練習中
1.姉夫婦
東京から深夜バスに乗った。外は煌々と電気がついており、街は眠らない。行き交う人たちも何が楽しいのか騒いでいる。
姉に話したいことがあると言われたのは三日前のことだった。
「有…聞いてほしいの…、帰ってきて…」
姉の弱った声を聞くのはこれが初めてだった。
昔から姉とは意見が合わなかった。
服のセンスも趣味も何もかもだ。
彼女はピンクの可愛らしい服が好きだったし、私はルーズな服を好んできていた。
姉の趣味は友人と喋ることだったが、私は一人で没頭できることを好んだ。
姉は恋ができる人間で、だから、好きな人と結婚した。好きな人は理解がある人で私の両親と暮らすことに賛同した。
私は未だに恋の一つもできない。小中と友人とのネタにわざと好きな人を言ったことがあったが、あんなお粗末なものを恋とは言わない。
価値観が多分根本的に違う。
だから、あまり喋ったことはない。
夕食の風景を思い浮かべる。
母は姉の話を聞いて、父がそれに頷いて、私はそばで本を見ている。姉の声をまともに拾ったことはこの耳にはない。
急がなければ。
何を?
流れる光の中で幻の姉が悲鳴をあげているようだった。
森と湖に挟まれた、橋をバスで渡らないとスーパーにすら行けないこの田舎は、それでもそこそこ便利が良い。橋さえクリアすれば隣にはスーパーが並んでいるからだ。
おかげで、年々建物も人も増えてきているような気がする。今なら居心地がいいだろうか。
なんて、帰路につく。
「おかえりー!ゆうちゃんが帰ってくるってお母さんから聞いたから、おばちゃん来ちゃったわ〜」
5秒前の願望は秒で消える。
「ただいま、かっちゃん」
楓と名前のつくこの人は母の友人ではあるが、おばちゃんなんて言った日には真顔で締め上げられるくらい怖いのだ。ここは適当に話を合わせて逃げるに限る。
「おかえりなさい、ようやく顔見せたわね!」
奥の台所から頭を上げて、母は私と同じ顔でくしゃりと笑った。
「ただいま、忙しかったんだよ。姉さんは?」
この空間は居心地が悪い。私はさっさと本題に入りたかった。彼女の問題が解決したら私はとっとと消えたいのだ。こんなど田舎、本当に嫌いだ。
「あら、珍しい。あんた姉さんに会いに来たの?」
しまったと思った。姉は姉に言われて私が帰ってくることをこの人たちに伝えてなかったのか。
「久しぶりだから…顔見ようと思ったのよ」
「最近のあの子、元気ないからね。仕事で嫌なことが続いているらしいのよ…。話聞いてやってくれない?」
「えっ…?姉ちゃん、母さんに話してないの?」
「え?普通じゃない?あの子そんなに私に話さないわよ?」
「嘘でしょ?」
あの母親に全て報告していた姉だろうか。私の知っている姉は好きな人も、合コンの日程も、嫌な人のことも母に伝えていた。当たり前のように、話していた。私の姉はいつから別の人間になったのだろうか。
「ただいまー、ゆうちゃん帰ってきてるんね」
また別の声がする。
姉の声だ。
三日前に電話越しに聞いたけど、何故かホッとした。
「母さん、ゆうちゃんとちょっとスイーツ食べてくるわ」
姉は家の玄関でそういうと家に上がることなく外へ行った。
「もう、ようやく帰ってきた娘と少しぐらい話をさてよね!」
「仲良しやってことじゃない、いってらっしゃい」
私は慌てて服をつかんで外へ出た。
「私の代わりに旦那と子供を産んで欲しいの…」
ぶっ、と間抜けな音が店内に響いた。
飲んでいたブラックコーヒーをひっくり返さなかった私を褒めて欲しい。
何人かチラチラ見ているがそれどころではない。
「浮気はしない主義なんだけど」
「子供が欲しいの」
姉は俯いたまま腹に手をやった。
そういえば、帰ってから一度も姉の顔を見ていない。
薄い腹だ。
「私のタイムリミットあと2年なの。赤ちゃん産めなかったら、子宮摘出しないといけなくて。それで、もしそうなったら私は、私と彼の血を繋いだ子供が欲しい」
姉は高校の時大量出血で入院したのを思い出した。その時に確か言われていた。子供が欲しいなら早く産まないと産まれない身体になると。なるほど、姉は28歳だ。
「体外受精は」
「確率低いでしょ」
「今なら卵子凍らせる方法だってあるでしょ。代理母出産だって…」
「廉くんはあんまりそういうの好きじゃないのよ」
「でも、そうは言ってられないでしょ。」
「彼は子供は授かり物だって考えの人だから、できなくてもいいって言うの。不妊治療も協力はしてくれない。そういうせいこ」
「でも、姉さんは欲しいんだ」
「うん」
姉は私の目を一度も見なかった。
私は姉の考えをやはり理解してやれない。子供が本当に欲しい人とどうでもいい人の考えはきっと天地がくっついても相容れない。
「義兄さんに相談したの?」
「したよ。そしたらそこまでして子供が欲しいのかと怒られちゃった」
「そうでしょうね。私も怒ってるわ」
「友人にね、子どもができた話をよく聞くのよ。なんで要らないって言ってたあの人にってすごく妬ましくなる」
「あいにくそんな友人いたことないのよ」
「知ってる。だから、分からなくていいよ。お腹だけ貸して」
姉は伏せたまま頭を下げた。
義兄のそこまでして子供が本当に欲しいのか、という声がした。分かる。義兄と同じ気持ちだ。そこまでして何が彼女を駆り立てるのか。でも、姉はきっと正しい。姉の方が合っている。
愛した人の子供が欲しいと思うのはきっと普通だ。そこまでして欲しいのだ。高いお金でも払っても、理解されなくても、欲しいものは欲しいのだ。彼女は自分の子供にこだわるのは何も間違っていない。
焦りすぎて結末がおかしかなってしまっただけで。だから、私は。
「私、セックスできないわ」
姉の希望ではない形で彼女を救いたいと思う。
それから3年後、白い病室に一つの生命が出てきた。
姉夫婦には結局子供はできなかった。義兄は最後まで不妊治療には参加しなかったし、周期のことは聞かない知らないふりをした。でも、姉の子供が欲しいと思う気持ちに寄り添うことにしたらしい。
私に頭を下げにやってきた。
私はもうその選択肢しか頭になかったので、あっさり了承した。
私は子供を授かった。姉夫婦の子供だ。
体外受精した二人の子供を私が産むことにしたのだ。
汗だくの手を二人が一生懸命握っている。やはりお似合いの夫婦だ。仲が良すぎたから子供できないんでしょ、と母が苦笑いしていたが、こんなに仲がいいなら何も問題はないだろう。本当にこんなよく分からない出産で泣けるなと思う。
光の中で姉が笑っていた。心からの笑顔だ。
私は少しだけ産まれてきた子供に感謝した。