結婚するなら最低限の敬意は払いましょう。できないならこちらにも考えがあります
「レジナ。縁談が決まった。相手は有名なエアハルト侯爵の嫡男だ」
「はい。お父様」
ここはゼーエン王国。その中のヴェルデ伯爵家の執務室だ。
淡々と喜びも何もなく、結婚を言い渡された女性――レジナ・フォン・ヴェルデ――も感情を波立たせることなく頷く。
その人形のような無表情も、ここまでの流れを考えれば当然のこと。
相手――ディック・フォン・エアハルト――は社交界では有名な女嫌いだった。
今まで全く結婚なんて興味なさそうだった彼が、急に結婚相手を探し始めた。
その理由は彼の今の立場のせいである。
彼は齢30歳だ。王城で役職につき、将来的には国王の右腕にもなれるのではないかと噂されていた。
しかし難点が、先ほども言ったように独身であることだ。そのせいで出世が思うようにできていないらしい。
当然と言えば当然だ。彼くらいの歳で独身など甲斐性がないと思われても仕方がない。
だからこそ、結婚をしてしまえば出世が約束されたようなもの。
そのために、早急に結婚相手を探しているという噂が社交界に流れているのだ。
最初は同じ侯爵家や公爵家で令嬢を探していたようだが、女嫌いだと言われている人間に、誰が嫁ぎたいと思うのか。難航する嫁探しに白羽の矢が立ったのが、レジナということだ。
レジナの父も、深いため息を吐く。家のことが無ければ、こんな話を受けるはずもなかった。
ただ、ヴェルデ伯爵家しか、年頃で婚約者がいない高位貴族の令嬢がいなかったのだ。
エアハルト侯爵もあまりの見つからなさに、痺れを切らしたように強引に進めたのだから、呆れでもう何も言えない。
だからレジナはヴェルデ伯爵家を守るために、その縁談を受け入れたのだ。断れば、ヴェルデ伯爵家に傷がつきかねない。
「私の手腕がないばかりに……レジナ、お前には辛い人生を歩ませてしまう。本当にすまない」
「謝らないでくださいませ、お父様。仕方のないことです。それにお母様にも相談しまして、幾つかのテストをしようと思っていますの」
「テスト?」
「ええ。政略結婚ですから愛など求めておりません。あのエアハルト様であるなら、なおさら。私が求めるのは平穏な生活。お互い最低限の敬意が必要です。それすらできないのであれば、私にも考えがありますから」
「……本当にお前は賢い。私の自慢の娘だ。エアハルト侯爵のことが無ければ、何倍も良い男がいたであろうに」
「私の方は年齢が近い殿方が何人もいましたものね」
そう。レジナは別に相手がディックである必要はどこにもない。彼女には歳が近い令息が多くいたのだから。
それを相手は分かっているのか。これからおのずと分かることだ。
◇◇◇
そしてあっという間に結婚式の日になった。
この日まで、レジナはディックと顔合わせをしていない。
それが意味することを、レジナはキチンと理解していた。
(このドレスも随分古い型だわ。ある意味ここまで潔いと楽ね。毛ほども期待する必要なんてないわ)
式場の準備も、ドレスもディックが用意した。それが結婚の条件だった。
式場は立派なものだが、それに反比例するようにドレスはみすぼらしい。逆に良くこんなドレスを見つけてきたなと、感心するくらいだ。
レジナの美しい体だからこそ、まだ見れる様相になっているだけだ。
ドレスが貧相なので、侍女たちが必死に髪や化粧を整えてくれたおかげでもあるだろう。
彼女たちはエアハルト侯爵家の侍女たちだ。初めて会ったというのに、心配そうな視線を受けているので、もしかしたらディックに嫌な目にあわされているのかもしれない。
「奥様を美しく着飾ることが出来て光栄です」
「ありがとう」
「光に煌めくプラチナブロンドのお髪、吸い込まれそうな青い瞳。本当にお美しいです」
「ふふ。褒めても何も出ないわよ?」
侍女たちの言葉は本物だ。エアハルト侯爵の件もあり、警戒していたけれどこの分なら心配なさそうだ。
そして同じ建物内にいるはずなのに、ディックは会いに来ない。もうこれは確定だ。
レジナは開ける必要もなかった心の扉を、頑丈に閉じる。
そうこうしているうちに、式の時間になった。
父のエスコートを受け、ヴァージンロードを歩く。
先にいるのは、名ばかりの夫となるディック・フォン・エアハルト。黒髪を撫でつけ、髪色よりも深い黒曜石の瞳は、殺気さえ放っているようだ。
