある程度抜いて炒めると、抜いた分の水分を油で補充して、米一粒一粒がパサパサな食感になるんですよ!パサパサこそがチャーハンの存在意義……って、聞いてますか?」

 「うんうん、聞いてる聞いてる……」

 とは言っているけど、和美叔母ちゃんの目と口がチャーハンにしか向かない。

 はぁ~っと仁が諦めのため息を吐き、「チンジャオロース・ブラック」を一箸挟んでチャーハンと一緒に口にする。

 「む、ぶり……」

 和美叔母ちゃんが一度口の中の食べ物を呑む込んでから、

 「無理して食べなくていいのに」

 と、言う。

 「自分の『愛情』がこもった料理を食べると吐き気がしますので、これで中和しているだけです」

 そう言いつつ、仁がまた「チンジャオロース・ブラック」をチャーハンと一緒に口に運ぶ。

 食い終わった後、もちろん皿洗いは仁がした。

 

 夜の七時半、風呂上りの仁に和美叔母ちゃんが一本の鍵を渡した。

 「これは?」

 仁が髪を拭きながら聞く。

 「家の鍵。明日仕事に戻らないといけないから、予備のを渡しておく。もし出かけるとしたら鍵がないとマンションに戻れないでしょ」 

 「へぇー、叔母ちゃんってちゃんと仕事するんだ、意外ですね」

 仁が失礼な事を言っているのに、和美叔母ちゃんは怒るところが、顔がドヤっとしている。

 「チッ、チッ、チッー」

 和美叔母ちゃんが人差し指を振る。

 「これでも叔母ちゃんは出来た大人だから」

 「でも、明日日曜日ですよ」

 「日曜日だからだよ!叔母ちゃん店開いているから、日曜日が一番客が来るの」

 「えっ!自分で店開いてるんすか?」

 ふっふん~と和美叔母ちゃんが自慢げな顔で両手を組む。

 「ちなみになんの店ですか?」

 「中華料理店」

 「……!」

 その返事を聞いた瞬間、仁の表情が驚きで固まった、むしろ体が固まっている。まるで世界第八不思議でも発見したようだ。

 あの「チンジャオロース・ブラック」を作れるほどの腕を持つ「達人」が料理店だと?世界が知らないうちに滅びっていってるのか?

