王都最強! 天才少女の研修先 〜え、全員おじさんでした〜
セリカ・レイヴェルは王都冒険者ギルド本部が誇る若手育成枠の1人だった。
19歳。
銀の髪に氷みたいな青い目を持ち、剣も魔術も扱える魔剣士で、同世代の冒険者相手なら負けたことがない。
王都では彼女が訓練場に姿を見せるだけで若手冒険者の背筋が伸びた。
模擬戦をすれば観客が集まり、依頼から戻れば何人もの若手が飲み物や手当てを口実に近づいてくる。
本人はそんな扱いを望んでいなかった。
むしろ迷惑だった。
勝手に褒められ、競われ、好意まで向けられる。
しまいには、ろくに話したこともないのに「セリカ嬢は俺を見ていた」と言い張る者まで出てきた。
そんな日々にうんざりしていたある朝、セリカは本部長室に呼ばれた。
「セリカ・レイヴェル。君には3か月、ラグル辺境の冒険者ギルド――通称『第七支部』で現場研修を受けてもらう」
「……第七支部――ですか?」
聞いたことはある。
王都の若手たちが馬鹿にしたような声で『辺境のおじさん支部』と呼んでいる場所だ。
平均年齢はかなり高く、討伐ランキングに名前が出ることも派手な功績を立てることも少ない。
若手が行きたがらないという話まで含め、第七支部について聞こえてくるのはそんな噂ばかりだった。
「あの、私は⋯⋯左遷されるのでしょうか」
「違う」
本部長は即答した。
「君は強い。強すぎるくらいだ。だが、強い敵を倒す力と全員を生きて帰す力は別物だ」
「……私にそれが足りないと?」
「ああ、足りない」
あまりにまっすぐ言われ、セリカは返す言葉を失った。
冒険者は本来自由業だ。
依頼を選ぶのも拠点を移すのも、パーティを組むのも本人の判断に任される。
ただし王都本部の『育成枠』は少し違う。
高品質な装備の貸与や王都訓練場の優先使用、高ランク依頼への推薦、指導冒険者からの講習といった支援を受ける代わりに、年に数度は本部が指定する研修を受けなければならない。
セリカは職員ではなく、あくまで冒険者だ。
それでも王都本部から将来のAランク候補として扱われている以上、研修を断れば育成枠を外される。
本部長は机の上に1枚の書類を置いた。
そこにはラグル辺境――第七支部の依頼記録が載っている。
討伐数は普通から少なめで、大型魔物の討伐も表彰もほとんどない。
そのまま下へ視線を動かしたところで、セリカの目が止まった。
―――――
依頼成功率:王国内最高。
同行者死亡数:過去10年で0人。
救助成功率:王国内最高。
―――――
「第七支部は地味で人も少ない。若手から見れば、年寄り冒険者たちのただの寄り合いに見えるだろう。だが、あそこの冒険者たちは全員を生きて帰すことだけは王都のどの支部よりうまい」
「全員を……生きて帰す?」
「そうだ。君は天才だ。だから一度、天才とはベクトルの違う強さというものをしっかりと見てこい」
そうしてセリカは王都から馬車に揺られ、ラグル辺境冒険者ギルド第七支部へ向かうことになった。
■□■□■
ラグル辺境冒険者ギルド第七支部は想像以上に地味だった。
建物は古く、看板も少し傾いている。
入口の扉は油が切れていて、開けるたびにギギギ――と嫌な音を立てた。
王都本部なら磨かれた床に整えられた受付があり、訓練場からは掛け声が聞こえる。何より若手冒険者たちの熱気があった。
ここにあるのは干した薬草の匂いとボロボロの木箱、古びた革靴の音くらいだ。
そして何より。
――全員、おじさんだった。
どこを見てもおじさん。
受付近くで腰を叩いている人も、掲示板の前で依頼票を眺めている人も、暖炉のそばで豆を煮ている人もおじさんだった。
目の前に立っている何だか冴えない男まで、やっぱりおじさんである。
セリカはこれほどおじさんの密度が高い空間が存在すること自体に少し混乱していた。
「ようこそ、ラグル辺境冒険者ギルド第七支部へ。支部長のゲンツだ」
「やはり支部長も⋯⋯?」
「……何か問題があるか」
「いえ。冒険者だけでなくギルド側まで徹底しているなと思いまして」
「何を徹底してるって?」
「何でもありません」
支部長ゲンツの眉が少しだけ上がった。
年齢は50そこそこだろうか。体は大きいものの、第一印象は腰痛持ちの近所のおじさんだった。
そのゲンツがセリカの顔ではなく足元を見る。
「嬢ちゃん、その靴、早く替えた方がいいな」
「……はい?」
「底が硬すぎる。ここらの森道だと足裏をやる。あれは痛いぞ」
最初の指摘がそれだった。
「私は王都本部から研修に来たセリカ・レイヴェルです。まずは手続きと今後の予定を――」
「それは後でいい。ちゃんと飯は食ったか?」
「食事……ですか」
「馬車で来たんだろ。若いのはすぐ強がって飯を抜く。腹が空いたまま森に入ると判断が鈍るぞ」
「あの……私は子どもではありませんよ」
「19だろ? 俺から見れば十分子どもだ」
すると暖炉のそばで豆を煮ていたおじさんが木皿を差し出してきた。
「……食え。豆と肉だ」
「挨拶より先に……いきなり豆と肉……?」
「豆が嫌いか」
「嫌いではありませんが、そういう問題ではありません」
思わず突っ込むと支部の中が少し静かになり、数人のおじさんが顔を見合わせた。
「おお……」
「突っ込みが速いな」
「さすが王都の子は違うな」
