scene.03 「夢の続きを」
ノートにペンを走らせる陽日リナの横顔を、
ふと眺めていた。
いつもより少し真剣な顔。
眉のあたりに小さな力が入っていて、
それがなんだか可愛い。
視線に気づいたのか、
顔を上げて、こっちを見た。
そのとき、ちょうど窓から差し込んだ光が
彼女に触れて、髪や瞳がきらきらと揺れる。
――そこで、ゆっくりとまぶたを開ける。
少しだけ体を起こし、窓の外を見やった。
「……リナ」
名前をつぶやくと、
それだけで胸の奥が少し温かくなる気がした。
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scene.03 「夢の続きを」
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5月の初め。
新緑の風が校舎の窓から吹き抜ける昼下がり。
放課後のチャイムが鳴り、
教室の中はざわめきに満ちている。
月森ミナはひとり、自分の机に座ったまま、
静かにバッグの中身を整えていた。
周囲では帰り支度をする声が飛び交い、
友人同士が笑い合う音が遠く感じられる。
——今日も、リナと一緒に帰れない。
そう思うと、
胸の奥がほんの少し疼くようだった。
リナは駅前のカフェ・ロマールで
新しくアルバイトを始めていた。
中学からの友人で、
1年B組に在籍する真壁ルカと
一緒に面接を受け、すぐに採用されたらしい。
一度は誘われたのだが、
「接客業はあまり自信がなくて」と
やんわり断った。
そうして、リナとルカの
ふたりが働くことになったのだった。
リナが新しい環境に踏み出したことを、
もちろん応援していた。
けれど、その笑顔やまっすぐな瞳を、
時折、自分だけのものにしたいと
願ってしまうことがある。
そんな自分が少し怖くて、
でも、どこか愛おしくも思えた。
腕時計をちらと見て、
ちょっと早いけど、帰ろう。
そう思って立ち上がったとき——
背後から近づく足音に、ふと振り返る。
柔らかな水色の髪を耳の高さで結んだ
ツインテールの、小柄なクラスメイト。
——白咲リコだった。
黄色い太縁のメガネと
首から下げた懐中時計のネックレスが
印象的で、その姿はどこかおっとりとした
雰囲気をまとっている。
彼女は一瞬足を止め、少しためらうように
そばまで歩み寄ってきた。
「……あの月森さん。
陽日さんって、今日は……?」
不意の問いかけに、
一瞬きょとんとしたが、
すぐに微笑んで答える。
「うん、今日はバイト。先に帰ったよ」
白咲さんは、指先をいじるようにしながら
少し目を伏せて言った。
「……そうなんですね。あの……よければ、
図書室、つきあってくれませんか?」
唐突とも言える誘いだったが、
その声は静かで、どこか真剣だった。
少し驚いたものの、
「もちろん」と答えた。
今は、誰かと話している方が、
小さな寂しさを埋めてくれる気がした。
ふたり並んで歩き始めたとき、
胸元で揺れるものに目が留まった。
制服の上でそっと揺れる、古そうな懐中時計。
金色のチェーンに繋がれたそれは、
近くで見ると、より一層綺麗に見えた。
「……綺麗な時計。
ネックレスになってるんだね」
そう声をかけると、
彼女はそっと時計に触れた。
「ありがとうございます。
……母からもらったんです」
「そうなんだ。大事にしてるんだね」
「はい。毎日、つけてます」
少し恥ずかしそうに微笑む。
その顔を見ながら、夕陽の伸びる廊下を歩き、
静かな図書室へと向かった。
◇
中へ入ると、
ほんのりと紙の匂いが漂ってきた。
放課後の室内には、
まだ数人の生徒が残っていた。
それぞれが静かにページをめくったり、
端末を見つめたりしている。
入口近くの返却台に目を向け、
それから書架の間をゆっくりと歩き出した。
「……何か読みたい本、ある?」
小声で尋ねると、彼女は軽く頷いた。
「ええと、ちょっとだけ……
夢に関する本が見たくて」
「夢?」
少し困ったような笑みが返ってくる。
「ちょっと、不思議な夢を見て。
……夢占いとか、そういうのかも」
「へえ……夢占い、か。面白そう」
頷きながら、
ひとまず興味のある
心理学関係の棚へ向かう。
「あとでそっちに行きますね」
軽く手を振って、
彼女は夢・民俗・占い関係の
棚の方へ歩いていった。
背表紙を指先でなぞるようにしながら、