 でも直ぐに固まった表情が緩んだ。よく考えて見れば、店長だからって厨房の仕事をする訳えもない。

 「仁ちゃん?」

 和美叔母ちゃんが下から顔を覗き込む。

 「なんでもないです。明日仕事頑張って下さい……って、何やってんですか!」

 見ると、和美叔母ちゃんが何の躊躇いもなく目の前でスカートを脱ぎ、ぽいっとソファーに投げた。

 「……なにって、風呂だけど」

 そう答えながら、自然な流れで半袖も脱いで、ぽいっとまたソファーに投げた。すると、和美叔母ちゃんの口角が急に上がり、にやりと何か企みのある表情に変わる。

 「もしかして、仁ちゃん興奮してる?」

 「……」

 「……?」

 二秒程見詰め合った後、仁が視線をソファーに投げられた脱ぎたての服に逸らした。そして、平淡な顔で口を開く。

 「いいえ、ただせっかく片付けたリビングがまた服だらけになると困るので。だいたい、僕はおば……ちゃん!叔母ちゃんの裸にきょ、興味な、な、ないので」

 おばさんと言いかけた瞬間、一瞬だが殺気が感じた。そのせいで、後半から噛みまくり。

 だいたい、おばちゃんとおばさんの意味は大した違いはないのに、何故か和美叔母ちゃんがそこで引っかかってしまう。

 「あーっそ!」

 不機嫌そうに顔を逸らし、和美叔母ちゃんがブラとパンツだけで堂々と仁の隣から通り風呂場に入る。

 パンっと風呂場のドアを強く閉じる音が聞こえた後、仁も部屋へ戻る事にした。

 部屋に戻った仁はぼーっとベットに座る、するとだんだ顔が赤くなって行き、最後は頭から煙が出るくらい真っ赤になった。

 どうやら、興味なにとか言ったのは嘘だった。別に照れて嘘を吐いたのではない、あの時変なリアクションとったら今後絶対同じ事でからかわれるから。

 これは精神上での自衛だ。黒歴史は一つで結構。

 思い出すと恥ずかしすぎて、仁が顔を枕に伏せる。

 「なんなんだあの女は!ババアのくせに二十代並みの肌。メイク?メイクなの?メイクだよね!……もう、女怖い……」

 色々な意味で。

 落ち着いてきた仁はリビングのベランダに行って、夜風を浴びることにした。

 「はぁ~」

 ベランダのフェンスに体を寄ると、直ぐため息が吐いた。

 「またまめ息吐いちゃった、今日で何度目だろ……」

 ほんと、和美叔母ちゃんと会ってからため息しかない。

 でも振り返ってみると今日はなかなか充実な一日だった、和美叔母ちゃんの相手をする事でいっぱいいっぱい。充実すぎて疲れる、精神上で。

 疲れてゆっくり休みたい、でも眠れない、何故なら今日昼中ずっと寝ていたから。こうして考えてみると、実は今日は充実してなかったかも。でもこれはこれで、思い出すとやはり疲れる、精神上で。

 「はぁ~」

 またため息を吐く。

 「今日ろくな事がないなぁ~。しかもあさってから急に学校行かなきゃ行けないし、行きたくないなぁ……。考えるだけで疲れるよ、はぁ~」

 またまたため息を吐く。

 「そう言えば今日ベランダで変な幻覚見たなぁ」

 思い出すと、思わずベランダから首を出し、マンションから見下ろす。もちろん、下には死体も血痕らしい痕もない、普通な道だ。

 リアルな幻覚だった、幻覚かどうなのか疑うほどリアルだった、でも幻覚意外それを解釈出来る言葉が見つからない。あるとすれば、心霊現象しかない。

 「まぁ、そんな訳ないか、科学的じゃないし」

 口ではそう言っても、心は半信半疑。だってインパクトすぎる、一瞬だったけど声まで聞こえた。インパクトで忘れずらい一瞬だったのに、記憶はなんだかぼんやりしている。

 例えば、ある出来事を覚えていてしかも物凄く印象的なのに、実際に思い出してみると記憶の欠片がモザイクでも付けたようにぼやけている、肝心な情報が思い出せない。

 仁の事だとすれば、幻覚の墜落少女が着ていた制服はこらか仁が通う学校の制服と同じだった、とか。

 もちろんただ墜落するのが速くて見切れなかったかもしれない。

 でもそれだけ悩むって事は、あの幻覚はそれだけ印象的で、インパクトで、リアルだったと言う事にもなる。

 「――仁ちゃん」

 和美叔母ちゃんが突然風呂から呼び掛けてきた。

 「なにー?」

 首だけリビングに伸ばし返事をする。

 「――新しいパンツ持って来てくれない?」

 「……」

 仁は返事をせず、ただ呆れた顔で入り口に突っ立つ。

 「全く、下着姿は大丈夫なら、バスタオルでも巻けばいいのに」

 呟きながらリビングに上がる。

 「――仁ちゃん?」

 「今いくー!はぁ~」

 またまたまた、ため息を吐く。

 

 

 翌朝、月とがお日さまが勤務交代した。お日さまもまだ出勤したばかりで、空はまだ少し暗い、仁の目の下のクマのように。

 そう、また徹夜しちゃった。

 目が死んだ魚のように半開きのまま、ベットで横になっている。じっと天井を見詰めていて、呼吸の気配さい感じない。瞬きでもしなかったら完全な「死体」だった。

 「ふぁ~はぁ~」

 長いあくびをしてから、仁が体を起こす。

 部屋を出て、一晩溜めたおしょうすいをトイレで済ました後、リビングのソファーに座りまたぼーっとする。そのままの姿勢でしばらく経ってから、時計に目を向けた。ちょうど分針が十二を指し、五時になったところ。

 「朝ごはん買いに行こっか」

 部屋から昨日和美叔母ちゃんからもらった鍵を取った後、家を出た。

 エレベータから1階に降り、マンションの自動ドアが開き、出ようとしたところで、ふっと仁が何かにか気づく。

 「あっ、パジャマを着替えるの忘れた」

 中国ではパジャマで外出しても別に変な事じゃないから、とくに予定さえなければ一日中パジャマでいる、たとえスーパーに行ってもパジャマ姿の人が普通に見かける。この癖がついつい日本まで持って来てしまった。