「……そこを評価しないでください」
セリカは眉間を押さえた。
王都なら初対面の若手冒険者たちはもっと緊張する。
女性冒険者として変な目で見られることも多かった。
顔で止まる視線。
胸元から腰や脚へ落ち、こちらが気づけば慌てて逸らされる視線。
あの湿った感じがセリカはとても嫌だった。
ここにいるおじさんたちは違う。
見ているのは靴や荷物、肩の力や腰の高さ。冒険者として必要なところばかりだった。
顔より靴。
胸より防具の詰まりで、美しさより呼吸。
色気より森で走れるかどうか。
その方がずっと楽なはずなのに、なぜか少しだけ腹も立つ。
ここでは自分がただの『子ども』として見られている気がした。
そう思った直後、セリカは自分でも戸惑った。
大人として、まして女性として見られたいわけではない。
王都では見られすぎて嫌だったくらいなのだ。
なら、これでいいはずなのに。
「あと嬢ちゃん」
ゲンツの声に顔を上げる。
「胸当て、合ってないぞ」
支部内が凍った。
セリカも凍った。
「…………は?」
「息を吸ったとき肩が上がっている。胸当ての内側が詰まり過ぎてるってことだ」
「み、見ないでください!」
反射的に声が出た。
ゲンツは本気で分からないという顔をする。
「見ないと分からんだろ。装備だぞ。そのまま辺境の森で3分以上動いてみろ。すぐ呼吸が浅くなるぞ」
「装備でもなんでもそこは胸です!」
「胸というより胸当てだな」
「同じ場所です!」
セリカは胸元を押さえた。
分かっている。
このおじさんは自分を異性として見ているのではなく、冒険者の装備や体の使い方を確認しているだけだ。
それが分かるからこそ余計に困る。
「だからといって、初対面でいきなり胸当てのサイズが合っていない話をするのはどうかと思います」
「……そうか。すまんかった」
ゲンツは素直に頭を下げた。
「でも直せよ」
「謝った直後に押し切らないでください」
豆を煮ていたおじさんまで真面目な顔で頷く。
「防具がきついと衝撃が直にくるぞ。さあ豆を食え」
「あなたも自然に参加してこないでください!」
「装備不良は早い方がいい。うちの娘もこの前、靴擦れを黙っていたら悪化させた」
「正しいこと……なんですが……」
「嬢ちゃん、怒ると腹が減っただろう。食え、豆だ。運動後に良い。塩多めだ」
「結局そこに戻るんですか」
おじさんたちはまったく悪びれない。
王都の若手たちのような熱っぽさはなく、自分と家族と今日の飯、明日の腰痛と森から生きて帰ることの方がよほど大事らしい。
それは安心する。
それなのに少し腹が立つ理由を、セリカはまだ説明できなかった。
■□■□■
昼食後、セリカは支部裏の訓練場へ案内された。
訓練場といっても王都のような立派な石造りではなく、踏み固められた地面と古い木杭が並ぶだけの広場だ。
そこでセリカは的についた傷に気づいた。
中心よりも少し横や足元、木杭の根元付近に多く集まっている。
「この的、中心を狙っていないのですか」
弓を持った細身のおじさんが眠そうな目で振り向いた。
「中心は敵がいてくれる場所だろ」
「……はい?」
「俺は敵が次に動く場所に撃つ」
さらっと怖いことを言われ、返答に困っているとゲンツが手を叩いた。
「さて、王都の天才の腕を見せてもらうか」
「……望むところです」
セリカは訓練場の中央に立った。
右手で魔導剣を抜いて魔力を通すと、刃に青白い光が走る。
王都ではこの光だけで歓声が上がった。
第七支部のおじさんたちは騒がない。
1人は豆をつまみ、1人は靴紐を結び直し、別のおじさんは斧の柄を布で拭いている。
――見ていなさい。
セリカは地面を蹴った。
速く、鋭く、一気に間合いを詰める。
前方の木杭を1本、2本、3本と斬り、切っ先を返して魔力を弾かせた。背後の的を撃ち抜き、最後は足を止めないまま半回転して青白い斬撃を飛ばす。
遠くの的が割れた。
王都ならここで大きな拍手が起きる。
第七支部でも一応拍手は起きた。
ぱちぱちぱち。
少ない。
しかも豆を食べながらだった。
「すごいな」
「速い」
「若いっていいなぁ」
「最後の光るやつ、きれいだったぞぉー……」
「感想がすごく雑です」
ゲンツは腕を組んだまま笑う。
「いや、本当に強い。同世代なら頭一つ抜けてるだろ?」
「それは当然です」
「――でも今のままなら死ぬな」
「……どういう意味ですか」
「ロイド」
ゲンツが呼ぶと訓練場の端で薪を割っていた男が顔を上げた。
背は高く、第七支部の中では若い方らしいが今年で40歳。
黒髪には少し白いものが混じり、くたびれた革鎧に古い剣を下げている。
セリカから見れば十分おじさんだった。
「少し見てやれ」
「俺でいいのか?」
「ここじゃお前が一番若いからな」
「それだけの理由?」
ロイドは困ったように笑った。
王都の若手のようにセリカの反応をうかがう笑みではなく、本当に少し困ったから笑っただけに見える。
なぜか目を合わせづらくなり、セリカは先に視線を外した。
「よろしく頼む」
ロイドは木剣を手に取った。
セリカも魔導剣を下げたまま礼をする。
「手加減は必要ですか」
「俺に聞いてるのか」
「はい」
「じゃあ最初だけ頼む」
周りのおじさんたちが一斉に俯いた。
肩が揺れている。
「笑いましたね?」
「笑ってない」
