scene.25 「リコ」
【9月3日 午後8時02分】
【秋神市上空】
夜の空気は少しひんやりとしていて、
月明かりが薄く街を照らしていた。
その上空を、ふわり、ふわりと
赤黒い霧のようなものが漂っている。
それは、つい先ほどまで
香坂ユイに巣食っていた「鏡のもの」
居場所を失い、ふわふわと彷徨っていた。
あの懐中時計に近づけそうな場所。
そして、強い想いの力を糧にできそうな者。
綾瀬ノノの気配を探して──
◆
【9月3日 午後8時02分】
【綾瀬ノノの自室】
帰り際にリコが言っていた言葉が、
ずっと胸に引っかかっていた。
「……昨日の夜、
ちょっとだけ決めたことがあるの」
あのときの表情が、
どうしても頭から離れない。
全部話すって約束してくれたけど、
夕飯を食べ終わってからも、
なんだかそわそわしてしまう。
いつもより少し早くお風呂を済ませたのも、
そのせいだった。
髪を乾かして部屋に戻っても、
胸の奥のもやもやは晴れなかった。
ベッドに寝転び、
スマホを握ったまま天井を見上げる。
少しだけ開けた窓から流れ込む夜風が、
カーテンの端を揺らしていた。
息をひとつ吐き出し、
誰にも届かない声で名前を呼ぶ。
「……リコ」
その瞬間、喉の奥に冷たいものが
吸い込まれる感覚が走った。
「──っ」
息が止まり、
胸のあたりを押さえて震える。
何が入り込んだのかもわからず、
ただただ混乱する。
視線が、自然と鏡に向いた。
けれど、鏡に映っていたのは
いつもの自分の顔だけ。
それがかえって不気味な不安を煽った。
息を吐き、胸に手を当てる。
鼓動は普段よりわずかに速い気がする。
平気、たいしたことじゃない。
そう言い聞かせた──そのとき。
(──見つけた)
頭の中に響いてくるようなその声に、
肩が跳ねた。
何が起きてるのかわからない。
どうしよう。
胸の奥に冷たくて重い
何かが詰まってる感じがして、息が苦しい。
胸を押さえて身をかがめると、
目の奥にじんわり熱がこみ上げてきた。
……こわい……
そのとき、
背中にふわりと温かい気配がした。
────────*────────
scene.25 「リコ」
────────*────────
驚いて振り返ると、
少し大人びた雰囲気の女性がそこにいた。
でも、微笑むその目も、声も──
見間違えるはずがない。
「……ごめんね。
びっくりさせちゃった?」
一瞬きょとんとする。
「……リコ、なんか……
ちょっと大人っぽい?」
そう呟くと、
彼女は困ったように笑って首をかしげた。
「……もっと、驚かないの?」
問い返されて見つめ返す。
髪はツインテールではなく
シニヨンにまとめられ、
その姿に思わず笑みがこぼれる。
「……髪型、いつもとちがうね」
「……それだけ?」
苦笑まじりに返された声が、
ほんの少し嬉しそうだった。
胸のざわめきをなんとか
落ち着けようとしながら、口を開いた。
「で、大人のリコさんは……
急に現れて、どうしたの?」
目を細めて笑った彼女が、
隣へ腰を下ろす。
リコは手にした日記帳を膝に置くと、
ベッドがゆっくり沈み、
体にあたたかさが伝わってくる。
ひと呼吸おいて、口を開いた。
◇
「ちょっとだけ、怖い話してもいい?」
彼女は少し視線をそらしてから、
こちらを覗き込んだ。
「なんか胸が痛かったり……
変な感じになったり、しなかった?」
その言葉に、小さく息を呑む。
気づけば無意識に胸へ手を当てていた。
それを見た彼女は、一瞬、視線を伏せる。
「……やっぱり」
胸に手を当てたまま、
少し眉を寄せて見つめ返した。
「……さっきね、
なんか頭の中に声が聞こえたりして……」
そこまで言って、少し息を詰める。
「……何か知ってるの?」
彼女は頷き、安心させるような
やわらかな笑みを浮かべて言った。
「……うん。ノノの中に入り込んじゃった