 上に戻って私服に着替えた後、今度こそマンションを出た。

 日本は便利だ、道を適当に辿っても直ぐコンビ二が見つかる。

 「いらっしゃいませ」

 コンビ二に入ると、お菓子の棚の陳列を整えていた店員が一度手の動きを止め、元気良く挨拶してくれた。まだ朝っぱらだから、他の客の姿は見当たらない、店員も一人しかいない。

 仁は迷いもなく店の一番奥に進む、パンとかが置いてありそうだから。

 思った通りあった。商品の補足をしたばかりだったのか、棚のパンは全部揃っている。

 少し悩んでから仁は焼きそばパンに手を差し出す、でも、値段を見た途端直ぐ引いた。諦めて後ろの棚のサンドイッチとおにぎりから選択しようとしたが、まさか値段がパンより高い。

 一度店内を一周回って他の商品も見てみたが、結局またパン棚の前に戻ってきた。また悩んだ最後、税込みで108円のクリームパンを二つ買う事にした。一は和美叔母ちゃんの分。

 会計に行くついでに1Lの牛乳を一パック取る。

 仁の行動を読めていたのか、商品を整えていたはずの店員が何時の間にか会計に戻って待っていた。

 昔はレジ袋が無料だったから、仁が会計の途中「有料ですが、レジ袋ご利用ですか」と聞かれた時少し意外な顔をした。久しぶりの日本に戻って初めて変わったな、と思う。

 本当はこれぐらいの量で袋なんていらないけど、反射的に「はい」と返事しちゃった。

 

 マンションに戻って食事と歯磨きを済ましても、まだ朝の五時半を過ぎたばかり。仁はまた呆然とソファーに座る。

 テレビをつけてみたが、朝は面白い番組がないから三分ほどで消した。ベランダに行って風でも浴びようとしたが、さすがに朝はちょっと冷えているからやめる事にした。

 こうして仁はまた呆然とソファーに座る。

 「ふぁ~、閑だ」

 十分程ぼーっとしてから急に立ち上がった。食卓に置いてある食い終わったクリームパンのパッケージと半分以上残っている牛乳パックを持って、再びソファーに戻る。

 牛乳パックを手前の机に置いた後、クリームパンのパッケージ裏を見始めた。

 ――名称/菓子パン 原材料名/牛乳入りフラワーペースト、小麦粉、糖類、卵、ショートニング、パン酵母、脱脂粉乳、食塩……。

 次は牛乳パック。

 ――種類別名称/加工乳 原材料名/生乳(50%未満)、脱脂濃縮乳 殺菌/130℃2秒間……。

 他に「栄養成分表」「保存方法」「製造者」など、パッケージに書いている内容を何度も読んで、少しだけ達成感のある顔をする。

 「無駄な知識が増えたな……」

 そしてまた閑に戻る。

 時計をもう一度見ると、ようやく六時を過ぎた。やはり何かに集中する方が時間の流れが速い。

 この調子で昨日チャーハンに使ったソーセージのパッケージでも見ようと、キッチンに行く時、後ろからだらしない声がしてきた。

 「仁ちゃんおはよう~」  

 「和美叔母ちゃんおはようござ……」

 振り向くと、和美叔母ちゃんが半袖とパンツ一丁でリビングに現れた。

 「……服着て下さい!」

 「着てるよ~」

 「上はね上はっ、でも下は何故パンツしかないんですかっ!」

 「気持ちいから?」

 何故か和美叔母ちゃんが疑問系で答えた。

 「……」

 呆れた顔で仁が二秒程黙り、

 「この露出狂」

 と、言い放した。

 和美叔母ちゃんは仁を無視し、目元を揉めながらソファーの背中に手を伸ばし、あっちこっち触り何かを探している見たい。すると、探し物が見当たらなかったのか、急に慌てだす。