なんともまあ、見事な仏頂面だ。レジナは思わず笑いが込み上げる。まだヴェールに顔が覆われていて良かったと思う。
父はそんなレジナを見て、むしろ安心したようだった。
ディックにエスコートが変わる。その時点で、こちらを気遣いもしないエスコートに、また笑いがこみ上げる。
2人で神父の前に立つ。
「――病めるときも健やかなるときも、共に支えあうことを誓いますか?」
「ああ」
「誓います」
定型文に対し、何の感情も込めずにレジナは答える。
そんなもの、相手にその気がなければ始まることなどないのだから。レジナが歩み寄る必要はない。
「では誓いのキスを」
神父のその言葉に、ディックはレジナのヴェールを上げる。
ディックの唇は近づいても、レジナに触れることはなかった。
「……それでは、今この時より、夫婦となった二人に祝福を」
さすが神父。ぎりぎり触れていないのを見ているだろうに、それを表に出すことなく式を進めた。
レジナは今度こそ、笑みを隠さない。
それは嘲りの笑みだった。
そんなレジナの笑みをどう取ったのか、ディックはふんと鼻を鳴らす。
2人の空気と正反対の、盛大な拍手が式場を包んでいた。
◇◇◇
結婚初日の夜。即ち初夜であるが、レジナは何も準備をすることなく寝る準備をしていた。
理由は簡単。誓いのキスさえできない男が初夜なんて出来るわけもないからだ。ディックの女嫌いは相当なものなのだろう。
そうでなければ、家名に傷が付くようなことをするはずもない。
新たな自宅となるエアハルト侯爵邸に入れば、使用人や夫人から手厚い歓迎を受けた。
不幸中の幸いというべきか、エアハルト侯爵夫人はとても良い人だった。義母となる人は2人の暴走を止められなかったことを謝罪された。その声音、表情、仕草から心からの謝罪であると、レジナは判断した。
(夫人は私の味方になってくれそうね。そのためにも、夫人の懐へ入れるように立ち回らないと)
とはいえ、既に歓迎ムードなのでそこまで心配する必要は無さそうだ。
こんなに素敵な母親がいて、どうしてあんな風に育ってしまったのか、まったくもって疑問である。
侍女たちも初夜の準備ではなく寝る準備を進めているあたり、ディックがこの部屋に訪れることはないと考えているのだろう。
案の定、ディックがレジナの部屋を訪れることはなく、レジナはぐっすり眠ることが出来たのだった。
次の日。朝食でようやくディックとまともに会話することになった。
「おはようございます。侯爵、旦那様。そして夫人」
「……」
「おはよう、レジナ。よく眠れたかしら?」
「はい。侍女たちが気遣ってくれたおかげです」
とはいえ、最初はまず当主夫妻への挨拶も大事である。ディックの挨拶がないのは想定内なので、気にすることなく夫人と挨拶を交わす。
ちなみにエアハルト侯爵もレジナの挨拶を無視している。見た目も似ていることもあり、この親にしてこの子ありかと納得してしまった。
夫人に示された席に座ると、朝食が運ばれてきた。
レジナの食事は、ディックたちと相違ない。味も問題なく、本当に問題は侯爵とディックなのだろう。
食事中は静かだったが、一通り食べ終わるとディックが口を開く。
「俺はこれから王城に行く。くれぐれも余計なことはするな」
「はい。承知いたしました」
ただ従順に頷くレジナに、ディックは片側の眉根を上げる。
「なにか?」
「……いや」
初めて目が合ったのに、すぐに視線を逸らされる。
けれどそれ以上踏み込むことなく、ディックは去ろうとする。
「旦那様」
そんなディックに、レジナは呼び止める。
しかしディックは、話しかけられたことが不愉快ということを隠しもせずため息を吐いた。
「……なんだ、俺は忙しい」
「私たちは夫婦となりました。お互いのために、お互いを知っておくことは肝要かと。つきましては5分でも構いませんので、一日のうちにコミュニケーションをする時間を作っていただきたいのです」
「……話を聞いていたか? 俺は忙しい。妻になったからと言って、お前が俺の時間を奪っていいものではない。調子に乗るな」
「ちょっとディック。貴方その態度はないわ。貴方が結婚すると言い出したのでしょう? それなら結婚してくれたレジナに歩み寄りを見せなさい」
にべにもないディックに、声を荒らげたのは夫人だった。
けれどディックはふんと鼻を鳴らす。まるで実の母を見下すように。