それを追い出すために、わたし、来たんだ」
その声には、不思議なほど迷いがなかった。
胸に置いた手の指先が、少し震える。
そっと顔を上げ、彼女を見た。
「……それって、やっぱり……
何か、悪いものなの?」
「うん。今、ちゃんと追い出さないと……
そいつ、ずっとノノの中に居続けるから」
「どうやって、追い出すの?」
リコは静かに呼吸を整え、
こちらを見て言った。
「わたしに、そいつを取り憑かせる。
……それで、わたしが連れていく」
意味を飲み込めず、思わず見返す。
「どこへ?」
「……どこって言うと、
ちょっと難しいんだけどね」
リコは少し考えてから続けた。
「そいつは人の想いに取り憑いて生きてるの。
だからわたしの中に入れて、消えちゃえば……
わたしの想いと一緒に、そいつもいなくなる」
その言葉を聞いた瞬間、
息が止まりそうになった。
「……消えるって……どういうこと?」
「ノノは気づいてたよね」
「わたし、みんなの記憶から
少しずつ薄れていってたの」
彼女が胸元の懐中時計に、
そっと指先を触れた。
「この時計の力で……
わたしは、みんなの記憶から……消える」
「それって、わたしも……
リコのこと、忘れちゃうってこと?」
声がかすかに震えた。
リコは目を伏せ、小さく頷いた。
「そんなの……絶対イヤ……」
胸の奥からこみ上げたものが、
言葉になってあふれ出した。
すると、あたたかな腕が背中に回り、
そっと抱きしめてくれた。
「ノノがそいつに蝕まれる未来を、
どうしても変えたかった。だから……
もう一度だけ、ここに戻ってきたの」
「もう一度って?」
「……わたしね、
ノノがいなくなった世界で……
このまま死んじゃおうかって、思ったんだ」
指先が、わたしの髪に触れる。
顔を上げると、
彼女は少し遠くを見つめながら言った。
「でも、それじゃ何にもならないって思って。
だから──
過去に戻る力を与えてもらった……」
そう言うとリコは膝の上に乗せていた
少しくたびれた日記帳を見せた。
「……わたしが見た夢をここに書くと、
いつか現実になるの」
ぱらぱらとページをめくっていく。
「でも、一つだけ。そいつに邪魔されて、
叶わなかった夢があったんだ」
ページを開いて指でなぞるように見せた。
* * *
ノノと一緒に暮らしている。
夜、同じベッドで眠って、
朝は私がノノを起こす。
笑いあって過ごす、そんな毎日。
* * *
「この夢を現実にするために、
何度か過去に戻ったの。
でも、どうしてもできなかった」
「これは、わたしには届かなかった未来……」
「それで、もうほとんど力は残ってない。
このまま何もせずに過ごしていても、
そのうち時計は力を失って……
わたしの体を保てなくなる」
耳に入った言葉に、かすかに息が漏れる。
「……えっ?」
「過去に戻る力を得る代わりに、
力が尽きたら消えてしまうことを……
わたしは受け入れたの」
思わず彼女の肩に顔を寄せ、
震える声で言った。
「でも……リコがいなくなって……
わたしがずっと生きていけると思う?」
「……未来でもずっと、
わたしのことを覚えていてくれた。
存在がなくなっても、ノノなら、きっと……」
視界が涙でかすんでくる。
「だから、叶えさせて……ノノが、
わたしの分まで幸せになってくれる世界を。
その未来を信じて、ここに来たんだ」
その言葉を聞き、両手を握りしめる。
飲み込むように唇を結び、
ほんの少しだけ頷いた。
彼女はそっと息をつき、優しく笑った。
「……ありがとう」
ゆっくりと顔を上げると、
見慣れた髪型の、いつものリコが──
隣にいた。
◇
片腕に抱かれたまま、
ベッドへと引き寄せられる。
横になると、今度は両腕でぎゅっと包まれた。
そのぬくもりに身を委ねる。
寄り添ったまま、
呼吸の音だけが重なり合う。
リコを抱きしめ、そっと目を閉じた。
──そのとき、瞼の裏に