いくつか気になるタイトルを手に取る。
他人の心。感情。ことばの裏にあるもの──
そんなことが、最近気になっている。
──リナの気持ちも、自分の気持ちも。
ぼんやりそんなことを考えながら、
気になった本を抱えて
貸し出しコーナーへ向かう。
手続きを終えて振り返ると、
彼女がこちらへ歩いてくるところだった。
「おまたせしました。
……貸し出し、ちょっとしてきますね」
「うん。いい本、あった?」
「はい、なんとなく、面白そうなタイトルで」
そう言ってカウンターへ向かっていく。
そこでは、さっきの先輩が
丸い眼鏡越しに穏やかな笑みを浮かべ、
迎え入れていた。
ふたりは何やら小声で会話を交わしていたが、
その内容までは聞き取れない。
けれど、どこか親しげな雰囲気が
伝わってくる。
最後に、先輩が
引き出しから何かを取り出し、手渡した。
手作り風の、しおりだった。
それを両手で受け取り、
小さく頭を下げる。
振り返ってこちらへ戻ってきた。
「……ごめんなさい。お待たせしました」
「ううん。知ってる先輩?」
「はい。……図書委員の天野先輩で、
よくお会いするんです。
それに、しおりも手作りでくださって……」
嬉しそうに、
布のしおりをそっと見せてくれる。
「へえ、かわいい。……仲良しなんだね」
「ふふ、そう見えるかな。優しい方です」
頷いたそのとき、
図書室の入口の扉が音もなく開いた。
静かな足取りで中に入ってきたのは、
一人の生徒。
黒髪のショートボブで、
きっちりと制服を着こなし、
手には文庫本を持っている。
「……あ、望月さん」
小さな声が横から漏れる。
「……だよね。同じクラスだけど、
あまり話したことはないな」
そう答えながら、
目が合った望月さんに軽く会釈をした。
隣でもちらりと視線を向け、
控えめに頭を下げた。
向こうも小さく会釈を返すだけで、
言葉は交わさず、
静かに書架の方へと歩いていった。
「放課後に部室で
よく本を読んでいるって言ってました。
……たぶん、今も何か探しに来たのかな?」
「白咲さんとも仲がいいの?」
「それほどではないんですけど、
席も近くて何度か話したことはあります」
その返事に「ふうん」と小さく頷く。
「せっかくだし……
中庭のベンチでも行かない?本、読みたいし」
「はい。……わたしも、そう思ってました」
図書室を出て、
夕方の光が差し込む廊下を並んで
歩きはじめた。
◇
校舎を抜けて中庭へ。
風にそよぐ葉音と、
遠くで響く部活の掛け声が微かに混じる。
図書室の静けさとはまた違う、
穏やかな空気が広がっていた。
校舎の影に寄り添うように置かれた
木製のベンチに並んで腰を下ろす。
春の日差しがまだ残る木肌は、
ほんのりと暖かかった。
そのまましばらく、
言葉のない静寂が包んだ。
「……ねえ、月森さん」
先に口を開いたのは、
白咲さんだった。
顔を向けると、
スカートの上で指先を重ね、
小さく息を吸いこんでから、
そっと口を開く。
「夢で見たことが、もし現実になったら……
どう思いますか?」
考えるように視線を落とし、
足元で風に揺れる草をじっと見つめた。
「……なんだか、素敵だね。
予知夢、って言うのかな。
そんなことが、もし本当にあるなら──」
そう言いながら顔を上げ、
少し遠くを見つめる。
「なんか、昨日、リナのことを考えてたら、
ふと夢を見た気がして……」
これまでほとんど言葉を交わしたことは
なかった白咲さん。
けれど、その穏やかな雰囲気に触れていると、
自然と心を許したくなる気がした。
「教室で勉強していただけなんだけど、
髪が光に透けてて……ちょっと、綺麗だった」
彼女は黙って頷く。
声の端に、リナへの想いが
静かに滲んでいるのを自分でも感じた。
「それだけ……
でも、なんだかずっと心に残ってて」
そう口にすると、頬がわずかに熱くなる。
「……ごめん、変な話だよね」
「ううん。わたし、そういう気持ちって
大切だと思います」
白咲さんの返事は、
胸の奥をじんわりと
温めるような優しさだった。
少し間を置いて、
彼女が私の顔をのぞきこむ。
「……あの、香坂さんとは
仲がいいんですか?」
「そうだね。ネネちゃんとも一緒に、
お昼を食べたりしてるよ」
「……楽しそうで、いいですね」
そう言って、ふわりと微笑んだ。
「こんど、白咲さんも一緒にどう?
