王都最強! 天才少女の研修先 〜え、全員おじさんでした〜
セリカ・レイヴェルは、王都冒険者ギルド本部が誇る若手育成枠の1人だった。
年齢は19歳。
銀の髪に氷みたいな青い目。
剣も魔術も扱える魔剣士で、同世代の冒険者相手なら負けたことがない。
王都では、彼女が訓練場に姿を見せるだけで若手冒険者の背筋が伸びた。
模擬戦をすれば観客が集まり、依頼から戻れば何人もの若手が飲み物や手当てを口実に近づいてきた。
本人にそのつもりはまったくない。むしろ迷惑だった。
勝手に褒められ、勝手に競われ、勝手に好意を向けられる。
しまいには、ろくに話したこともないのに「セリカ嬢は俺を見ていた」と言い張る者までいた。
そんな日々にうんざりしていたある朝、セリカは本部長室に呼ばれた。
「セリカ・レイヴェル。君には3か月、ラグル辺境の冒険者ギルド――通称『第七支部』で現場研修を受けてもらう」
「……第七支部、ですか?」
聞いたことはある。
王都の若手たちが、馬鹿にしたような声でそう呼んでいる場所。
――辺境のおじさん支部。
平均年齢がかなり高い。
討伐ランキングに名前が出ない。
派手な功績も少ない。
若手が行きたがらない、などなど。
第七支部は、そんな噂ばかりだった。
「私は⋯⋯左遷されるのでしょうか」
「違う」
本部長は即答した。
「君は強い。強すぎるくらいだ。だが、強い敵を倒す力と、全員を生きて帰す力は別物だ」
「……私にそれが足りないと?」
「ああ、足りない」
あまりにまっすぐ言われたので、セリカは一瞬だけ黙った。
冒険者は本来自由業だ。
依頼を選ぶのも、拠点を移すのも、パーティを組むのも本人の判断に任される。
だが、王都本部の育成枠は少し違う。
高品質な装備の貸与、王都訓練場の優先使用、高ランク依頼への推薦、指導冒険者からの講習。
それらの支援を受ける代わりに、年に数度、本部が指定する研修を受ける義務がある。
セリカは職員ではない。
あくまで冒険者だ。だが、王都本部から将来のAランク候補として扱われている以上、その研修を断れば育成枠を外される。
本部長は机の上に1枚の書類を置いた。
そこには、ラグル辺境――第七支部の依頼記録が載っている。
討伐数は普通から少なめ。
大型魔物の討伐はかなり少ない。
表彰もほとんどない。
だが、下の欄でセリカの目が止まった。
―――――
依頼成功率:王国内最高。
同行者死亡数:過去10年で0人。
救助成功率:王国内最高。
―――――
「第七支部は地味で人も少ない。若手から見れば、年寄り冒険者たちの、ただの寄り合いに見えるだろう。だが、あそこの冒頭者たちは全員を生きて帰すことだけは、王都のどの支部よりうまい」
「全員を……生きて帰す?」
「そうだ。君は天才だ。だから一度、天才とはベクトルの違う強さというものを、しっかり見てこい」
そうしてセリカは、王都から馬車に揺られ、ラグル辺境冒険者ギルド第七支部へ向かうことになった。
■□■□■
ラグル辺境冒険者ギルド第七支部は、想像以上に地味だった。
建物は古い。看板は少し傾いている。
入口の扉は油が切れて、開けるとギギギ、と嫌な音がした。
王都本部なら、磨かれた床、整えられた受付、訓練場の掛け声、若手冒険者たちの熱気がある。
ここには、干した薬草の匂いと、木箱と、古い革靴の音しかなかった。
そして何より。
全員、おじさんだった。
どこを見ても、おじさん。
受付近くで腰を叩いている人も、おじさん。
掲示板の前で依頼票を眺めている人も、おじさん。
暖炉のそばで豆を煮ている人も、おじさん。
セリカの目の前に立っている何だが冴えないおじさんも⋯⋯おじさんだった。
つまり、セリカはこれほどおじさんが多い空間があること自体に、混乱していた。
「ようこそ、ラグル辺境冒険者ギルド第七支部へ。支部長のゲンツだ」
「やはり支部長も⋯⋯?」
「何か問題があるか」
「いえ。冒険者だけでなくギルド側まで徹底しているなと思いまして」
「何を徹底してるって?」
「何でもありません」
支部長ゲンツは少しだけ眉を上げた。
年齢は50そこそこ。体は大きいが、第一印象は腰痛持ちの近所のおじさんだった。
そんなゲンツが、セリカの顔ではなく足元を見た。
「嬢ちゃん、その靴、早く替えた方がいいな」
「……はい?」
「底が硬すぎる。ここらの森道だと足裏をやる。あれは痛いぞ」
最初の指摘がそれだった。
「私は王都本部から研修に来たセリカ・レイヴェルです。まずは手続きと今後の予定を――」
「それは後でいい。飯は食ったか」
「食事、ですか」
「馬車で来たんだろ。若いのはすぐ強がって飯を抜く。腹が空いたまま森に入ると判断が鈍るぞ」
「私は子どもではありません」
「19だろ。十分子どもだ」
暖炉のそばで豆を煮ていたおじさんが、突然木皿を差し出してきた。
「食え。豆と肉だ」
「挨拶より先に、いきなり豆と肉……?」
「肉が嫌いか」
「嫌いではありませんが、そういう問題ではありません」
セリカは思わず突っ込んだ。すると支部の中が少し静かになり、数人のおじさんが顔を見合わせた。
「おお」
「突っ込みが速いな」
「さすが、王都の子は違うな」
「そこを評価しないでください」
セリカは眉間を押さえた。
王都なら、初対面の若手冒険者たちはもっと緊張する。女性冒険者として、変な目で見られることも多かった。
視線が、分かるのだ。
顔で止まる視線。
胸元で止まる視線。
腰や脚へ落ちる視線。
気づかれないつもりで見てきて、セリカが目を向けると慌てて逸らす視線。
あの湿った感じが、とても嫌だった。
だが、ここにいるおじさんたちは違う。
誰も顔で固まらない。
誰も体を見て浮つかない。
誰も甘い言葉を言わない。
