【読み切り版】私の主人は偏食家
この私、ジウ・ホリィの主人はそれはお美しいお方である。
彼の元で侍女として働き始めて早三年が経過するが、この三年間というもの、一度たりともその認識が間違っていると感じたことはない。むしろ毎日更新中と言ってもいいくらいである。
我が主人である旦那様は、きらつくプラチナブロンドの髪を後ろへと撫でつけ、ピジョンブラッドと謳われる最高級のルビーのような美しい赤い瞳、鼻の下に立派な真白い口ひげをお持ちの、それは素敵な老紳士だ。そう、老紳士。少年でもなく青年でもなく中年でもなく、老年の男性である。だが「なんだ、ジジィか」などと侮るなかれ。そんな不届き者は私が成敗してくれよう。
旦那様はそれは素晴らしいお方だ。ぴんと細身の背筋を伸ばし、上流階級の貴族としてどこに出ても恥ずかしくない立派な衣装に身を包み、その手にはいつも黒檀製の精緻な細工の施された杖をお持ちになられている。顔には深い皺が刻まれ、彼のお方がこれまで歩まれてきた人生の長さを表しているが、そんな皺の一本一本もまた大変魅力的なお方である。
実年齢は存じ上げないが、かなりのお年を召していらっしゃるに違いない。にも関わらず、いつも柔和な笑顔を浮かべ、余裕を持ち、毅然とした態度を心がけていらっしゃるそのお姿に、私は何度見惚れたことだろう。旦那様は本当にお美しいお方なのである。それは容姿ばかりではなく、その言動、立ち振る舞い、お心の在り様も含めたすべてに言えた話だ。慈悲深く思慮深い旦那様にお仕えできる私はつくづく幸せ者である。
「おはよう、ジウ」
「おはようございます、旦那様」
目尻に皺を刻んだ穏やかな笑みをその整ったお顔に浮かべ、問いかけてくる旦那様に、私はお仕着せのエプロンドレスの裾を持ち上げて一礼した。小鳥の囀りが心地よい朝、今日も今日とて旦那様は大変魅力的である。
そんな旦那様のためであれば、掃除も洗濯も庭のお世話もお手の物。この広いお屋敷で使用人が私だけであると言っても、何一つ辛いことなどない。ないのだが、しかし。
「……本日は、マカロンをピスタチオとベリーの二種ご用意しております」
「ほう、それは素晴らしい。さあ、早く持ってきてくれないかな。ああ、紅茶にはもちろんアカシアの蜂蜜をたっぷりと入れておくれ」
「かしこまりました、旦那様」
そんな私も、食事の準備だけは毎日苦慮させられている。何せ旦那様は、とんでもない偏食家でいらっしゃるのだから。
早速用意した綺麗なピスタチオグリーンのマカロンと、ベリーピンクのマカロンを、それはそれは嬉しそうにお口に運ばれる旦那様のお姿は眼福以外の何物でもない。しかし、それで誤魔化されてはならない。
「旦那様、差し出がましいことと存じますが、たまにはお肉やお野菜も……」
「私はかわいいものしか口にしないと決めているんだ」
だからお断りだね、と、ティーカップを片手に穏やかながらも有無を言わせないお言葉に、私はひっそりと溜息を吐いた。ああ、このやりとりも何度目であったか。旦那様にとって食事というものがそう重要なものではないとは知りつつも、それでも口を挟みたくなってしまうのは、旦那様のご健康を心配してのものであると解っていただけているのだけが救いである。解っていただけていても受け入れてくださらないのだからまああまり意味はないが。まったく、いいお歳であるというのに、子供のようなことを仰るお方だ。
けれどまあそんなところもおかわいらしいと思ってしまうので、私もあまり旦那様のことを責められない。
「うん、今日も美味しいよ。ありがとう、ジウ」
「ありがとうございます。光栄ですわ、旦那様」
ああ、今日も旦那様の笑顔が眩しい。内心で合掌しながら、私はすまし顔で一礼したのであった。
* * *
さて、今日の昼食は何にしようか。中庭に咲き誇る薔薇に水をやりながら、私は食糧庫の中身を思い返していた。
旦那様が召し上がるものは、『かわいいもの』に限る。そしてその条件に加え、もう一つ、『甘いもの』という条件も欠かせない。この三年で磨きに磨いた製菓技術。町に出れば腕のいいパティシエールであると持て囃されるに違いない……なんて、自分で自分を褒めたくなるくらいの腕前であると自負している。だが、私はこの腕を旦那様のため以外に使う気は毛頭ない。旦那様にだけ解っていただければいいのである。
食糧庫には先日町に買い出しに出た時に購入した林檎があるはずだ。アップルパイか……いや、やはりここはアップルタルトにしよう。薄切りにした林檎を大輪の花が咲き誇っているかのように並べれば、きっと旦那様はお気に召してくださるだろうから。
うん、そうしよう。そう結論付けて、私は目の前の白から薄紅へと移り変わるグラデーションの花弁が美しい朝咲きの薔薇を何輪か摘み取り、お屋敷の中に戻って食卓の上に飾った。
「これでよし、と」
さて、お次は掃除だ。この広いお屋敷を一人ですべて掃除しようと思うと、一日がかりどころではない時間がかかってしまう。だからこそ私は、日によって掃除する場所を振り分けて掃除に励んでいる。今日は西棟の書庫の掃除だ。さっさと終わらせてタルトを作らねば、と意気込みつつ西棟へと向かう。
「おや、ジウじゃないか」
「まあ、旦那様」
