夜はまだ愛を待っている
ひとりだけではさみしい。ふたりだけだとなきたくなる。
頬をつめたい風がなぜていく。つま先の冷えが心臓まで這いより、きっと心まで凍えて終う、そんな馬鹿げた予感だけが重苦しい胸を空かせる。別れの冬は、痛い。白く染まるきみの息を、どこか遠い夢のことのように、眺めていたのだ。もしかしたら。きみは真っ白な呼吸しかできないのかもしれない。その呼吸を盗めたら。きっとあたたかい。だけど、もうだめだ。その呼吸はもうすぐ僕のものじゃなくなる。
指先をあたためあうような恋だった。体の奥底から沸き起こり、脳髄を揺さぶるような熱情を以てしても、この恋は壊れなかった。きみのその気の抜けたような笑顔だとか、目をまんまるにして首を傾げたりだとか、そんな仕草や表情のひとつひとつが、どうしようもなく好きで。愛しいとおもう気持ちが胸に淡く染みていくのが、癖になりそうなほど心地よかった。きみといると、僕みたいな男でも、なんだか純粋な生き物になれたような気がして、そんなことを考える自分が、気恥ずかしい反面、途方もなく幸せだなあなんて、思ったりもしたんだ。
だから、僕は、きみにそんな顔をさせて、別れの言葉を言わせるために、きみを愛したんじゃないんだ。
濡れた頬が冷気にさらされて、ひりひりと痛くて。さっきまでこわれたみたいに流れていた涙も、あつい喉の奥でとまったかのように、もう出てこない。別れの冬は、さみしい。わたしはもうこれを最後に泣けないんじゃないかって。ありもしない、無意味な想像ばかりがあたまにうかんでは消えていく。混乱しているのだ、きっと。言葉はきちんと考えてきたのに。
生ぬるい海にたゆたっているような恋だった。彼といると、わたしの頭は糖度の低いしあわせにおかされた。特別なことはなんにもなかった。抱きしめられることはあっても、その先はない。同じ大学の友達はそんなのおかしいって訝しげだった。他のひとがわたしたちのことを形容するなら、初々しい中学生みたいだね、なんて言うかもしれない。だけどわたしは満足していた。彼のとなりにいると、足りないものなどなにひとつなかった。
「もうだめなの」
そう言った彼女の声は震えていた。僕は口元をうずめたマフラーの奥で、うん、とだけ言った。二ヶ月ぶりに会った彼女は、すこしきれいになったような気がする。ほんのりと色のついた唇は、僕たちが高校生だったのときの彼女のそれより鮮やかな気がして、こんな男に別れを告げるときまで、彼女は化粧をして会いにきてくれたのかな、なんて考えた。
遠距離、すれ違い。
理由はといえば、そんな言葉で片付けられてしまうようなものなのだろう。ありふれた言葉。ありふれた男女の別れの形だ。
「ごめん」
やっと口から出たのはそんな一言。最後までかっこいいことなんて言えなかった。
僕は自分の感情を誰かのために表現するのが恐ろしく下手だった。たぶんそんな僕の性格も、この結果に繋がった理由のひとつなんだろう。
引き止めるなんてできない。彼女が別れを選んだ。縋りつくなんて、みっともないことできない。やさしい恋だった。最後まできれいに終わらせよう。
彼の瞳は揺れていた。謝るべきなのはわたしのほうだった。
「一緒、に、いられて、しあわせ、だった。ありがとう、ごめんなさい、さよなら」
嗚咽をこらえてなんとか言った言葉は、こわれたロボットみたいに、震えて、それでも彼に届いたようで、彼は頷いた。
嗚呼。
ありがとう、さよなら。
まだ好きなんだと叫ばないように、抱きしめてしまわないように、奥歯を噛みしめた。
そして彼女は去っていく。僕は追わない。ふたりの終わりが、こんなに静かな冬の夜にやってくるものだとは。彼女は去っていく。僕は追わない。
できることなら彼女の腕をつかんで引き寄せて。抱きしめて伝えたい。きみが好きなんだと。さみしい思いをさせて悪かった。これから、がんばるから。どんなに遠くだって、何度だって、会いにいくから。だから。もう一度。僕と。
激情を言わずして愛を語れないのなら、僕と彼女のあいだには愛などなかったのかもしれない。僕と彼女のあいだに横たわるそれはまぎれもなく恋だった。抱きしめあって、指を絡めて、どんなに距離が縮まっても。
まるで夜を知らない子供。
わたしは彼で、彼はわたしだ。わたしたちは似ている。誰かに、似たもの同士と言われることはついぞなかったけれど。表にあらわれる性格よりも、もっと根本的な部分できっとわたしたちは似ていたのだ。それはわたしが勝手に思っていることかもしれないけれど。運命のひとが恋人とは限らないなら、彼はまさしくわたしの運命のひとだったのだ。
自分から突き放しておいて追いかけてほしいなんて馬鹿げてる、なんて狡い女なんだろう、と。以前ドラマで、恋人を自分でふったくせに好きなのと涙を流す女優をみて、思ったことがある。わたしたちの関係性において、別れをきりだすことが、その場から立ち去ることが、果たしてカードになりうるだろうか。答えは否だ。
わたしたちは終わった。彼は追いかけてこなかった。
だけど追いかけてきてほしかった。
わたしは以前自分が否定した女のごとく、涙を流していた。
理屈じゃない。なにが正しくてなにが間違っているかなんて問題じゃない。問題は、わたしたちは終わって、そしてわたしが終わらせた、彼は追いかけてこない、それだけだ。それだけが事実だ。そしてそれがどうしようもなくかなしい。
彼が別れたくない、なんて言うはずないこと。わたしはわかっていた。
それでも、まだ夜は終わっていない。わたしは狡い女。頭の悪い、浅はかな女。どんなに取り繕ったって、わたしは女なのだ。
この夜が死ぬまでは。この恋の息の根を絶やさずにいよう。
寂しさの淵をなぞる指先が、たとえば凍てついてしまったとする。そして僕は悲しみを数えることをやめる。
彼女は僕の運命だった。彼女は僕の奇跡だった。彼女がいたから、僕はしあわせだったし、さみしかった。
僕たちはきっと間違えてしまったのだ。同じ人間に生まれるはずが、間違えて、ふたりにわかれて生まれてきてしまったのだ。そんな想像をしてしまう程までに、彼女は、僕にとって、
僕には彼女が別れを告げた理由がわかる。きっと僕にしかわからない。
そして、彼女がいま泣いているのもわかる。
僕は彼女と同じで、頭より体が先に動いてしまうようなタイプではない。だけどいま僕を動かすのは、まぎれもなく抗いようのない本能だった。
彼女を、追いかけないと。
気持ちを正直に伝えて、いまの僕ができる限りの誠意を見せなければ。そして、もう一度、が許されるなら。そしたら、この恋を終わらせよう。そして、僕たちを繋ぐものを、愛に変えよう。もしも、許されるなら。
夜の最果てがやさしいものであるように。