見るのは靴、荷物、肩の力、腰の高さ。
冒険者として必要な部分だけだった。
それは少しだけ落ち着く。
だが同時に、なぜか少しだけ腹も立った。
ここでは、私はただの子どもとして見られている。
そう思った直後、セリカは自分で自分に動揺した。
大人として、女性として、別にそう見られたいわけではない。王都では見られすぎて嫌だったくらいなのだ。
――だからこれは、いいことのはず。
恋愛経験のないセリカには、その感情の名前が分からなかった。
「あと嬢ちゃん」
ゲンツがまたセリカを見た。
「胸当て、合ってないぞ」
支部内が凍った。
セリカも凍った。
「…………は?」
「息を吸ったとき、肩が上がっている。つまり、胸当ての内側が詰まり過ぎてるってことだ」
「み、見ないでください!」
反射的に声が出た。ゲンツは本気で分からないという顔をした。
「見ないと分からんだろ。装備だぞ。そのままだと、辺境の森で3分以上動いてみろ。すぐ呼吸が浅くなるぞ」
「装備でもなんでも、そこは胸です!」
「胸というより、胸当てだな」
「同じ場所です!」
セリカは胸元を押さえた。
分かる。いやらしい目ではない。
それが分かってしまう。
ただ、最近たしかに成長して、胸当てが合わなくなっていたのも事実だった。
このおじさんは、セリカの体を女として見ているのではなく、冒険者の装備と体調として見ている。
顔より靴。
胸より防具の詰まり。
美しさより呼吸。
色気より森で走れるかどうか。
分かる。分かるのだが。
「だからといって、初対面で胸当てのサイズが合っていない話をするのはどうかと思います」
「そうか。すまんかった」
ゲンツは素直に頭を下げて謝った。
「でも、直せよ」
「謝った直後に押し切らないでください」
豆を煮ていたおじさんまで、真面目な顔でうなずく。
「防具がきついと衝撃が直にくるぞ、さあ豆を食え」
「あなたも自然に参加しないでください」
「装備不良は早い方がいい。うちの娘もこの前、靴擦れを黙っていたら悪化させた」
「胸当ての話から靴擦れに飛ばないでください」
「装備で我慢するなという話だ」
「正しいことを言わないでください。余計に怒りにくいです」
「嬢ちゃん、怒ると腹が減っただろう。食え、豆だ。運動後に良い、塩多めだ」
「結局そこに戻るんですか」
おじさんたちはまったく悪びれない。
王都の若手たちのような熱っぽさはない。自分と家族と、今日の飯と、明日の腰痛と、森で生きて帰ることの方がよほど大事なのだろう。
それは安心する。
でも、女性として完全に素通りされている気もして、少しだけ腹が立つ。
セリカには、その腹立たしさの理由がまだ分からなかった。
■□■□■
昼食後、セリカは支部裏の訓練場へ案内された。
訓練場といっても、王都のような立派な石造りではない。踏み固められた地面と古い木杭が並ぶ、ただの広場だ。
ただ、的の傷が変だった。
傷があるとは的の中心ではない。
少し横や足元。木杭の根元。
「この的、中心を狙っていないのですか」
弓を持った細身のおじさんが、眠そうな目で振り向いた。
「中心は、敵がいてくれる場所だろ」
「……はい?」
「俺は、敵が次に動く場所に撃つ」
さらっと怖いことを言った。
セリカが返答に困っていると、ゲンツが手を叩く。
「さて、王都の天才の腕を見せてもらうか」
「望むところです」
セリカは訓練場の中央に立っ。
右手で魔導剣を抜き、魔力を通すと、刃に青白い光が走る。
王都では、この光だけで歓声が上がった。
だが、第七支部のおじさんたちは騒がない。
1人は豆をつまみ、1人は靴紐を結び直し、1人は斧の柄を布で拭いている。
見ていなさい。
セリカは地面を蹴った。
速く、鋭く、無駄なく。
前方の木杭を1本、2本、3本。
切っ先を返し、魔力を弾かせ、背後の的を撃ち抜く。最後は足を止めずに半回転し、青白い斬撃を飛ばして遠くの的を割った。
王都なら、ここで拍手が起きる。
第七支部でも拍手は起きた。
ぱちぱちぱち。
少ない。
しかも、豆を食べながらだった。
「すごいな」
「速い」
「若いっていいな」
「最後の光るやつ、きれいだったぞぉー」
「感想がすごく雑です」
セリカは思わず突っ込んだ。
ゲンツは腕を組む。
「いや、本当に強いぞ。同世代なら頭一つ抜けてるだろう」
「当然です」
「ただ、今のままなら死ぬな」
「……どういう意味ですか」
「ロイド」
ゲンツが呼ぶと、訓練場の端で薪を割っていたおじさんが顔を上げた。
背は高い。第七支部の中では若い方らしいが、今年で40歳らしい。セリカから見れば十分おじさんだった。
髪は黒に少し白が混じっている。
顔立ちは悪くないが派手さはない。くたびれた革鎧に、古い剣。
第一印象は、薪割り帰りの地味なおじさん剣士だった。
「少し見てやれ」
「俺でいいのか?」
「ここじゃお前が一番若いからな」
「それだけの理由?」
ロイドと呼ばれたおじさんは困ったように笑った。
王都の若手のように、セリカの反応をうかがう笑みではない。気を引くためでもない。ただ少し困ったから笑っただけ。
セリカはなぜか目をそらした。
何だろう。この人は少し、見づらい。
いや違う。地味すぎて視線を置きづらいだけ。
「よろしく頼む」
ロイドは木剣を手に取った。
セリカは魔導剣を下げたまま、礼をする。
「手加減は必要ですか」
「俺に聞いてるのか」
「はい」
「じゃあ、最初だけ頼む」
周りのおじさんたちが、なぜか全員うつむいた。肩が揺れている。
「笑いましたね?」
「笑ってない」
「完全に笑いましたよね?」
「始めろ」
ゲンツに促され、セリカは構えた。
相手は木剣。こちらは訓練用とはいえ魔導剣。
速度も魔力量もこちらが上。
セリカは一歩で間合いを詰めた。