書庫の扉を開けるなり、安楽椅子に揺られながら読書に耽っていらしたらしい旦那様に声をかけられてしまった。他ならぬ旦那様の読書の時間を邪魔してしまうなんて、このジウ、一生の不覚である。
「お邪魔してしまい誠に申し訳ありません。出直させていただきます」
「いや、構わないよ。今日はここの掃除だったのかい?」
「はい。ですが出直させていただこうかと……」
「ジウは本当に働き者だから、僕は時々心配になるよ。わざわざ家事なんてしなくてもいいんだが」
「旦那様。働かざる者喰うべからずです」
「おや、では僕も働かなくてはならないかな」
「え、あ、そういう意味じゃ……!」
既に引退なさり、余生を存分に楽しんでいらっしゃるのだという旦那様に働かせるなんて以ての外である。焦る私をしばらくその赤い瞳で見つめていらした旦那様は、やがてくつくつとその喉を鳴らし始めた。
「いや、すまない。意地悪なことを言ったね。君があまりにかわいらしい反応をしてくれるものだから、つい」
「旦那様……」
昔からかわいげがないにも程があると言われ続けてきた私にそんなことを言うのは旦那様くらいだ。顔が赤くなっていくのを感じて、それを隠すために俯くと、ふいに旦那様が安楽椅子から立ち上がられる気配がした。そのまま旦那様は私の目の前まで歩み寄ってくると、その手でぽんぽんと私の頭を優しく叩いた。どきりと心臓が跳ねる音がした。恐る恐る顔を上げると、そこには旦那様のお優しい笑顔がある。
「さて、そんな働き者のジウにご褒美だ。今日は休暇になさい。お小遣いもあげるから、町にでも行って少し息抜きしておいで」
「え?」
「この三年間というもの、ずっと働き詰めだろう? 今日は昼食も用意しなくて構わないから、楽しんできなさい」
「私が好きで働いているのです。そんな、遊びに行くだなんて」
旦那様を一人このお屋敷に残して町に遊びに行くなんてとんでもないことだ。一人で町に出たって何も楽しくない。そんなことをしている暇があったら、このお屋敷で旦那様のために働いているほうが何百倍も楽しいというのに、旦那さまったらなんてことを仰るのだろう。
旦那様の仰ることを否定したくなんてないけれど、こればかりは譲りたくない。そんな思いを込めて旦那様を見上げるけれど、旦那様は先程の言葉を撤回してくださることはなく、困ったようにその眉尻を下げられた。
「大丈夫だよ、ジウ。何も怖がることはない。もし何かあったら、すぐに僕を呼びなさい。何があろうと駆けつけるからね」
「……はい」
こうなってしまっては、旦那様は私の言葉なんて聞き入れてはくれないだろう。私のことをとても大切にしてくださる、誰よりもお優しい旦那様だ。ここは一旦諦めて、大人しく町へ行くのが得策だ。うん、さっさと行ってさっさと帰ってくればいいことであるし。
そんな私の内心の声は、ばっちり旦那様のお耳に届いていたらしく、「夕方まで帰ってきてはいけないよ」と釘を刺されてしまった。耳が痛いです旦那様。
かくして私は、町へと出かける羽目になったのである。
* * *
という訳で、場所は変わって、町である。食料と日用品の買い出し以外ではわざわざやってこない場所に、私はわざわざやってきていた。いつものお仕着せのエプロンドレスではなく、数少ない私服を身に纏っている私は、どこからどう見てもその辺の一般人にしか見えないことだろう。
旦那様のお屋敷はこの町の近隣に位置する森の最奥にあり、お屋敷に住まわせていただき始めた頃は旦那様の助けなしには町までやってこれなかったけれど、三年も経てばいい加減慣れもする。今ではどんな獣道もどんとこいだ。旦那様の前では淑女であろうと決めている私は、わざわざそんな道を選ぼうとは思わないけれど。
「……旦那様の馬鹿」
思わずぽつりと呟いて、慌ててそれを撤回するためにふるふると頭を振る。いけないいけない。いくら心細いからと言って、私のためを思って休暇をくださった旦那様に『馬鹿』だなんて暴言、許されるはずがない。というか、誰が許してくれても……たとえ旦那様が許してくださろうとも、自分で自分が許せない。旦那様は誰よりも素晴らしい素敵なお方なのだから。
でも、それでも、恨み言の一つくらい言いたくなってしまうというのも本音である。別に町になんて興味はないのに。私は旦那様がいてくれればいいのに。でも、その想いを旦那様に理解してほしいと思うのは、私のわがままだ。私には旦那様しかいないけれど、旦那様には私以外にもたくさんの『かわいいもの』があるに違いないのだから。
そう考えると無性に寂しくなって、旦那様からいただいたお小遣いがズンッと重くなったような気がした。旦那様は私がドン引きになるくらいにたくさんの金子を握らせてくださったけれど、それを素直に喜べない私は、旦那様の侍女失格である。
はあ、と溜息を吐きながら、石畳の道を歩く。この町は旦那様が仰るところによると、それなりに栄えた都会であり、同時にそれなりに寂れた田舎でもあるそうだからか、立ち並ぶ店先に並ぶ商品は多彩で、見る者を飽きさせない。
どうせとくに欲しいものもないことだし、旦那様にお土産を買って帰るのはどうだろうか。私が作るお菓子ばかりではなく、本業の職人のかわいらしいお菓子は魅力的だろうし、読書家の旦那様に最近発売されたばかりの人気の本を買って帰るのだって素敵だ。
