嵐の前の静けさ
「『天におられる星々よ。み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように――』」
静謐なラーンス市の大聖堂に涼やかなナイ殿の祈りの声が響く。主祷文と呼ばれるもっともメジャーな祈りで、星々の子ルーナがこのように祈りなさいとおっしゃられたことを起源にしたものだ。
それがここ――ガリア王国王都パリシィから北西に百四十キロメートルの地にある古都の星テッラ大聖堂で唱えられるのはとても感慨深い。
それに、なんでもこの大聖堂は初代ガリア王が戴冠した場所とかで、それ以来歴代のガリア王はこの地にて戴冠式を行ってきた由緒正しいところらしい。
もっともこの教会はつい先ほどまで異端者共の手にあったのが、それを取り戻した記念にこうしてミサが開かれたという訳だ。
「『――わたしたちの罪をお許しください。わたしたちも人を許します。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。星々の恩寵がわれらにあらんことを』」
胸の前で五芒星をきり、簡易礼拝を済まして立ち上がると、背後に控えていた人間共――この地を預かるスパークリング伯や隣領のブルゴニュ伯、それらに従う諸都市の市長なども立ち上がる気配を感じる。
なんとガリアの大貴族ディーオチ・ド・ガリヌス公爵の計らいで北ガリアの諸侯を一堂に会する場を整えてくれたのだ。いやぁ役に立つ人間もいるものだな。
「さて、俺は回りくどいことが嫌いなので率直に尋ねるが、降伏の意思があるのか、ないのかはっきりしてもらおう。俺としては今更燃やす街が一つや二つ増えたところで大した手間ではないが、街が焼ける悲しみと怒りは胸が張り裂けるほど辛いということを知っている。どうか英断を下してほしい」
すると人間共は互いに目配せし、そして代表である初老のスパークリング伯がおずおずと前に出るや「確認したいことが」と自信のない小声で話し出す。
「降伏の条件についてですが――」
「無条件降伏だ。当たり前だろ?」
「いや、しかし……。抗戦をお求めになられる国王陛下の意向を無視する訳には、その……」
「ほう。それで、降伏するのか? しないのか?」
もう少し大きな声で喋ってほしいが、まぁいいや。
なんたってもう無数に猿獣人の家という家。村という村を焼いてきてスッキリとしているからこんなことで怒鳴りはしない。
「こ、降伏についてはその、占領後の自治権について我らに……」
「なるほど。で、降伏するのか? しないのか?」
ぼたぼたと床に汗が流れ落ちていく様を見ていると、少しだけ腹が立ってきた。
こっちはシンプルに訊ねているのに、どうしてシンプルに答えてくれないのか?
「せめて我らとその家族の身の安全をですね……」
「降伏するのか!? しないのか!? 答えは二択だ! さっさと答えろッ!!」
「ひぃ……! お、お許しを! 降伏! 降伏いたします!!」
……なんだ。ちゃんと答えられるじゃないか。最初からそうしていればよかったのに。
そう思っているとパチパチと小さな拍手が送られる。その主は優男な面持ちを持つガリヌス公爵だった。
「苦しい決断であったと思いますが、よくぞご決断なされた! 私がガリア王になった暁にはこの英断を永代に渡って讃えることを約束しよう」
こいつ本当に溌剌としているな。
それに何度も自分のことをガリア王と連呼するのは前世の自己啓発本を思い出させる。
とはいえ、コイツに喋らせ続けては主導権がどちらにあるかわからなくなってしまう。
「オホン。さしあたって諸君等に求めることは三つ。一つ、異端者の自発的な殲滅。二つ、糧秣並びに軍馬の供出。三つ、人質の派遣である」
すると「人質……!?」とざわつきを始める。まぁ語感が悪いからみんな警戒するよね。
でもそれ以上に俺は戦線後方でコイツ等が蜂起することを警戒しているからね。猿もどきなんて信用できないし。
「なに、手間はとらせん。今ここに集まっている者全員が我が軍の人質となってもらう」
「し、しかし――」
「誰かね? 反論を許したつもりはないぞ。もし異を唱えるのならスケルトンになって故郷に帰ることになるが、よろしいか? あぁもちろんその後で故郷の者達も余さずスケルトンにしてやろう」
ジロリと猿獣人を見渡せば、一人の男が小さく手をあげた。ほう、度胸のある奴がいたものだ。きっと立派なアンデッドになってくれることだろう。
