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悪役令嬢は引きこもる  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第1話 初夜、私は走る

廊下の窓ガラスが、ガタガタと悲鳴を上げている。

北部の冬嵐だ。

分厚い石壁を通してさえ、その冷気は肌を刺すように伝わってくる。


私は深呼吸をした。

肺に入ってくる空気すら、凍りついているようだ。


「……行きましょう」


重たいドレスの裾を蹴り、一歩を踏み出す。


今日、私はこのヴォルフィード辺境伯家に嫁いできた。

相手は「氷の将軍」と恐れられるジェラルド様。

顔は整っているが、笑ったところを誰も見たことがないという堅物だ。


愛なんて期待していない。

これは王命による政略結婚。

技術伯爵家である私の実家が持つ「古代魔導回路」の知識と、辺境伯家の武力を結びつけるための契約に過ぎない。


だから、初夜である今夜も、事務的に済ませればいいと思っていた。

世継ぎを作るための儀式。

それさえ終われば、私は屋敷の隅で大人しく、魔導書でも読んで暮らすつもりだった。


回廊の角を曲がる。

夫婦の寝室は、この先だ。


足音が止まる。

誰かいる。


寝室の扉の前。

魔導ランプの薄暗い光の中に、二つの影が重なっていた。


「ジェラルド様……」


甘ったるい、蜂蜜を煮詰めたような女の声。

私は反射的に、タペストリーの陰に身を隠した。


そこにいたのは、我が夫となるはずのジェラルド様だった。

そして、その逞しい胸板に顔を埋めている、派手なドレスの女性。

彼女の細い腕が、ジェラルド様の背中に回されている。


「愛していますわ。……あの陰気な女より、ずっと」


女が囁く。

心臓が嫌な音を立てた。


陰気な女。私のことだ。

否定はしない。

私は社交界の華やかな話題よりも、魔導配管の図面を眺めている方が好きな人間だから。


でも、まさか初夜の寝室の前で、これを見せつけられるとは。


私はジェラルド様の反応を待った。

突き飛ばすか? 否定するか?


「…………ああ」


低く、短い返答。

そこには何の感情も籠っていないように聞こえた。

ジェラルド様は抵抗せず、女の抱擁を受け入れていた。


十分だ。

私は音もなく踵を返した。


涙?

出るわけがない。

湧き上がってきたのは、悲しみではなく、冷え冷えとした怒りと、猛烈な「計算」だった。


(状況整理。夫には愛人がいる。しかも屋敷内に入り込んでいる)

(予測される未来。私は「白い結婚」のまま飼い殺し、あるいはいずれ毒殺)

(結論。このまま寝室へ行けば、私はただの惨めな道化になる)


冗談じゃない。

誰が好き好んで、不貞現場の後のシーツで寝なければならないのか。


私はドレスの裾を両手で鷲掴みにした。

靴を脱ぎ捨てる。

シルクの靴下だけの足が、冷たい石床を踏みしめる。


走れ。

寝室へ? 実家へ?