――ありがとう、ジウ。
そう笑顔で受け取ってくださる旦那様の笑顔を想像するだけで心が躍る。憂鬱な一人散歩もこれで楽しいものになる。よし、そうしよう。となればじっくり店先を見て回らねば。
そうして私は、昼食を摂るのも忘れて町中を練り歩き、パステルカラーが愛らしいドラジェと、羽を広げた鳥の形の美しい飴細工をまずはゲットした。さてお次は本だ。本屋さんへ向かうことにしよう。
この町に唯一の本屋は、王都から頻繁に仕入れを行っているらしく、多彩な本で溢れている。それはいい。それはいいのだが、ここで一つ、問題が発生した。
「どれがいいんだろ……」
膨大な量の本を前にして、私は呆然と呟いた。お恥ずかしいながら、私は文字が最低限しか読めない。せいぜい絵本を読むのが精一杯な私に、読書家の旦那様が好まれるような本を選ぶなんて大役が務まるはずがない。たまに旦那様にこの本屋さんにお使いを頼まれることはあるけれど、その時はいつも旦那様がご所望の本のタイトルをメモした紙を手渡してくださるので、それを店員に渡すだけで話が棲んでいたのだが、今回はそうはいかない。
どうしたものか、と頭を抱えていると、ふいに後ろから声をかけられた。
「あれ、いつもお使いに来るお嬢さんじゃないか。今日もお使いかい?」
「へ?」
振り返れば、その両手に何冊もの本を抱えた、いつもお世話になっている店員が立っていた。そうだ。この人におすすめを聞けばいいのではないか。入荷する新刊のチェックを怠らないと自慢するこの人ならば、きっといい本をおすすめしてくれるに違いない。
「こんにちは。今日は私個人の用事というか……その、主人にお土産として本を贈りたくて。おすすめを教えていただけませんか?」
元を正せば旦那様のお金なのだから、私がお土産だのプレゼントだのと言うのはおこがましいことなのだろうけれど、自分のために買い物するよりも、旦那様のために買い物する方がよっぽど楽しいし嬉しいのだから仕方がない。「ジウは困った子だね」と旦那様に苦笑されてしまうような気もするが。とはいえ、申し訳ありません旦那様。今回ばかりは譲れません。私のために無駄遣いするより、旦那様ご自身のために何かを購入させていただく方が、私はずっと嬉しいです。
私が問いかけると、店員は抱えていた本の山を一旦下ろしてから、ふむ、としばし考え込み、そしていつも新刊が並んでいる棚から、一冊の本を取り出した。
「おすすめかぁ……。そうだな、これなんかどう? 一昨日王都から届いたばかりの本なんだけど」
「どんな内容なんですか?」
「冒険活劇だよ。若き祓魔師が、美しき聖女と共に、悪の吸血鬼を倒すために旅をする物語さ」
「!」
「ほら、やっぱり吸血鬼は恐ろしいものだからね。王都にいらっしゃる聖女様と祓魔師様のおかげで最近は大人しくしているみたいだけど。これはその聖女様と、祓魔師様をモデルに書かれた物語なんだ。シリーズもの第一巻で、これがもう最後の一冊なんだよ。やっぱり異世界からいらっしゃった聖女様の人気はすごいよね。一時はどうなることかとおもったけど、やっぱり主は俺達を見捨ててはいなかったんだなぁ」
「そう、ですね」
身体が震えるのを、他人事のように感じた。それを誤魔化すために、抱えている紙袋をぎゅっと抱き締める。幸いなことにそんな私の反応に店員は気付いている様子はない。
「ああそうだ。今日、教会に、王都から司祭様と祓魔師様がいらしてるんだよ。もしよかったら、一緒にお姿を見に……」
「すみません。用事を思い出したので、これで失礼しますね」
皆まで聞かずに踵を返す。後ろから追い縋るような声が聞こえてきたけれど、構ってなんていられなかった。今後もお世話になる予定の本屋さんの店員相手に失礼な真似をしてしまった自覚はあっても、胸の奥底から沸き起こる感情の前ではどうすることもできなかった。
こわい。こわい。こわい。その三文字がぐるぐると頭の中を巡り、他のことを考えられなくする。
――何も怖がることはない。
「だんな、さま」
震える声で呟いた。それだけで恐怖が和らいだ気がした。ああそうだ、大丈夫だ。私には旦那様がいてくださる。あのお方の仰る通りだ。何も怖がることなんてない。旦那様は夕方まで帰ってくるなと仰ったけれど、今日はもうお屋敷に帰らせてもらおう。そしてこのお土産を旦那様に渡して、それから当初の予定通りアップルタルトを作ろう。そうだ。それでいい。それがいい。
雑踏の中を足を急がせ、近道のために裏道に入る。――――それが、失敗だったのだ。
「……ジウ?」
「え?」
人通りのない裏道で、その声は奇妙に大きく響いた。真正面に立っているのは黒いカソックに身を包んだ青年だ。うなじでまとめられた長い銀の髪。青い瞳。女子供ばかりではなく男性すら憧れるに違いない、整った容貌。その首から下げたロザリオが、きらりと光った。
「ジウ、なのか?」
「ッ!!」
「待て!」
確かめるように呼ばれた名前にも、その後に重ねられた制止の声音にも、そのどちらにも答えることなく踵を返して走り出す。
見つかった。見つかってしまった。だったらすべきことはただ一つ。何としてでも私は、逃げなくてはならない。あんな、あんな日々は、もう二度とごめんなのだから!
