scene.24 「砕けた影」
気がつくと、霧島ユウは
夜の公園にいた。
隣には天野チヤが、
中世のローブのような姿で
あたりを見回している。
「ユウちゃん、あれ……!」
指さす先には、
澄高の制服を着た髪の長い女が、
触手のようなものを伸ばして
ひとりの少女を絡め取っていた。
少女は、苦しげに息を吐きながらも、
その顔にはどこか恍惚とした色が浮かんでいる。
今すぐ助けに行きたい……
でも、あんなの、どうすれば……
ユウは息を詰まらせながら、
じっとその光景を見つめていた。
(あたしの獲物……貸してやるよ)
不意に、頭の奥でそんな声が響いた。
右手のひらから真紅の霧がふわりと立ち上った。
それは柄を形作り、
蕾のように膨らんだかと思うと──
ぱっと咲いた薔薇の中心から、
鋭い棘が伸びて刃となる。
細身の剣が、その手に収まっていた。
ユウはそっと目を閉じて、小さく頷いた。
「……ありがとう」
(お礼言ってくれるんだ。
でも、あんたを……
あんなふうにしちゃうかもしれないよ)
その声は、
意識を触手の女へと強く引き寄せた。
それを見て、わずかににやりと笑うと、
隣のチヤと視線を合わせた。
次の瞬間――
目にも止まらぬ速さで、
風のように触手の女へと飛びかかる。
立っていた場所には、
バラの花びらがはらはらと舞い落ちていた。
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scene.24 「砕けた影」
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【9月3日 午後7時15分】
【蓮の池公園】
雪城ネネはスマホだけを手に、
蓮の池公園に足を踏み入れた。
ここは夏祭りの夜には屋台や灯籠で賑わい、
人の声で溢れていた場所。
けれど今は何の催しもないただの夜。
水辺を囲む遊歩道には薄い霧が漂い、
どこからか虫の声がか細く響く。
薄暗い街灯だけが照らす人けのない公園は、
不気味に感じるほどだった。
ネネはスマホの画面をそっと見つめた。
そこには少し前に届いた、
ユイからの短いメッセージが残っている。
《会って伝えたいことがあるの。
蓮公園で待ってるね》
ユイからのメッセージなのに
なぜか胸の奥がざわつく。
(……なんか、嫌な予感がする……)
でも──それでも行かずにはいられなかった。
ネネは少し息を整えると、
スマホを握りしめてまた歩き出した。
そこには古びた木のベンチが並び、
ぼんやりと薄暗い電灯の光に照らされている。
そのベンチに──香坂ユイが座っていた。
(……いた)
ほっと胸の奥が緩む。
嫌な予感はまだ残っていたけれど、
それより先に安堵した。
ネネは小さく息を吐いて、
自然とそのベンチへ歩み寄っていった。
けれど、近づくにつれて
ふと、違和感が胸を掠める。
ユイの手元に視線が落ちた。
小さな手鏡を、ユイは膝の上で
撫でるように持っていた。
(……鏡……?)
その時、ベンチに座っていたユイが、
ネネが近づいてきた気配を感じたのか、
ゆっくりと立ち上がった。
その手から、小さな鏡が離れる。
赤黒い霧をまといながら、
ふわりと宙に浮かび上がった。
霧をまとった鏡は
彼女の周囲をゆらゆらと漂いながら、
不気味に脈動していた。
顔を見た瞬間、ネネは思わず息を呑んだ。
──そこには、
いつもかけていたメガネがなかった。
普段は窮屈そうにしていたシャツの襟元も、
今は大きく開かれている。
以前のように、恥ずかしそうに
胸元を押さえていたユイの姿はなく、
柔らかなラインとレースの布地が
無防備に覗いていた。
胸の奥が、ひやりとする。
それでも、そっと声をかけた。
「……ユイちゃん?」
その声に応えるように、
ゆっくりと顔を上げた。
「……ネネちゃん、来てくれたんだね」
薄暗い電灯の下で、
ユイの瞳がはっきりと映った。
いつもの、柔らかな茶色じゃない。
光のない赤黒く濁った瞳が、
まっすぐネネを見つめている。
足が、ぴたりと止まった。
(……ユイちゃん……?)
