第9話 手袋
「よっ、お疲れさん。相変わらずしけた面してんなあ」
霜柱ができるようになった外から戻った団長は、ワインボトルと木製のマグカップを食堂の机へ着地させた。すぐ脇にあるのは、レーズンとチーズを乗せた小皿と、そこに伸ばされようとしていたシトロンの手だ。有無を言わさず隣の席を陣取った身内に、副団長の目が細まる。
「どこかの変わった伯父さんが、頼まれごとを出し渋るおかげです」
「そりゃあひでえ親戚もいたもんだぜ」
「家系図からすると、俺の伯父は団長一人のはずですが?」
「最近は物忘れの具合がねえ」
薪と火が入れられた暖炉の周りに、エールの樽を開けた男たちが集まっている。他のテーブルにも大小さまざまな人の塊ができており、昼間の役目を終えた団員が食事や酒で冷える身体を温めていた。詰所ではありふれた冬の団欒は、ノワの部屋を訪れてから明日で三ヶ月を数えるこの夜にも、素知らぬ顔で穏やかな賑わいを見せている。
「朝になったら、ノワを養女とする誓約書を預かります。まさか、それも忘れたなんて言わないでしょうね?」
「用意はしたさ、一応な」
「適当なものだったら、羽根ペンごと握りこんで書かせます。ともかく、受け取りしだい俺は帝都へ向かうので、しばらく団を留守にしますよ」
「そんでおまえは初恋の相手と婚約、二十歳になるのを待って結婚、と。未来の奥方との仲は、ここ最近どうなんだ」
どのテーブルにも女騎士の姿はない。だからこそ彼は食堂に居座ることを選び、またすぐに抜けられるよう、隅のテーブルを選んでいた。雲を掴むような会話を仕掛けてくる伯父が隣へやって来るのは、シトロンにとって想定していなかったことであり、どこか気分が落ち着かない。
「……ほとんど、顔を合わせていません。何やら忙しくしているらしいと、人づてには聞いています」
「先が思いやられるぜ、全く。そんなんじゃ仮面夫婦にもなれねえぞ」
「彼女を危険から遠ざけられるなら、白い結婚も覚悟の上です」
「こりゃ相当重症だ」
レーズンが団長に摘まれて、そのまま彼の口に消えた。水分を飛ばすことでより濃くなった酸っぱさと甘みが、舌の奥に長く残る。
「ノワは、ずっと気を張って生きています。団にすら、完全に心を開いているわけじゃない」
シトロンもまたチーズを噛み、さほど味わうこともなく飲みこんだ。団長の手酌で注がれる赤に、青年の物憂げな横顔が映る。流れを止めたワインの底には澱が混ざり、マグカップを傾けるたびに舞い上がった。
「人を助けるのは好きみたいだけど……多分、誰かの役に立つことで、彼女自身の存在意義を確かめてもいるんだと思います」
——その在り方は、危うい。独りでそれを続けるなら、ノワが摩耗するばかりだろう。
女の膂力は男に劣る。どれだけ鍛えても限界はあるし、同じようには戦えない。クロワ帝国の文化もまた、男という性に有利な土台ができている。それでもなお流れに抗おうとするならば、いつか壊れてしまうのは火を見るよりも明らかだ。
ならば、憎まれ役になってでも、安全で柔らかな檻の中へ逃さなければならない。
シトロンは机に肘をつき、組んだ手の甲を額へあてた。ここ最近の眠りが浅いことや、待ちかねた明日がようやくやってくることの安堵と翳りが相まって、酒を飲んでもいないのにシトロンの口はよく回る。
「俺は、ノワが無条件に愛されていると、そう信用できる居場所を与えたい。女性としての穏やかな幸せを、あの子が掴んだっていいはずだ」
「まるで、坊が自分に言い聞かせてるみたいな口ぶりだな」
シトロンに睨まれた団長は、敵意を無視してワインを煽る。今にも鼻歌に興じかねないほどの自然体を保つ伯父は、赤い水面を揺らしながら言う。
「おまえねぇ。むさ苦しい男所帯に何年も食らいついてきたあの『ノワ』が、この三ヶ月をぼーっと過ごしていたとでも思うのか?」
どういう意味か、と尋ねるより前に、食堂の入り口がざわついた。振り向けば、シトロンが避けて過ごしていたノワが背筋を伸ばしてそこにいる。ただ、彼女の姿勢が真っ直ぐなのは今に始まったことではないし、騎士団の一員が食堂に足を踏み入れるのも何ら変わったことではない。団員たちが驚いた理由は、オルール騎士団の盛装——パレードや式典に参列する際にのみ許される衣装を、この場でノワが着ていることにこそあった。
彼女がシャツの上に重ねたベストには、胸元から裾にかけてイヌワシの腹の羽毛を模した刺繍が施されている。丈の長いマントは右肩を支点として下に垂れ、動くたびに布の先が重くはためく。腕の先を締めくくる指先は、よくなめされた革手袋が丈を余さず嵌められており、一分の隙も見当たらない。畏怖すら覚えさせる麗しき盛装は、恐怖を意味する「オルール」の名にもふさわしい。