けれど、私よりもずぅっと運動神経に優れた青年……王都においても屈指と謳われる、美しき銀の祓魔師の足には敵わなかった。
「待て、待ってくれジウ!」
「離して!」
青年の腕に囲い込まれ、そのまま裏道に連れ込まれる。どれだけ暴れようとしても、簡単に抑え込まれてしまう。せめてもの抵抗に睨み付けるけれど、そんな私の視線なんてちっとも効果がない。ただますます私を拘束する力が強くなり、私はとうとう涙目になる。こんな奴のせいで泣くだなんて、そんな真似はしたくなかった。私のすべては旦那様のためにある。だったら涙一滴だって、旦那様のために向けてのものでなくてはならない。
「いい加減にして! あんたが何をしようが何を言おうが、私は絶対にもうあんなところへは戻らないんだから!」
あんな地獄に好き好んで戻りたがるおめでたい馬鹿がどこにいるというのだ。私の帰る場所はもう旦那様の元だけなのだ。そんな思いを込めて怒鳴りつけると、かつて私の世話役だった銀の青年――ディートリヒは悲痛に顔を歪めた。いかにも傷付きましたとでも言いたげな表情に腹が立って仕方がなかった。
辛かったのも苦しかったのもこの青年ではなく私なのだ。そしてそれを救ってくれたのが旦那様だったのだ。この青年が神とかいうクソッタレを信じるというのならば、私が信じるのは、他の誰でもなく、旦那様ただお一人だ。
「私がいなくても、あの聖女様は上手くやってるみたいじゃない。だったらもう私はいらないでしょ!? 放っておいてよ、今更私に関わらないで!」
そう怒鳴りつけると同時に、ディートリヒの顔に抱えていた紙袋を叩き付ける。旦那様のためのお土産だったけれど、この際仕方ない。今は一刻も早くこの青年から逃げてお屋敷に帰ることが先決だった。けれど、そんな私の目論見は、成功することはなかった。顔に紙袋をぶつけられても、ディートリヒの拘束は緩むことはなく、彼は私のみぞおちに、拳を入れてきた。途端に意識が遠退いていく。
「すまない」と彼は最後に言っていたようだったけれど、それが何に対する謝罪なのかを判断するよりも先に、私の意識は闇に呑まれた。
* * *
ふっと意識が浮上する。瞼が重くてたまらないけれど、それを無理矢理持ち上げて、私は私が何よりも安心できる単語を口にした。
「だん、な、さま」
「目が覚めたのか」
「ッ!」
もう二度と聞くことなんてないと思っていたはずの声に、私はいつの間にかベッドの上に寝かされていた身体を思い切り起こした。
「ディートリヒ……!?」
「ああ。久しぶりだな、ジウ」
ベッドサイドの椅子に腰かけていた銀の青年が、そう言って小さく笑った。誰もが見惚れるに違いないその笑顔は、私にとっては恐怖を招くものでしかない。
ひゅっと息を呑む私に、ディートリヒは悲しげに眉尻を下げた。昔は新米の祓魔師でしかなかったこの青年は、地下牢に閉じ込められていた私の世話役だった。いつの間にやら随分と出世したらしい。祓魔師の中でも上位に位置することを示す衣装に身を包んだその姿に、身構えずにはいられない。
「そう怯えないでくれ。俺達が君にしたことを思えば、その反応も当然だとは思うが……」
「ここはどこ?」
ディートリヒの言葉を遮るように問いかける。けれど聞いただけ無駄な疑問だった。周囲を見回して、ぶるりと身体を震わせる。ここは、教会の一室だ。その証拠として、天井に大きく十字架が描かれている。そして私のその予想は、やはり間違ってはいなかったことはすぐに解った。ディートリヒが、こくりと一つ頷きを返してきたからだ。
「ここは町の教会の仮眠室だ。君を気絶させた後、俺がここまで運んだんだ」
「……そう。神に仕える祓魔師様ともあろうお方が誘拐だなんて世も末ね」
「そう、かもな」
反論されるかと思ったが、思いの外あっさりと非を認められて拍子抜けしてしまう。どういうつもりかと睨み付けると、ディートリヒはその青い瞳を伏せた。なんだかこっちの方がいじめているみたいだ。けれどそんな反応をされても良心が痛むことは欠片もない。さっさと解放してほしい。あのお屋敷で、旦那様が私の帰りを待っていてくださるのだから。そんな気持ちを込めて睨み付けていると、ディートリヒは深々と頭を下げてくる。
「手荒な真似をしてすまなかった。でも、どうしても君を逃がしたくなかったんだ」
「あんたが逃がしたくなかったのは私じゃなくて私の血でしょ。その様子じゃ、あの聖女様は、血の提供をよっぽど嫌がってるみたいね?」
「……それも、ある。だが、それだけじゃない」
「へえ?」
適当に言ってみただけだったのだけれど、やはりというか案の定というか、聖女と呼ばれ今なおちやほやされている彼女は、義務であるはずの血の提供を嫌がっているようだ。三年前、散々私から血を搾り取って、相当そのストックを貯めておいたはずだが、いい加減それも底をつきそうになっているのだろう。教会はとうとうまずい状況に追い込まれていると見た。あはは、ざまあみろ。
