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原因と結果

          -1-


 男が逃げ込んできた時、神父は昼間行われた聖体礼儀の後片付けをしていた。

 勢いよく扉が開き、閉じられる。ざあざあと激しく降る雨の音が一瞬教会内に響いて、遠ざかる。

 はあはあと息を乱した男は神父を見て、右手を持ち上げた。

 拳銃が握られている。

「どうかなさいましたか」

 神父は慌てることなく男に話しかけた。

 背は高いが男は細身で、目は血走っていたもののどこか知的な雰囲気を目元に漂わせていた。

 拳銃を神父に向けたまま、男が外を窺う。

「追われている。匿ってくれないだろうか」

 神父に視線を戻し、男はそう尋ねた。

「匿うかどうかは、あなたが追われている理由によりますね」

「私は何も悪いことはしていない」

「では、心当たりは?」

「ある」

「それをわたしにお話しいただけますか?」

「そうすれば匿ってくれるか?」

「とりあえずお話を伺っている間は匿いましょう。その後どうするかは、お話しいただいた内容によって、としか申せません」

「いいだろう。ただし条件がある」

「どんな条件ですか?」

「腹が減って倒れそうなんだ。何か食べながら話させてもらえると、助かる」

 神父が温かく微笑む。

「承知いたしました。では、こちらへどうぞ」



          -2-


 神父は教会の奥の食堂に男を案内した。

 食堂とは言っても家族で食事をするために設けられた狭い部屋だ。神父は独り身で、家族はいない。

 神父はまず、男から慎重に距離をとったまま、ずぶ濡れの男が使えるように「どうぞお使いください」と言って、机の上にタオルを置いた。

 神父に銃を向けたまま、男がタオルを取る。

「神父さん。ここに鍵はないのか?」

「ここは教会ですよ。扉は万人に対して開かれていますので」

「私のような者に対しても、ですか」

「誰に対してもですよ。もっとも、あなたは悪い人には見えませんが」

 神父がパンとスープを男の前に置く。

「ぶどう酒もあります。如何ですか?」

「頂きます」

「さてと」

 神父は男の前に座った。神父が座ったことに安心したか、男が銃を机の上に置く。

「それでは、お話しいただけますか?」

 男が名を名乗り「私は科学者です」と言った。

「すると追われているのは、あなたの研究が理由なのですか?」

「実のところ、何故こうまで執拗に追われるのか、私には判らないんです」

 と、男はひどく疲れた声で言った。

「しかしおそらく、あなたの言われる通り、私の研究が追われる理由でしょう」

「どんな研究なのですか?」

「神父さんはお聞きになったことがありますか?2011年の9月に、光の速度を越えるニュートリノが観測されたというニュースを」

「ニュートリノ?」

「ええ」

 男が頷く。

「ニュートリノは弱い相互作用としか反応しない。いや、正しく言えば重力とも反応するんだが、ニュートリノ自体の質量が小さいからほとんど無視できる。

 そのため、ニュートリノは透過性が高く、ほとんどの物質を素通りしてしまう。

 2011年9月にある発表が行われました。

 CERNから730キロ離れた研究所にニュートリノを飛ばしたところ、2.43ミリ秒後に到着したというのです。これは光速よりも60.7ナノ秒、ニュートリノの方が速いということを表している」

「60.7ナノ秒」

 神父が呟く。

「それはすごい」

「すごいと思っていないでしょう、神父さん」

「判りますか?」

 男が苦笑する。

「ええ」

「正直に言えば、何のことかさっぱりですよ」

「ま、そうでしょうね」

 男が葡萄酒の入った足の短い陶器製のワイングラスを手にする。

「簡単に言うと、この世界に光より速い物質は存在しないはずなんです。もしそんなものが存在したら、因果律が狂ってしまう」

「ふむ?」

「発表したCERN自身が、実験結果は誤りだと考えていた。

 けど、自分たちだけでは誤りを見つけられなかったので、誤りを見つけてもらうために発表したんです。

 しかし、同じ年の11月の再実験でもやはりニュートリノが光の速度を越えている、という結果になった」

「だったらやっぱり速いのでは?」

「簡単には決められませんよ。

 ことは重大だ。

 最終的には翌年、2012年5月に実験機器の不備を解消して再実験したところ、今度は光の速度と差がないという結果が出て、翌月の6月に、光より速いニュートリノが観測されたという実験結果は間違いだったと、正式に発表された」

「一件落着、ということですね」

「違う」

「どういうことです?」

「実験機器に不備なんかなかった」

「うん?」

「逆に、実験機器に細工して、結果が理論に合うように実験したんですよ」


「私はその場にいた」

 低く抑えた声で男が言う。

「3度目の実験の場に、ですか?」

「ええ」

 男の両目がぎらぎらと輝いている。

「どこかから圧力があった。光より速いニュートリノなど存在してはならないと。因果律が狂うなどということがあってはならないと。

 私以外の者は皆、圧力に屈した」

「いったい誰がそんな圧力をかけたと言うのですか?」

「知らない。判らない。だが、そんなこと許されない。真実を捻じ曲げるなど、科学を奉ずる者としてはあってはならないことだ。

 だから、私は、正しい実験結果を盗み出して、逃げた」

「よく逃げられましたね」

「苦労はしましたがね。私は貧しい生まれでね、若い頃には……」

「警察に捕まったことも、ありますね」

 と、ひどく冷淡な声で神父は言った。



          -3-


 男の手にしたワイングラスが落ちて粉々に砕ける。

「あ、あ?」

 舌が縺れて言葉にならない。

 立とうとして、膝から崩れ落ちる。

 神父が立ち上がる。

「それでも捕まったのは一度だけ。要領の良さと足の速さだけは仲間うちで一番だったとか。

 なるほど、苦労させられました」

 床に倒れた男の身体がガクガクと震える。

「因果律が狂うことなどあってはならないのです」

 冷ややかに男を見下ろして神父が言う。

 神父は知っている。新旧いずれの聖書にも記されることのなかった秘密。ごく限られた者だけに口伝で伝えられた秘事。

 自らの出自について神自身が語ったという言葉を。

 書類は徹底的に破棄された。

 媒体がなんであるかに関わらず。それが紙だろうが、土器に刻まれた言葉だろうが、壁画、石碑、悉く。カエサルのエジプト遠征に紛れてアレクサンドリア図書館を炎上させたのもそうだ。