そう思っているとガリヌスが「ブルゴニュ伯。なにかな?」と彼に尋ねた。
「反論ではなく、質問なのですが、糧秣の供出に関して指示を出さねばなりませんし、一度城に帰していただきたく。そうすれば我が一門の兵を引き連れて――」
「ならぬ」
その刃がどこに振り下ろされるか知ったものじゃない。
チラリとガリヌスに視線を送ると彼は心得たというように頷く。
「皆! 我々は愚王の政策のため互いに忌み嫌う時間が長すぎた。もちろんいずれ魔族とも分かり合える日が来ようが、その信頼を今すぐ醸造できるものではない。考えてもみよ。我らの身一つで所領の安堵が約されるのだ。確かに危険な役目ではあるが、今こそ所領のためにも高貴なる者の務めを果たすべきだ。そうであろう?」
俺は所領の安堵なんて一切約束してないけど、ガリヌスは持ち前の口八丁で場をまとめていく。
まぁオークが言うより人間同士で話し合うほうがまだ納得できるというものか。
「では人質の件はよいな? ナイ殿」
「はい」と今まで星書を片手にニコニコと薄い笑顔を貼りつけていたナイ殿が進み出て来る。
「星字軍遠征軍より、所領における異端者の捕縛を命じます。後程異端審問官を派遣いたしますので、それまでに捕縛を終えてください」
もう喋ることはないというように頷くと、彼女の言葉を引き継ぐ。
「では諸君。共に主の敵を打ち倒そう。星々の恩寵が我らにあらんことを!」
荘厳な大聖堂に安置された五芒星をかたどった星像に向き直って祈りを捧げれば、背後からも祈りの声が唱和される。
さぁパリシィまでもう一息だ。あぁ! 主よ、どうか御見守りください。必ずや連中の息の根を止めて見せましょう!!
もっとも、今のところ気がかりなのは北部軍の進軍速度が落ちていることだ。どうもゲリラ的な攻撃を受けているのが理由らしいが、まったく忌々しい。
◇
北部軍司令官プルメリア・フォン・リンドブルム・オルクは難しい顔でテーブルに広げられた地図と、輜重参謀のドラゴニュートが提出した書類を見比べて重いため息を吐き出す。
すでに北部軍の先鋒三個師団はパリシィまで二百キロメートルのアーラスまで進出しており、主攻勢作戦である『赤色』作戦は順調に推移しているかに見えたが……。
「先鋒三個師団に限っても補給は厳しいのか?」
「はい、殿下。根本的に馬車が足らないと言わざるを得ません。当初の見積もりよりも我が軍は多くの物資を必要としています」
「……ガリアを圧倒するために大軍を集められるだけ集めた弊害、か」
総兵力二十万を誇る北部軍はまさに歴史上、最大規模の軍団であるが、その大兵力が仇となり、北部軍は深刻な糧秣不足に苦しんでいたのだ。
「まさかガリア軍よりも自軍の大兵力に頭を痛めることになろうとはな……。して、先鋒三個師団の進撃を停止させ、輜重部隊の到着を待たせるべきか?」
「畏れながら一か所に留め置くと周辺の村々の食糧を食いつぶしてしまい、飢餓が発生するかと。むしろ進撃を続けさせ、敵中に糧を求めるほうがまだマシです」
プルメリアはかつて、彼女の夫が自分の軍をイナゴだと形容したことがあったことを思い出した。
イナゴ共も食事を求めて飛蝗するのと同じで、軍も周辺地域が蓄えていた糧秣を食い尽くせば移動せざるをえない。
そもそも百数人の小村が万単位の軍勢を満足させられる物資を備蓄しているはずがなく、進撃を止めれば北部軍は確実に飢えに直面してしまう。
「むしろ問題は後方の七個師団です。先鋒の三個師団に優先的に補給を回しているため彼らは食料を横目に飢えざるをえません。その上、イスパニア王国との協定により低湿地同盟国からの徴発が行えないため糧秣の輸送を陸路に頼るほかありませんし――」
「その糧秣を運ぶ馬車も足りないし、運ぶ兵士もすきっ腹か……。で、対策は?」
「はい。参謀長と共々各種作戦を検討した結果、補助攻勢として二個乃至三個師団を以ってカレ港攻略を実施してはどうかと……」
プルメリアは「カレか……」と得心したように頷く。
そこはブリタニア連合王国とガリア王国を結ぶ玄関口であり、古代エール帝国時代からブリタニア島への中継地点として整備された一大港湾都市だ。
その立地上、ガリアの外洋交易の拠点であり、これの攻略が成功すればガリアの経済に大打撃を与えることもできる要衝でもある。