「完全に笑いましたよね?」
「始めろ」
ゲンツに促され、セリカは構えた。
相手は木剣。
こちらは訓練用とはいえ魔導剣で、速度も魔力量も自分が上だ。
一歩で間合いを詰めた。
剣先がロイドの肩へ届く。
そう思った瞬間、そこにいたはずのロイドが視界から外れた。
「え」
足元で地面が軽く鳴る。
気づいたときには手首へ木剣の腹が触れていた。
痛みはない。
それでも魔導剣は手から抜け、カン、カラカラカラ――と地面を転がっていった。
「今のは踏み込みが正直すぎる」
「……正直」
「強い敵には届く。でも長く生きてる魔物には読まれる」
「もう一度お願いします」
「いいぞ」
セリカは魔導剣を拾った。
今度は速度を変える。
右へ誘って左へ流し、魔力を一瞬だけ薄くしてから踏み込んだ。
王都の模擬戦でも実戦でも何度も勝ってきた動きだ。
ロイドは足をわずかにずらしただけだった。
剣が空を切り、次の瞬間には背中へ木剣が軽く置かれている。
「2回目は考えてることが体に出てた」
「顔ではなくて?」
「ああ。胸当ての動き方、膝の逃げ方、あとは尻だな」
「…………待ってください」
セリカの動きが止まった。
「今、見る場所が少しおかしくありませんでしたか」
「おかしくない。胸当ては呼吸、膝は踏み込み、尻は体が逃げたかどうかが出る」
「言っていることは正しいのに、聞こえ方が最悪です」
ロイドは本気で分からないらしい。
「そこを見ないと次が読めないからな」
周りのおじさんたちは黙っていた。
正確には全員目をつむり、うんうんと頷いていた。
「胸当てが締まりすぎると息が浅くなる」
「尻が残ると次の一歩が遅れる」
「膝は嘘をつかん」
「誰か1人くらい私の味方をしてください!」
王都の若手にじろじろ見られるのは嫌だった。
あの湿った視線ならすぐに分かる。
このおじさんたちの目にはそんなものがない。
ないのに胸当てや腰や尻まで当然のように戦闘材料として見てくる。
それはそれで逃げ場がなかった。
3回目、4回目、5回目と挑んでも結果は同じだった。
速さでも魔力でも勝っている。
剣の鋭さだって、おそらく負けていない。
それでも届かない。
ロイドは派手な技を使わず、魔力もほとんど見せない。
少しだけ立つ位置を変え、セリカが一番嫌なところへ木剣を置く。
それだけで攻撃が崩されていった。
10回を超える頃にはセリカも膝へ手をついていた。
「……なぜ当たらないんですか」
「俺が当たる場所に行かないからだな」
「それは答えになっていません」
「すまん。俺は説明が下手なんだ」
本気で困っている顔を見て、セリカは余計に悔しくなった。
ゲンツが笑いながら近づいてくる。
「嬢ちゃん、お前は強い。でも敵を倒す前提で動きすぎる」
「冒険者は敵を倒すものでしょう」
「倒すだけならな。依頼には守る者も逃がす者もいる。安全に帰る道も、次の日に残す体力もいる」
ゲンツは木杭を指で叩いた。
「お前の剣は一撃目が強い。二撃目も強い。でも三戦目では少し落ちる。負傷者を背負えばもっと落ちるし、雨が降れば足元も変わる。味方が泣けば判断も揺れる。そこまで入れて戦えているか?」
セリカは答えられなかった。
王都で言われてきたのは、速い、美しい、強い、天才という言葉ばかりだ。
足りないとは久しく言われていなかった。
「悔しいか」
「はい。悔しいです」
「ならお前は伸びる」
ゲンツは満足そうに頷いた。
「第七支部での課題だ。まずはロイドに一撃入れろ」
「研修期間の3か月で、ですか?」
「いや」
ゲンツは真顔になった。
「3年くらいか」
「研修期間を大幅に超えています!」
セリカの叫びにおじさんたちが笑った。
■□■□■
翌朝5時。
セリカは支部の裏庭に立っていた。
王都の訓練場なら、こんな時間でも何人かの若手がいる。
辺境の第七支部にそこまでの熱気はないだろうと思っていた。
甘かった。
昨日のおじさんたちはしっかり全員いた。
支部長のゲンツは腰に手を当てて屈伸し、バルドは木の枝に小石を吊るしている。
ミゲルは何かの草を噛みながら脈を測り、ロッソは丸太を肩に担いでいた。
盾役のダンは盾を抱えて坂道を上り、斥候のヨルンはいつの間にか木の上にいる。
昨日戦ったロイドはすでに素振りを始めていた。
ざっ、と足が動く。
ひゅ、と木剣が空を切る。
派手さも速さもないのに、何度繰り返しても動きがほとんど変わらない。
「それ、毎朝やっているんですか?」
「だいたいな」
「何回やるのですか」
「数えてない」
「なぜですか?」
「数えると終わった気になる」
セリカは返事ができなかった。
王都では何回振ったかを記録する。
魔力量も速度も命中率も数値にして、それを努力の証明にしてきた。
目の前の男は誰かに証明するためではなく、ただ毎朝剣を振っている。
「……気持ち悪いくらい努力家ですね」
「気持ち悪いは余計だな」
「すみません。でも、どうしてそこまで続けられるんですか」
ロイドは木剣を肩に置いて首と腰を回した。
こきこき、と音が鳴る。
「今、年齢を感じる音がしました」
「それはおじさんだからな」
「開き直らないでください」
「若い頃、俺より強いやつなんていくらでもいた。速いやつも派手なやつも、女に騒がれるやつもな」
「最後の情報はいりますか」
