第49話:焦げた鉄の香りと、南の岩山に倒れし隻腕の剣聖
盛夏の乾いた陽光が、荒野の岩肌を白く焼き焦がすように照りつけていた。
木漏れ日の農園の南端、第四号畝の「虫除け香草園」の縁。
アロマ・スカンクのロランが、自慢の扇尾をピーンと逆立て、南方の険しい切り通しの岩山を凝視していた。
「……間違いなく近づいてきているね。焦げた鉄の油臭、血の匂い、そして引き裂かれた魔素の残滓だ」
ロランの細い鼻が微かにひくつき、琥珀色の瞳が険しさを帯びる。
「血と焦げた鉄……? 魔物の仕業ッスか!?」
モグが両前足のシャベル爪を構えて身を乗り出した。
『ケロ、ケロリ……。血の匂いだけではないケロ。風に乗る魔素の波長に、カルガワ王国・第一軍事特区の討伐部隊特有の冷徹な軍用魔導の残光が混じっておるケロな』
ケロ爺が蓮の葉の笠を揺らし、葦の杖を重々しく鳴らした。
「軍事特区……」
ティルは作業着の袖をまくり、南の岩山を見据えた。
かつて自分を「役立たずの無能テイマー」と蔑み、着の身着のままでこの荒野へと追放した、冷酷な要塞都市。
あの場所に関わる気など微塵もないが、苦しんでいる命が近くにあるなら、見捨てるわけにはいかない。
「ロラン、案内してくれるかい? サン、ピピ、モグも一緒に行こう」
「フッ、お安い御用さ。我が気高き嗅覚に狂いはないよ」
ロランを先頭に、ティルたちは南の険しい岩山へと急いだ。
岩肌の隙間から立ち上る陽炎を裂き、切り通しの狭い岩陰へと踏み込む。
歩みを進めるにつれ、鼻腔を突く焦げた鉄と生々しい血の匂いが濃くなっていく。
そして、巨大な赤色玄武岩の岩陰に差し掛かった、その時――。
「わほっ……! ご主人様、あそこだワン!」
サンの鋭い鼻先が、窪地の瓦礫を指し示した。
陽の当たらない冷たい岩肌に背を預け、白い砂埃の中にひとりの人影が力なく横たわっていた。
「……っ!」
ティルは息を呑み、思わず駆け寄った。
倒れていたのは、煤と泥にまみれた銀灰色の長髪を持つ、若い女性だった。
白銀の騎士甲冑は各所が激しい爆撃や爪撃で砕け散り、胸当てにはカルガワ軍事特区の徽章が黒く焼け焦げて刻まれている。
そして何より――彼女の右腕は肘の先から失われ、血まみれの包帯代わりの布が、痛々しく巻かれていた。
傷口の周囲は高熱で黒ずみ、粗末な応急処置しかされていないことが一目で分かる。
残された左手には、刃先が半ばからへし折れた銀色の剣が、指の骨が白く浮き出るほど強く握りしめられていた。
「ひどい傷だ……! それに、身体が火のように熱い!」
ティルが膝をついて額に触れると、猛烈な熱気とともに、カサカサに乾いた呼吸が漏れてきた。
極度の飢餓と脱水、そして傷口からの感染症による高熱。
この灼熱の荒野を、片腕を失った状態で何日も彷徨い歩いてきたのだろう。
ティルの手のひらの温もりに反応したのか、倒れていた女性のまつ毛が微かに震えた。
濁った灰青色の瞳が、うっすらと開かれる。
「……だ、れ……だ……」
掠れた、今にも途切れそうな声。
しかしその瞳の奥には、死の間際にあっても消えない、研ぎ澄まされた刃のような鋭利な殺気が宿っていた。
女性は左手の折れた剣を、震える力でティルの喉元へと突き出そうとした。
「……寄るな……。私は……隻腕の……役立たずだ……。バレン殿下を……守り損ねた……ゴミだ……」
自嘲と絶望に満ちた、血を吐くような呟き。
「剣を振れぬ私に……生きる価値など……ない……。嘲笑いに来たのか……ザック……? 殺すなら……ひと思いに……」
握りしめた剣先が、力尽きてガクガクと震える。
彼女が誰なのか、ティルにはすぐに察しがついた。
平民の孤児から剣一本で騎士団の頂点へと登り詰め、かつて特区で「当代無双の剣聖」と讃えられていた女性騎士――メリッサ。
バレン王子の失態を庇って片腕を失い、その瞬間に「腕のない騎士など恥さらし」と切り捨てられ、荒野へと追放されたのだ。
ティルは突き出された折れ剣を払おうともせず、ただ静かに、彼女の震える左手を両手で包み込んだ。
「誰も君を嘲笑いに来たんじゃないよ」
ティルの穏やかで澄んだ声が、熱風の吹き抜ける岩陰に静かに響いた。
「もう戦わなくていいんだ。……よくここまで、生きて辿り着いてくれたね」
「……え……?」
メリッサの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
罵声も、嘲笑も、暴力もない。