「三年前の襲撃で君が消えてからずっと探していたけれど、きっともう、吸血鬼共の餌食になっていると思っていた」
苦々しげなその声に、チッと盛大に舌打ちをする。旦那様の前では絶対にできないけれど、こいつの前で取り繕う必要なんてないからどうでもいい。
そのまま私なんて死んだものと、そう勘違いしてくれていたらよかったのに。そうしたら私はこれからも旦那様と楽しく幸せに暮らしていけたのに。
三年前の襲撃とは、王都の大教会を、吸血鬼が徒党を成して襲った事件である。“聖女の血”を使って大々的な吸血鬼狩りに乗り出した教会に対する吸血鬼の反乱だった。あの時、私は旦那様に攫ってもらったのだ。その恩を返すため、そしてもう一つの理由のために、私は旦那様のお側にいる。今までも、これからも、ずっとずっとそのつもりだ。
「あんたが何と言おうと、私は王都へは帰らないわ。利用されるのなんて死んでもごめんよ」
「違う! 利用なんて俺がさせない。今後こそ俺が守る。だから、俺の側にいてくれないか」
「……はぁ?」
何を馬鹿なことを言っているのだろう。思わず間抜けな声を上げてしまった。こんな声、旦那様の前では以下省略。私が心底解せないと言わんばかりの表情を浮かべていることに気付いていないはずがないのに、ディートリヒは私の手を掴んで続けた。
「共に帰ろう、ジウ。あのお飾りの聖女なんかではなく、今度こそ君が本物の聖女として立つんだ。俺はそのためならなんだってするから」
「あんた、何言ってんの?」
「頼むから、ジウ……!」
「ちょっ!?」
身体を抱き竦められ、全力で抵抗するけれど、鍛え抜かれた若い男の力には敵わないのが歯痒くて仕方がなかった。冗談じゃなかった。何がって、何もかもがだ。王都に戻るのもごめんだし、聖女になるのだってごめんだ。
何が守るだ。一番守ってほしいときに守ってくれなかったくせに。一番助けてほしいときに助けてくれなかったくせに。
そうだ。守ってくれたのも、助けてくれたのも、全部、全部、こいつなんかじゃなくて。
「僕のジウを、そんなにいじめないでやってくれるかな?」
突然視界が真っ暗になったかと思うと、気付いた時には私は、ディートリヒのものではない腕の中に収まっていた。
恐る恐る顔を上げれば、綺麗な赤い瞳と、立派な白い口ひげが視界に飛び込んでくる。
どうして私がそれを見間違えるだろうか。そのどちらも、私の大切なひとの持つものだ。
「ジウ、僕がいる。だから、何も怖がることはないよ」
「――旦那様」
私をその細腕で……しかも片腕一本で軽々と抱き上げてベッドの上に佇む旦那様は、その笑いじわを深めて、私の顔を覗き込んでくる。
こくこくと頷きながらも呆然と呟く私の声に、呆然としていたディートリヒがはっと息を呑む。そのまま彼は椅子から立ち上がってベッドから距離を取り、腰に下げていた十字架を模した剣を抜き払った。
「なっ何者だ!? ここは教会だぞ、勝手にどこから入った!?」
「おやおや、誘拐犯が年長者に向かって言ってくれるね。そんなことより、大丈夫かい、ジウ。帰りが遅いから心配してきてみたのだけれど、それは正解だったみたいだね。無事でよかった」
「旦那様……」
なんて情けない声だろう。こんな声で旦那様のことを呼ぶなんて、失態もいいところだ。なんとか取り繕おうとしても、喉が引き攣れて上手く声が出てこない。代わりに出てくるのはしゃくり上げるような泣き声で、ぼろぼろと瞳から涙が溢れ出してくる。
怖かった。怖かったんです。ディートリヒのことも、彼が持っていた剣のことも。
何度あの十字架を模した剣に、神の名の元にと言って貫かれ切り裂かれたことだろう。未だ身体中に残る傷痕が痛みを訴えかけてくるような気がして、身体の震えが止まらない。
そんな私を、慰めるように旦那様は抱き締めて、耳元で優しく「大丈夫だよ」と囁いてくださる。
「泣かないでおくれ、僕のかわいいジウ」
「ごめ、ごめんなさい旦那様……っ!」
「何を謝るんだい?」
「だ、だって、私、旦那様をこんなところに引き摺り出してしまって」
「僕が勝手に来たんだから、君は気にすることなどないよ」
旦那様の優しく甘い声音に、より一層涙が溢れて止まらなくなる。旦那様のお優しさが嬉しくて仕方がなかった。涙ばかりではなく鼻水まで出てきた私の顔を、旦那様は胸ポケットからハンカチーフを取り出して拭ってくださった。それを大人しく受け入れていると、ふいに旦那様がベッドから軽い足取りで飛び降りる。思わず目を瞬かせると、旦那様がつい一瞬前まで立っていたベッドには、鋭い銀のナイフが突き刺さっていた。