「母上は、何をおっしゃっているのか。こいつが望んで結婚を申し出たのだ。俺のような人間と結婚できただけありがたいと思ってほしいな」
「ディックの言う通りだ。こちらが譲歩する必要はない」
「貴方まで……」
侯爵の同意を得られたことで、ディックは満足げに笑う。
そしてもうレジナを見ることなく、ディックは部屋から出ていった。
その時のレジナの表情を見ていれば、まだ良かったのに。
◇◇◇
レジナは、エアハルト侯爵夫人とともに執務に励んでいた。
ディックがどう思っていようが、レジナは将来エアハルト侯爵夫人となる。そのための引継ぎだ。
侯爵夫人としての知識を吸収しようと集中するレジナに、夫人は暗い声で言う。
「ごめんなさいね」
「夫人が謝罪されるようなことはありません」
「いいえ。2人の暴走を止められるのは、わたくしだけだったのに」
「……」
レジナは夫人の方に向き直る。その表情は話の内容にそぐわないほど朗らかに笑っていた。
「では夫人。一つお願いが」
「お詫びということですね。わたくしにできることなら、何でもしましょう」
「……お義母様と呼んでもよろしいでしょうか?」
「……!」
レジナの言葉に、夫人は大きく目を見開いた。
そしてレジナに笑顔を返す。
「嬉しいわ。それにしてもディックは馬鹿ね。こんなに素敵な妻を、理解する気すらないなんて」
「ふふ。でもこうしてお義母様と縁を持てたことは、とても幸いなことです」
「わたくしもよ。……ねぇ。一つ良い案があるのだけれど」
「なんでしょうか?」
「――」
夫人がレジナの耳元で囁く。
全てを聞き終わって、レジナは笑う。まるで無垢な少女のように。
「とても良い話ですね。ところで、こういう考えもありますが、どうでしょうか?」
◇◇◇
「おい、お前」
「……なんでしょうか?」
棘のある言葉に、レジナはゆっくりと振り返る。
そこには仏頂面をしたディックが立っていた。
溢れる怒気に、けれど臆することなく向き合うレジナ。
結婚して半年。ろくな会話もないが、顔を合わせるたびに同じような表情をしていればもう慣れる。
「忘れたのか? 余計なことはするなと伝えたはずだが」
「ええ。余計なことはしておりません」
「口答えするな。ここ最近、屋敷の様子が変わった。お前が来てからだ」
「どういう意味で変わったのでしょうか?」
「とぼけるな‼」
レジナはこれみよがしにため息を吐く。
「旦那様は貴族の妻の仕事をご存じですか?」
「は?」
「私は次期エアハルト侯爵家の女主人として、動いているのです。この家がより良くなるよう、使用人の管理や屋敷の管理をするのが役目。ええ。空気は変わったでしょう。何故なら私が将来のエアハルト侯爵家のことを考えて動いておりますから。そこまで言わせていただたいて、もう一度お伺いします。どういう意味で変わったのでしょうか?」
「……」
「別に私をどう思っていようが自由です。しかしその色眼鏡で見続ければ、このエアハルト侯爵家は発展しないでしょう。それでも良ければ、どうぞ私を地下牢にでも閉じ込めればよろしいです」
「俺は……」
「お話は以上でしょうか? 失礼します」
レジナは優雅にカーテシーをして、その場から立ち去った。
その後からだろうか。ディックの様子が変わったのは。
半年の間、ほとんど会話なんてなかったのに、ディックは時間を見つけてはレジナに話しかけてくる。
「おい」
「なんでしょうか?」
「今度の夜会、お前も参加しろ」
「急にどうされたのですか? 以前のお話では、そもそも夜会も出席しないというお話でしたが」
「……気分が変わったんだ」
レジナは心の中で深くため息を吐く。
けれどレジナにとっても、損ばかりではない。
「分かりました」
「ふん」
これで話は終わりとばかりに、ディックはどこかに行ってしまう。
夜会に参加するならば、これで会話が終了するのはおかしい。やるべきことはたくさんあるのに。
それを分かっていないのか、あえて恥をかかせるためにしているのか。
どちらもあり得そうで笑ってしまう。
とりあえず夫人に相談しようと、レジナは歩き出した。
幸いにも夫人がすぐに時間を取ってくれた。早速、レジナが事のあらましを伝える。
「――ということで、いかがしましょう?」
「全く、本当にディックは……。仕方ありません。わたくしの方からも聞いてみます」
