第2話 優雅な朝食と、泥水の吐水口
翌朝。
私は淹れたての香ばしい黒豆茶の香りで目を覚ました。
「ん……いい匂い」
大きく伸びをして、簡易寝台から身を起こす。
ここは地下の魔導管理室。
分厚い石壁と古代の断熱結界のおかげで、室温は常に快適な春の陽気に保たれている。
備え付けの魔導コンロで湯を沸かし、保存用の堅焼き菓子を齧る。
少し味気ないけれど、ここには「静寂」という最高の調味料がある。
誰にも邪魔されず、誰の顔色も窺わなくていい朝。
実家にいた頃でさえ、これほど安らいだことはなかったかもしれない。
「さて、地上の様子はどうかしら」
私は把手付きの白磁を片手に、制御卓の椅子へ座った。
優雅な指つきで、映写水晶を起動する。
ブゥン、と低い音と共に、空中にいくつもの映像が浮かび上がった。
「……あらあら」
思わず口元が緩んでしまう。
そこに映っていたのは、まさに地獄絵図だった。
廊下を行き交う使用人たちは、毛布を頭から被り、ガタガタと震えている。
吐く息が白い。
当然だ。
北部の冬嵐が吹き荒れる中、屋敷の暖房魔石への供給をすべて遮断したのだから。
そして、最も傑作だったのは客間だ。
愛人――イザベラとか言ったかしら。
彼女の部屋の惨状が、過去の記録映像として残っていた。
『キャアアアアアッ!!』
時刻は今朝の六時。
彼女が優雅に朝の湯浴みをしようと、吐水口のレバーを捻った瞬間だ。
勢いよく噴き出したのは、温かいお湯ではない。
貯水槽の底に沈殿していた、ドロドロの泥水だ。
頭から茶色い水を浴び、高級そうな薄絹の寝衣が泥まみれになる。
悲鳴を上げて飛び退く彼女。
しかし、水は止まらない。
私が「十分間は止まらない」ように術式を固定したからだ。
「ふふっ。泥は美容に良くてよ?」
私は画面に向かって白磁を掲げ、乾杯した。
性格が悪い?
ええ、知っています。
でも、初夜に夫を寝取ろうとした泥棒猫には、泥がお似合いでしょう。
その時だった。
ドォン!!
背後の鉄扉が、重い音を立てて揺れた。
誰かが外から叩いている。
くぐもった叫び声が聞こえるが、防音結界のせいで内容は聞き取れない。
私は眉をひそめた。
あら、意外と早起きね。
愛人の泥を拭いてあげなくてもよろしいのかしら。
私は制御卓にある「集音水晶」の起動紋に触れた。
「……何か御用でしょうか、旦那様。朝の挨拶にしては少々乱暴ですわね」
『ミランダ!? 無事なのか!』
水晶を通して、夫ジェラルド様の切迫した声が響く。
無事?
何を言っているの。
私が絶望して自害でもしたと思ったのだろうか。
「見ての通り……いえ、お分かりにならないでしょうけど、すこぶる快適ですわ。黒豆茶も美味しいですし」
『茶だと? そんなことはどうでもいい! 部屋の中は寒くないか? 食事はあるのか?』
「ご心配には及びません。ここは古代文明の叡智が詰まった避難所ですもの。外の寒空の下とは違います」
私は嫌味たっぷりに返した。
少しは反省したかと思いきや、ジェラルド様の声色は怒りを含んでいるように聞こえる。
『ふざけるな! 今すぐ出てこい! 屋敷の機能が停止して、皆が困っているんだぞ!』
「あら。困ればよろしいのでは?」
私は冷ややかに告げた。
「貴方たちは私を裏切りました。ですから、私も貴方たちを『敵』と認識しました。これは戦争です、旦那様」
『戦争……? 何を言って――』
「どいてください、ジェラルド様!」
突然、金切り声が割り込んできた。
映写水晶を見ると、泥を拭き取ったものの、髪がボサボサのイザベラが立っていた。
その手には、どこから持ってきたのか、暖炉用の薪割り斧が握られている。
寒さ凌ぎに薪でも割ろうとしていたのだろうか。
「この陰気女! よくも私のドレスを! 殺してやるわ!」
イザベラが斧を振り上げた。
ジェラルド様が止めようと手を伸ばす。
「待てイザベラ! その扉は――」
ガギィィィン!!
激しい金属音が地下通路に響いた。
イザベラが渾身の力で振り下ろした斧は、扉に触れた瞬間、青白い火花に弾き返された。
「きゃっ!?」
斧が手から離れ、イザベラ自身も反動で尻餅をつく。
無様だ。
「無駄ですわ」
私は集音水晶に向かって、淡々と事実を告げる。
「その扉は『対城塞用防御結界』で守られています。生半可な物理攻撃も、中級以下の魔法も通用しません。無理にこじ開けようとすれば、次は雷撃でお返ししますよ」
イザベラが床を這いながら、憎悪に満ちた目で扉を睨むのが見えた。
ジェラルド様は……呆然と扉を見上げている。
ようやく事態の深刻さを理解したようだ。
私は一度深呼吸をし、制御卓の「全館伝達」のルーン文字を押した。
屋敷中に設置された拡声の魔石から、私の声が響き渡る。
『――ヴォルフィード家の皆様、おはようございます。当主夫人のミランダです』
ザザッ、という魔力干渉音の向こうで、使用人たちが天井を見上げる様子が映る。
『現在、屋敷の管理権限は全て私が掌握しました。水も、光も、熱も、すべて私の許可なく使用することはできません』
廊下で震えるメイド長が、青ざめた顔で口元を押さえている。
彼女には昨日、冷めたスープを出された恨みがある。
『解除してほしければ、条件は一つ。……私に構わないこと』
私はきっぱりと言い放った。
『私はこの部屋で、一人で生きていきます。離縁状を持ってくる時以外、この扉を叩かないでください。もし無理やり侵入しようとしたり、私の静寂を乱したりした場合……』
私は操作パネルに指を滑らせる。
口先だけの警告ではないという「見せしめ」が必要だ。
『次は、厠の水を逆流させます』
ポチッ。
直後、屋敷のあちこちから「うわぁぁぁ!?」という悲鳴が上がった。
一瞬だけ、汚水路の水圧を上げたのだ。
あくまで警告として。
「……というわけですので」
私は伝達を切った。
再び、扉の前の二人に向き直る。
「お引き取りください、旦那様。泥棒猫さんも。……ああ、それと」
私は最後に、一番言いたかったことを付け加えた。
「私のことは『死んだ』と思っていただいて結構です。葬儀でも何でも、勝手にあげてくださいな」
フツッ。
集音水晶の接続を切る。
ふぅ、と息を吐く。
言いたいことは全部言ってやった。
これで少しは静かになるだろう。
私は冷めかけた黒豆茶を一口飲んだ。
苦味が、心地よく喉を通り過ぎていく。
さあ、読書の時間だ。
持ち込んだ魔導工学の古文書は山ほどある。
引きこもり生活は、まだ始まったばかりなのだから。
……その時の私は、知らなかった。
扉の向こうで、ジェラルド様が斧を取り落とし、膝から崩れ落ちていたことを。
「死んだと思ってくれ、だと……?」
彼が絶望に染まった顔で、冷たい鉄扉に額を押し当てていたことを。
私はまだ、何も知らなかったのだ。