かすかな青白い光が差し込む。
ぼんやりとした光は、
ゆっくりと広がっていった。
まるで、わたしたちを優しく包み込むように。
その穏やかなぬくもりに自然と呼吸が深くなる。
わたしの頬に指先が触れる。
「……ノノ」
名前を呼ばれ、そのまま唇が触れた。
光に包まれ、胸の奥が
じんわりとあたたまっていく。
その熱は全身へと広がり、指先や足の先まで
淡く痺れるような感覚が満ちていった。
思わず、小さく息が漏れる。
(……あったかい……)
光の中で、胸がくすぐったいような
切なさで満たされていく。
彼女の頬に触れると、微笑みが返ってくる。
それから、お互いのことを忘れないように、
確かめ合うように指先は肩に触れ、
背中へと滑らせた。
不思議な光に包まれていると、まるで、
肌と肌が直接触れ合っているかのような
感覚に囚われる。
触れるたび、ぬくもりがじんわりと
伝わってきて、それだけで
心の奥まで満たされていく気がした。
この感じ、そう、あの時も──
* * *
はじめて幼稚園に行った日の降園のとき。
家が近いということで、
お母さん同士が仲良くなり、
一緒に帰ることになった。
「ノノちゃん、リコと仲良くしてあげてね」
リコのお母さんがそう言った。
リコは小さくて、
わたしが少しお姉さんみたいだった。
最初は恥ずかしそうにしていたけれど、
手を繋いで、一緒に歩いた。
──それから、リコとはいつも一緒にいた。
小学校、中学校。
クラスが別々になった時もあったけど、
それほど気にならなかった。
そんな中学2年の修学旅行の夜。
◇ ◇ ◇
隣同士の布団でごろごろしながら
リコを見て言った。
「……公園の鹿、可愛かったね」
「あんなにいると思わなかったよ」
「なんか、
リコ食べられそうになってなかった?」
「後ろから服をむしゃむしゃしてきてさぁ。
ベトベトになって最悪だったよ」
くすくすとひとしきり笑ったあと、
いつも見ているライブ配信が
見られないことを思い出して、
つい文句を言った。
「っていうか、
スマホ禁止ってほんとわからないんだけど」
「しょうがないよ」
「アーカイブだと、
ちょっとつまんないでしょ」
リコは文句を聞きながらしおりを手に取って、
予定と地図を確認しながら言った。
「明日は……京都だって」
「お城とかお寺とか、
先生が行きたいだけなんじゃないの?
ねぇ、自由時間にこの河原町ってところの
パフェいっぱいある店に行こうよ」
そんな会話をしているうちに、
先生が部屋を覗きにきて、
「消灯の時間ですよ」と言って
明かりを落とした。
部屋が静かになったあと、
相部屋の子がそっとドアの隙間から
外を確認する。
「……だいじょうぶ」
小さな声が聞こえた瞬間、
みんなが一斉にごそごそと動き出した。
わたしはリコの布団にそっともぐり込んだ。
そして小型のライトをつける。
「そんなの持ってきてたんだ」
「こんな時間に寝られないよ」
くだらない話をしばらく続けていると、
やがてリコがあくびをした。
「そろそろ眠くなってきたかも……」
「わたしもちょっと眠いかも。
……じゃあ……おやすみ」
そう言って、ほんの出来心で
リコの頬にはじめてキスをした。
リコは少し驚いたようだったけれど、
何も言わなかった。
わたしは自分の布団に戻って横を向く。
そのとき、視線が重なった。
少し間をおいて、リコの手が伸びてくる。
掛け布団の下で、
ほかの子たちには隠すように手を繋ぐ。
そのまま、手を離さずに眠った。
──そして2ヶ月前、
夏休みが始まったばかりのあの日の夜。
はじめて、お互いの肌を寄せ合った。
抱きしめ合いながら、
温もりに包まれているだけで心が満たされる。
今まで過ごしてきた時間。
触れ合った感触。
そして、大切な名前。
これからもずっと一緒だと思ってた。
それなのに──
存在がなくなるって、なに?
