第7話 崩壊する結界と、開かれる扉
早朝。
魔導管理室の映写水晶が、けたたましい鐘の音ではなく、静かな赤色の明滅で異常を知らせていた。
「……始まったわね」
私は温かい黒豆茶を飲み干し、椅子に深く腰掛けた。
水晶に映っているのは、一階の大広間だ。
そこには、蒼白な顔をしたイザベラが立ち尽くしていた。
手には、王都からの緊急連絡用である「伝書魔鳥(使い魔)」が握られている。
魔鳥は役目を終え、光の粒子となって消えていくところだった。
『嘘よ……嘘よ、そんなはずないわ!』
イザベラが叫び、近くにあった花瓶を壁に投げつけた。
ガシャン! と派手な音が響く。
騒ぎを聞きつけたジェラルド様が、軍服姿で駆け込んできた。
『何事だ、イザベラ』
『お前ね!? お前がやったんでしょう!』
イザベラがジェラルド様に掴みかかった。
狂乱した形相だ。
厚塗りの白粉がひび割れ、鬼気迫るものがある。
『リリアが消えたわ! 密室から煙のように! 私の部下が寝ずの番をしていたのに、忽然といなくなったのよ!』
ジェラルド様の目が、僅かに見開かれた。
驚き。
そして直後、彼の視線がふと天井の隅――私の監視水晶がある方向へと向けられた。
(……鋭い人)
彼は一瞬で理解したのだ。
王都の厳重な監視下から、魔法も使えない妹を救い出せる人間など、この世に一人しかいないことを。
『何とか言いなさいよ! どこへ隠したの!?』
『……知らんな』
ジェラルド様は、イザベラの手を冷たく払い除けた。
その声には、もう以前のような悲壮感はない。
あるのは、絶対零度の威圧感だけだ。
『だが、リリアがいないのなら、俺がお前の言いなりになる理由もなくなるな』
『ひっ……』
ジェラルド様が一歩踏み出す。
たったそれだけで、イザベラは腰を抜かして後ずさった。
「氷の将軍」の殺気が、大広間の空気を凍てつかせている。
『私の家を荒らし、妻を侮辱し、妹を脅した罪。……死を持って償うか?』
ジェラルド様が腰の剣に手をかけた。
勝負あった、と私は思った。
これでイザベラは捕縛され、すべては終わる。
そう思った矢先だった。
『――ふ、ふふふ』
床にへたり込んだイザベラが、引きつった笑い声を上げた。
『そうね、お前の言う通りよ。リリアがいなければ、私は用済み。……宰相閣下に消されるわ』
彼女は懐に手を突っ込んだ。
取り出したのは、赤黒い光を放つ、禍々しい石だった。
『だったら、道連れよ。全員死になさい!』
彼女がその石を床に叩きつけた。
ドォォォォン!!
爆発音と共に、屋敷全体が激しく揺れた。
私は椅子から転げ落ちそうになり、慌てて制御卓にしがみついた。
「な、何!?」
映写水晶が砂嵐のような魔力干渉を起こして明滅する。
警告灯が赤く染まり、耳障りな不協和音が室内に響き渡った。
『警告。第一防衛結界、強制解除。動力炉に不正な魔力逆流を確認』
合成音声が無機質に告げる。
まさか。
あの石は「魔導阻害石」か!
古代の術式を無理やりこじ開け、回路を焼き切るための自爆兵器。
技術屋として最も許せない、野蛮極まりない道具だ。
『あはははは! 結界は消えたわ! これで外に待機させていた私兵団が入ってくる! この屋敷を制圧して、お前たちを皆殺しにしてやるわ!』
イザベラの狂った笑い声。
ジェラルド様が剣を抜き、彼女に斬りかかろうとするが、床から噴き出した魔力の奔流に阻まれて近づけない。
「……馬鹿な女」
私は歯噛みした。
彼女は分かっていない。
この屋敷の動力炉は、下手にいじれば大爆発を起こして、屋敷ごと吹き飛ぶ可能性があることを。
自爆覚悟? いいえ、単なる無知だ。
「損害状況の確認!」
私は指を走らせた。
監視盤に表示される数値は最悪だ。
玄関ホールの結界が消失。
さらに、魔力の逆流が地下の管理室の扉にも影響を及ぼしている。
『制御不能。……封鎖術式、および全館制御網に応答なし』
「手動で直さないと駄目か……!」
私は唇を噛んだ。
ここから遠隔操作で修復するには、時間が足りない。
その間に、暴走した魔力が屋敷を崩壊させるか、イザベラの私兵団がなだれ込んでくるか。
選択肢は二つ。
この安全な部屋に閉じこもって、運を天に任せるか。
それとも。
「……はぁ」
私は大きな溜息をついた。
本当に、手のかかる旦那様だこと。
私は椅子から立ち上がり、壁にかかっていた厚手の外套を羽織った。
そして、部屋の隅にある棚から、愛用の「魔導調整具」と、魔力中和の触媒を込めた短銃を取り出した。
「行きましょう」
私は鉄の扉の前に立った。
もう、この扉は私を守る盾ではない。
私が守るべき世界への入り口だ。
「手動解錠」
緊急用レバーを力いっぱい引き下ろす。
ズズズ……ガァン!
数日間、頑として閉ざされていた重厚な鉄扉が、軋んだ音を立てて開いた。
冷たい風と共に、焦げ臭い匂いと、大広間からの怒号が流れ込んでくる。
私は一歩、外へ踏み出した。
薄暗い地下通路。
その突き当たりに、一人の男が立っていた。
剣を構え、地下への侵入者を防ごうとしていたジェラルド様だ。
彼は扉が開く音に驚き、振り返った。
「……ミランダ?」
その顔には、煤と疲労が張り付いている。
でも、その瞳だけは、暗闇の中で青く澄んでいた。
私は外套の裾を翻し、彼の前まで歩み寄った。
初夜の日以来、初めての至近距離。
彼は思ったよりも背が高く、そして思ったよりも憔悴していた。
「ひどい顔ですわね、旦那様」
私は皮肉っぽく笑いかけた。
彼は呆然と私を見つめ、それから剣を下ろした。
「……君こそ。思ったよりも、元気そうだ」
「ええ。快適な引きこもり生活でしたから」
私は短銃の撃鉄を起こし、彼を見上げた。
「リリア様は無事です。王都の別邸の隠し部屋に」
「……ああ。分かっていた」
彼は短く頷いた。
言葉はいらなかった。
その一瞬の視線の交錯だけで、私たちは共犯者になった。
ドォン!
再び屋敷が揺れる。
上の階から、多数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
私兵団が侵入したようだ。
「ジェラルド様。貴方は上の鼠どもを排除してください。私は動力炉の暴走を止めます」
「一人で大丈夫か?」
「誰に向かって言っていますの? 私はこの屋敷の支配者ですよ」
私が不敵に笑うと、ジェラルド様もまた、微かに口元を緩めた。
それは「氷の将軍」の仮面が剥がれた、一人の男としての笑顔だった。
「頼もしいな。……背中は任せた」
「ええ。さっさと片付けて、遅れている初夜のやり直しをしましょう」
私が軽口を叩くと、彼は耳まで赤くして、それから勢いよく踵を返した。
「全軍、迎撃せよ! 我が妻に指一本触れさせるな!」
雷のような号令が響く。
私はその背中を見送り、魔導調整具を握りしめて動力炉への通路を駆けた。
さあ、反撃開始だ。
私の城を壊そうとした代償、高くつかせてやる。