「ありがとうございます」
夫人のお陰で、ドレスの件はどうにかなった。どうやらドレスのことは頭になかったらしい。
少し慌てた様子で職人を手配していたらしい。
けれどドレスの相談はなく、採寸だけしたらさっさとレジナは追い出された。
その場に残った夫人曰く、今までにない真剣さでドレスを選んでいたそうな。
今までからの変化に、背筋に寒気が走った。これは早急に対策しよう。ちょうど夜会もあることだし、色々やれることはあるだろう。
◇◇◇
レジナは今まで社交界に出させてもらえなかったが、今までの教育のお陰で問題はなかった。
ちなみにディックが選んだドレスは、全くもってレジナの好みではない。
閑話休題。
事前に頭に入れたエアハルト侯爵家の関係図を基に、レジナはたくさんの人と会話をした。時折ディックと距離を取り、相手と会話をすることもあった。
エアハルト侯爵家自体は影響力が強いので、挨拶にやってくる人達が多い。
挨拶の内容はありきたりなものだけれど、ほとんどの人はレジナとディックに挨拶に来るときに、気遣わしげな視線をレジナに送る。
その視線を受け止め、レジナは嫣然と微笑む。
男女問わずレジナの笑みに見惚れるような様子に、好感触を感じるレジナ。
しかし暫くして、ディックが話を切り上げるようになった。
その切り上げ方はどこか不自然だ。もっとコミュニケーションを取れば、エアハルト侯爵家のためになるというのに、何を考えているのかレジナには理解できなかった。
「旦那様、どうされたのですか?」
「……いや」
試しに理由を聞いてみるも、口をモゴモゴさせるだけで明確な答えは得られなかった。
「体調が悪いのでしたら帰りましょう。そうでないのなら、エアハルト侯爵家のために動いてください」
「……大丈夫だ」
ディックの答えを聞いて、レジナは再び挨拶を再開させることにした。大丈夫かと思いつつ、笑顔を振りまく。
その時、懐かしい声がレジナの鼓膜を揺らした。
「レジナ。……いや、レジナ夫人。お久しぶりです。エアハルト侯爵令息、お初にお目にかかります。ネットと申します」
そこにいたのは、レジナと仲の良かったネット伯爵令息だった。
ディックは何故かネットの挨拶を無視しているので、レジナは取り繕うように会話をする。
「ネット様。本当にお久しぶりです。伯爵もお元気ですか?」
「ええ。レジナ夫人が突然ご結婚されたので、とても驚いていました」
「そうですね。急に決まったことですので、報告が遅れてしまったのです」
「おい」
「何でしょうか?」
2人で会話していると、突然ディックが割って入る。
その声はいつもより低く、怒気を孕んでいる。
急にどうしたと視線を向けると、ディックはネットを睨んでいた。
そのことにレジナが気がつくと同時に、腰に手を回されて強引に引き寄せられる。
「旦那様、痛いです」
「……」
あまりの強引さにレジナは苦痛を訴えるが、ディックは無視する。
身勝手さにレジナの心が騒めき、少し強めにディックの体を押す。思ったより力が入ったのか、少し驚いた様子でディックが離れる。
「申し訳ありません、ネット様。旦那様は体調がよろしくないようです。また今度お話ししましょう」
「分かりました。エアハルト侯爵令息、お体ご自愛下さい。レジナ夫人も、今日のことは父上に話しておきましょう」
「ええ。伯爵によろしくお伝えください」
ディックは結局、ネットと言葉を交わすことはなかった。
レジナはディックの腕を引く。
「旦那様、帰りましょう」
「……」
それに無言でディックは歩き出す。
相変わらず、レジナの歩調など考えていないような足取りだ。
無言のまま馬車に乗り込み、そのまま屋敷へ向かう。
馬車の中では重たい沈黙が続いていた。しかしせっかくの社交を潰されたレジナは、慰めの言葉などかけない。
どう考えても、先ほどのディックは礼儀に欠いていた。体調不良など、その場の方便だ。何を考えているか理解できない。
ネットの家は、ここ数年で大きくなっているのだ。パイプを繋いでおくに越したことはないのに。
無言のまま屋敷に帰り、レジナも部屋に戻って休もうかと考えていると、前を歩いていたディックが振り返る。
「……体調が悪いのでしょう? すぐにお休みされたほうが良いかと思います。それでは」
「待て」
「なんでしょうか?」
「……今後、あの男とは会うな」