綾瀬さんと仲良いよね?」
「ありがとうございます。
今度、ぜひ」
それからしばらくのあいだ、
借りたばかりの本を
それぞれ軽くめくりながら、
静かに並んで座っていた。
すると柔らかい声が背後から届く。
「月森さん、リコ」
ふたりが振り向くと、
カーディガンを羽織った子が、
ベンチの近くに立っていた。
やわらかく揺れる髪が、
夕陽を受けてほんのり桜色に透ける。
留められたアンティーク風のバレッタも、
そっと光を抱いていた。
綾瀬ノノ──
同じクラスで、
白咲さんと仲のいい子だ。
「もう用事終わった?」
「うん」と答えたあと、
柔らかい声で問いかける。
「ねえ、どんな話してたの?」
「うーん……
最近見た夢の話とか、そんな感じ」
その答えに「そうなんだ」と頷くと、
彼女は空いている場所に腰を下ろす。
そして、何かを思い出したように、
バッグを開けてノートを取り出した。
「今日、帰り道でお花見つけたの。
小さくて、でも色がすごくきれいで……」
そう言って、
ページの端に描かれた花の絵を
こちらに見せてくれる。
色鉛筆で書かれた
淡いピンクと薄紫が重なった、
繊細なタッチの花。
「わあ、すごくきれい……」
思わず声が漏れた。
ついスマホで写真を撮ってしまいがちだけど、
こうして絵に残すのも、
なんだかいいなと思った。
「ありがとう。
そう言ってもらえて、うれしいな」
彼女は、
私と白咲さんの顔を交互に見て、
うれしそうに目を細めた。
入学式のときから、
ふたりが一緒にいる姿を
よく見かけていたのを思い出した。
「いつも一緒にいるんだね、
なんか……すごく自然で」
自分でも気づかないうちに、
その声には少しの羨ましさが混じっていた。
白咲さんは、こちらを見てから、
借りてきた本を胸にそっと抱えて言う。
「……小さい頃からずっと一緒にいるんです。
家も近くて、よく遊んでて」
綾瀬さんが、懐かしむように空を見上げた。
「小学校の頃なんて、帰り道に公園に寄って、
ブランコに乗りながらずっとお話ししてたら、
遅くなっちゃってよく怒られたりしてたね」
白咲さんも「そうだね」と、ふわりと微笑む。
ふたりのやりとりを見ていると、
胸の奥が少しあたたかくなって、
どこか眩しいものを見ているような
気持ちになった。
* * *
中学一年のある日、
本を読んでいると、
リナが声をかけてきた。
その時は、
これといった話はしなかったけど、
次の日から、
何かと話しかけてくれるようになった。
もともとそんなに
話好きってわけじゃない。
でも、彼女と話していると、
不思議となんでも話せるような
気分になってくる。
そのうち、冗談も言い合えるような
関係になっていた。
少し意識し始めたのは……
そろそろ進路を決めないといけなかった、
あの日の帰り道──
◇
「ねえ、澄高受けようと思うんだけど、
どう思う?」
「いいじゃん! じゃあ、あたしも受ける」
「偏差値知ってる?」
「うっ……でも真壁も
受けるって言ってた気がする」
「あの子は、
なんだかんだ勉強してそうだけど」
「よし、じゃああたしも頑張るか!」
「ほんとに?」
「だって……ミナと一緒の高校行きたいし」
「なにそれ……
じゃあ、一緒に勉強する?」
そう言いながら、
胸の奥が温かくなるのを感じた。
それから、
毎日放課後に一緒に勉強することになった。
私と一緒の高校に行きたいと、
机を合わせて勉強する毎日。
夕方の光を受けて、
きらきらと輝く横顔が浮かぶ。
――きっと、
今朝みたいな夢を見たのも、
そのせいだ。
* * *
日がだんだんと傾いていく。
空は淡い茜色に染まり、
校庭の隅の木々が長い影を落としていた。
そっと本をバッグにしまう。
「……そろそろ行こうか」
声に、ふたりが静かに頷く。
立ち上がり、
夕暮れに染まる空を見上げる。
──隣にいないだけで、
こんなにも気になるなんて。
自分でも、少し笑ってしまいそうになる。
でも、夢が現実になったら……
私に、できるかな……
そんなことを思いながら歩き始めた──