そう問いかけながらも、
視線を逸らすことができなかった。
ユイはネネを見つめたまま、静かに言った。
「……ネネちゃん、こっちにきてよ」
(……ユイちゃん、なのに……
ユイちゃんじゃない。)
目を逸らしたくなった。
けれど、なぜか身体が動かなかった。
ただ立ち尽くして、
その赤黒い瞳に捕らえられたままだった。
「……来てくれないんだ?」
ネネは思わず息を詰めた。
「じゃあ、私から──」
ユイのスカートの下から
何かがずるりと這い出した。
街灯の光を受けてぬらりと光る、黒紫の触手。
ネネは目を見開き、思わず一歩、後退った。
背筋を冷たいものが駆け上がる。
次の瞬間、
反射的に背を向けて走り出していた。
目をぎゅっと閉じたくなる衝動を堪え、
ただ必死に足を動かす。
でも──
「っ……!」
冷たい感触が足首に絡みついた。
身体がぐらりと前のめりになる。
反射的に手をつこうとした刹那、
足首を掴んだそれが力を込め、
ネネの身体を宙へと引き上げた。
視界が激しく揺れ、
上下も左右も分からなくなる。
──そして、意識がはっきりした時。
すぐ目の前で、ユイが静かに微笑んでいた。
濁った瞳が楽しげに覗き込んでいる。
息を詰めたまま、
ネネはぎゅっと目を閉じた。
逃げたくて必死に身体を捩じり、
足を振り払い、腕を引こうとした。
けれど、動けなかった。
触手は腰から腕へと巻き上がり、
首元にまで達していた。
恐怖で声も出ず、ネネは小さく震えた。
そのすぐ耳元で、優しく──
けれど底の知れない声が囁く。
「……どうしてそんなに震えてるの?」
冷たく、ぬるりとした感触が
首筋をひたひたと這い上がり、
頸動脈のあたりで止まる。
まるで、そこを探るように。
そして──
ゆっくりと、首を締めつけてきた。
(……やだ……)
呼吸はまだできるけど、
脈打つ血の流れをすべて読まれているような、
ひどく不快な感覚があった。
しかし、少しふわりと頭が軽くなる。
「……ふふ、甘くて……美味しい」
ユイは赤黒い瞳を細め、
楽しそうに口元を歪めた。
「ねぇ、ネネちゃん。
昨日の夜、何人か食べてみたんだ」
「でも、薄くて全然おいしくなかったの。
今の人間って、ちょっと……
愛が足りないんじゃないの?」
冷たくぬるりとしたものが
脈打つ喉元を撫でるたび、
妙な心地よさがじわりと広がっていく。
かすかな吐息が漏れ、
ネネの表情がふっと緩んだ。
意識が落ちそうになった、そのとき──
(ネネちゃん!)