「何故でしょうか? ネット様の家の影響力を考えれば、お近づきになるのは悪いことではありません」
「命令だ」
「では旦那様はネット様と良好な関係を築けるのですか? 挨拶すらしていませんでしたが」
ディックは苛立ったように髪をかき乱す。
「あいつ、お前しか見ていなかったぞ」
「当然では?」
「は?」
レジナの言葉に、ディックは固まる。
「挨拶を無視されたのに、どうしてそちらに視線を向けないといけないのでしょう。それなら挨拶を返してくれた相手を見るのが当然では?」
「……」
「今度お会いする時は、謝罪の言葉を準備した方が良いかと思います。特に私抜きでこれからも交流を持つのであれば、あのような態度、いくら旦那様でも不興を買って当然ですから」
言いたいことを言って、レジナは先に部屋へと戻った。
無言だったディックを思い出すと言い負かすことが出来たようで、少しばかり胸がスッとする。そのいい気分のまま、レジナは寝支度を終え、ベッドにもぐりこんだのだった。
◇◇◇
それからディックは、今までにないくらいにレジナを構うようになった。
レジナからすれば、迷惑この上ない。何せ仕事が滞ることもあるのだ。
夫人に相談して、少しの間落ち着くけれど、しばらくするとまた構い出す。そんなことを繰り返して、気づけば3年が経とうとしていた。
そんなある日。
「おい。今日の夜、空けておけ」
「分かりました」
朝食の時、ディックは唐突にレジナに言った。
またかと思いつつも、今日はレジナにとっても都合がいい。
頷きつつ夫人に視線を送ると、夫人は笑って頷き返してくれる。この3年で夫人は完全に、レジナの味方になってくれた。
今日が運命の日になるだろう。
そう思いつつ、レジナは今日の予定を確認する。ある予定を確認して、少しだけ眉根を寄せた。
そして夜。レジナはなんとディックの寝室に呼ばれた。
今までお互いの寝室に行ったことなど無かったのに、どういう風の吹き回しだ。
何を企んでいるのかと疑いつつ、レジナはディックの寝室へ入った。
ディックは窓際に立っている。
「旦那様、ご用は何でしょうか?」
「……今日は、結婚して3年目の日だな」
「……そうですね」
まさかディックが覚えているなんて思わず、レジナは驚いてしまう。
しかし、驚きはそれだけでは終わらなかった。
「そして、あいつも結婚したな」
「ネット様のことですね。せっかくの結婚式に行けなくて残念です」
いけなかった理由は目の前の男のせいなのだが。ディックに邪魔されたおかげで、ネットとは3年ほど前のパーティー以降会えていない。
「……これで邪魔はいなくなった。……今宵、本当の夫婦になろう」
「言っている意味が分かりません。私たちは3年前に結婚した。それは先ほど旦那様もおっしゃったでしょう?」
レジナはぞわぞわと背中に走るものを堪える。
だんだんと変わっていくディックの様子に、予想はしていたけれど、実際に言われると寒気が走る。
「いや、まだ初夜を済ませていない」
「まあ! ふふふっ」
レジナは思わず笑い出してしまう。そのレジナの様子に、ディックは首を傾げる。
「今更何を言うのでしょうか? 初夜というのは結婚したその日の夜のことを言うのですよ」
「知っている。だから3年前のやり直しをしようと言っているんだ」
「そんなのお断りですけれど」
「は?」
即答で拒絶するレジナに、ディックは間の抜けた声を漏らす。
その様子から、ディックは断られることはないと信じていたことが窺えて、レジナは笑いを堪えきれない。
「何故旦那様と初夜をやり直す必要があるのでしょうか?」
「……な、俺は――」
「ああ、もしかして白い結婚による婚姻無効をさせないように、とでも考えているのでしょうか?」
「!」
ディックが言葉に詰まったことで、レジナの発言が正解だと知る。
「結婚して3年経っても性交渉がなされない場合、どちらからの申し立てでも、婚姻を無効とすることが出来る。素晴らしい制度です。無理矢理結婚させられた者には、まるで救いのような制度ですね。私にそれをさせないと?」
「っ! 違う! 俺はこの3年でお前の献身を知ったんだ! 俺のために、頑張っていたんだろう? だからその褒美にと――」
「貴方のためではこれっぽっちもありませんが」
「……は?」
レジナの言葉に、ディックはポカンと呆けた表情をする。