「現状、イスパニア王国は星字軍遠征への協力として我が国のキル港から低湿地同盟国のアームステルダム港に各種物資を海上輸送しておりますが、アームステルダム港からここアーラスまで片道三百三十キロメートルもの距離があります。しかしカレ港からアーラスまでであれば片道百キロメートルと補給路を短縮できます。また、ガリア王国軍は王都防衛のためパリシィに集結中であり、カレ周辺に有力な戦力は残されておりません。まさに好機です」
如何でしょうという視線を浴びたプルメリアは眼下に広げられた地図を一瞥し、視線をブリタニア連合王国へと向ける。
「カレを攻撃したとして、ブリタニアを刺激しないだろうか?」
カレからブリタニア海峡を挟んで三十キロメートル先にはドラゴニュートの国がある(むしろその交易のために古代エール帝国はカレを整備したのだが)。
そんな地理的要因もさることながらブリタニア連合王国は王の離婚問題で教皇庁と袂を分かっており、星字軍遠征軍をカレに進めた場合、要らぬ軋轢を生む可能性も捨てきれない。
なおかつ、離婚問題はブリタニア王の前夫の故郷であるイスパニアを巻き込んでおり、イスパニアの軍船がブリタニアの鼻先を通ることを笑って見過ごすとも思えない。
「その点につきましては副官のハピュゼン大公閣下に相談したところ、閣下自ら調整役を買って出て下さりました。殿下の御命令が下達され次第、ブリタニアに飛ぶと仰せです」
「では余から申すことはない。全てよきにはからえ」
「ハッ!」
輜重参謀が頭を下げ、三角帽子を抱えて外に出ようとした時、司令部を守る歩哨が「エルヴ・フォン・オルク閣下並びにシュヴァルベ・ハピュゼン・オルク閣下御来入」と声を張り上げた。
それと共に上質な赤の軍服を纏った麗人と、緑のフロックコートの有翼人が司令部に現れた。
「おぉ、エルヴ殿にシュヴァルベ殿――。義兄上と義姉上と呼ぶべきかな?」
「ふ、御戯れを」
絵画から抜け出してきたような美麗な顔に穏やかな笑みを浮かべるオークをプルメリアはエルフの間違いでは? と思いつつ二人に椅子を勧める。
その横で輜重参謀は退室しようとするが、シュヴァルベがそれを止めた。
「お待ちください。航空参謀として輜重参謀にご意見が」
「……なんでしょう?」
「ワイバーンの飼料調達について――」
「これ以上は無理です。兵の飯も足りぬというのにトカゲまでとなると兵站が崩壊してしまいます」
「そこをなんとか。プルメリア殿下も聞き及んでいるとは存じますが、ガリア側の航空兵力が対地攻撃を行いだしたのです」
それにプルメリアは「鷲獅子で?」と半信半疑というように問い返した。
ガリアの主力戦闘騎であるグリフォンは一騎で倍以上のワイバーンを相手どれるほど高い空戦性能を誇る反面、ペイロードに余裕がなく対地攻撃に向いていない。
「まさかグライフから下馬して襲撃でもしてくると?」
「だったらよかったのですが、連中も擲弾による攻撃をしてくると報告が……」
擲弾か、と司令部にどんよりとした空気が溢れ出す。
すでにプルメリアの夫であるカレンデュラ・オークロード・フォン・オルク率いる南部軍がガリアにて火器の使用を確認しており、そのことについての警告も受けていた。そのためガリア軍が擲弾を扱うと聞いても驚きは少なかった。
むしろ兵站を脅かしうるほどの擲弾をガリアのグリフォンが運用できるのか、の方が気になっていただろう。
「もちろん鷲獅子はワイバーンに比べ余裕がありませんが、それを押して擲弾を搭載しているようなのです。そのため鷲獅子の強みである運動性能が大きく損なわれておりますが、地上からの有効な攻撃方法がないため依然として脅威です。徴兵前は猟師だったという者が弓をもたせてくれと懇願する例もあるとか」
「防空戦力の充実も喫緊の課題というわけか。北部軍の担当地区の航空撃滅戦も順調に推移しているようだし、防空戦力の転進をカレンに願い出てみよう。糧秣に関してはカレさえ手に入れば問題なくなる。まずはカレ攻略に注力しよう」
プルメリアの言葉に面々が頷き合う。こうして北部軍はカレ攻略に向かって動きだした。
◇
ガリア王国の心臓部である王都パリシィはルブル宮の謁見の間。
玉座に体を預けた病身蒼白な顔色のガリア王ルイ十三世の前にはひざまずいたリザードマンがおり、ブリタニア王からの親書を読み上げていた。
「――以上の事項をガリア王国が尊守する場合においてのみ、ブリタニア連合王国は中立乃至対星字軍遠征出兵を行うことを誓う。ブリタニア王にしてエリン太守。信仰の擁護者クローバー八世」
リザードマンは恭しく羊皮紙を丸め、それをルイ十三世の侍従に渡す。
ルイ十三世はその親書を忌々しげに見つめながら手を振ってブリタニアから派遣された外交官の退室を命じる。