ただただ温かく、自分という存在の生存を心から慈しむような、大地の陽だまりのような温もり。
「ピピ、冷たい湧き水を! ロラン、気つけのミントを頼む!」
「任せるピョ! 『冷涼スプリング・ドロップ』!」
ピピが水筒から冷たい湧き水をメリッサの乾き切った唇へと一滴ずつ垂らし、ロランが扇尾を優雅に揺らして清涼なアロマを漂わせる。
スーッと喉を潤す清水と、頭を覚醒させる清涼な香り。
メリッサの左手からカランと折れ剣が零れ落ち、張り詰めていた糸がプツリと切れたように、彼女の意識は深い闇へと沈んでいった。
「みんな、急いで農園へ運ぼう!」
ティルはメリッサの痩せ細った身体を優しく抱き起こした。
全身に重い鎧をまとっているはずなのに、驚くほど軽い。
過酷な軍務と理不尽な追放の中で、どれほど過酷に摩耗させられてきたのかが痛いほど伝わってきた。
農園へと戻ると、仲間たちが総出で受け入れ態勢を整えてくれた。
日陰の涼しいカボチャの緑の空中トンネルの奥、ベルが織り上げた肌触りの良い純白の麻布と、上質なフリースを重ねた特製ベッド。
ぷるがひんやりとした身体をメリッサの熱い首筋にそっと当てて熱を逃がし、ピピが濡らした手ぬぐいで顔の煤や泥を丁寧に拭い去っていく。
ティルはすぐさま、傷の手当てに取り掛かった。
深井戸の冷水で傷口を丹念に洗浄し、昨日ロランとともに精製したばかりの【虫よけミントと清涼ハーブの蒸留水】で消毒。
さらに、第四号畝で収穫したばかりの【ぽかぽかハーブ】と野ヨモギをすり潰し、搾りたての菜種油と蜜蝋を練り合わせた特製薬草バームを、赤く腫れ上がった右腕の患部へとたっぷりと塗り広げた。
スゥゥ……ッ。
清涼な香気とともに薬効が染み渡ると、メリッサの眉間に刻まれていた苦悶の皺が、みるみるうちに解けていく。
呼吸は次第に深く、穏やかな寝息へと変わっていった。
「ふぅ……。これで熱は峠を越えたはずだ」
ティルが額の汗を拭うと、ベッドの脇からチュウ吉やモグ、ベルたちが心配そうに覗き込んできた。
「カラン、コロン……。なんと痛ましい傷痕でしょう。……メェ。これほど過酷に傷つきながら、荒野を一人で歩いてこられたなんて」
ベルが悲しげに瞳を潤ませる。
『へっ……! あんな冷てえ特区の連中に、使い捨てにされたんだチュな! 胸糞悪くて反吐が出るチュよ!!』
チュウ吉が黒檀ベラを強く握りしめ、憤慨してヒゲを震わせた。
「でも、もう大丈夫ッスよ! 旦那の畑に来たからには、美味いメシ食って元気になってもらうッス!」
モグが力強く胸を叩いた。
「そうだね。目を覚ました時、胃に優しくて身体の芯から温まるご飯を用意しておこう」
ティルは厨房へと立ち、ガン親方の特製石鍋に火を熾した。
作るのは、衰弱した身体を優しく癒やす【完熟甘芋と若採り豆の滋養ハーブ粥】だ。
水路の澄んだ湧き水で、ガン親方が挽いた粗挽き雑穀米をコトコトと煮込む。
そこへ、裏山の木陰で採れた滋養強壮の野山芋と、チュウ吉の土で育った黄金甘芋をすりおろして投入。
さらに、エメラルド色の柔らかな若採りカラカラ豆と、刻んだぽかぽかハーブ、ほんの少しのハーブ岩塩を加え、とろ火でじっくりと練り上げていく。
ポコポコ、ポコポコ……。
石鍋から立ち上ったのは、穀物の優しい甘みと、大地の滋味あふれる香ばしい湯気だった。
夕暮れ時。
西の空が紫紺と黄金のグラデーションに染まる頃、ベッドの上でメリッサの指先がピクリと動いた。
「……ん……っ」
かすかな呻きとともに、灰青色の瞳がゆっくりと開かれた。
視界に飛び込んできたのは、見知らぬ天井――青々とした大きなカボチャの葉が折り重なり、隙間から柔らかな夕陽がこぼれ落ちる美しい緑の回廊だった。
風がそよぐたび、甘く清々しいミントとハーブの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
「……ここは……? 天界……なのか……?」
メリッサが呆然と呟いた。
「天界じゃないよ。俺たちの農園さ」
穏やかな声に驚いて顔を向けると、そこには椀を手にしたティルが、優しく微笑んで立っていた。
「気がついたかい? 右腕の痛みは、少しは引いたかな」
メリッサはハッと自らの右腕を見下ろした。
ずきずきと骨を焼くようだった激痛が、嘘のように引いていた。
傷口には清潔な麻布が巻かれ、触れるとひんやりとした心地よい薬草の香りが漂っている。
