scene.21 「またあした」
【9月3日 午前7時10分】
【綾瀬ノノの自宅 】
「昨夜未明、秋神市中央の繁華街にある
宿泊施設内で、若い男女あわせて
4名が意識を失い倒れているのが
発見されました──」
テレビから、ニュースキャスターの声が
朝食のテーブルに淡々と流れていた。
「……これ、駅の近くじゃない?
ノノも気をつけてね」
母がコーヒーカップを置きながら言う。
「なお、4名はいずれも
命に別状はない模様です──」
ほんの少し肩の力を抜いた。
「うん……。でも、無事でよかった」
テレビを一瞥してまたスープに視線を戻した。
しばらくしてスプーンを置き、
「ごちそうさま」と静かに言って席を立った。
テーブルの食器をそっとまとめ、
キッチンの流しへと運ぶ。
「そのままでいいよ。あとで洗っておくから」
母がそう声をかける。
「うん、ありがとう」
小さく頷いて、自室へと向かった。
部屋に戻ると、机の電源タップに
ヘアアイロンのコードを差し、
スイッチを入れた。
引き出しから下着を取り出して
手早く着替え、制服に袖を通す。
カーディガンを羽織り、温まったアイロンで
前髪を軽く整えたあと、
サイドの髪をふんわりと巻いていく。
仕上げに、机の上の
アクセサリーケースのふたを開けて、
お気に入りのバレッタを手に取り、
前髪の横に丁寧に挟んだ。
バッグに教科書やポーチを順に詰め、
いちばん最後に、自分で用意した
小さなお弁当箱をそっと収める。
支度が終わると部屋を出る。
「行ってきます」
リビングに声をかけてから、
玄関のドアを静かに閉めた。
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scene.21 「またあした」
────────*────────
家を出て、いつもの待ち合わせ場所の
小さな公園へ向かう。
朝の空気は少し冷たくて、
そのひんやりとした感触が心地よかった。
ベンチに腰を下ろす。
白咲リコの姿はまだなかったけれど、
気にすることもなく、少し伸びをする。
やがて、向こうの角から
小走りで駆けてくる影が見えた。
自然と立ち上がり、頬がわずかに緩む。
「おはよう」
息を弾ませながら、
リコが目の前に駆け寄ってくる。
「ごめん、
ちょっと寝坊しちゃって……」
「めずらしいね」
「じゃあ、行こっか」
リコと並んで歩きながら、
たわいない話を交わす。
駅へと続く道を抜けると、
駅前の広場に置かれたベンチが見えてきた。
そこに、一人きりで座る雪城ネネちゃんの姿。
「あれ?」
小さくつぶやき、隣のリコと視線を交わす。
そのまま、足が向いた。
「おはよう。
……ユイちゃん、まだ来てないんだね?」
「うん……」
返ってきた声は、どこか沈んでいた。
「メッセージ送ったけど、
既読もつかなくて……。具合、悪いのかな」
そう言って、ほんのわずかに眉を寄せる。
リコが、ふと目を伏せるのが見えた。
──なにか、気にしてる……?
でも、今はネネちゃんが、
まだ少し不安そうに俯いている。
「学校には
もう連絡してるかもしれないし……
遅刻しないうちに、行こ?」
彼女が小さく頷くのを見て、
一緒に歩き出す。
リコの足音が、少し遅れてついてきた。
◆
【9月3日 午前8時23分】
【澄風女子学園・1年A組】
ノノたちが教室に入ったのは、
チャイムが鳴るほんの少し前だった。
危なかったね、と小さく笑い合いながら、
三人はそれぞれの席へ向かう。
ネネが自分の机に
スクールバッグを置いたとき、
少し離れたところからリナが気づき、
ひょいと立ち上がって近づいてきた。
「あれ、ユイちゃん今日休みなんだ?」
「……うん……多分」
ネネがそう答えたそのとき、
教室の扉が開いて先生が入ってくる。
「あ……またあとでね」
リナは少し焦ったように笑い、
慌てて自分の席へ戻っていった。
ホームルームが始まり、
先生が配ったプリントは
前の席から順に回されていく。
いつものように、
前の席の生徒が後ろへ手を伸ばし──
それから小さく「あ……」と
声を漏らし、席を立とうとした。
「リコ」
隣のノノが、控えめに声をかける。
「あ……ごめん」
前の子は軽く笑って、
プリントをリコの手にそっと渡した。
リコは小さく「ありがとう」と言ったけれど、
その声は小さくて相手の耳には届かなかった。
◆
【9月3日 午後12時40分】
【澄風女子学園・1年A組】
いくつかの授業が、淡々と過ぎていった。
やがて昼休みを告げるチャイムが鳴り響き、
教室の空気が和やかになる。
そんな中、ネネは少し浮かない顔で
自分のお弁当を机の上に広げている。
その様子を見ていたリナが、
ふと思い出したように言った。
「そういえば、さっきの休み時間に
ユイちゃんのこと先生に聞きに行ってたよね?
どうだった?」
ネネは箸を少し止めて、小さく息を吐く。
「朝にユイちゃんのお母さんから
連絡があったって言ってた。
だから大丈夫って……」
でも、その声にはどこか不安が残っていた。
ミナが視線を落としながら言った。
「ネネちゃんのメッセージ、
まだ既読つかないんでしょ?