「おじさんになると過去の余計な話が増える」
「自覚はあるんですね」
「ああ」
ロイドは木剣の柄を握り直した。
「だから俺は毎日少しだけましになることにした。昨日より少し足を残す。昨日より少し息を乱さない。昨日より少し後ろのやつを帰せる場所に立つ」
「後ろのやつを……」
「強くなるっていうのは俺にはそういうことなんだ。自分が勝つためじゃなく、誰かを生きて帰すために今日も少しましになる」
セリカは何も言えなかった。
「まあ、おかげで若い子にはおじさん扱いされるが」
「それは事実です」
「だな。でも誰かが生きて帰れるなら、おじさんになるのも悪くない」
朝の光の中でロイドが少しだけ笑った。
――ずるい。
地味で冴えなくて、朝から首の音まで鳴るおじさんなのに。
今の一言だけは王都で見たどんな若い冒険者より格好よく聞こえた。
また胸のあたりが落ち着かなくなり、セリカは無意識に息を整えた。
「嬢ちゃん」
ゲンツが声をかけてくる。
「今日は初依頼だぞ」
「討伐系ですか?」
「迷い羊の捜索だ」
「…………羊?」
「そうだ。羊だ」
王都本部育成枠、天才魔剣士セリカ・レイヴェル。
辺境第七支部で最初に任されたのは迷い羊探しだった。
セリカは思わず空を見上げた。
「本部長、私は羊から何を学べというのですか」
「まずは羊の足跡の見方だな」
ゲンツが即答した。
「あなたに聞いたのではありません」
その日、セリカは羊を探すことになった。
■□■□■
依頼主の村は第七支部から歩いて2時間ほどの場所にあった。
村人たちは第七支部のおじさんたちを見ると明らかにほっとした顔をした。
「ゲンツさん、来てくれたんですね」
「ロイドさんもいるなら安心だ」
「ミゲルさん、うちの婆さんの膝を後で見てくれんか」
「バルドさん、昨日の夜、森の方で変な鳥が鳴いてたんだ」
王都の英雄を見るような熱狂ではない。
もっと日常に近い信頼がそこにはあった。
若手冒険者が憧れるのは華やかな英雄だ。
魔物を一撃で倒し、名を上げて褒賞を受ける。
この村の人々にとって第七支部のおじさんたちは、困ったときに名前を呼ぶ相手らしい。
ロイドは村の子どもに袖を引かれてしゃがみ込んだ。
「また熊出る?」
「まだ分からん。今日は羊を探す」
「ロイドさんなら熊も勝てる?」
「熊とは喧嘩しない方がいい」
「勝てるのに?」
「勝てても怪我する。怪我したら豆が食えない」
「……やだ」
「そうだろ」
なんだこの会話は。
強い弱いの話からどうして豆へ行くのか。
依頼内容は村の羊が4頭いなくなったというものだった。
柵は壊されておらず血もない。森の方へ羊の足跡だけが続いている。
「ただ迷っただけでは?」
荷運びのロッソが地面へしゃがみ込み、太い指で土をつまんだ。
「羊は迷った。でも迷わせたものがいる」
「分かるんですか」
「土が浅く削れてる。走って逃げた跡じゃない。じわじわ押された跡だ」
弓使いのバルドは枝の折れ方を確かめた。
「上も使ってる。木の上を渡るやつだ」
ミゲルは草を拾って匂いを嗅ぐ。
「《赤爪猿》の臭いが少し残ってるな。猿だけじゃない」
《赤爪猿》は村の周りで羊を追い回すような魔物ではない。
もっと奥の森に縄張りを持つ群れの猿型魔物で、金属を混ぜたような硬い爪は木の幹や革鎧まで裂く。
王都の訓練でも若手だけで遭遇したら、討伐ではなく撤退を選べと教えられる相手だった。
ゲンツがセリカへ目を向けた。
「分かるか?」
分からない。
ただの羊探しだと思っていた。
おじさんたちは足跡や土、枝、草の匂いだけで別のものの存在まで拾っている。
「《赤爪猿》が羊を森へ追い込んだ……?」
「一つはそうだろう」
「なぜ羊を?」
「餌にするだけなら、その場で襲う。追い込んで残してるなら、別の餌を誘ってる」
「別の餌……」
そこでセリカも気づいた。
「まさか⋯⋯人間ですか」
ロイドが頷いた。
「たぶん羊を探しに来た村人を狙ってる」
背筋が冷えた。
迷い羊の捜索。
地味だと思っていた依頼を放っておけば、人が死ぬかもしれない。
「行くぞ。まずは羊を見つける。村人は家から出させるな」
ロイドは古い剣を腰に差し直した。
「ついでに猿の巣の中まで見る」
「ついでの内容が重いです」
「辺境ではよくあることだ」
「魔物の巣に入るなんて、よくあってほしくないです」
文句を言いながら森へ入ると、おじさんたちの動きが変わった。
ロッソは大柄なのに足音がほとんどしない。
バルドは弓を構えていないのに木の上から目を外さず、ミゲルは足元の草を見ながら薬草と毒草、獣道まで拾っていく。
ゲンツはもう腰を叩いていなかった。
ロイドはセリカの少し前を歩く。
速すぎず遅すぎず、後ろの者が足を置きやすい場所を自然に選んでいた。
「ロイドさん。⋯⋯正直に教えてください。私は足手まといですか?」
「いや」
「ではなぜ私の歩きやすい場所を選んでくれているのですか」
「新人だからだ」
「私は新人ではありません。王都で――」
「《第七支部》では新人だ」
セリカは口を閉じた。
腹は立つ。
反論はできない。
「お前が強いのは知ってる。だから急がなくていい」
「⋯⋯分かりません」
「強いやつは強さで遅れを取り戻そうとする。この森ではそれで足を取られる」
また痛いところを突かれた。