 「あれっ?服が一枚もない!もしかして泥棒!」

 「なくて当たり前です。昨日一緒に片付けたばかりじゃないですか?」

 「そーだった!よかったぁー、泥棒じゃなくて」

 和美叔母ちゃんがほっとしてため息を吐く。

 「だいたい、わざわざ服を盗む泥棒いますか?しかもリビングを綺麗にしてくれて」

 「それはどうかなぁ~。叔母ちゃん美人だから、私の事が好きで好きでたまっない人がいたとしたら?」

 「それはただの変態です!」

 「そうだね」

 「全く、これで良く店長やっていられますね……」

 テヘっと和美叔母ちゃんが舌を出して誤魔化す。

 それを仁は平淡な表情で受け止め、

 「速く着替えて下さい、朝ごはん買っときましたから」

 と、促した。

 「それは速く着替えないと、じゃないと仁ちゃんが買った朝ごはんが冷めちゃう!」

 目を耀せながら、和美叔母ちゃんが部屋に戻った。

 「いや、その、ただのクリームパンだから……」

 残念ながら、仁のこの言葉は和美叔母ちゃんには聞こえていなかったと思う。

 

 「ちょっと意外です、和美叔母ちゃんがこんなに早く起きるなんて」

 「叔母ちゃんは……できた……大人だから」

 食卓で冷めてしまったクリームパンをもぐもぐと食べながら、和美叔母ちゃんが答える。最初からクリームパンは冷めていたけど。

 「ゆっくり食べてください、誰も奪ったりしませんから」

 「も……う……ぐぅ……!」

 牛乳を一口飲んで口の食べ物を呑み込む、

 「もう行かないと」

 「もうですか?まだ早いけど」

 「うちの店開店早いから、色々と準備しないと」

 と言って、最後のクリームパンを口にする。

 「ごちそうさま」

 最後の一口を呑み込んで、和美叔母ちゃんは直ぐ席を外して洗面所に入った。仁は不思議な顔で洗面所まで目で送った後、机を片付ける事にした。

 片付け終わってソファーでだらだらしようとしたら、和美叔母ちゃんがもちょうど洗面所から出て来た。まだ三分も経ってないのに。

 「はい、これ」

 和美叔母ちゃんが一万円と一枚の紙を差し出す。

 「……?」

 急なお金で、仁がどう反応するか分からない。

 「明日学校に行くからペンとか筆箱とか色々といるでしょ、それらを買うお金と必要な物が書いてある紙」

 「文具買うのにこんなにいらないですよ、それに自分も金持ってますので」

 「いいからいいから~、仁ちゃんその金あまり使いたくないでしょ」

 そう言いながら和美叔母ちゃん無理やり渡した。

 爺ちゃんからもらった金の事和美叔母ちゃんに言ってないのに、まるで最初から分かっているみたい。まぁ、どうせ父親が教えたのだろう。

 「ありがとうございます」

 「大丈夫?迷子になったりしない?心配だったら叔母ちゃん店早く終わらせて、一緒に行ってもいいよ」

 急に子ども扱いされて「よけいなお世話です」っ言いたい所が、ここは大人しく「大丈夫です」と返す事にする。

 「じゃあ、行ってくるね~」

 「行ってらっしゃい」

 和美叔母ちゃんを玄関まで送った。

 ソファーに戻った仁は今だに不思議な顔をする。昨日の片付けもそうだけど、和美叔母ちゃんって実は本当にやる時はやれる大人?急いでるって言うか動きが速い、慌てているみたいには見えない。

 和美叔母ちゃんが起きてから玄関を出るまでの時間、十五分も経たなかった。洗面所に入ってメイクとか髪の毛を整えるとかめんどくさい事でもすると思ったら、三分で出て来た。

 なのに生活上はドジで性格は何時もふざけている。不思議な人、でも少し見直した。

 「ふぁ~」

 朝の一仕事でも終わっような気分で、座ったまま背を伸ばし、あくびをする。

 「また閑になったな」

 時計を見るとまだ六時二十分をちょっと過ぎた所、今日はまだまだ早い。

 ……でも眠い。

 こん朝早く文具店とか開いてないだろうし、仕方なくテレビをつけて見る事にする。朝の番組はニュースだらけでつまらないかもしれないが、ぼーっと過ごすよりはまし。 

 テレビが映ると、ちょうど人の顔をしている機関車のアニメが終わったみたい。どうやら六時ぐらいになると、いろんな番組からアニメが放送されるらしい。

 お子様向けのアニメしかないけど、まぁ、ニュースよりはまし。


 

 ――キャアアァァ!