めったに纏う機会のない装いを完璧に着こなしたノワは、一体何事かと動揺する食堂を見渡し、間もなくシトロンを見つけた。宝石を砕いた粉で目尻を飾った眼差しは、十九歳の求婚者の肌をいとも容易くざわめかせる。脇目も振らずにシトロンの傍へやってきたノワは、あの夜を迎える前の気安さで求婚者を見下ろした。
「ここにいたのか。道理で部屋にいないわけだ」
「えっと……探してくれてた、のかな。どうしてその格好なのかも気になるけど、とりあえず座りなよ」
「そう長くなる話じゃない」
空いている席を指すシトロンに横へ首を振ったノワは、音もなく息をついた。青年を忌避するでもなく、また嫌悪する様子もない彼女の振る舞いは、彼に予想をつかせない。
「シトロン、私はな」
唾を飲みこんだのは誰だったか。彼女の言葉に、その場に居合わせた全員が耳を傾けようと鎮まる。弾ける薪だけがささめく場に、ノワははっきりと先を告げた。
「私は、もし抱きたいと言われたら許すくらいにはお前を好ましく思っているし、逆に抱いてやれもするだろう」
エールを飲み干し損ねていた団員が暖炉に向かって噴き出した。当人たちのすぐ近くにいた団長は、腹を抱えて笑い出してしまっている。何度も伯父に背中を叩かれているシトロンは、指に挟んでいたレーズンを皿の上に取りこぼし、ぽかんと口を開けていた。
「だが——」
「ちょ、ちょっと待って。急にどうしたの、誰かに酒でも飲まされた? それとも新手の嫌がらせ?」
シトロンは話を続けようとするノワを遮り、周りから隠そうと慌ただしく立ち上がった。どうしたってよく目立つ、そうあるべく仕立てられた素晴らしい装いがこの時ばかりは憎らしい。顔を赤くしたり青くしたりと忙しい彼に向かって、ノワは片眉を吊り上げる。
「この通り私は素面だし、他人を虐める趣味もない」
「あ、そう……なら良い、わけないだろこんな皆がいる前で! 二人だけの時に言ってよ‼︎」
「やかましい! まだ話の途中だ」
「くくく……残念だったなあ、坊。黙って最後まで聞くこった」
笑いすぎて目尻に涙まで浮かべている伯父が腹立たしい。あらゆる言葉を苦労して飲みこんだシトロンに、ノワは「よし」と頷いた。内心で「何もよくない」と思う彼だったが、指摘しだしたらキリがなくなってしまうため、続けて黙ることにした。
「シトロンには随分と助けられてきたし、これからもそうであってくれると嬉しい。けどな、それはお前に寄りかかることを良しとしている訳ではないんだ」
人間として対等でいたい、と伝えるノワの瞳は澄んでいて、揺れるシトロンのそれを射抜く。この言葉が本心であることは、場に居合わせた誰もが分かりきったことだった。
「私は、騎士として生きたい。いつかこの選択を後悔する日が来たとしても、その後悔ごと受け入れる覚悟を、お前にもらった時間で決めた」
凛と芯が通った声は、衆目の監視にもすくまない。しばしの静寂に続いたのは、眉尻を下げ、困ったように微笑むシトロンだった。
「……ノワの気持ちは分かったよ。でも、それで俺が引き下がると思う?」
「ふん、まさか」
挑発するような、それでいてどこか楽しそうでもある笑みを浮かべた彼女は、盛装の一部である手袋を片方の指から抜いた。そして、シトロンの胸元に手袋を投げつけ、いっそう眩い眼光をもって言い放つ。
「だから、ここに決闘を申し込む。お前が勝った暁には、私を好きにして構わない。だが私が勝ったら……この求婚は帳消しだ」
オルール騎士団における決闘は、単なる私闘ではない。内部分裂を防ぐために設けられている団の規則に準じれば、領主でさえも覆せない契約となる。この抜け道をノワに教えた団長は、席に深く座ったまま若者たちの行く末を見守っている。
ノワが選びたいと言うように、シトロンにもまた選ぶ権利がある。ここで投げつけられた手袋を捨て置いて、有無を言わさず彼女を我が物にすることを、彼の身分は許している。
「分かった。受けよう」
それでも、手袋は拾われた。彼の表情からは戸惑いが立ち消え、全てを賭けた彼女と向き合うにふさわしい、実直な精悍さがたたえられていた。
「お互いに、迷いは晴らしておくべきだ」
「いい男だな、シトロン」
明朝、訓練場で会おう。それだけを言い残して背を向けたノワの右肩で、厚いマントがなびいている。大型の鳥が翼をそびやかしているような堂々たる彼女の歩みは、シトロンが焦がれたノワの在り方そのものだった。