セリカは唇を結び、ロイドの背中を見る。
英雄のように絵になる広い背中ではない。
革鎧は古く、肩には何度も直した跡が残っている。
それでも見失いたくない背中だった。
尊敬だ。
今はそういうことにしておこう。
「止まれ」
短い声で思考が途切れた。
前方の木の根元に羊の白い毛が絡み、その奥から小さな鳴き声が聞こえる。
「いた」
羊が2頭、木の間で震えていた。
怪我はないものの、動けないように蔓が絡んでいる。
セリカが踏み出しかけるとロイドの手が肩の前へ出た。
「待て」
「え、羊が」
「あれは罠だ」
次の瞬間、頭上から黒い影が落ちてきた。
――《赤爪猿》。
大人の人間より大きく、長い腕と赤い鉤爪を持つ森の魔物だ。
1体ではない。
枝が揺れ、3体、さらに奥に2体が見えた。
セリカは魔導剣を抜いた。
「私が――」
「右を頼む。切りすぎるなよ」
「切りすぎるな?」
意味を聞くより先に《赤爪猿》が突進してきた。
右へ出て青白い魔力を刃へ通し、一撃で猿の爪を弾く。
――倒せる。
踏み込もうとしたところでロイドの言葉が頭をよぎった。
――切りすぎるな。
セリカは刃を止め、猿そのものではなく腕だけを払った。
直後、背後の木から別の羊が落ちてくる。
「なっ……!」
あのまま全力の斬撃を放っていれば羊ごと巻き込んでいた。
「ロッソ!」
「おう!」
大きな荷紐が飛び、落ちる羊の体へ絡みついた。
地面へぶつかる寸前でロッソが引き止める。
続いてバルドの矢が猿ではなく足元の枝へ刺さった。
枝が折れて逃げ道を塞ぎ、ミゲルの白い粉を浴びた別の猿が鼻を押さえてよろめく。
ゲンツは剣すら抜かなかった。
「下がれ」
低い声が落ちた途端、猿の群れがわずかにひるむ。
セリカが知っている戦い方とは違った。
誰か1人が派手に倒すのではなく、全員で少しずつ状況を変えていく。
ロイドが前へ出た。
今度は木剣ではなく本物の剣だったが、抜く音すらほとんどしない。
《赤爪猿》の1体が跳びかかる。
ロイドは一歩だけ後ろへずれた。
剣が短く動いた。
次に見えたときには猿が地面へ落ち、動かなくなっている。
セリカにはどこを斬ったのか見えなかった。
残った《赤爪猿》たちが一斉に逃げ始める。
「追いますか?」
「追わない。今は羊と村人が先だ」
「でも逃がせばまた――」
「だから場所を覚える」
バルドが赤い布を結んだ矢を逃げる猿の近くの木へ撃ち込んだ。
「目印だ。巣の方向は取れた」
誰も倒した数を数えず、勝ったことにも興味を示さない。
必要なことを終えたら次へ進むだけだった。
依頼には倒すべき敵より先に、帰すべき命がある。
羊も村人も仲間も――。
「セリカ」
名前を呼ばれ、胸の奥が小さく跳ねた。
「はい」
「さっき止まれたのは偉いぞ」
「……え」
「全力で斬らなかった。あれで羊が助かった」
それだけ言ってロイドはまた前を向いた。
王都で何度褒められても動かなかったところが、その一言だけで熱くなる。
ミゲルが横から顔を覗き込んだ。
「お、熱か? セリカ嬢ちゃん、顔が赤いぞ」
「⋯⋯違います。戦闘後の魔力循環です!」
「はーん、若いな」
「若さで片づけないでください!」
セリカの声が森に吸い込まれていった。
■□■□■
羊4頭を無事に村へ戻した後、第七支部の一行は森の外れで休憩を取った。
村人たちは何度も礼を言い、セリカにも頭を下げてくる。
「若いのにすごいねえ」
「さすが王都から来た冒険者だ」
「第7の旦那衆が一緒なら安心だな」
第7の旦那衆。
王都では馬鹿にされているおじさんたちを、この村の人々はまったく違う重さで呼んでいた。
少し離れた場所ではロイドが剣の刃を布で拭いている。
セリカは迷った末、そちらへ歩いた。
「ロイドさん」
「どうした」
「なぜこれほど強いのに王都へ行かないんですか」
剣を拭く手が止まった。
「昔は行きたいと思ったこともある」
「では、なぜ?」
「俺は派手な手柄を取るのが下手だった。強い魔物を倒すより、逃げ遅れた子どもを拾ったり崩れた橋を見に行ったり、そういう依頼ばかり選んでいた」
「それは大事な依頼です」
「王都ではあまり目立たないけどな」
ロイドは布についた汚れを確かめながら続ける。
「若い頃は悔しかった。俺より後に冒険者になったやつが先に上がっていく。派手な技を覚えたやつが褒められる。俺はずっと地味だと言われた」
「……」
「それなら帰る力だけは負けないようにしようと思った。速いやつより遅くても間に合うようにして、天才が見落とすものを見るようにした」
剣が鞘へ戻った。
「気づいたときには⋯⋯おじさんになってた」
「おじさんになるまで努力したから……それでこんなに強くなったということですか?」
「強いかは分からん。ただまだ毎朝剣を振ってる。俺にはそれしかできないんだ」
胸の奥が詰まった。
天才と呼ばれることは誇りだった。
同時に重荷でもある。
期待され、勝って当然と思われる。
失敗すれば『天才なのに』と言われた。
目の前の男は天才だったから続けたわけではない。
認められない時期を越えて、それでも毎日積み上げてきた。
その結果、今のセリカよりずっと先にいる。
悔しい。
それ以上に少しかっこいいと思ってしまった。
そこまで考えて自分の思考に気づく。
今、かっこいいと思った――?