 突然な悲鳴。ビックリした仁はソファーで横になったまま大きく目を開く。慌てて起きて周囲を見渡したが、なにもなかった。

 『お、おっ……お化けだー!』

 テレビの中、一人の女の子が顔を蒼白にして、首の長いお化けから逃げている。

 「なんだ、テレビか……やば、寝てしまった!」

 急いで時計を見ると、まだ朝の九時半。どうやらそれほど寝てはいないらしい。

 「はぁ~」

 ほっとしてため息を吐く。

 寝たら冗談じゃない、もう体内時計とかの問題じゃない、もちろんそれはそれで仁にとって大事らしいけど、なによりな問題は明日の学校。登校初日で授業中に寝てしまったら困る。絶対他の生徒達で話題になる!

 仁はもう友達が作れるなんて贅沢な事は求めていない、せめて普通で平凡で、影の薄いまま卒業したい。

 あくびを嚙み殺しテレビを消した後、仁は洗面所台で顔を洗いに行った。

 鏡の中の自分を見ると、薄いクマの上に半開きの死んだ魚のような目。力を入れて目を大きく開こうとすると、左の瞼がそれを抵抗するみたいにツンツンと跳ねる。

 家にいると何時また寝ちゃうのも分からないから、そろそろ明日学校で使う物を買いに行くことにした。

 もう九時半は過ぎている、この時間なら全国のスーパーや文具店はさすがにもう開店しているだろう。

 

 「今日はちょっと曇ってるな、雨ふるかな?天気予報のニュースでも見とけば良かった」

 マンションを出た仁が最初に心配するのは今日の天気だった。

 地図もスマホも持ってないのに、しかも七年ぶりの日本なのに、仁は道に迷うより天気の方を心配する。

 何故こんなに余裕って?それは多分「日本は小さいし安全だから、例え迷子になっても適当に道を聞けば戻ってこられる」とか思っているだろう。

 道は知らなくても、目的地は明白している――

 伊勢佐木町イセザキモール。飲食店、本屋、文具店、スーパー等いろんな店が集まる一本の街。

 商店街なのに何故か「商店街」と呼ばない、わざわざ「モール」とか国際感のある名前をつける。

 別に絶対ここじゃなきゃいけない理由はない。ただ今のだんかい、仁が知っている文具店がありそうな場所がイセザキモールしかない。昔よく行った訳じゃないが、にぎやかでいろんな店があるから印象に残っていた。

 イセザキモールなら、別に道が知らなくても、どっかの駅に入り電車で関内駅まで乗ればあとはなんとかなる。

 と言う訳で、さっそく仁は通りすがりのおじさんに駅への道を聞く事にした。

 「すみません、ここら辺に駅とかありますか?」

 「この先を右に曲った、信号を二つ渡った所で……」

 「はい、ありがとうございます」

 きちんと礼を言った後、おじさんの言う通りの道に進む。

 歩いて五分、確かに駅はあった、しかもちょうどその駅が「関内駅南口」だった。

 「マジか」

 意外な事に、仁が思わず声に出す。

 関内地域には詳しくないけど、駅からイセザキモールまでの道だけなら仁は良く覚えている。これなら帰りも心配ないだろう。

 関内駅はJR東日本の根岸線と、横浜市営地下鉄のブルーラインが乗り入れていて、南口からイセザキモールへの道も二通りある。

 一つ目は滞りなく通じられる地下街を歩く、二目は南口から何個も信号を渡って行く。

 地下街から行った方が明らかに速いが、仁は信号を渡る事にした。

 何故なら関内駅の地下街は広くて迷宮のよう。

 昔、仁が親と一緒に地下街に入った後、変な知らない出口から出てきて迷子になった事がある、それいらい雨さえ降らなければ素直に一個一個信号を渡る事にした。

 南口から歩いて8分程度でイセザキモールの入り口に着いた。入り口の直ぐ横にケンタッキーの店があるから、それをしるしに覚えればいい。

 週末だから人がけっこう多いい。入り口には「自転車禁止」と書いた看板が立てられているのに、普通にペダルを踏んでパタパタと自転車で出入りしている人が必ず見かけられる。全ての人がそうじゃないけど、とにかく看板を無視する人が多い。今でも、七年前でも。