剣先がロイドの肩へ届く。その瞬間、視界からロイドが消えた。
「え」
足元の地面が軽く鳴る。セリカの手首に、ロイドの木剣の腹が触れていた。
痛みはない。
だが、魔導剣が手から落ちた。
カン、カラカラカラ――と地面を転がる音がした。
「今のは、踏み込みが正直すぎる」
「……正直」
「強い敵には届く。でも、長く生きてる魔物には読まれる」
「もう一度お願いします」
「いいぞ」
セリカは魔導剣を拾った。
今度は速度を変える。右へ誘い、左へ流し、魔力を一瞬だけ薄くしてから踏み込む。
王都の模擬戦でも、外の対魔物戦でも、何度も勝ってきた動きだ。
ロイドは少し足をずらしただけだった。
セリカの剣は空を切り、背中に軽く木剣が置かれる。
「2回目は、考えてることが体に出てた」
「顔ではなくて?」
「ああ。胸当ての動き方、膝の逃げ方、あとは尻だな」
「…………待ってください」
セリカは魔導剣を構えたまま固まった。
「今、見る場所が少しおかしくありませんでしたか」
「おかしくない。胸当ては呼吸、膝は踏み込み、尻は体が逃げたかどうかが出る」
「言っていることは正しいのに、聞こえ方が最悪です」
ロイドは本気で分からないという顔をした。
「そこを見ないと、次が読めないからな」
周りのおじさんたちは黙っていた。
いや、黙っているのではない。全員、目をつむってうんうんとうなずいていた。
「胸当てが締まりすぎると息が浅くなる」
「尻が残ると次の一歩が遅れる」
「膝は嘘をつかん」
「誰か一人くらい私の味方をしてください!」
王都の若手にじろじろ見られるのは嫌だった。あの湿った視線はすぐ分かる。
だが、このおじさんたちの目はいやらしくない。
いやらしくないのに、胸当てや腰やお尻まで当然のように戦闘の材料として見てくる。
それはそれで、逃げ場がなかった。
3回目。4回目。5回目。
結果は同じだった。
速さでは勝っている。魔力でも勝っている。
剣の鋭さも、おそらく負けていない。
なのに、届かない。
ロイドは派手な技を使わない。
魔力もほとんど見せない。大きく避けることもない。
ただ、少しだけ立つ位置を変え、セリカが一番嫌なところへ木剣を置く。
そのたびに、セリカの攻撃は崩された。
10回目を超える頃、セリカは膝に手をついた。
「……なぜ、当たらないんですか」
「俺が当たる場所に行かないからだな」
「それは答えになっていません」
「すまん。俺は説明が下手なんだ」
ロイドは本気で困っている顔をした。
ゲンツが笑いながら近づいてくる。
「嬢ちゃん、お前は強い。だが、敵を倒す前提で動きすぎる」
「冒険者は敵を倒すものでしょう」
「倒すだけならな。だが依頼は違う。守る者がいる。逃がす者がいる。安全に最後まで帰る道がいる。次の日の体力もいる」
ゲンツは木杭を指で叩いた。
「お前の剣は一撃目が強い。二撃目も強い。だが、三戦目で少し落ちる。負傷者を背負ったらもっと落ちる。雨が降れば足元が変わる。味方が泣けば判断も揺れる。そこまで入れて、戦えているか?」
セリカは黙った。
王都では、誰もそんなことを言わなかった。
――速い。美しい。強い。天才。
そんな言葉ばかりだった。
足りないと言われたのは、本当に久しぶりだった。
「悔しいか」
「はい、悔しいです」
「ならお前は伸びる」
ゲンツは満足そうに頷いた。
「第七支部での課題。まずはロイドに一撃入れろ」
「研修期間の3か月で、ですか?」
「いや」
ゲンツは真顔で言った。
「3年くらいか」
「研修期間を大幅に超えています!」
セリカの叫びに、おじさんたちは笑った。
■□■□■
翌朝5時。
セリカは支部の裏庭に立っていた。
王都の訓練場なら、こんな時間でも若手が何人かいる。だが、辺境の第七支部にそんな熱気はないだろうと思っていた。
甘かった。
昨日のおじさんたちは、しっかり全員いた。
支部長のゲンツは腰に手を当てて屈伸している。
バルドは木の枝に小石を吊るしている。
ミゲルは何かの草を噛みながら脈を測っている。
ロッソは丸太を肩に担いでいた。
盾役のダンは盾を抱えて坂道を上っている。
斥候のヨルンはいつの間にか木の上にいた。
昨日戦ったロイドは、すでに素振りをしていた。
ざっ、という足音。ひゅ、と木剣が空を切る音。
また、ざっ、ひゅ、ざっ、ひゅ、と繰り返されていく。
速くない。派手ではない。
だが、同じ動きが何度も続く。一寸の狂いもない。
「それ、毎朝やっているんですか?」
セリカが聞くと、ロイドは素振りを止めずに答えた。
「だいたいな」
「何回やるのですか」
「数えてない」
「なぜですか?」
「数えると、終わった気になる」
セリカは言葉を失った。
王都では、何回振ったかを記録する。
魔力量、速度、命中率、すべて数値にする。それは努力の証明だった。
だが、目の前のおじさんは違う。
証明するためではない。終わるためでもない。ただ、毎日振っている。
「……気持ち悪いくらい努力家ですね」
「気持ち悪いは余計だな」
「すみません。でも、どうしてそこまで続けられるんですか」
ロイドは木剣を肩に置き、首と腰を回した。
こきこき、と何度か音がした。
「今、年齢を感じる音がしました」
「それはおじさんだからな」
「開き直らないでください」
「若い頃、俺より強いやつなんていくらでもいた。速いやつも、派手なやつも、女に騒がれるやつもな」
「最後の情報はいりますか」
「おじさんになると、過去の余計な話が増える」
「自覚はあるんですね」
「ああ」
ロイドはそう言って、木剣の柄を握り直した。
「だから俺は、毎日少しだけましになることにした。昨日より少し足を残す。昨日より少し息を乱さない。昨日より少し、後ろのやつを帰せる場所に立つ」
