第4話 市場
「……それで、今日の私たちの仕事は?」
「少し前に奥様の遣いが来て、他の団員を割り当ててしまったよ」
「クソ、やられた!」
詰所に戻ったノワを出迎えたのはシトロンだった。見慣れぬ令嬢がノワ本人であることを何度も呼びかけて確かめ、頭の先から爪先まで褒めちぎった彼もまた、騎士団のトレードマークである銀の鎧を脱いでいる。長剣が差しこまれた剣帯は、腰骨よりも下に落ちないようベルトで固定されている。素性を知らない者からすれば、若い恋人同士にしか見えない取り合わせの二人だ。
飾りが質素な辻馬車も、女主人によるお節介のうち一つだった。スカートでは馬へ跨ることができないし、横座りも落馬の危険が否めない。とはいえ、派手すぎる馬車では市井で目立つ。怒り肩で腕を組んだノワは、石畳の振動を木製の黒い座面越しに受けた。
「どいつもこいつも、私を置いて勝手に騒ぎ立てやがって……」
「俺にとってはすごくありがたいけどね」
「だからそれが気に食わんと言っているんだ!」
「怒鳴るなって。せっかく我慢して着飾ってくれたんだし、お嬢様ごっこなんかどう? 俺はもちろん彼氏役でさ。あ、許嫁役も捨てがたい——」
ビンタの威力は装いに左右されなかった。真正面から左頬をぶたれたシトロンは、赤い手形を両手で押さえて蹲り、三つ歳下の同期を視線で咎める。わざとらしく窓の外を眺めて彼を無視するノワの鼻筋には、白くちらつく木漏れ日が踊っている。焦げ茶色の虹彩に光の端がかかるたび、吊りがちの目元がすがめられて、細い睫毛の影が落ちる。
「うん、綺麗だ」
「……二度と着ないからな。絶対」
——今のは、服を褒めたんじゃないけど。
そう口にすればまた殴られることが分かりきっていたので、シトロンは微笑みだけを返す。ノワの耳の赤さを夕陽のせいとごまかすには、まだ太陽はさほど傾いていなかった。
馬車の揺れがおさまり、御者が扉を開けた先は街一番の市場だった。国境沿いという立地は、隣国への牽制と威圧ばかりがお家芸なわけではない。切り立つ山脈を越えるという制限こそあるが、近隣諸国の流行はオルール地方に素早く届く。帝都にその情報が伝播する頃には、オルールの民は次の最先端に注目が移っているといった有様で、帝国の貿易拠点としてもこの地は権威を得ているのだ。
隙間なく連ねられた軒先には、ありとあらゆる色彩がしのぎを削り合っている。採れたてで雫が皮を滑る野菜や、どう切り分けるのが正解なのか判断しかねる南の果物、飴を溶かして動物の形にした細工菓子に、宝石をあしらったアクセサリーまで様々だ。軽食を提供する屋台も多く、湯気に乗って届けられた香ばしい匂いが人々の食欲をくすぐる。キャベツをとろとろに煮込んだスープの出店では、客へ渡す直前にミルで胡椒を振りかけて自然の甘みを引き立てる。シナモンと蜂蜜入りのホットミルクは北風を招いてから供されるため、まだ出している店がない。
「うわっ!」
「おっと、ごめんよお」
好物のありかを鼻で探していたノワは、自身の警戒を怠った。普段の装いであれば難なく耐えられた肩への衝撃も、踵が細い今の靴ではとっさに重心を移せない。
——まずい、転ぶ!
受け身の体勢に入ったノワを包んだのは、地面に敷き詰められた煉瓦の凹凸ではなかった。鼻先をかすめたのは、軽いシトラスの香り。布の先にあるのは、幼馴染でもある青年の、しなやかに引き締まった胸元だった。
「俺の腕に掴まって。二人とも迷子になりそうだ」
「あ、ああ。すまん」
シトロンに促されるまま、ノワは彼の腕に触れる。団長よりも細く見える外見に反して、骨を覆う筋肉の層は分厚い。杖代わりにされたシトロンの足元はぶれず、人の動きを見定めては同伴者が動きやすいよう避ける。ようやく歩き方を覚え始めたノワが顔を上げると、眼前では腸詰肉の串焼きが売られていた。途端に瞳を輝かせたノワを横目に見たシトロンは、こみ上げてくる笑いを堪えながら店主に銀貨を差し出した。
「串焼きを二本と、麦パン一つもらえるかい。パンには横へ深い切れ目を入れてほしい」
「あいよっ。お二人さん運がいいねえ、ちょうど焼き上がったところだよ」
「へえ、じゃあ釣りは取っておいてくれ。手間賃と火入れ代ね」
「まいどありぃ!」
「あちちっ……。さてさて、一つくらいはベンチが空いてますように」
渦巻きの形に整えられた香草入りの腸詰と、水平に切れ目が入った麦パンを持つシトロンは、ノワを先導しながら人波の隙間をかいくぐる。団欒のための広場では楽士が腕前を披露しており、のどかな音色が子どもたちのはしゃぐ声と踊っている。
ちょうど家族連れが席を立ったベンチへ、二人は小走りで向かう。持ち前の勘の良さですっかり靴に慣れたノワは、それに合わせてシトロンの腕から手を外した。離れた体温は彼にため息をつかせたが、メインディッシュを取り上げるなどという大人げない事態は起こらない。切れ目に沿って割った麦パンを皿の代わりにして、肉汁が滴る腸詰をノワへ渡す。二人の腹の虫が鳴きもしたが、同じ詰所で寝泊まりをしているシトロンとノワにとって、その程度はちっとも恥ずべきものではなかった。