 でもそんなのどうでも良い、むしろこれこそが仁が知るイセザキモール。

 せっかく懐かしい所に来て、わくわくな気持ちになりたいが、眠くてテンションが全く上がらない。

 「ふぁ~」

 眠いと考えていたら思わずあくびをする。

 

 いろいろ回った後、仁はドンキで買い物をするに決めた。

 文具店じゃないが、昔からドンキへのイメージが「安い」と「何でも売っている」から、その青いペンギンが見えたらついつい引かれてしまった。

 ――ドンドンドン、ドンキ……。

 店に入って直ぐ、七年ぶりに懐かしい曲が聞こえてきた。でも仁は興味なさそうにあくびをする。

 ドンキは確かにいろんな商品が揃っているが、店内は狭くて商品で混んでいる。文具区を探しながら回っていたら、何時の間にか店の出入り口まで戻ってきてしまった。

 もう一周回ったが、また文具区を見つからずに出入り口まで戻ってきた。さらにもう一周回って、今度はていねいに探したが、やっぱり文具区を見つかれずに出入り口へ戻ってきた。

 「ん?」

 仁が疑問の声を漏らす。

 三周も回って見つからなく、さすがに仁も諦めて店を出ようとした……が。この時、ガラスを透して店の外によく知っている人の顔が視界に入った。しかも、こっちに向かって歩いてきてるみたい。

 「陽介?ヤベ!」

 驚きに仁がその人の名前を口にし、少し奥の棚に身を隠した。

 陽介、フルネームは神田陽介。少し太っていて、仁が中国に行く前、よく一緒に遊んでた遊び仲間、いわゆる幼馴染。

 店に入ってきた陽介は買い物かごを持って直ぐ右に回り、二階へと上がった。

 「二階があったのかよ。絶対眠いせいだ、でないと俺が二階への階段に気づかない訳がない」

 上手く自分に言い訳をしながら、こっそり後を付け仁も二階に上がる。

 だが、仁が上に上がった時、もう陽介の姿は見当たらない。これ以上ドンキにいると危ないから、仕方なく一度店を出る事にした。

 世の中はやっぱり小さい。でも別に日本に戻って住む都市をかえた訳でもないから、いずれ会うのが当然な事。

 「……できれば会いたくないけど」

 そう呟きつつ、仁はドンキの対面にあるコンビ二の前の木に身を隠しながら、陽介がドンキから出てくるのを待っている。

 少し気になったのは陽介のあの表情。昔は運動さえしなければ何時もニヤニヤと笑っていたのに、さっきの陽介の顔は冷たく沈んでいた。しかもおしゃれをしないあいつが、似合わない黒スーツを着ている。

 仁が陽介を避けているのはけして会うのが照れるとかじゃない、理由は別にある。七年前の約束を破り、彼、そして彼らに会う顔がないのだ。

 約束の事を思い出すと仁が顔を沈ませる。元々眠くて元気のない顔が更に暗くなった。

 あれから十分経つと、陽介がいっぱい包んだ袋を持って店から出て来た。距離はけして遠くないが、人混みのせいで袋の中身がよく見えない。

 陽介が人混みに紛れて遠ざかった後、仁は再びドンキに入った。

 