ユイの声が、確かに響いた。
暗闇に引きずり込まれかけていた意識が
引き戻される。
──風が走り抜けた。
髪がふわりと揺れ、頬に一瞬の気配が触れる。
はっと目を見開いた。
赤い花びらが舞っていた。
まるで夜空に薔薇が弾けたように、
ひらひらと揺れている。
ぬちゃり。
触手を断つ、鈍く湿った音が響いた。
触手を切られたユイは、
目を逸らさないまま獣のように跳ねて後退し、
距離を取った。
ネネの身体を絡めていたものが力を失い、
その場に崩れ落ちそうになる。
けれど、しっかりとした腕がネネを支えた。
「……大丈夫?」
黒と金の衣装を纏ったユウの瞳が、
静かにネネを見つめている。
わずかに息を吐き、
ほっとしたように微笑みかけようとした──
張り詰めていた緊張が一気にほどける。
意識がふっと遠のき、
ユウの腕の中へと身を預けるように倒れた。
◆
ユウはそっとネネを抱えたまま、
静かに地面へ横たえた。
まだ小さく息を乱すネネの髪を撫で、
それから立ち上がる。
(──へえ、なかなかやるじゃない)
頭の奥に響く声を受けて、
ユウは手元に視線を落とす。
手の中の剣を軽く構え直すと、
その剣先から赤い花びらのようなものが
一片舞い落ち、夜の空気へと溶けていった。
香坂ユイ──いや、もはや鏡の中の“それ”に
支配されかけている触手の女は、
ユウとチヤをじっと見据えた。
ぬめる音とともに、
ちぎれたはずの触手が再生を始め、
ずるりと地面を這い、伸び始める。
「……お前たち、何しに──」
その言葉が終わるより早く、
矢のようなものが一直線に飛んだ。
触手の女はわずかに目を細めると、
再生した触手を素早く振るい、
飛来した矢を弾き飛ばしながら、
するりと身を翻してかわした。
ユウが横目でちらっと視線を送ると、
チヤが右手を前に差し出していた。
その腕には、紫色のヘビが
螺旋を描くように繰り返し絡みつき、
詠唱に合わせて身をくねらせている。
先ほど切り落とされた触手の断面からは、
肉片を媒介にして生まれたのか、
小さな蛇がいくつも這い出していた。
そして、それらは矢のように女へ飛びかかる。
女は小さく舌打ちし、
切り落とされた触手に目をやる。
黒くぬめっていたそれが、
みるみる乾き、灰色の石のように変質すると、
脆く崩れ落ちた。
直後、スカートの奥からもう一本の触手が
ずるりと這い出す。
触手の女は二本の触手をしならせ、
身体をひねるように回転しながら、
その一撃で周囲を大きく薙ぎ払った。
空気を裂くような鋭い風圧が走り、
ユウは踏ん張る間もなく
その衝撃を受けて跳ね飛ばされる。
「ユウちゃん!」
チヤが思わず声を張り上げた。
ユウの身体は地面に叩きつけられ、
滑るようにして砂煙を巻き上げる。
それでもすぐに体勢を立て直し、
膝をついたまま胸を押さえ、荒く息を吐く。
だが、視線は逸らさない。
その目は、なお鋭く触手の女を見据えていた。
ネネの傍に着地した女は、
素早く一本の触手を地を這わせ、
倒れている足首から首元まで
螺旋を描き素早く絡みつく。
そして、ゆっくりと締め上げながら、
気を失った身体を無理やり引き起こした。
同時に、
もう一本の触手が鋭く前へと突き出され、
二人を牽制するように、
鞭のように空気を切り裂く。
◆
(……ちゃん……)
(……ネネ、ちゃん……)
頭の奥で、微かに誰かの声が響いた。
ネネは、ぴくりと瞼を震わせる。
「……ユイちゃん……」
か細い声で名前を呼ぶ。
首元に絡んだ触手が脈打つたびに、
また頭がふわふわとした感覚になる。
(……ごめんね、ネネちゃん……)
(……約束、破っちゃった……
鏡……見ちゃったの……)
泣き出しそうなその声は掠れていて、
ユイがどれほど自分を責めているのか、
痛いほど伝わってきた。
(……夏休み、ずっと会えなくて……)
(ネネちゃんが、どこか遠くに
行っちゃうんじゃないかって……
それが、怖くて……)
「……どこにも行かないよ……」
ネネは掠れた声で小さく囁いた。
「ここで……ユイちゃんに
見つけてもらってから……ずっと──」
そう、絞るように言いかけたとき。
頭の奥に、もうひとつの声が鋭く響く。
(……うるさい!)
その言葉と同時に、
首元まで絡みついていた触手が
ぐっと強く締まった。
「……ぁ……!」
喉が押し潰されたような声が漏れ、
ネネの瞳が大きく見開かれる。
「……早く……」
触手の女は、濁った瞳を細め、
焦るように声を絞り出す。
その奥で、かすかに必死に抗う声が響いた。
(……やめて!)