記憶から消えるって、どういうこと?
──わたしが、忘れるなんてありえない。
* * *
小さく息を吐いて、リコの名をそっと呼ぶ。
やさしい口づけを何度も交わす。
触れては離れ、また触れて──
囁く声と吐息が混ざり合っていく。
彼女の胸元に手を添えると、
微かに震える感触が伝わる。
吐息とともに小さな声がこぼれ、
やがてリコの手も
わたしの胸元へと添えられる。
ふわりと痺れるような甘い感覚が、
胸の奥から広がっていった。
初めての感覚に戸惑いながらも
呼吸をするたび、抑えきれずに
小さな声がこぼれてしまう。
彼女もまた、同じように肩を震わせながら、
熱を含んだ吐息を洩らした。
まるで同じ熱を分かち合っているかのように、
ふたりの感覚がひとつに溶けていくようだった。
呼吸がだんだんと速くなる。
重なる吐息に全身が甘く痺れていく。
ふわふわと、空に浮かぶような
感覚に包まれて──
頭の奥がぼやけていく。
もう、目の前のリコ以外、
何も感じられなかった。
* * *
ぼんやりとした頭の奥で、目の前に、
リコが立って振り向いている姿が浮かんだ。
その笑顔は優しくて、
髪や頬の輪郭がきらきらと輝いて見えた。
「……今なら”それ”も連れていける」
彼女がそっと手を差し伸べた。
「ノノ……来て」
静かに微笑んで、わたしを呼んだ。
その手に──自分の手を重ねた。
瞬間。
胸の奥に閉じ込めていたものが、
まるで弾けるように解き放たれた。
思わず息が詰まり、
全身が微かに痺れるように震える。
熱いものがこみ上げて、
震える息とともに声が洩れる。
頭の奥が真っ白になって、
思考が曖昧になっていく。
──ただ、リコの温もりだけは、
はっきりと感じられた。
* * *
胸の奥に残る甘い痺れを静めるように、
何度か深く呼吸を繰り返した。
それから、ゆっくりと目を開けた。
──リコはそこにいた。
わたしの上に覆い被さるようにして
優しく微笑んで見つめている。
けれど、その輪郭は淡く揺らいでいて──
髪や指先から、
青白い光の粒子が舞い上がっていく。
まるで、形を保っていたものが、
零れ出るように広がっていった。
「……リコ……」
かすかに震えた声で名前を呼ぶ。
目の前で少しずつ崩れていく姿を、
どうしてもその名で繋ぎ止めたくて。
ふらつく身体を支えながら、身を起こす。
そのまま、強く抱きしめた。
彼女の腕が、少し頼りない力で……
でもたしかに抱きしめ返してくれた。
そして──
唇が、そっと耳元に寄せられる。
……愛してるよ
……ずっと、ずっと──
その声がふいに途切れて、
言葉の続きは光の粒とともに消えていった。
直後──
窓の隙間から夜風が入り込む。
優しい風がそっと髪を撫で、
ふわりと揺らして通り過ぎていった。
◇
気がつくと、
ベッドの上でぼんやりと座っていた。
視線を落とすと、
膝の上には小さな懐中時計が置かれている。
それから、その隣──
ベッドの脇には、
一冊のくたびれたノートが置かれていた。
……これ、なんだろう……
そっとノートを手に取ると、
どうしてか分からないまま、
静かにページをぱらぱらとめくった。
そこには使った形跡が確かにあるのに
何も書かれていない、
白い紙ばかりが続いていた。
けれど──
ふと、何かが目について、指先が止まった。
そっとページを戻す。
7月18日の日付、
そこにはたったひとこと──
「リコ」
それは他のどのページにもなかった、
自分の筆跡だった。
思わず小さく息を呑み、
胸の奥がきゅっと痛くなる。
涙が一粒、ぽろりとこぼれ落ちた。
なんで……涙が、出るんだろう……
名前だけが残されたそのページに
滴った涙が小さな輪を描いて
ゆっくりと滲んでいった──