「後ろのやつを……」
「強くなるっていうのは、俺にはそういうことなんだ。自分が勝つためじゃなくて、誰かを生きて帰すために、今日も少しはましになる」
セリカは何も言えなかった。
ロイドは、何でもない顔で続ける。
「まあ、おかげで若い子にはおじさん扱いされるが」
「それは事実です」
「だな。ただ、誰かが生きて帰れるなら、おじさんになるのも悪くない」
ロイドは朝の光の中で、少しだけ笑った。
――ずるい。
地味で、冴えなくて、朝から首の音まで鳴るおじさんなのに。
その一言だけは、王都で見たどんな若い冒険者より格好よかった。
ロイドは黙り込んだセリカを見て、少しだけ笑った。
この人の笑い方は胸に悪い。
正確には、胸ではなく心肺機能に悪い。
おそらく朝の冷気で呼吸が浅くなっているだけだろう。
そうに違いない。
「嬢ちゃん」
ゲンツが声をかけた。
「今日は初依頼だぞ」
「討伐系ですか?」
「迷い羊の捜索だ」
「…………羊?」
「そうだ。羊だ」
王都本部育成枠、天才魔剣士セリカ・レイヴェル。
辺境第七支部での初任務。
迷い羊探し。
セリカは空を見上げた。
「本部長、私は羊から何を学べというのですか」
「まずは羊の足跡の見方だな」
ゲンツが即答した。
「あなたに聞いたのではありません」
その日、セリカは羊を探すことになった。
■□■□■
依頼主の村は、第七支部から歩いて2時間ほどの場所にあった。
村人たちは、第七支部のおじさんたちを見ると、明らかにほっとした顔をした。
「ゲンツさん、来てくれたんですね」
「ロイドさんもいるなら安心だ」
「ミゲルさん、うちの婆さんの膝を後で見てくれんか」
「バルドさん、昨日の夜、森の方で変な鳥が鳴いてたんだ」
王都の英雄を見るような熱狂ではない。だが、信頼があった。
若手冒険者が憧れるのは、華やかな英雄だ。魔物を一撃で倒し、名を上げ、褒賞を受ける冒険者。
だが、この村の人々は違う。
第七支部のおじさんたちを、生活の一部のように迎えている。
ロイドは村の子どもに袖を引かれ、しゃがみ込んだ。
「また熊出る?」
「まだ分からん。今日は羊を探す」
「ロイドさんなら熊も勝てる?」
「熊とは喧嘩しない方がいい」
「勝てるのに?」
「勝てても怪我する。怪我したら豆が食えない」
「……やだ」
「そうだろ」
なんだこの会話は。
強い弱いの話から、なぜ豆の話に行くのか。
依頼内容は、村の羊が4頭いなくなったというものだった。柵は壊されていない。血もない。ただ、森の方へ羊の足跡が続いている。
セリカはその足跡を見た。
「ただ迷っただけでは?」
荷運びのロッソが地面にしゃがみ、太い指で土をつまむ。
「羊は迷った。だが、迷わせたものがいる」
「分かるんですか」
「土が浅く削れてる。走って逃げた跡じゃない。じわじわ押された跡だ」
弓使いのバルドが枝の折れ方を見る。
「上も使ってる。木の上を渡るやつだ」
ミゲルが草を拾って匂いを嗅ぐ。
「《赤爪猿》の臭いが少し残ってるな。だが、猿だけじゃない」
《赤爪猿》は、村の周りで羊を追い回すような魔物ではない。
もっと奥の森に縄張りを持つ、群れを率いる上位の猿型魔物だ。金属を混ぜたような硬い爪で木の幹を裂き、革鎧ごと人の腕を斬り飛ばす。
王都の訓練でも、若手だけで遭遇したら討伐ではなく撤退を選べと教えられる相手だった。
ゲンツが、セリカを見る。
「分かるか?」
分からない。
ただの羊探しだと思った。
だが、おじさんたちは足跡、土、枝、草の匂いだけで、すでに別のものの存在まで推測している。
「《赤爪猿》が羊を森へ追い込んだ……?」
「一つはそうだろう」
「なぜ羊を?」
「餌にするためなら、その場で襲う。追い込む理由があるなら、別の餌を誘ってる」
「別の餌……」
セリカは気づいた。
「まさか⋯⋯人間ですか」
ロイドが頷いた。
「たぶん、羊を探しに来た村人を狙ってる」
背筋が冷えた。
迷い羊の捜索。地味な依頼だと思った。
だが、放っておけば村人が死ぬ。
派手な討伐より、ずっと早く気づいて対応しなければならない仕事だった。
「行くぞ。まずは羊を見つける。村人は家から出させるな」
ロイドは古い剣を腰に差し直した。
「ついでに猿の巣の中まで見る」
「ついでの内容が重いです」
「辺境ではよくあることだ」
「魔物の巣に入るなんて、よくあってほしくないです」
セリカは文句を言いながら、森へ入った。
森の中では、おじさんたちの動きが変わった。
支部にいたときの、豆だの腰痛だの言っていたおじさんたちの姿が嘘のようだった。
ロッソは大柄なのに足音が妙に小さい。
バルドは弓を構えていないのに視線だけで木の上を追っている。
ミゲルは草を見ながら毒草と薬草と獣道を同時に確認している。
ゲンツは腰を叩かない。
ロイドは、セリカの少し前を歩いている。
速すぎず、遅すぎず、こちらが足を置きやすい場所をさりげなく選んでいる。
「ロイドさん。⋯⋯正直に教えてください。私は足手まといですか?」
「いや」
「ではなぜ、私の歩きやすい場所を選んでくれているのですか」
「新人だからだ」
「私は新人ではありません。王都で――」
「《第七支部》では、新人だ」
セリカは口を閉じた。
腹が立つ。だが、反論できない。
「お前が強いのは知ってる。だから急がなくていい」
「⋯⋯分かりません」
「強いやつは、強さで遅れを取り戻そうとする。この森では、それで足を取られる」
まただ。
このおじさんたちは、すぐに痛いところを突いてくる。
セリカは唇を結び、ロイドの背中を見た。
広い背中ではない。英雄像のように絵になるわけでもない。
革鎧は古いし、肩には補修跡がたくさんある。
だが、不思議と安心する背中だった。