「嫌ですね、気持ち悪いことを言わないでくださいますか? 決して貴方のために動いていたわけではありませんの」
「な、だって、お前は常々エアハルト侯爵家のためにと、言っていたではないか」
「ええ。けれど貴方のためではありません。あくまで私は、私に良くしてくれたお義母様と使用人たちのために動いていたのです」
「な、ど、どういう」
「そもそも私、貴方に毛ほども興味ありませんから」
「は⁉︎ 何故だ!」
レジナはディックに、呆れた様子で説明する。
「当然でしょう? 結婚まで顔合わせなし。お互いのことを何も知らないまま、あまつさえ結婚式も私に嫌がらせで古いドレスを用意する。誓いのキスすらしない。もうその時点で貴方に時間を使うなんて勿体無いと判断しました。そして最後のチャンスとして、私は結婚した次の日の朝、なんて言ったか覚えています?」
「……」
「『私から結婚を望んだくせに、調子に乗るな』ですよ。私、もう可笑しくって、笑いださないようにするのに必死でしたよ! いつ、私が貴方との結婚を望んだのでしょうか?」
「実際そうではないのか⁉ お前が望んだから――」
「違います。記憶にないのなら、もうその年で耄碌してしまったのかしら! 貴方と侯爵が強引に進めただけだというのに! 貴方が出世するために名ばかりの妻が欲しかっただけなのに、何を言っているのかしら!」
ディックは言葉を失っている。レジナの言っている内容にも衝撃を受けているが、それ以上に、こんなに馬鹿にしたように話しているのも衝撃だったのだ。
ディックの中のレジナは、従順な妻だったのだから。
「とはいえ、私も貴族の娘。愛する人と結婚できなくとも、平穏な生活を送ることが出来れば、それでよかったのです。貴方の評判は聞いていましたから、テストすることにしたのです。結果、全てにおいて不合格でしたが」
「待て、愛する人というのは……」
「当然、ネット様です。婚約はしておりませんでしたが、暗黙の了解ではありました。それを貴方方が引き裂いたのです」
「だ、だがあいつは別の女と結婚した」
「ええ。私がお願いしましたの。ネット様は3年待って、再婚しようと言ってくれましたが」
「そ、それは……」
ディックの顔に希望が浮かぶ。その様子に、レジナは嘲笑を浮かべた。
「だって、離婚しない方が貴方への復讐になると思いまして」
「ふ、ふく、しゅう……?」
「ええ。私の心は、これから先もネット様にだけ捧げます。安心してください。私が不利になるので、不貞などしませんわ。ネット様の奥様にも申し訳ありませんし。ただ貴方にはこれから憎悪だけを向けます。ええ。私の平穏を奪った人ですもの。これくらいは許されますよね?」
「な」
「幸い、お義母様には背中を押されていますし」
「母上が⁉」
「ええ。初めはお義母様も離婚派だったのですが、貴方の最近の様子を見てこちらの方がより貴方が苦しむだろうと」
「う、うそだ」
どんどん青ざめる顔を見るのが、楽しくて仕方ない。レジナは歌うように続ける。
「この結婚の理由も社交界では有名です。最近、出世の話なんて聞かなくなったでしょう? 当然ですよね。妻を道具扱いしている者が権力を持てばどうなるか、考えるだけで恐ろしいですから」
「まて、まさか」
「ええ。私とお義母様で、噂を流しました。こういう時、社交界は良いですね。悪い噂はあっという間に流れますもの」
「……」
次々と衝撃的な真実を聞かされ、ディックの思考は働かなくなってしまう。
それでも、ディックは一筋の希望に縋りたかった。
「ま、待ってくれ。俺はお前と、レジナとやりなお――」
「この3年間、一度も私の名前を呼ばなかったのに、今さら名前を呼ばないでくれます? 気持ち悪くて仕方ありませんわ」
「っ」
レジナは真っ青な顔になったディックを見て、満足げに笑う。
「安心してくださいませ。貴方が私に気を持ち始めたからこそ、離婚しないということにしたのですよ。だからこれからも、よろしくお願いしますね? 旦那様」
ディックは目の前の女が理解できなかった。まるで絶対手に入らないものを、間近で見続けろと言われているようだった。
ただ、その美しかった青い瞳が淀んでいるのを見て、取り返しがつかないと悟る。
どこから間違っていたのか。愚かな男は分からず、これからの2人の未来が暗いことであることに絶望することしかできなかった。