 キリスト以前から秘されてきた真実。

 最初に神から知らされたのはソロモン王で、ソロモン王自身が全てを秘するように命じたとも伝わるが事実は判らない。

 神父が呟く。

 どこか明るい、狂気を帯びた口調で。

「我々が、いまを生きる者の望みが遥か過去に神を生み出したなどと、そんなこと。

 結果が原因になるなどと。

 過去は過去。絶対に触れてはいけないのですよ」



 男は暗闇にいる。

 死の淵という光のない世界に。

 彼は死にたくなかった。

 真実を明らかにする前に死ぬことはできなかった。

 男は求めた。生を。光を。動かぬ手を男が伸ばす。どことも知れぬところへ。

 今や男は知っている。時は越えられると。

 知っている、それが男の意識を、思念を、遥かかなたへ、遠い遠い過去へと飛ばす力となった。

『光、光……』

 男は見た。

『ひかり、あ……』

 神父が気づく。

「ああ。まだ生きていたのですね。可哀想に。今、楽にして差し上げましょう」

 机に置かれていた男の銃を神父が構える。

 安全装置を外し、ためらうことなく引き金を引く。

 パンッ。

 そうして、光を望んだ者が消え、世界も生まれることなく、消えた。



          -4-


 オレは彼女が読み終わるのを待って「どうかな」と尋ねた。

「うーん」

 彼女が唸る。

「判りにくい」

 きっぱりと彼女が言う。

「ど、どこがでしょうか」

「ニュートリノとか、CERNとか。何、それって考えちゃう。読者に考えさせたらダメなんじゃない?」

「いや、みんな知ってるから。これを読んでくれる人は、さ」

「つまり、読者を限定しているワケ?」

「え、あ、いや。そーゆーつもりじゃないけど」

「だったらどういうつもりなの?」

 さすがに長い付き合いだ。彼女の口調は優しいが、容赦がない。

「どういうつもりかと改めて問われましても」

「良く判らないけど、ニュートリノが光より速い、というのが問題なのよね?」

「うん」

「何が問題なの?」

 オレはここぞとばかりに身を乗り出して答えた。

「問題に決まってるさ。この世で光より速いものは存在しない。もし、ニュートリノが光より速いなんてことになったら、現代物理学の根本が狂う。因果律が破れてしまう」

「それ、なに?」

「え?」

 オレの勢いが萎む。

「そ、それって?」

「因果律よ。それって、何?」

「そ、そりゃあ、物事は原因があって、初めて結果が生まれるという、大原則さ。そんなの、あ、当たり前だろう?」

 彼女が顔を上げて考える。

「本当に、それって大原則なの?」

 オレに視線を戻し、訊いてくる。

 オレはこくこくと頷いた。

「だったら、これは?」

 彼女が取り出したのは今朝の朝刊である。

「これとか。これもそう。ほら、これも」

 彼女が順々に指さしたのは政治欄。それと、国際欄だ。オレは彼女の指さす記事を凝然と睨みつけた。

 そこに記されていたのは、結論ありきの政治家や官僚の言い訳。結果から生み出されたとしか思えない、原因の山、山、山--。



          -5-


 オレは彼女が読み終わるのを待って「どうかな」と尋ねた。

「あのね」

 彼女がため息を落とす。

「な、なに?」

「風刺っぽくすればそれでSF、という考えは甘いと思うわ」

 ガーンという文字が見えた。

 死んだ。マジで。

「た、立ち直れない……」

「もうちょっと考えた方がいいんじゃない?」

「そ、そうかなぁ」

 オレの声はほとんど泣き声である。

 さすがに悪いと思ったか、

「足りないところはいっぱいあるけど、読めないことはないし、うーん。それなり、と言うと悪いけど、面白くないこともないわ」

 と、彼女は言った。

「どっちだよぉ」

「ま、あなたが書いたものは読むから、必ず。だから頑張って」

「君だけだよぉ。愛してるよぉ」

 呆れたように彼女が笑う。彼女の笑顔がいつもより嬉しそうに見えたのは、うん、多分、気のせいだろう。

「それじゃあ、あたしは出かけて来るわ」

「どこに行くの?」

「お買い物。ねぇ、晩ごはんのリクエスト、何かある?」

 晩ごはんのリクエストかー、

 と考えてオレは閃いた。

 オレがリクエストする。つまり、原因。彼女が買い物をする。それが結果だ。彼女が買い物から帰って料理を作り、食卓に並べる。

 そうしてオレの前に置かれた夕食は、結果でありながら、ある意味、原因なんじゃないだろうか?彼女の買い物の選択に影響を与えた、原因なんじゃなかろうか?

『過去を記憶し、未来を予見できるようになって、因果を交錯させて因果律を破る力を、人類は手に入れた……』

 --と埒もないことを考えながら、「今夜はハンバーグで!」と叫んで、オレはひとつの未来を、結果を、ささやかに確定させた。

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