これはたぶん、尊敬だ。
尊敬なら問題ない。恋愛なんかでは決して⋯⋯ない。
自分の年齢の倍以上生きている40歳のおじさん相手に、変な感情を抱くはずがない。
ない。ない。絶対ない。
「止まれ」
ロイドの声で、セリカの思考が途切れた。
前方の木の根元に、羊の白い毛が絡んでいる。その奥で小さな鳴き声がいくつも聞こえた。
「いた」
羊が2頭、木の間で震えていた。怪我はない。だが、動けないように蔓が絡んでいる。
セリカは一歩踏み出しかけた。ロイドの手が肩の前に出る。
「待て」
「え、羊が」
「あれは罠だ」
次の瞬間、頭上から黒い影が落ちてきた。
《赤爪猿》。
大人の人間より大きく、長い腕と赤い鉤爪を持つ森の強力な魔物だ。
1体ではない。3体。いや、5体以上いる。
セリカは魔導剣を抜いた。
「私が――」
「右を頼む。切りすぎるなよ」
「切りすぎるな?」
意味を聞く前に、《赤爪猿》が突進してきた。
セリカは右へ出る。青白い魔力を刃に通し、一撃で猿の爪を弾く。
倒せる。
そう判断して踏み込もうとした瞬間、ロイドの言葉がよぎった。
――切りすぎるな。
セリカは刃を止めた。
猿を斬るのではなく、その腕だけを払う。
直後、背後の木に吊られていた別の羊が落ちてきた。
「なっ……!」
もし全力の斬撃を放っていたら、羊ごと切っていた。
セリカはぞっとした。
ロイドには見えていたのだ。猿だけでなく、背後の羊も。
「ロッソ!」
「おう!」
ロッソが大きな荷紐を投げた。それが羊の体に絡み、地面に落ちる寸前で止まる。
バルドの矢が飛ぶ。猿の目ではなく、足元の枝に刺さった。枝が折れ、逃げようとした猿の進路が潰れる。
ミゲルの白い粉が散り、猿が鼻を押さえてよろめく。
ゲンツは剣を抜かず、低い声で言った。
「下がれ」
それだけで、猿の群れが一瞬止まった。
魔力ではない。殺気でもない。現場で積み上げた重圧だった。
全員、物凄く強い。
しかも、自分の知っている強さとは違う。
派手に倒すのではない。状況そのものを少しずつ、自分たちに有利な形へ変えていく。
ロイドが前へ出た。
木剣ではなく、本物の剣。だが、抜き方は異様に静かだった。
《赤爪猿》の1体が跳びかかる。
ロイドは一歩だけ後ろにずれた。
剣が短く動く。
そのしゅんかには、猿は地面に落ち、動かなくなった。
一撃。
セリカには、どこを斬ったのか見えなかった。
《赤爪猿》たちは、一斉に逃げ始める。
「追いますか?」
「追わない。今は羊と村人が先だ」
「でも、逃がせばまた――」
「だから場所を覚える」
バルドが矢を1本、逃げる猿の近くの木へ撃ち込んだ。矢には赤い布が結ばれている。
「目印だ。巣の方向は取れた」
誰も勝利に酔わない。誰も倒した数を数えない。必要なことだけをして、次へ進む。
敵を倒すこと。
強さを示すこと。
評価されること。
その全部の前に、依頼には帰すべき命がある。
羊でも。
村人でも。
仲間でも。
「セリカ」
ロイドが呼んだ。
名前を呼ばれただけなのに、何だが胸が少し跳ねた。
「はい」
「さっき、止まれたのは偉いぞ」
「……え」
「全力で斬らなかった。あれで羊が助かった」
ロイドはそれだけ言って、また前を向いた。
たったそれだけ。
だが、王都で何百回褒められたときより、胸の奥が熱くなった。
ミゲルが横から小声で言う。
「お、熱か? セリカ嬢ちゃん、顔が赤いぞ」
「⋯⋯違います。戦闘後の魔力循環です!」
「はーん、若いな」
「若さで片づけないでください!」
セリカの叫びは、森に吸い込まれていった。
■□■□■
羊4頭を無事に村へ戻したあと、第七支部の一行は森の外れで休憩を取った。
村人たちは何度も礼を言ってきた。
セリカにも頭を下げてくる。
「若いのにすごいねえ」
「さすが王都から来た冒険者だ」
「第7の旦那衆が一緒なら安心だな」
第7の旦那衆。
王都では馬鹿にされているおじさんたち。
この村ではまったく違う重みを持っている。
ロイドは少し離れた場所で、剣の刃を布で拭いていた。
セリカはそちらへ歩いていく。
「ロイドさん」
「どうした」
「なぜ、これほど強いのに王都へ行かないんですか」
ロイドは手を止めた。
「昔は、行きたいと思ったこともある」
「では、なぜ?」
「俺は派手な手柄を取るのが下手だった。強い魔物を倒すより、逃げ遅れた子どもを拾ったり、崩れた橋を見に行ったり、そういう依頼ばかり選んでいた」
「それは大事な依頼です」
「だが、王都ではあまり目立たない」
ロイドは静かに言った。
「若い頃は悔しかった。俺より後に冒険者になったやつが先に上がっていく。派手な技を覚えたやつが褒められる。俺はずっと、地味だと言われた」
「……」
「だから続けた。派手なやつに勝てないなら、帰る力だけは負けないように。速いやつに勝てないなら、遅れても間に合うように。天才に勝てないなら、天才が見落とすものを見るように」
ロイドは剣を鞘に戻した。
「そして、気づいたときには⋯⋯おじさんになってた」
「おじさんになるまで努力したから……それで、こんなに強くなったということですか?」
「強いかは分からん。ただ、まだ毎朝剣を振ってる。俺にはそれしかできないんだ」
セリカは胸の奥が詰まった。
天才と呼ばれることは誇りだった。
同時に、重荷でもあった。期待される。勝って当然。失敗すれば、天才なのにと言われる。
だが、目の前のおじさんは違う。
天才ではなかったから続けた。
派手ではなかったから積み上げた。
認められなかったから、腐らずに磨いた。
その結果、今のセリカよりずっと遠くにいる。
悔しい。
そして、少しかっこいいと思った。
そこまで考えて、セリカは固まった。
――今、私はこの人をかっこいいと思った?