「不意を突くのが誉れ高く誇り高い祓魔師のやり方かな?」
「黙れ、魔の者め! ジウを放せ!」
ディートリヒが再び懐から取り出したナイフを投げつけてくる。旦那様に片腕で抱えられたまま身を竦める私とは裏腹に、旦那様は空いているもう一方の手で黒檀の杖を操り、あっさりとその杖を床へと叩き落した。
「まったく、下位の吸血種でももう少し礼儀を弁えているものだよ?」
「っ貴様、やはり吸血鬼か!」
青い瞳の眦を吊り上げ、鋭く旦那様を睨み付けるディートリヒに、旦那様はにっこりと笑いかけた。
「ご名答。お初にお目にかかる。僕がジウの主人だ。僕のジウが世話になったようだね。これはとくと礼をさせてもらわねばならないな」
旦那様は穏やかな笑顔を浮かべていらっしゃるけれど、その赤い瞳に宿る光は真冬の湖よりももっとずっと冷たい光だった。旦那様、といつものように呼びかけたいのに、なんだかそれが躊躇われた。どうして今の旦那様に声がかけられるというのだろう。旦那様は、こんなにも、とても怒っていらしゃるというのに。
そんな旦那様の静かな怒りに気付く様子もないディートリヒは、フン、と小馬鹿にするように鼻を鳴らして旦那様を嘲笑った。
「老いた吸血鬼がよくも言ったものだ。その様子では、相当長い間血を飲んでいないのだろう? 貴様らの若さは人血によって保たれるものだからな。死にぞこないなど俺の敵ではない」
それは、聞き逃せない台詞である。あんたに旦那様の何が解ると言うのだ。何も知らないくせによくも言ってくれたものだと思う。そっちがその気なら、私にだって考えがある。
「旦那様。構いません。どうぞ私を使ってください」
旦那様の服を引っ張ってそう言うと、旦那様は赤い瞳を瞬かせて私を見下ろしてきた。綺麗な綺麗な赤い瞳が私を見下ろしている。それを真っ直ぐに見つめ返すと、旦那様はいつぞやと同じように困ったように眉尻を下げた。
「いいのかい?」
それは、気遣いに溢れた声だった。そんな風に問いかけてくださる旦那様だからこそ、私は力になりたいのだ。この想いに一片の曇りはなく、後で悔いることも決してないに違いない。私は深く頷いて、力強く笑ってみせた。
「旦那様のためですもの。喜んでこの身を差し出しますわ」
「かわいいことを言ってくれるね」
「茶化さないでください。それに、こいつ――ディートリヒには、一度や二度くらい痛い目を見せてやりたいんです」
私が自分の力で痛い目を見せてやれないのは、ものすごく残念ではあるけれど。この身が少しでも旦那様のお役に立てるのならば、これ以上の幸いはない。
私がはっきりとそう言うと、ぷっと旦那様は小さく吹き出され、そしてそのままくつくつと喉を鳴らして笑い始めた。そうしてひとしきり笑いに耽った後、旦那様はきらりとその赤い瞳を輝かせる。
「解ったよ、僕のかわいいジウ。ならば今回は、君の力を借りよう」
深く微笑んだ旦那様の瞳の輝きが強くなる。そのピジョンブラッドの瞳の輝きに魅入られる私の首に、旦那様は唇を寄せた。鋭い牙が突き刺さる感覚がしたけれど、不思議と痛みはない。その代わりに急激な睡魔が襲ってきて、私はそのまま意識を手放した。
* * *
その瞬間、ざわりと部屋中の影が蠢いた。少なくとも、ディートリヒはそう感じた。
「ば、馬鹿め……! ジウの血は、吸血鬼にとっては猛毒だ! いくら吸血しようとも、自らを追い詰めるだけだ!」
ディートリヒの台詞は、内容は確かに正しくあるはずであり、ディートリヒの勝利を戦う前から決定づけるものであるはずだというのに、何故かディートリヒの声音は震えていた。武者震いではない。ではこの震えは何だと言うのだろう。
目の前にいるのは何なのだ。何故かそんな疑問が、ディートリヒの脳裏に降って湧く。
とびきりの美貌を誇り、不老不死と呼ばれる吸血鬼。人々をその毒牙にかける吸血鬼は、人血を吸わなければその力を失い、老いて死に至るものだ。目の前でジウを抱きかかえていた吸血鬼の見た目は老人であり、その姿は彼の者が長く人血を吸っていないことを示しているはずだった。死にかけの吸血鬼など、この三年間、ジウを探し求め数多の吸血鬼を屠ってきたディートリヒの敵ではない。それでなくとも、吸血鬼に死に至らしめるジウの血を飲んだことで、目の前の吸血鬼は放っておいても消滅するはずだった。
それなのに、何故だ。周囲の影が、闇が凝り、目の前の老いた吸血鬼の元へと集っていく。それはジウごと吸血鬼を包み込む。反射的にディートリヒは床を蹴り、その“黒”の集合体へと切り掛かった。だが、それは漆黒の刃によって容易く受け止められる。どうやら吸血鬼が持っていた黒檀の杖は、仕込み杖であったらしいことに気付く。とはいえ、いくらそれに気付けたからと言っても、今のディートリヒにとっては何の意味も成さない。何故この漆黒の剣は、あらゆる魔を断つ聖血によって清められた銀の剣をやすやすと受け止めれられるのだ。目の前にいるのは何だ。何なのだ。