そしてリザードマンが消えるや、そばに控えていた宰相などが不安に顔を曇らせつつ主君の言葉を待つ。
「ブリタニアの申し出、どう思う?」
「はい、陛下。共同出兵は何にも勝る申し出ではありますが……。カレの割譲は看過できるものでは」
夏の陽気によるものとは違う汗をかきながら宰相は親書に記された出兵条件を思い出す。
そこにはブリタニアが出兵にあたっての莫大な軍資金の捻出や関税の撤廃、禁輸品に指定されている阿片の解禁、そして外洋交易の拠点であるカレの割譲といった厳しい条件が記されていた。
しかし少なくともカレの割譲を除いて他の用件では交渉可能という姿勢も見せており、遠回しに出兵を拒否する訳ではないようであった。
「畏れながら陛下。ブリタニアも昨年に離婚問題から教皇庁を破門されております。よって教皇庁に対抗するためにも、我が国との共闘を模索している節はあるかと。また……。その……」
「なんだ、申してみよ」
「……はい、陛下。すでに、我が国はブリタニアの増援なく魔族や星字軍を止める戦力がございません」
北ガリアに進入した魔族は二十万。それに対抗できる戦力はすでにガリアのどこを探しても見つからないでいた。
もっとも彼の息子のルイは国民衛兵隊という民衆を寄せ集めた急造部隊を作っているが、焼け石に水というのが周囲の反応であった。
「ブリタニアの増援はのどから手が出るほど欲しい……。が、カレを失えば貴重な貿易港が減る。なによりあのトカゲ共を信用できん」
「畏れながらカレの存在を魔族が放っておくとは思えません。魔族に盗られるくらいなら――」
「ブリタニアに、か……。仕方あるまい。カレの割譲を認めよう」
「ご英断にございます。では、他の案件に関しまして交渉を行ってまいります」
「よろしく頼むぞ」
直臣が深々と頭を下げてから退室すると、ルイ十三世はストレスで病的にやつれた体を重々しく玉座に沈めながら大きなため息を吐き出す。
最初は煩わしい教会権力を一掃し、王権を強化できると新教派に組したが、今やそのせいでガリアは亡国の際にいる。
「なにが間違っていたのか……」
新教派につくことを推進したルイを責めるべきか? いや、そのルイをそそのかしたのは? そもそも、魔族領域への侵攻に端を発したヌーヴォラビラントを巡る一連の戦いで北ガリアの戦力が消耗していなければ此度の事態を防げたのでは?
その魔族領域への侵攻だって元をたどれば莫大な農地を欲したがためであり、それを奏上したのは異世界の少年であった。
「異世界より来る者は並々ならぬ力がある、か。確かに国を滅ぼす力はあるようだな……」
ガリアは元々、北の魔族に西のブリタニア、南にはイスパニアがおり、東にはリーベルタースと、四方を敵国に囲まれており、それらに対抗するため【勇者】や【剣聖】などの特級戦力を中心に大国としての地位を守ってきた。
だが内海交易で莫大な利益をあげるリーベルタースや再征服を果たして外洋交易に集中できるようになったイスパニア等の商業国家の勃興とそれに追随しようとするブリタニアの発展は目を見張るものがあった。
その上、北では帝政ルーシの南下政策や海向こうのオストル帝国による西進事業など覇権国家が鎬を削る中、ガリアは潮流に乗り遅れないようにと国力の強化を図ることにした。
それが異世界からの勇者召還であった。
「我が娘ながら太古に失われた魔法を復活させるとは、驚いたものだが、こうした結末をたどるとはな……」
第二王姫であるシャルロット・ド・ガリアを筆頭とする魔法研究所は古代エール帝国が使っていたという異世界者の転移という大魔法を復活させ、見事異世界より優れたスキルの持ち主を呼び出すことに成功した。
が、それは結果であり、そこにたどり着くまで幾たびの失敗を繰り返した上に複雑な魔法陣の製作や膨大な生け贄や魔力、果てまでは天体の運行まで勘案せねばならず、オドルの召還成功は文字通り奇跡的であった。
「確かに【勇者】や【剣聖】に匹敵する戦力ではあるが、対価に対して得るものが少なすぎる。道理で古代エール帝国が財政難の末に滅亡するわけだ……」
大規模な魔法研究や皇帝の奔放な財政管理に北方魔族の進入などを経て世界を支配しようとしていた古代エール帝国は滅び去った。
その二の舞をガリアは演じているのではないか。そうルイ十三世は暗澹たる気持ちを深めるのであった。
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