第6話 変容
シトロンが場を鎮めた頃、警邏を担当する騎士がようやく路地裏へ到着した。彼らは第一騎士団の副団長がいることにまず驚き、共にいる令嬢が第二騎士団のノワだと知ってさらに目を剥く。地面に転がる酔っぱらいは鎧と長剣を見た途端に大人しくなり、その収束もまたノワの眉間を狭めさせた。
赤みの抜けない顔から勢いを無くした問題児が、粛々と連行されていく。その様子を目を白黒させながら見ている幼い姉弟の前へ、ノワはおもむろに膝をついた。
「二人とも、怪我はないか?」
「だ、大丈夫、です」
姉の方が答えた通り、見える範囲に傷はない。ただ、弟が持つ木のマグカップはほとんど空になっており、長らく拭えていないのだろう砂埃が二人の髪に混ざっている。
ノワは、腰元に括りつけていた革袋を外した。強張りが緩んでいる弟の手をとって握らせれば、擦れた金属が細かく鳴る。音と重さから中身が硬貨だと察しがついた少年は、大きな瞳を瞬いた。
「これで飲み物を買い直すといい。次からは、周りをよく見て歩くんだぞ」
「わあっ! ありがとう、お姉ちゃん!」
「ありがとうございます……!」
子どもたちが大通りに消えるまで見送ったノワの目元は優しく、口端も僅かながらに上がっている。それと正反対な表情を浮かべるのは、ノワが振り返った先で腰に片手をあてたシトロンだった。先ほど振り翳された白刃は、今は一分の隙もなく鞘へ収められている。
「なかなか戻ってこないと思ったら、どうして巻きこまれてるんだよ」
「私から関わりに行ったんだ。一人で待たせて悪かったな」
「俺、待てもできない奴だと思われてるのか。それはそれで落ちこむな」
「じゃあ、どうしてそんなに不機嫌なんだ?」
首を傾げるノワを前にしても、シトロンの態度は変わらない。物言いたげな眼差しが、拳一つ分ほど背の低い彼女に注がれる。
「それは——」
「副団長! 少しよろしいでしょうか」
男たちを連れて行った騎士のうち一人が、敬礼と共に呼びかけてくる。第三騎士団に所属する平民の彼は、ことさらに背筋を伸ばして貴族のシトロンへと続けた。
「ご歓談中、申し訳ありません。連行した男たちの処遇について、何点か確認させていただきたく」
「……分かった、すぐに向かうよ。ノワは詰所で服を洗った方がいい。奥様からの借り物なんだろう?」
行きの馬車では新品同然だった装いは、所々が汚れていた。スカートの裾には土がつき、作り物の毛束はほつれている。バレッタがあるおかげでどうにか形を留めているが、いつ崩れてもおかしくはない。
「そうだな。話の続きはまた後で」
「うん、それじゃ」
苦笑するシトロンと別れ、ノワは行きと同じ辻馬車に揺られた。夕焼けに移り変わっていた空はまるで燃えているかのようで、小窓から差しこむ西日が車内の影を長く伸ばす。
「……一人で乗ると、静かだな」
ぽつりと落とした呟きが、車輪に弾かれた小石のように捨てられた。重くなってきた瞼に抗うことをやめ、座面に身体を横たえる。即席の暗闇は不完全で、光が彼女を覆うたび、もやのような黄金が黒に広がる。
——シトロンは、どうして私を妻にしたがるのだろう。こんな、可愛げのない女を。
腕で枕を作り、うずくまる。いつしか眠りへ落ちていたノワの目を覚ましたのは、詰所に着いたことを告げる御者ののどかな声だった。
◆
馴染みきった男物の服に着替え、滅多に出さない石鹸で洗った借り物は無事に色彩を取り戻した。まだ湿り気が残る服とバレッタ、手櫛でどうにかほぐしたかつらをメイドに返してノワは大きく伸びをする。鶏肉とカブのミルク煮を食堂で頬張り、前にも増してあからさまになった奇異の目を無視して、物が少ない自室に戻る。詰所で唯一の一人部屋は、ノワが女だと分かってから用意されたものだ。
「寝ぼけてベッドから蹴り落としたこともあったな、はは」
薄い寝床に寝そべり、昔よりも低くなった天井を見上げる。四肢の先に疲労が鈍く伝わる感覚は、苦難を成し遂げた証のようでノワは嫌いではなかった。額につけた手の甲には、細かな傷跡がいくつもある。
コンコン、コン、と、三度行われたノックの音で身体を起こす。乞われるままに扉を開けると、かつてノワに寝床を奪われた少年が青年となってそこにいた。
「ごめん、遅くなった。話の続きは明日にしよう」
「わざわざここまで来たのにか? 今日できることは今日済ませろ」
「そう急ぐ必要もないだろう。明るいうちに時間を作るよ」
「いいから入れ。私は、同じ話を二回させられるのが嫌いだ」
扉を開け放ったまま室内へ戻ると、シトロンも渋々といった風体でノワの根城に足を踏み入れた。後ろ手で戸締りをした彼は、彼女よりもさらに天井が低い。
「それで? 副隊長殿は何がお気に召さなかったんだ。待つ間に考えてもみたが、皆目見当がつかん」
椅子の代わりにベッドへ腰掛けたノワは、隣を一人分空けている。不意に項垂れたシトロンが深い溜め息をついても、勝手にその場所は埋まらない。観念してノワの右隣に座った彼は、昼間と同じく機嫌を損ねたような顔をしている。
「君は、喜んで無茶をするだろう。ましてや今日は丸腰で、鎧すら着ていなかったのに」
「人を戦闘狂みたいに言うな。民草に助けを求められて、見捨てる騎士がどこにいる」
胸を張るでもなく、ノワは自然体で言ってのける。誰よりも長くノワを見てきたシトロンは、それが彼女の本心なのだと確かめるまでもなく知っていた。
「……そうだね。だから、俺は困っているんだよ」
肩を押されて、視界が回る。見慣れた天井より先に彼女へ影を落とす男は、蝋燭によって編まれた淡い逆光の中にいた。
「な、に」
「ノワだって奪われかねない立場なのに、自分で危険を招くから」
ノワの思考が追いつく前に、青年の片手が彼女の腕をまとめ上げる。柔い前髪が彼女の額に触れ、二人分の吐息が混ざる。衣擦れすら絶えた、耳が痛くなるほどの静寂が狭い部屋に張り詰めた。