――いや、違う。
冒険者としての尊敬だ。師に対する敬意であって、恋愛的な何かではない。
「セリカ?」
「ひ、ひゃい」
変な声が出た。
「舌を噛んだか」
「噛んでいません」
「そうか」
「今のは、その、発声訓練です」
「変わった訓練だな。俺も見習おう」
「流してください!」
王都では氷剣のセリカなどと呼ばれ、クールで通してきたはずだった。
第七支部に来てから叫び、突っ込み、焦り、とうとう変な声まで出している。
氷剣を溶かしているのが魔物ではなく、おじさんたちなのが余計に納得できなかった。
■□■□■
その日の夕方、事態が急変した。
第七支部へ戻る途中、村の若者が息を切らして駆けてきた。
「ゲンツさん! 王都の冒険者が森に入った!」
ゲンツの顔から先ほどまでの緩さが消えた。
「何人だ」
「4人です。昼前に来て、《赤爪猿》の巣があるなら自分たちが討伐するって……第七支部の手柄を横取りするつもりかって笑ってました」
王都の若手冒険者。
もしかするとセリカにも見覚えのある者がいるかもしれない。
「止めなかったのか」
「止めました。でも俺たちは王都でCランクだ、おじさん支部にできることなら自分たちにもできるって……」
ゲンツが短く息を吐く。
「馬鹿どもが」
怒っている。
それでも見捨てるつもりがないことだけはすぐに分かった。
「……行くぞ」
「助けに行くんですか」
「冒険者が森で死にかけてる。助ける以外に何がある」
「馬鹿にされた相手でも?」
「馬鹿は死なせない。生きてれば反省もできる」
セリカは何も返せなかった。
再び森へ入る。
今度は羊探しではなく冒険者の救助だ。
奥へ進むほど《赤爪猿》の臭いと獣の血、折れた枝や焦げた葉が増えていく。
若手冒険者たちは戦ったらしい。
足跡は乱れ、逃げた跡も残っている。
「1人、足を引きずってる」
「猿の数が多い。巣を刺激したな」
「魔術を撃ちすぎだ。煙で逃げ道を潰してる」
「奥に寄せられてるな」
短いやり取りだけでおじさんたちは状況を組み上げていく。
そのとき、森の奥から悲鳴が上がった。
セリカの体が先に反応した。
飛び出しかけたところでロイドの手が短く上がる。
――止まれ。
今度は止まれた。
直後、目の前の地面から蔓が跳ね上がった。
そのまま進んでいれば足を取られていた。
「よく止まったな」
またその一言で胸が熱くなる。
「今は褒めないでください」
「悪い」
「悪くは……ありません」
「どっちだ」
「……もう分かりません」
後ろでミゲルが小さく笑った。
「青春だな」
「それだけは違います!」
緊張の中でどうしてそんなことを言えるのか。
おじさんという生き物は本当に意味が分からない。
それでも、その軽口で呼吸が少し楽になった。
若手冒険者たちは崖下のくぼみに追い込まれていた。
4人ともまだ生きていた。
1人は足を負傷し、もう1人は魔力切れ寸前。残る2人も傷だらけで顔色が悪い。
周囲の木の上には《赤爪猿》が群れていた。
さらに奥で大きな影が動く。
通常の《赤爪猿》よりはるかに大きく、背毛は銀色だった。
「《銀爪王猿》……」
森の群れを率いる上位個体。
王都で一流とされるBランク冒険者でも危険な相手だ。
若手の1人がこちらに気づいた。
「助けてくれ!」
その顔を見てセリカは思い出した。
王都で何度も話しかけてきた若手剣士だ。
第七支部行きを聞いた時には「辺境のおじさん相手ならセリカ嬢も退屈でしょう」と笑っていた。
今は泥だらけで泣きそうな顔をしている。
ゲンツが迷いなく指示を出した。
「ロッソ、負傷者を担げ。ミゲル、煙を。バルドは上を落とせ。ロイド、大猿を止めろ。セリカ」
「はい」
「若手4人の前に立て。お前の魔力は目立つ。猿の目を引け。ただし倒そうとするな」
「……守れ、ということですね」
「そうだ」
倒すな。
守れ。
数日前なら納得できなかったかもしれない。
セリカは崖下へ飛び降りた。
「セリカ嬢!」
「立てますか」
「足が……」
「では座ったままでいいです。私の後ろから出ないでください」
魔導剣へ青白い魔力を通すと《赤爪猿》たちの目が一斉にこちらへ向いた。
戦える。
怖くもない。
ただ今日は背後に守る者がいる。
いつものように前へ出れば、その分だけ後ろが空く。
「……来なさい」
木々から猿が降ってきた。
セリカは斬り込まず、弾いて払い、押し返す。
全力なら倒せる相手でも、魔力を広げすぎれば背後の負傷者を巻き込む。足を動かしすぎても守る場所が空く。
敵を倒すよりずっと難しかった。
「セリカ嬢、俺も――」
「動かないでください!」
強く言い切った。
「今のあなたたちは守られる側です」
相手の自尊心を気にしている場合ではない。