いや違う。これは冒険者としての尊敬だ。
師に対する敬意だ。決して恋愛的な何かではない。
「セリカ?」
「ひ、ひゃい」
変な声が出た。
ロイドが真顔で見てくる。
「舌を噛んだか」
「噛んでいません」
「そうか」
「今のは、その、発声訓練です」
「変わった訓練だな。俺も見習おう」
「流してください!」
セリカは顔を覆いたくなった。
クールで通っていた。王都では氷剣のセリカなどと呼ばれていた。
だが、第七支部に来てから、叫ぶ、突っ込む、焦る、変な声を出す。
氷剣が溶けていく。
しかも溶かしているのは、魔物ではなく、おじさんたちである。
■□■□■
その日の夕方、事態が急変した。
第七支部へ戻る途中、村の若者が息を切らして駆けてきた。
「ゲンツさん! 王都の冒険者が森に入った!」
ゲンツの顔つきが変わった。
「何人だ」
「4人です。昼前に来て、《赤爪猿》の巣があるなら自分たちが討伐するって……第七支部の手柄を横取りするつもりかって笑ってました」
セリカは顔をしかめた。
王都の若手冒険者たち。見覚えがある人もいるかもしれない。
「止めなかったのか」
「止めました。でも、俺たちは王都でCランクだ、おじさん支部にできることなら自分たちにもできるって……」
ゲンツは短く息を吐いた。
「馬鹿どもが」
その声は怒っていた。だが、見捨てる怒りではない。
「行くぞ」
「助けに行くんですか」
セリカが聞くと、ゲンツは当然のように答えた。
「冒険者が森で死にかけてる。助ける以外に何がある」
「馬鹿にされた相手でも?」
「馬鹿は死なせない。生きてれば反省もできる」
何も言えなかった。
森へ戻る。
今度は羊探しではない。
冒険者救助だ。
森の奥へ進むほど空気が悪くなった。
《赤爪猿》の臭い。獣の血。折れた枝。焦げた葉。
若手冒険者たちは戦ったらしい。
だが、足跡が乱れている。逃げた跡もあった。
「1人、足を引きずってる」
「猿の数が多い。巣を刺激したな」
「魔術を撃ちすぎだ。煙で逃げ道を潰してる」
「奥に寄せられてるな」
短い言葉だけで、おじさんたちは状況を組み上げていく。
森の奥で悲鳴が上がった。
セリカの体が反応する。今すぐ飛び出したい。だが、ロイドの手が短く上がった。
止まれ。
セリカは止まった。
次の瞬間、目の前の地面から蔓が跳ね上がった。《赤爪猿》は人並みに器用で、邪悪だ。
止まらなければ、足を取られていた。
「よく止まった」
ロイドが言う。
また、その一言。
胸が熱くなる。今はそれどころではないのに。
「今は褒めないでください」
「悪い」
「悪くはありません」
「どっちだ」
「もう、分かりません」
後ろでミゲルが小さく笑った。
「青春だな」
「それだけは違います!」
緊張の中で、なぜそんなことを言うのか。
おじさんという生き物は本当に意味が分からない。
だが、その軽口で少しだけ息が楽になったのも事実だった。
若手冒険者たちは、崖下のくぼみに追い込まれていた。
4人。全員生きている。
だが、1人は足を負傷し、1人は魔力切れ寸前。残り2人も傷だらけで、顔色が悪い。
周囲の木の上には、《赤爪猿》が群れている。
さらに奥に、大きな影がいた。
《赤爪猿》よりはるかに大きい。銀色の背毛を持つ、巨大な魔猿。
「《銀爪王猿》……」
セリカは名を呟いた。
森の群れを率いる上位個体。王都で一流とされるBランク冒険者でも危険な相手だ。
若手の1人が、こちらに気づいた。
「助けてくれ!」
その顔を見て、セリカは思い出した。
王都で何度も彼女に話しかけてきた若手剣士だ。第七支部行きを聞いた時、「辺境のおじさん相手ならセリカ嬢も退屈でしょう」と笑っていた男。
今は泥だらけで、泣きそうな顔をしている。
ゲンツは短く指示を出した。
「ロッソ、負傷者を担げ。ミゲル、煙を。バルドは上を落とせ。ロイド、大猿を止めろ。セリカ」
「はい」
「若手4人の前に立て。お前の魔力は目立つ。猿の目を引け。ただし、倒そうとするな」
「……守れ、ということですね」
「そうだ」
倒すな。守れ。
今のセリカには、その言葉が重かった。
彼女は崖下へ飛び降りた。
「セリカ嬢!」
「立てますか」
「足が……」
「では座ったままでいいです。私の後ろから出ないでください」
セリカは魔導剣を構えた。青白い魔力が刃を包む。
《赤爪猿》たちの目が、一斉にこちらを向いた。
怖くはない。戦える。
だが、今日は違う。
背後に守る者がいる。横に仲間がいる。前には群れがいる。
いつものように突っ込めば、背後が空いてしまう。
「……来なさい」
《赤爪猿》が降ってくる。
セリカは斬らない。弾き、払い、押し返す。
全力の斬撃なら一瞬で倒せる。だが、魔力を広げすぎれば、背後の負傷者に当たる。足を動かしすぎれば、守る場所が空く。
難しい。
敵を倒すより、守る方がずっと難しい。
「セリカ嬢、俺も――」
「動かないでください!」
セリカは強く言った。
「今のあなたたちは、守られる側です」
言ってから、自分でも驚いた。
王都でこんなことを言えば、相手の自尊心を傷つけるかもしれない。だが、今はそれどころではない。
生きて帰す。
それだけだ。
上から矢が飛んだ。
バルドの矢が、猿の指先を正確に撃ち抜く。