呆然と立ち竦むディートリヒの前で、“黒”が解けていく。そして完全にその“黒”が元の影となり闇となった時、そこに立っていたのは、とても美しい何かだった。
窓から差し込む月影にきらつく白金の髪。最高級の紅玉の瞳。その肌は雪よりも白い真白。神が作りたもうた最高級の作品の如く整った絶世の美貌。その薄く色づく唇には、穏やかな笑みが刻まれている。その紅玉の瞳が愛しげに見下ろす先にいるのは、ディートリヒにとってもう二度と失えない、失いたくない女。
「やあ、ごきげんよう」
“黒”の中から現れた吸血鬼は、そう言って微笑んだ。それまでの老成した男のものとは異なる、若々しく聞き心地のよい美声であった。
目の前の美貌の青年が、先程の老年の吸血鬼であることに気付けぬほど、ディートリヒは鈍くはない。けれど、だからこそ解せなかった。何故この吸血鬼は、ジウの聖なる血を吸って平然としているどころか、こんな風に力を取り戻しているのか。
そんなことができるのは、数ある吸血鬼の階級の中でも、最上位の――――……
「貴様まさか、始祖の――っ!?」
「それは君には関係のないことだね。重要なのは君が僕のかわいいジウに手を出したことだ」
「ッジウは貴様のものではない! ジウは、ジウは俺が……!」
それ以上は言葉にならなかった。正確には、できなかった。
吸血鬼がその極上の紅玉の如き瞳をすぅと眇めた、それだけでディートリヒは指一本動かすどころか、瞬き一つできなくなる。つうっと冷たい汗が、こめかみから顎へと伝い落ちていく。自分が感じているのが恐怖であるのだということに、ディートリヒはようやく気付いた。だが、遅い。
目の前のひとならざる大いなるものは、そのこの世の物とは思ない美貌に、艶然とした笑みを浮かべた。
「さて、我が花嫁を泣かせた罪、その身で贖うがいい」
* * *
私が再び目を覚ました時、私は既にお屋敷の自室のベッドに寝かされていた。視線を巡らせれば、ちょうど旦那様がご自身の口ひげを撫でながら、ベッドサイドの椅子に座って読書に耽っていらっしゃるところだった。
「旦那様」
「ああ、ジウ。目が覚めたのかい」
「はい」
若干ふらつきながら上半身を起こすと、本を閉じた旦那様が私の身体を支えてくださった。
「無理はいけないよ。すまないね。久々だったせいか、少し血を貰いすぎてしまった」
「いいえ、大丈夫です。私のことよりも、旦那様こそお怪我はありませんか?」
「おや、僕があんな青臭い若造に遅れを取るとでも?」
悪戯げにぱちんとウインクをしてくださった旦那様に、どうやら大事には至らなかったらしいことを悟ってほっとする。
けれど、こうして旦那様がご無事でいらっしゃるということは、ディートリヒはどうなったということなのだろう。ぶっちゃけた話、あんな奴死ぬほど大嫌いなのだけれど、でも、三年前、何度も自殺を考えた私を支えてくれたのは、あの青年が時折向けてくれる気遣わしげな視線だけだった。ディートリヒは、確かに私のことを慮ってくれていた。だからと言って許せるわけではないけれど、ここで死なれたら非常に寝ざめが悪いのも事実な訳で。
そんな私の内心の声に敏く気付かれたらしい旦那様は、ふう、と大きく溜息を吐かれた。
「やはり君はああいう若い男の方がいいのかな。僕はこんな爺さんだしね。もしかして僕は余計なことをしてしまったかな?」
「そんなはずがありません! 旦那様がいちばんに決まっているじゃないですか!!」
いくら旦那様の仰ることでもその発言はいただけない。私が鬼気迫る勢いでそう断ずると、旦那様はくつくつと喉を鳴らして笑い、「あの若造もかわいそうにね。同情はしないけれど」と訳が解らないことを仰り、そして更に続けられた。
「あの若造は、暗示をかけて僕らについての記憶を弄っておいたよ。この近辺で僕らが暮らしているなんて思いもしないだろう。だから安心するといい」
そのお言葉に、無意識に強張っていた肩から力が抜けた。そうか。もうこのお屋敷にはいられなくなるかもしれないと思っていたから、素直に旦那様のお言葉が嬉しい。ああそうだ、肝心なことを言い忘れていた。
「旦那様」
「ん? なんだい?」
「助けてくださって、本当にありがとうございます」
「夫が自分の奥さんを助けに行くのは当たり前の話だろう?」
にっこりと笑って私の頭を撫でてくれる旦那様に、思わず顔を赤くする。ああ、本当にこのお方には敵わない。子ども扱いされているのが悔しいけれど、でもこれはこれで嬉しくもあるのだから乙女心とは複雑である。