今は生きて帰すことだけ考えればいい。
上からバルドの矢が飛び、猿の指先を正確に射抜く。
ロッソは負傷者を1人ずつ担ぎ出し、ミゲルの白煙が猿の鼻を狂わせた。
ゲンツも群れが抜けようとする場所を潰していく。
その向こうでロイドは《銀爪王猿》と向かい合っていた。
巨大な腕だけでロイドの胴ほどある。
牙を剥き、地面を叩くたびに土が跳ねた。
ロイドは剣を下げている。
構えていないように見えるのに《銀爪王猿》は踏み込めない。
大猿が吠えた。
木々が揺れる。
先に動いたのは大猿だった。
巨体が一気に距離を詰め、腕を振り下ろす。
まともに受ければ人間の体など簡単に砕ける。
ロイドは逃げず、一歩だけ前へ出た。
剣が短く光る。
それだけで大猿の巨体がわずかに傾いた。
踏み込んだ前足の支えが崩れている。
次の一歩で懐へ入り、もう一度剣が動いた。
大猿の腕から力が抜ける。
切り落としたのではない。動きを支える筋だけを断っていた。
苦し紛れに大猿が体を回す。
その進路へロッソの投げた太い縄が落ち、バルドの矢が縄を木へ縫い付ける。
ゲンツの斧が地面へ食い込み、残った足場を崩した。
全部が繋がっていた。
その中心へロイドが最後の一歩を踏み込む。
剣先が《銀爪王猿》の首筋で止まった。
大猿の目から戦意が抜け、巨体がゆっくり崩れ落ちる。
セリカは息をするのも忘れて見ていた。
とんでもなく強い。
それでも誰も勝ち誇らない。
ロイドが最初に振り返って確かめたのは倒した敵ではなかった。
「全員いるか」
セリカの喉の奥が熱くなる。
「います!」
自然と声が大きくなった。
「負傷者4人、全員生存! こちらも大きな怪我はありません!」
「よし。帰るぞ」
「はい!」
■□■□■
第七支部へ戻った頃には夜になっていた。
救助された王都の若手たちは医務室で手当てを受け、全員命に別状はない。
出発前とはまるで違う顔で、おじさんたちへ頭を下げていた。
「すみませんでした」
「第七支部のおじさんたちを馬鹿にして……」
「俺たち、何も見えてませんでした」
ゲンツは腕を組んだ。
「反省は明日でいい。今日は飯を食って寝ろ」
「でも……」
「生きて帰った日は飯を食う。それが先だ」
また飯だ。
今度はセリカも突っ込まなかった。
たぶん本当にそうなのだ。
食堂には豆と肉の煮込みが並んだ。
また豆と肉である。
「第七支部の料理はこれしかないのですか」
セリカが言うとロッソが真顔で答えた。
「今日は芋も入ってる」
「違いがそれ!」
「ごちそうだぞ」
「否定はしませんけど」
食堂に笑いが起きる。
一口食べる。
悔しいことにおいしかった。
隣へロイドが座ってくる。
「肩、大丈夫か?」
「かすっただけです」
「後でミゲルに見せろ」
「大丈夫です」
「……見せてみろ」
声は強くないのに逆らいにくい。
「……はい」
素直に返事をした自分に気づき、また顔が熱くなる。
「ロイドさん」
「なんだ」
「私、変ですか」
「変だな」
「即答しないでください!」
「いや、強いのに変なところで焦る。変だ」
「そこまで具体的に言わなくてもいいです!」
ロイドは少し考えた。
「でも悪くない」
食堂の音が遠くなった気がした。
悪くない。
たったそれだけなのに耳へ残る。
王都で美しいと言われても、天才と言われても、こんなふうにはならなかった。
「どうした? 熱でもあるのか」
「豆が熱いんです!」
「それ、もう冷めてるぞ」
「こ、心の豆が熱いんです!」
言った瞬間、自分でも何を言っているのか分からなくなった。
食堂が静まり返り、次の瞬間にはおじさんたちが一斉に吹き出す。
「心の豆!」
「王都の子は詩的だな!」
「青春だー!」
「違います! 今のは忘れてください! 全員、記憶から消してください!」
セリカは真っ赤になって叫んだ。
王都本部育成枠の天才。
氷剣のセリカ。
その呼び名に似合う冷静さは第七支部へ来て数日でかなり危うくなっていた。
■□■□■
その夜、セリカはギルド支部の屋根の上にいた。
どうしても眠れなかった。
辺境の空は王都より星が多い。
魔力灯が少ないからだろう。
下から声がした。
「落ちるぞ」
ロイドだった。
「落ちません」
「森でも同じ顔で前に出かけた」
「……上がってこないんですか」
「いいのか」
「はい」
答えてから急に意識した。
夜の屋根の上で男と2人。
しかも相手は、最近こちらの心臓をやたら忙しくさせるおじさんだ。
何を話せばいいのか考えているうちにロイドは普通に屋根へ上がってきた。
少し離れた場所に座る。
近すぎず遠すぎず、落ち着ける距離だった。
「眠れないのか」
「少し」
「今日は濃かったからな」
「はい」
しばらく沈黙が続いた。