ロッソが負傷者を1人ずつ担ぎいてしまうら、
ミゲルの白煙が猿の鼻を狂わせる。
ゲンツの拳が群れの勢いを止める。
そして、ロイドは《銀爪王猿》の前に立っていた。
《銀爪王猿》は巨大だった。腕だけでロイドの胴ほどある。牙を剥き、地面を叩くたびに土が跳ねた。
ロイドは剣を下げている。構えていないように見える。
だが、《銀爪王猿》は踏み込めない。
大猿が吠えた。木々が震える。
ロイドは動かない。
次の瞬間、《銀爪王猿》が突進した。
速い。
大きい。
正面から受ければ、人間の体など簡単に砕ける。
だが、ロイドは一歩だけ前に出た。
逃げるのではなく、前。
大猿の腕が振り下ろされる。
ロイドの剣が、短く光った。
派手な魔力はない。大きな技名もない。
ただ、《銀爪王猿》の巨体がわずかに傾いた。
踏み出した前足。その支えが崩れている。
ロイドは次の一歩で、猿の懐に入った。剣がもう一度動く。
大猿の腕が落ちた。
切断ではない。動きが止まった。
筋を断ったのだ。
大猿が苦し紛れに体を回す。
その進路に、ロッソが投げた太い縄が落ちる。
バルドの矢が縄を木に縫い付け、ゲンツの斧が地面に食い込んで、猿の足場を削る。
全部がつながっていた。
その中心で、ロイドが最後の一歩を踏む。
剣が《銀爪王猿》の首筋に当たる。
深くは斬らない。
だが、そこで止まった。
大猿の目から、戦意が抜けた。巨体がゆっくり崩れ落ちる。
セリカは息を忘れた。
強い。
めちゃくちゃ強い。
だが、誰も勝ち誇らない。
ロイドはすぐに振り返った。
「全員いるか」
勝利の言葉ではない。
最初に確認するのは、それだった。
全員いるか。
セリカは、喉の奥が熱くなった。
「います!」
彼女は答えた。
「負傷者4人、全員生存! こちらも、大きな怪我はありません!」
「よし。帰るぞ」
「はい!」
その返事は、自分でも驚くほど大きかった。
■□■□■
第七支部へ戻った時には、夜になっていた。
救助された王都の若手たちは、医務室で手当てを受けている。命に別状はない。
彼らは、出発前とはまるで違う顔でおじさんたちに頭を下げた。
「すみませんでした」
「第七支部のおじさんたちを馬鹿にして……」
「俺たち、何も見えてませんでした」
ゲンツは腕を組んだ。
「反省は明日でいい。今日は飯を食って寝ろ」
「でも」
「生きて帰った日は、飯を食う。それが先だ」
また飯だ。
だが、今度はセリカも突っ込まなかった。
たぶん、本当にそうなのだ。
支部の食堂では、豆と肉の煮込みが出た。
また豆と肉。
「第七支部の料理はこれしかないのですか」
セリカが言うと、ロッソが真顔で答えた。
「今日は芋も入ってる」
「違いがそれ!」
「ごちそうだぞ」
「否定はしませんけど」
食堂に笑いが起きた。
セリカも一口食べた。悔しいことに、うまい。
隣にロイドが座った。
「肩、大丈夫か」
「かすっただけです」
「あとでミゲルに見せろ」
「大丈夫です」
「見せろ」
声は強くない。だが、逆らいにくい。
セリカは小さく頷いた。
「……はい」
言ってから、また顔が熱くなった。
なぜ私は素直に返事をしているのか。王都では、もっと冷静だったはずだ。
「ロイドさん」
「なんだ」
「私、変ですか」
「変だな」
「即答しないでください!」
「いや、強いのに妙なところで焦る。変だ」
「そこまで具体的に言わなくてもいいです!」
ロイドは少し考えた。
「でも、悪くない」
セリカは固まった。
食堂の音が遠くなる。
悪くない。
たったそれだけの言葉が、耳に残る。
王都で「美しい」と言われても何とも思わなかった。「天才」と言われても、いつものことだった。
なのに。
「どうした? 熱でもあるのか」
ロイドが言った。
「豆が熱いんです!」
「それ、もう冷めてるぞ」
「こ、心の豆が熱いんです!」
言ってから、セリカは自分でも意味が分からなかった。
食堂が静まり返る。
次の瞬間、おじさんたちが一斉に吹き出した。
「心の豆!」
「王都の子は詩的だな!」
「青春だー!」
「違います! 今のは忘れてください! 全員、記憶から消してください!」
セリカは真っ赤になって叫んだ。
クール美少女。
氷剣のセリカ。
王都本部育成枠の天才。
その肩書きは、第七支部に来て2日でかなり危うくなっていた。
■□■□■
その夜、セリカはギルド支部の屋根の上にいた。
眠れなかったのだ。
辺境の空は、王都より星が多い。魔力灯が少ないからだろう。
下から声がした。
「落ちるぞ」
ロイドだった。
「落ちません」
「森でも同じ顔で前に出かけた」
「……上がってこないんですか」
「いいのか」
「はい」
言ってから、セリカは自分の言葉に驚いた。
夜。屋根の上。男性と2人。
これはもしかして、恋愛小説でよくある状況ではないか。
まずい。何を話せばいい。
月が綺麗ですね、だろうか。だが今日は月が細い。嘘になる。
セリカが混乱している間に、ロイドは普通に屋根へ上がってきた。
そして、少し離れた場所に座った。
近すぎない。遠すぎない。
この人は本当に、距離の取り方がうまい。
「眠れないのか」
「少し」
「今日は濃かったからな」
「はい」
しばらく沈黙があった。
嫌な沈黙ではなかった。