「お前が……私を助けたのか……? なぜだ……」
メリッサの瞳に、深い戸惑いと警戒の色が差した。
「私は右腕を失った……。もう剣を振るうこともできず、戦果を挙げることもできない……無能な廃人だ……。助けたところで、お前には何の得もないぞ……!」
特区の掟――力なき者はゴミであり、価値なき者は死ぬべきである。
その呪縛に囚われたメリッサの悲痛な問いかけに、ティルはふっと目を細め、静かに首を横に振った。
「得があるから助けるんじゃないよ」
ティルはベッドの脇に腰掛け、湯気の立つ木椀を差し出した。
「君が生きていてくれた。それだけで、俺は十分嬉しいんだ」
「生きていて……嬉しい……?」
メリッサの喉が、引き攣るように震えた。
生まれてからこの方、孤児として拾われ、剣を握らされて以来、彼女が周囲から投げかけられてきたのは「勝て」「敵を殺せ」「役立たずになるな」という冷酷な命令だけだった。
誰一人として、彼女自身の命を、彼女自身の存在を肯定してくれた者などいなかったのだ。
「さあ、冷めないうちに食べてごらん。お腹が空いているだろう?」
ティルが木スプーンを差し出すと、メリッサの鼻腔を、甘く香ばしいお粥の香りが直撃した。
ぐうぅぅぅぅ……と、静かな回廊に、メリッサの切実な空腹の音が小さく響いた。
メリッサは震える左手でスプーンを握り、お粥をすくって口へと運んだ。
ハフッ……モグモグ……!
『…………っっ!!』
その瞬間、メリッサの全身が雷に打たれたように硬直した。
舌の上に広がったのは、トロリと溶ける甘芋の豊かな甘みと、雑穀米の香ばしい滋味。
そして、喉を通った瞬間、身体の奥底からじんわりと染み渡る、太陽のような大地の温もり。
「な……んだ、これ……。温かい……すごく……温かい……」
冷え切っていた胃袋から、全身の血管へと、生きた命の熱が巡り出していく。
「美味しいかい?」
ティルが優しく微笑みかけると、メリッサの大きな灰青色の瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
涙は頬の泥を洗い流し、木椀の粥の上にぽたりと落ちて小さな波紋を作った。
「う……うまい……。こんなに……こんなに温かいものを食べたのは……生まれて初めてだ……」
メリッサはスプーンを動かし続けた。
一口食べるごとに、胸の奥底に澱のように溜まっていた氷が、涙とともに溶け出していく。
「私は……生きていていいのか……? 腕を失って……誰の役にも立てないのに……ここにいても……いいのか……?」
しゃくりあげるように問いかけるメリッサの頭を、ティルはそっと優しく撫でてやった。
「いいに決まってるじゃないか。ここでは誰も君を道具になんてしない。お腹いっぱい食べて、ゆっくり休んで、元気を取り戻せばいいんだよ」
ティルの手のひらから伝わる、無償の愛と大地の温もり。
メリッサは木椀を抱えたまま、子どものように声を上げて泣き崩れた。
周囲では、モグやピピ、ベルやロラン、チュウ吉たち仲間が、温かな眼差しで彼女の背中を見守っていた。
夕闇が迫る荒野の片隅。
傷つき、捨てられた孤高の剣聖と、大地を愛する青年が出会った時――。
木漏れ日の農園のスローライフは、確かな絆と明日への希望を宿しながら、新たな物語の幕を開けようとしていた――。
【後書き】
読者の皆様、第49話を最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!
南の岩山から漂ってきた焦げた鉄の香りを追い、荒野に倒れていた元・剣聖ヒロイン『メリッサ』との劇的な出会いをお届けいたしました!
軍事特区の傲慢な王子バレンの失態を庇って片腕を失い、ゴミのように追放されて絶望していたメリッサ。
ティルの無償の救命手当てと、身体の芯まで温まる『滋養ハーブ粥』、そして「生きていてくれて嬉しい」という心からの言葉に、張り詰めていた心の氷が涙とともに溶け去る感動的なシーンとなりました!
次回・第50話、農園で少しずつ心を開き始めるメリッサと、仲間たちとの温かな交流!
さらに、彼女の失われた片腕と、農園の豊かな作物が織りなす新たな希望の兆候が――!?
もし「メリッサが助かって本当によかった!」「お粥の温もりに泣けた!」「今後の展開が気になる!」と感じていただけましたら、
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