 さすがのドンキは物そろい。一般の文具以外、学校が指定する上履きとリコーダーもちゃんとある。

 買い物を済ませた仁はさっそく帰る事にした。本当はもっと回っていきたいが、また陽介みたいな知り合いに会うといろいろ困る。

 イセザキモールを出ると直ぐ前に交差点があった。あいにく、仁が歩道に足を踏み入れた途端、青信号がピカピカと光り点滅の合図を出した。

 足を速ませ急いで渡る人がいて、諦めて次の青信号を待つ人もいる。

 当たり前に仁は後者の方だ、次の青信号を待つ事にした。別に急ぐことはない、何より眠くてだるい。特に今日の天気は更に人をだるくさせる。

 「ふぁ~」 

 仁が小さくあくびをする。

 ほんの瞬きの間、あくびで出た涙に潤せた視界に元々なかったはずの人が突然現れた。

 これから何十台もの車がすれ違う交差点のど真ん中に、制服姿をした一人の少女が立っている。その制服は、仁が通う学校と同じデザインだ。

 少女の顔は風に吹き上げる髪の毛に隠され、上手く見えない。

 ――歩道の信号が赤くなり、車の信号が青くなった。

 車が動き始めた。なのに少女は逃がない、向かってくる車に大きく両手を開く、まるで「ぶつけて下さい」でも言っているみたい。

 更に可笑しな事に、誰も車を止めようとしない、その上車のスピードがどんどん上がって行く、まるで少女が見えてない。

 さすがに仁がいくら眠くても、驚きに垂れてた目が大きく開いた。

 「……っ!」

 「危ない」と言い掛けた瞬間、仁の目の前に大きなバスが通り、大きな車体で少女を視界から隠した。バスが通るのを待った後、もう交差点のど真ん中に少女の姿はいない。

 そこにあるはずのない人が突然現れ、そして発生するはずの交通事件が発生しない。なのに誰もそれを可笑しく思わない。

 周りから「今一人の少女がそこに居なかった?」とか、「どう言う事?」とか、あるべきはずの疑問が聞こえてこない。何十台の車も秩序良く交差点を通って行く、誰も車から降りて確認したりしない。

 「えっ……?」

 まただ、ベランダの時と同じだ。

 突然現れて、突然消えた。そして、誰もその異常現象に反応しない。ベランダの時は偶然誰も気づかなかったと解釈しても、今のはそう解釈できない。何百何千人の視線が集まる交差点のど真ん中に人が立っているのに、誰も気づかない訳がない。

 でも事実がこれ、誰も少女に反応しない。まるでその少女は誰にも見えなかったよう。

 幻覚。この単語はもう仁にとって信用性がない。ベランダの時はたったの一瞬だった、見間違えかもしれない。でも、今度はたったの数秒だけどじっくり見えた。動きも、髪の毛も、そして着ている服装も、全部目にはっきり映っていた。

 「あれ……」

 急に強い眠気が仁に襲ってきた。意識がだんだん遠くなっていて、視界がぼんやりする。

 ――ヤバイ。倒れそう、早く家に戻らないと。

 もやくやな意識の中、この言葉だけが仁の脳内に浮かぶ。

 「危ない!」

 突然後ろから声がして、左手が思いっきり後ろに引っ張られた。

 ふっと仁が気を取り戻す。気づくと、足の一本が歩道に踏み出している、顔を上げて見るとまだ赤信号だ。

 「すみません、あり……」

 助けてくれた人にお礼をしようと振り向くと、後ろには誰もいなかった。隣を見ても、他の人達は信号を待っている、仁を気にしている人は一人もいない。

 この時、信号が青くなった。人々は歩道を渡り始める。仁も何がなんなのか分からないまま、

とりあえず歩道を渡った。

 すると、また強い眠きが襲って来る。さきほどじゃないが、意識がぼんやりする。目を開けるのが辛い、瞼に重りでもかけているみたい。目を閉じて楽になりたいが、それはできない、閉じた瞬間直ぐに倒れそう。

 倒れたらやばい事になる。別に道の真ん中だからやばいと言う訳じゃない、ただ人前で倒れたらやばいだけ。絶対にニュースやネットにばらきまわれる。そうなった場合、今度は仁が交差点のど真ん中に立つだろう。

遠ざかる意識に耐えて、一歩一歩困難に歩く。何度も自分の太腿をねじり、やっとマンションに戻ってきた。本来二十分もいらない距離を、半時間もかかってしまった。

 玄関に上がった途端、仁は災害の中、避難所にでもたどり着いたようでほっとする。

 心理作用なのか、ほっとすると眠気が更に強くなった。視界がだんだん小さくなり、一線しか見えない。

 ベットで寝るとか仁はもう贅沢を求めない、せめてソファーで横になりたい。だが、リビングに入った瞬間、終に視界が黒くになり、床に倒れてしまった。  

 

 それからどれぐらい寝たのは分からない、ただ次に起きた時、顔がむっくりと充実した胸に伏せていた。

 胸の上には和美叔母ちゃんの胡散臭いテレ顔がある。

 「やだ~仁ちゃんってば大胆」

 「……」

 仁はもうこんな状況に慣れて、呆れしかない。



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