「私は、しばらくここで学びたいです」
セリカは星を見ながら言った。
「王都では天才と呼ばれていました。でも、ここでは自分がまだ何も知らないと分かりました。悔しいです。ロイドさんにも勝てない。ゲンツ支部長にも、ロッソさんにも、バルドさんにも、ミゲルさんにも、たぶん勝てない」
「褒め言葉が荒いな」
「ちゃんと褒めています」
「なら受け取る」
ロイドは星を見た。
「俺たちは全員、ただ長くやってるだけだ」
「長くやれば、誰でもああなれますか」
「それは、ならない」
即答だった。
「続けるのは難しいからな。毎日少しずつやる。うまくいかない日もやる。誰にも見られなくてもやる。褒められなくてもやる。若いやつに抜かれてもやる。体が痛くても、やり方を変えてやる」
「……はい」
「それができるやつは、強くなる」
ロイドの声は穏やかだった。
「セリカには、できると思う」
まただ。
その一言が、すっと胸に入ってくる。
「そういうことを、簡単に言わないでください」
「悪かった」
「悪くは、ないです」
「どっちなんだ」
「⋯⋯分かりません」
セリカは小さく息を吐いた。
「私は、こういう時にどう返すのが正しいのか分かりません。王都では、褒められたら礼を言えばよかった。誘われたら断ればよかった。花をもらったら薬草として分類すればよかった」
「それは相手が泣きそうだな」
「はい、泣かれました」
「そうか」
「でも、ロイドさんに何か言われると、どうしたらいいか分かりません」
言ってから、セリカは自分の大胆さに青ざめた。
今のは、かなり踏み込んだのでは。
え、もしかして告白に近いのでは。
いや、告白ではない。
ただの状況報告だ。冒険者は情報共有が大事だから、問題ない。
ロイドは真面目に考えていた。
そして言った。
「困ったら、明日の朝も剣を振ればいい」
「…………」
「だめか」
「だめではありません。でも、たぶん今はそういう話ではありません」
「そうなのか」
「そうなんです」
「難しいな」
「あなたが難しくしているんです」
ロイドは困った顔をした。
セリカは少し笑ってしまった。
この人は、本当に分かっていない。こちらがどれだけ揺れているか。どれだけ言葉を探しているか。
でも、それでいいのかもしれない。
王都では、誰もがセリカに意味をつけた。
天才。美少女。高嶺の花。自分の隣に立ってほしい相手。
ロイドは違う。
まだ未熟な冒険者として。伸びる若手として。
セリカと飯を食べて、朝に共に剣を振る。
それが、今のセリカには心地よい空間だった。
「ロイドさん」
「なんだ」
「私は、3か月で必ずあなたに一撃入れます」
「今日、すでに袖をかすめてただろ」
「あれは一撃に入りません。ちゃんと入れます」
「あぁ、分かった」
「それで、その……」
セリカは喉を鳴らした。
心臓がうるさい。《銀爪王猿》の前に立った時より、ずっと緊張する。
「一撃入れたら、私と……」
何を言うつもりだ。食事? 訓練? 散歩?
王都の恋愛小説では、こういう時は舞踏会だ。
だが第七支部に舞踏会はない。
あるのは豆と肉だ。
「私と、ま、豆ではない食事をしてください」
言った。
言ってしまった。
セリカは耳まで熱くなった。
これが自分にできる精一杯だった。恋愛経験ゼロの天才魔剣士が、全力で踏み込んだ一撃だった。
ロイドは少し考えた。
「分かった。魚にするか」
「……はい」
「ラグル辺境の川魚はうまいぞお」
「⋯⋯はい」
「勝てたらな」
セリカは顔を上げた。
「絶対に勝ちます」
「楽しみにしてる」
ロイドはそう言って、また少し笑った。
セリカは今度こそ顔を隠した。
心臓がうるさい。星がやたら明るい。
屋根の上なのに、地面が少しふわふわする。
おじさんの笑顔が見れなかった。
これは恋なのだろうか。
分からない。
分からないが、悪くない。
■□■□■
翌朝から、セリカの素振りは倍になった。
ゲンツは笑った。
「急に気合いが入ったな」
「私はロイドさんに勝たなければならないので」
「いい目標だ」
「そして魚を食べます」
「ん?」
「魚です」
「そうか」
ゲンツは何かを察した顔をした。バルドも、ミゲルも、ロッソも、にやにやしている。
ロイドだけが、普通に木剣を構えていた。
「始めるぞ」
「はい!」
セリカは構えた。
辺境の朝は冷たい。支部は古い。
おじさんたちは鈍感で、地味で、努力家で、めちゃくちゃ強い。
王都本部の天才美少女だったセリカは、ここで初めて、自分がまだ新人なのだと知った。
悔しい。楽しい。胸が忙しい。
そして今日も、第七支部の裏庭に木剣の音が響く。
ざっ、とロイドが踏み込む。
セリカは笑った。
「今日こそ、一撃入れます!」
「来い」
「あと、魚は絶対に奢ってもらいます!」
「それは勝ってからだな」
「鈍感おじさん支部のくせに、そこだけ厳しい!」
セリカの突っ込みが朝の空へ抜ける。
おじさんたちの笑い声が重なった。
ラグル辺境冒険者ギルド第七支部。
王都では、おじさん支部と馬鹿にされる場所。
だが、セリカにとってそこは初めて自分を天才ではなく、冒険者として見てくれた場所だった。
そしてたぶん、初めて誰かを追いかけたいと思った場所でもあった。