いいえ。

もっと建設的で、もっと安全で、私が私らしくいられる場所へ。


私は回廊を全速力で駆けた。

目指すのは屋敷の北棟、地下最深部。


使用人たちは皆、婚礼の祝いで別棟に集まっているはずだ。

廊下には誰もいない。

心臓が早鐘を打つ。

運動不足の太ももが悲鳴を上げるが、知ったことではない。


私の頭の中には、この「ヴォルフィード要塞」の完全な設計図が展開されている。

実家の父が持たせてくれた、極秘の青写真だ。


三つ目の角を右。

来客用の表階段ではない。厨房裏の使用人用通路へ飛び込む。

黴臭い地下への螺旋階段を滑り降り、突き当たりの壁へ。


そこには、巨大な鉄の扉が鎮座していた。

表面には複雑怪奇な魔法陣が刻まれ、微かな青い燐光を放っている。


『開かずの間』。

歴代の辺境伯ですら開け方を忘れてしまった、古代文明の遺物。


私は荒い息を整え、扉の中央にある窪みに右手を押し当てた。


認証開始アクセス


震える声で告げる。

魔力が掌から吸い上げられていく感覚。


『――生体魔力、確認。技術伯テックラインの血統を検知』


無機質な合成音声が頭蓋骨に直接響いた。

私の家系だけが持つ、特異な魔力波長。

これこそが、この屋敷を動かす唯一の「鍵」。

この屋敷は、ただの建物ではない。

古代人が残した、巨大な魔導機械なのだから。


ガゴンッ、と地響きのような音が地下に轟く。

数百年分の錆と埃を落とし、鉄の扉がゆっくりと内側へと開いた。


私は滑り込むように中へ入る。

すぐに振り返り、壁の赤いレバーを引き下ろした。


ズズズ……ガァン!!


扉が閉まる。

分厚いかんぬきが自動で降り、防御結界が展開される音がした。

完全な密室。


「……ふぅ」


私はその場に座り込んだ。

膝が笑っている。

心臓がまだ早鐘を打っている。


顔を上げる。

そこには、私の大好きな光景が広がっていた。


壁一面に並んだ「映写水晶クリスタル」。

明滅する色とりどりの魔石ランプ。

複雑に絡み合うパイプと、空調管理用の巨大な送風機。


ここは「魔導管理室」。

この屋敷の心臓部だ。


私はドレスのコルセットを緩め、埃っぽい制御卓の前の椅子にドカリと座った。

最高だ。

香水の匂いも、人の視線も、裏切りもない。

あるのは論理と数値だけ。


「さて」


感傷に浸っている時間はない。

私は中央制御台座の巨大な水晶球に手をかざした。


「中枢術式、起動。管理者権限を行使します」


『管理者、ミランダ・ヴォルフィードを確認。術式網を接続』


ヴォルフィードの名乗りが少し癪に障るが、今はいい。

並んだ水晶の一つに、先ほどの寝室前の廊下が映し出された。

まだ二人はそこにいる。

ジェラルド様が、気まずそうに顔を背けているのが見えた。


(あら、意外と罪悪感はおありで?)


まあいい。

不貞は不貞だ。

私は制御盤のルーン文字に指を走らせた。


「全館、完全封鎖ロックダウン。私の許可なき者の魔導回路への干渉を遮断」


『了解。全扉、全窓、封鎖完了』


これで、外部からの侵入も、内部からの脱出も不可能になった。

もちろん、この部屋への物理干渉も遮断済みだ。

例え「氷の将軍」が剣で斬りつけても、この扉にかすり傷一つつけられない。


「次はライフラインね」


私は意地の悪い笑みが浮かぶのを止められなかった。

貴族というのは、不便さに弱い生き物だ。


「上水道のバルブを閉鎖。ただし、汚水路だけは逆流しない程度に維持」

「給湯魔石への魔力供給を停止」

「魔導灯の照度を三割まで低下」


屋敷中の光がフッと暗くなるのが、水晶越しに見えた。

使用人たちが慌てて走り回る姿が映る。


ごめんなさいね、使用人の皆さん。

でも、主人の不始末は家の連帯責任ということで。


私は最後に、明日の朝のための術式を予約入力した。


『明朝六時、主寝室および客間の吐水口シャワーより、貯水槽の底の泥水を排出』


決定の魔法陣を叩くように、強く魔力を込める。

中枢水晶が『承認』の光を放った。


私は椅子の背もたれに深く体を預けた。

水晶の中で、ジェラルド様が私のいない廊下をキョロキョロと探している。


もう遅い。


「愛しているなら、その方と二人で愛の巣を築けばよろしいわ」


ただし。

この屋敷の快適な生活は、すべて私の手の中にある。

トイレの水が流れることを、神ではなく私に祈る日が来るとは思わなかったでしょう?


さあ、籠城戦の始まりだ。

おやすみなさい、旦那様。

せいぜい寒い夜を過ごして、頭を冷やしてくださいませ。

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