第4話 扉越しの晩餐会
ガリッ。
乾いた音が、静寂な室内に響く。
「……飽きましたわ」
私は溜息交じりに、食べかけの堅焼き菓子を皿に戻した。
籠城生活、三日目の夕暮れ。
古代文明の保存糧食は、滋養こそ高いものの、味は二の次だ。
口の中の水分が奪われ、パサパサとした粉っぽさだけが残る。
「温かい汁物が飲みたい……」
贅沢な悩みだとは分かっている。
映写水晶を見上げれば、廊下を行き交う人々は青ざめた顔で、汁物どころか水一杯に苦労しているのだから。
その時だった。
コン、コン。
控えめな音がした。
今までの「ドォン!」という暴力的な叩き方ではない。
まるで、客人の来訪を告げるような、礼儀正しい音。
私は警戒して身構えた。
水晶を確認する。
扉の前に座り込んでいるのは、夫であるジェラルド様だ。
斧も剣も持っていない。
ただ、湯気を立てる銀の盆を膝に乗せている。
「……ミランダ。起きているか」
集音水晶を通さずとも聞こえる、低い声。
私は眉をひそめた。
何のつもり?
降伏勧告にしては随分と殊勝な態度だ。
私は無言で制御卓の集音術式を接続した。
こちらの声は届けない。向こうの声だけを聞く設定だ。
「食事を持ってきた。……君の備蓄も、そろそろ味気なくなってきた頃だろう?」
ドキリとした。
なぜ分かったのかしら。
いや、軍人である彼なら、籠城戦の兵糧事情など計算できて当然か。
「扉の下に、通気と搬入のための隙間があるはずだ。そこから入れる」
ガタガタ、と音がして、床に近い位置にある長方形の小窓が開いた。
かつて、技術者たちが図面の筒を受け渡しするために使っていた機構だ。
そこから、木製の皿が差し込まれる。
焼きたてのパン。
とろけた乳酪と干し肉が挟んである。
そして、湯気が立つ陶器の水差し。
匂い。
暴力的なまでに芳醇な、小麦と肉の香り。
そして、微かに混じる「焚き火」のような煙の匂い。
私の胃袋が、情けない音を立てて収縮した。
でも、罠だ。
当然でしょう。
私を無力化するための眠り薬か、最悪の場合は毒が入っているに決まっている。
私は伝声管の起動紋に触れた。
「……何の真似ですの、旦那様」
冷ややかに問いかける。
ジェラルド様は、扉の向こうで少し驚いたように肩を揺らした。
『返事をしてくれるのか』
「毒入りの餌で私を釣ろうなんて、浅はかですわよ。私は飢えた野良犬ではありません」
『毒など入っていない』
即答だった。
ジェラルド様は、小窓の前に置いたパンを一度引き戻した。
『疑うのも無理はない。……見ろ』
彼はパンを半分にちぎり、大きな口を開けて、その片方を齧り付いた。
咀嚼し、喉を鳴らして飲み込む。
続いて水差しの蓋を開け、直接口をつけて茶を一口煽った。
『……これでどうだ』
私は水晶越しに、彼の顔色を観察した。
呼吸に乱れなし。目の焦点も定まっている。毒特有の顔面の紅潮もない。
演技?
いいえ、あの不器用な男に、命がけの詐欺ができるとは思えない。
それに、彼の手は煤で黒く汚れていた。
魔導コンロが使えない中、わざわざ外で火を焚いて焼いたのだろうか。
「氷の将軍」が、煤まみれになって?
「……半分になった残飯を食せと?」
『すまない。毒見のためには仕方なかった』
彼は真面目な顔で謝罪し、再び皿を押し込んできた。
私はため息をつき、椅子から立ち上がった。
誘惑には勝てない。
それに、ここで餓死しては復讐も遂げられない。
私は小窓から盆を受け取った。
温かい。
その熱が、冷え切った指先に染み渡る。
「……いただきます」
小声で呟き、パンを齧る。
カリッとした皮と、濃厚な乳酪の塩気。
美味しい。
涙が出そうになるほど、まともな食事の味がした。
私が黙々と食べている間、ジェラルド様は扉の向こうで膝を抱えて座っていた。
立ち去ろうとしない。
『ミランダ』
沈黙を破り、彼が言った。
『君は、すごいな』
私は茶を吹き出しそうになった。
咳き込みながら、伝声管を睨む。
「嫌味ですか? 家を乗っ取る悪女への」
『違う。本心だ』
彼の声は、重く、真摯だった。
『この屋敷の防衛機構が、これほど精緻なものだとは知らなかった。俺たちはただ、分厚い壁と頑丈な扉があるだけの古城だと思っていた。だが、君はそれを……まるで自分の手足のように操っている』
扉の向こうで、彼が拳を握りしめる音が聞こえた気がした。
『俺は、君を侮っていた。「技術伯の娘」という肩書きだけで、君自身を見ていなかった。……この城を一番理解し、守れるのは、俺ではなく君だ』
私は言葉を失った。
罵倒されると思っていた。
泣いて詫びろと言われると思っていた。
なのに、何?
その純粋な称賛は。
胸の奥が、奇妙にざわついた。
今まで実家でも、社交界でも、私の知識や魔導への執着は「変人」扱いされてきた。
「女に魔導工学は不要だ」「可愛げがない」と。
それを、この男は。
私を裏切り、愛人を囲っているこの男は、認めるというの?
「……口先だけなら、何とでも言えますわ」
私は強がって見せた。
声が少し震えてしまったかもしれない。
「それに、お忘れですか? 私は貴方たちを兵糧攻めにしている敵ですのよ」
『ああ。……手厳しいな、我が妻は』
ジェラルド様が、ふっと笑う気配がした。
嘲笑ではない。
どこか、困ったような、でも愛おしむような、優しい気配。
『だが、君の気が済むまで付き合うよ。これは俺が招いた事態だ。……ただ、これだけは覚えていてくれ』
彼は扉に手を置いた。
『君を殺そうとしたり、傷つけようとしたりするつもりはない。それだけは、信じてほしい』
私は何も答えられなかった。
ただ、空になった皿を見つめることしかできなかった。
信じられるわけがない。
あの夜、貴方は別の女を抱きしめていたのだから。
でも。
お腹の底に落ちたパンの温かさだけは、嘘ではなかった。
「……ごちそうさまでした」
私は空の食器を小窓から押し返した。
それだけが、今の私にできる精一杯の返事だった。
『ああ。……また来る』
ジェラルド様が立ち上がる音がした。
足音が遠ざかっていく。
私は椅子に座り直し、膝を抱えた。
心臓の音が、少しだけ早くなっている。
「……調子が狂うわ」
私は自分の頬をパチンと叩いた。
騙されてはいけない。
これは懐柔策だ。
「飴と鞭」の、飴に過ぎない。
私は映写水晶に視線を戻した。
しかし、さっきまで見ていたジェラルド様の背中が、なぜか少し寂しそうに見えてしまい――私は慌てて映像を切った。
暗転した部屋の中。
焦げた乳酪の香りが、まだ微かに残っていた。