「ジウ」
「はい?」
ひとり悶々と考えていると、ふいに呼びかけられ、気付けば俯かせていた顔を上げる。旦那様の手が、そっと私に向けて伸ばされる。大人しくその冷たくも優しい手が、私の頬のラインをゆっくりと辿っていく。
「君が無事で、本当によかった」
その優しい声音に、また涙腺が緩んでしまった。ぽろぽろと泣き出す私に対し、旦那様は困ったように苦笑して、それから私を力強く抱き締めてくださった。そうして私は、ようやく、本当に意味で安堵の涙を流した。私の旦那様がこのお方でよかったと、心からそう思った。
* * *
――三年前の、とある日の話をしよう。今に至るすべての始まりの日の話だ。
あの頃、私はジウ・ホリィなんていう名前ではなく、堀井慈雨という名前の、地球という星の日本という国の、どこにでもいる女子高生だった。
両親は幼い頃に事故で他界し、施設で育った私は、どこへ行ってもいわゆるいじめられっ子だった。なんとか奨学金を得て入学した高校でも、スクールカースト上位のグループに目を付けられて、まあ悲惨な毎日だった。
そのグループの中心人物は、祖母がイギリス人だとかで、その祖母譲りのふわふわの明るい色の髪と、ヘーゼルカラーの瞳がご自慢の、それはそれはかわいい、お人形のような女の子だった。私がいじめられていると、「やめなよぉ」と周りを窘めてくれる子だった。けれどそれが本気ではないことを、私は知っていた。いつだって彼女のヘーゼルの瞳は、私を見下し蔑んでいた。
そんな彼女とたまたま一緒に乗ったバスが事故に遭い、そのまま彼女と一緒になって異世界トリップなんてものをする羽目になったなんて、よっぽど神とやらは私のことが嫌いらしい。
私は彼女のおまけだった。世間で跋扈する吸血鬼を退けるために、“聖女”として彼女のことを召喚した教会は、彼女のことを崇め奉り、そしてその代わりに私を地下牢に閉じ込めた。
そこから先は地獄だった。異世界人の血は、吸血鬼にとって猛毒となるらしい。私は、彼女の代わりに、毎日ギリギリまで血を搾取された。自由はない。人間としての尊厳もない。ただの家畜でしかなかった私は、決して死なないように管理されていた。このまま寿命を迎えるまで死ぬことすら許されないのかと世界を呪った。
そんな時、私の元に神様が来てくれたのだ。神様は、月影にきらめくプラチナブロンドと、ピジョンブラッドと呼ばれるルビーのような赤い瞳を持つ、とても綺麗な男の人の姿をしていた。
「おやおや。これは酷いものだ。本当に人間は、夜の眷属たる我々よりも残酷だな」
「あんた、吸血鬼なの?」
「ああ、人はそう呼ぶね。そういう君は、噂の聖女様かな?」
「違う。でも、あんたのお仲間を殺してるのは、私の血だわ」
「ほう、そうか。ならばお嬢さん、僕の花嫁になってくれないかな?」
「――――は?」
「吸血鬼の花嫁とは、その吸血鬼にとっての唯一の栄養源だ。私はいわゆる偏食家でね。かわいいものしか食べたくないんだ。その点、君は理想的だと思う。見目もかわいらしくて、血も至上の甘露のようだ」
「私の血はあんたらにとっては猛毒なんでしょ?」
「基本的にはね。僕は例外なんだ。ちょっと味見してみたのだけれど、君の血はまるで蜜のようだった。この姿を取り戻したのも、随分と久しぶりだよ」
「……悪趣味ね。それ、偏食じゃなくて悪食って言うのよ」
「それでは聞こえが悪いだろう? だから僕は偏食家を名乗っているよ」
「どっちも似たようなものじゃない。変なの」
「そうかもしれないね。それで、どうする? この手を取ってくれないかな、お嬢さん」
「お嬢さんじゃないわ。私は慈雨。堀井慈雨よ」
「ホリィ・ジウ? うん? 違う? ……ああ、極東の国と同じ語順なのか。ではジウ・ホリィ。僕と結婚してください」
「ここから攫ってくれるなら、喜んで。これからよろしくお願いします、旦那様」
――あの会話から、三年。
私は旦那様の花嫁となり、助けていただいた恩を返すために侍女としても働いている。旦那様は「君は僕の奥さんなのだから、そんなことしなくていいんだよ」と言ってくださるけれど、こうして旦那様のために働けるのが嬉しいのだから私はこれからも侍女業を廃業する気はない。
そして今日も今日とて私は、旦那様のために、愛情をたっぷり込めた、かわいらしく甘いお菓子を作る。
「ジウ、今日のメニューは何かな?」
「今日はピンク色に染めたビスキュイと、色鮮やかなイチゴをたっぷりと使ったシャルロットケーキです。お茶請けにはパステルカラーのアイシングクッキーをご用意いたしました」
「ほう。それは素敵だ」
けれど旦那様にとって一番かわいくて甘いものは、他ならぬこの私であるのだという。
本当に私の主人は、悪食――――もとい、偏食家だ。