触手がぐっと締まり、
ネネの身体を一気に絞り上げる。
息ができず、
潤んだままの視線は空をさまよい、
胸がひくひくと震えた。
「もう……許さないっ!!」
ユイの叫びが、静かな公園に響く。
その瞬間、赤黒かった瞳が激しく揺れ、
触手がびくんと痙攣する。
ネネを締めつけていた力が、わずかに緩んだ。
その一瞬の隙を逃さず、
二人が同時に踏み出した。
ユウの頭の奥で声が響いた。
(……任せな)
瞳が真紅の光を放つと同時に
ユウは地を蹴り、
宙を舞うように標的へと飛びかかった。
宵闇に、その光が残像を描く。
同時に、チヤは静かに右手を前へと差し出し、
唇からはどこの言語とも知れない
奇妙な響きが聞こえる。
光の残像が通り抜け、
あまりの速さに二本の触手は
同時に断ち切られたように見えた。
ぬち、と嫌な音がして黒い液体が飛び散り、
触手はその場で弾けるように崩れ落ちる。
女の体から赤黒い霧が立ち込め、
そばに浮かんでいた手鏡へ向かって
細く伸びていく。
まるで、そこに逃げ込もうとするかのように。
瞳から濁りがすこしずつ引いていき、
柔らかな茶色が、かすかに戻り始めていた。
その時、チヤの唇が詠唱を、
最後まで紡ぎきる。
下半身を覆っていた霧が、
急に濃く渦を巻きはじめた。
そして、そこから
巨大なカニのような黒いハサミが、
ゆっくりと這い出すように姿を現す。
狙い澄ましたかのように、
ハサミは鏡へ向かって伸びる
赤黒い霧を一閃で断ち切った。
鈍く空気を裂く音が響き、
切られた霧は行き場を失ったように
その場を彷徨い、揺らめいた。
ハサミはふっと形を失い、
霧とともに、ほどけるように消えていく。
鏡は重みを失ったように
一瞬、ふわりと宙へ浮かび上がった。
だが、すぐにまた重力に引かれ、
赤黒い霧を揺らめかせながら、
ゆっくりと落下しはじめる。
ユイは少し瞳を伏せ、
決意したように手を伸ばす。
そして、
地面へ落ちかけていた鏡を掴み取った。
そのまま小走りで公園のベンチへ駆け寄り、
視線をその角へと定める。
深く息を吸って──
鏡面を狙い、思いきり叩きつけた。
甲高い衝撃音とともに鏡面は派手に砕け散り、
赤黒い霧を宿した細かな破片が
四方へと弾け飛ぶ。
破片から溢れ出した霧は、
まるで逃げるように一斉に蠢いたが──
もはや力を失っていたのか、
空中でふわりと一つにまとまり、
揺れながら徐々に薄れていく。
そして、夜の静けさに溶けるように、
すべては──消えた。
◇
【9月3日 午後7時58分】
【ミスカロニア大学・旧館地下室】
祭壇の前で、夜波アナがふと顔を上げる。
その隣では、音無トワが目を閉じたまま、
静かに気配を探っていた。
月明かりが差し込む中、
張り詰めていた空気がふと和らいだように感じられる。
トワがそっと目を開いた。
「……終わったみたいね」
アナがぽつりと呟いた。
少し離れた場所で見守っていた
大人の白咲リコは、
安堵するように息を吐き、
長い緊張から解き放たれたように
目を伏せて小さく微笑んだ。
「──でも、
これで終わりではないのでしょう?」
アナの問いに、
リコは胸元で懐中時計を握りしめた。
「……ノノのところに、行ってきます」
その言葉にアナは静かに頷き、
穏やかな声で続けた。
「……この世界の行く末、
私たちはいつでも、見守っていますよ」
リコはかすかに微笑み返した。
「……はい」
トワがリコの方へと視線を向ける。
気づいた時には──
その姿はすでに消えていた。