不思議と居心地は悪くない。
「私は、しばらくここで学びたいです」
セリカは星を見ながら言った。
「王都では天才と呼ばれていました。でもここへ来て、自分がまだ何も知らないと分かりました。悔しいです。ロイドさんにも勝てない。ゲンツ支部長にも、ロッソさんにも、バルドさんにも、ミゲルさんにも……たぶん勝てない」
「褒め言葉が荒いな」
「ちゃんと褒めています」
「なら受け取る」
ロイドも星を見上げた。
「俺たちは全員、ただ長くやってるだけだ」
「長くやれば誰でもああなれますか」
「それはならない」
即答された。
「続けるのは難しいからな。うまくいかない日もやる。誰にも見られなくても、褒められなくても続ける。若いやつに抜かれたらやり方を変えて、体が痛くなったら続けられる形を探す」
「……はい」
「それができるやつは強くなる」
ロイドの声は穏やかだった。
「セリカにはできると思う」
また胸の奥へまっすぐ入ってきた。
「そういうことを簡単に言わないでください」
「悪かった」
「悪くはないです」
「どっちなんだ」
「⋯⋯分かりません」
セリカは小さく息を吐いた。
「私はこういう時にどう返すのが正しいのか分かりません。王都では褒められたら礼を言えばよかったし、誘われたら断ればよかった。花をもらったら薬草として分類すればよかったので」
「それは相手が泣きそうだな」
「はい。泣かれました」
「そうか」
「でもロイドさんに何か言われると、どうしたらいいか分からなくなります」
言った後で心臓が跳ねた。
かなり踏み込んだ気がする。
ロイドはしばらく真面目に考えていた。
「困ったら明日の朝も剣を振ればいい」
「…………」
「だめか」
「だめではありません。でもたぶん今はそういう話ではありません」
「そうなのか」
「そうなんです」
「難しいな」
「あなたが難しくしているんです」
ロイドが困った顔をする。
セリカはとうとう笑ってしまった。
この人は本当に分かっていないらしい。
それなら今はそれでもいい気がした。
王都では天才や美少女、高嶺の花といった呼び名が先に立ち、セリカ本人よりも周囲が勝手に意味をつけてきた。
ロイドは違う。
まだ未熟な冒険者として見て、飯を食べて、朝になれば一緒に剣を振る。
今のセリカにはその距離が心地よかった。
「ロイドさん」
「なんだ」
「私はあと3か月で必ずあなたに一撃入れます」
「今日すでに袖をかすめてただろ」
「あれは一撃に入りません。ちゃんと入れます」
「あぁ、分かった」
「それで、その……」
喉が鳴った。
《銀爪王猿》の前に立った時より緊張している気がする。
「一撃入れたら、私と……」
何を言えばいい。
食事か。訓練か。散歩か。
第七支部で一番自然なのはたぶん食事だ。
「私と、ま、豆ではない食事をしてください」
言ってしまった。
耳まで一気に熱くなる。
ロイドは少し考えた。
「分かった。魚にするか」
「……はい」
「ラグル辺境の川魚はうまいぞ」
「⋯⋯はい」
「勝てたらな」
セリカは顔を上げた。
「絶対に勝ちます」
「楽しみにしてる」
ロイドがまた少し笑う。
今度こそセリカはまともに顔を見られなかった。
胸はうるさいし、星までいつもより明るく見える。
これが恋なのかどうかはまだ分からない。
でも、もう全部を否定する気にはなれなかった。
■□■□■
翌朝からセリカの素振りは倍になった。
「急に気合いが入ったな」
ゲンツが笑う。
「私はロイドさんに勝たなければならないので」
「いい目標だ」
「そして魚を食べます」
「ん?」
「魚です」
「そうか」
ゲンツが何かを察したような顔をした。
バルドもミゲルもロッソもにやにやしている。
ロイドだけがいつも通り木剣を構えた。
「始めるぞ」
「はい!」
セリカも構えた。
辺境の朝は冷たく、支部は古い。
そこにいるおじさんたちは鈍感で地味で、毎日努力を続けていて、めちゃくちゃ強い。
王都本部の天才だったセリカはここへ来て初めて、自分がまだ新人なのだと知った。
それが悔しいのに、今は少し楽しい。
今日も第七支部の裏庭に木剣の音が響く。
ざっ、とロイドが踏み込んだ。
「今日こそ一撃入れます!」
「来い」
「あと魚は絶対に奢ってもらいます!」
「それは勝ってからだな」
「鈍感おじさん支部のくせに、そこだけ厳しい!」
セリカの突っ込みが朝の空へ抜け、おじさんたちの笑い声が重なった。
――ラグル辺境冒険者ギルド第七支部。
王都ではおじさん支部と馬鹿にされる場所。
セリカにとっては初めて、天才という肩書きより先に1人の冒険者として見てもらえた場所だった。
そして、今ではもう少しだけ長く誰かの背中を追いかけてみたいと思える場所にもなっていた。