……ちょっと心配だよね」
リナは肩をすくめる。
「あたしも夏休み終わったばっかで
正直休みたいし、
気持ちはちょっとわかるかも」
「ユイちゃんは
そんなサボりたい気持ちないでしょ」
ミナが少し呆れたように突っ込み、
リナは「えー、そう?」と小さく笑った。
ネネもつられて、愛想笑いを浮かべた。
ノノとリコは、
そのやりとりを静かに見ていた。
ネネの様子を気にかけながら、
隣のリコに目を向ける。
リコは微笑みを返したが、
ユイのことを気にかけていた。
──昨日の日記が、
現実になったせいかもしれない。
ふたりの先輩は「任せて」と言ってくれた。
でも、本当に大丈夫かな……
◇
【9月3日 午後13時12分】
【澄風女子学園・3年B組】
昼休みの教室は、
いつも通りの賑わいに包まれていた。
チヤとユウは隣同士の席に座り、
それぞれ弁当を広げている。
チヤは箸を手にしながら、
小さな手帳を開いて、
さらりとページをなぞった。
「今日のニュース見たけど、
ほんとにこの通りに起こってるね」
ユウがそう呟き、手帳にちらりと目をやる。
チヤは軽く頷いた。
「なんか、今のうちに少しだけ
力を溜めさせないといけないって」
言葉を切り、少しだけ眉をひそめる。
「無理に抑え込んでも、
また鏡の中に逃げ込まれるだけだから……」
ユウは箸を止め、ため息を漏らした。
「死なないってわかってても、
見て見ぬふりするのって、やっぱつらいね」
チヤは目を伏せ、そっと息を吐く。
手帳をめくる指が止まる。
「……でも、気になるのはこっち」
指先で押さえたページには、
自分たちが“力を得る”ことが書かれていた。
「……“力を得る”って、
魔法が使えるようになったりして」
少し楽しそうに言った。
チヤは思わず目を細める。
「もしそうだったら、ちょっと楽しみかも」
ユウはくすっと笑って、箸を置く。
「チヤがフリフリの衣装とか着たりして?」
「やめて、それは恥ずかしい」
「チヤだけじゃなくて、
私も可愛い衣装とかになっちゃうかもね?」
「それは……少し見てみたい気もする」
チヤは小さく笑うと、
また静かに手帳へ視線を戻した。
ユウは、ふと表情を曇らせる。
「……でも、こういうのってさ。
人間じゃなくなっちゃったりとか、
しないよね?」
チヤはわずかに顔を上げ、
ユウを見つめると、やさしく首を横に振った。
「……リコさんは、
多分そんなことになるなら、
私たちには頼まないと思う」
ユウはリコのことを深くは知らない。
それでも、その言葉を聞いて、
少し納得したように息を吐いた。
それ以上、
ふたりは言葉を交わさなかった。
ただ、黙って弁当をつつきながら、
時折視線を交わしていた。
そんな空気の中、教室の入口付近から
こちらを見つめる視線にチヤが気づいた。
そっと顔を上げると、
金髪をお団子にまとめた
留学生のクラスメイトが、
お弁当の巾着を片手に
真剣そうな眼差しで近づいてきた。
「二人とも真面目な顔して、どうしたの?」
そう声をかけながら、机の前に立つ。
ユウが肩をすくめて笑う。
「ん〜、ちょっとね。
一年の子とご飯食べてたの?」
「うん。中庭で」
「えー、ラブラブじゃん」
そう言うと、彼女は照れくさそうに笑った。
「そうそう、ねえ、
私たちが魔法少女になったら、どう思う?」
「……マホウショウジョ? なに、それ?」
慣れない日本語を探すように
ゆっくりと口にしながら、
真剣な目でユウを見つめた。
チヤが微笑んで、問いかけた。
「そういえば……魔女って、
フランス語でなんて言うの?」
彼女は少し考えるように視線を上に向ける。
「……sorcière?」
チヤとユウは顔を見合わせ、
くすっと笑った。
「……なにそれ……
ちょっと、おしゃれじゃん」
◇
【9月3日 午後4時25分】
【澄風女子学園・1年A組】
終礼が終わると、
教室は一気に帰り支度のざわめきに包まれた。
椅子の脚が床を引く音、
ファスナーの開く音、
あちこちで話し声や笑い声が飛び交っている。
隣のリコと話しながら
バッグに教科書をしまっていると、
前の方でネネちゃんが少し立ち止まり、
こっちを向いて軽く手を振った。
「……またね」
そのまま、足早に教室を出ていく。
今日一日、ずっと落ち着かない顔をしていた。
やっぱり、ユイちゃんのことが
心配なんだろう。
そっとリコに目を向けて言った。
「……行こっか」
リコもそっと頷き、
二人はそのまま並んで教室を出た。
そして学校を後にすると、
いつものように肩を並べて歩き出す。
やがて朝いつも待ち合わせをしている
小さな公園に差しかかると、
そこで自然と足を止めた。
◇
【9月3日 午後5時13分】
【あきがみ夢公園】
別れ際、横顔を見つめながら、
そっと問いかけた。
「ねえ……何か、
わたしに隠してることない?」
きょとんとした表情のあと、
ふわりと笑みが返る。
「……何それ。変なこと言うね」
その顔をじっと見つめながら、
息をついた。
「……だって、今日一日、
誰もリコに話しかけなかったでしょ?」
リコの視線がかすかに揺れた。
けれど、また曖昧な笑みで
ごまかすように返した。
その仕草に目を逸らさず、
ポケットからスマホを取り出す。
画面を開き、「きらきら放課後部」の
グループトークを表示させ、差し出した。
彼女は目を落とし、
そっと画面を覗き込む。
そこには、
なぜかリコの名前だけが抜け落ちていた。
トークの上に表示されたアルバムにも、
みんなで撮ったはずの写真は、
もうどこにもなかった。
彼女は沈黙のまま画面を見つめ──
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……やっぱり気づいてたんだね」
微笑んではいたが、
その目はどこか寂しげだった。
「……懐中時計をつけて
夢を見るようになってから、
なんとなく……自分のことが、
少しずつ薄れていく気がしてて」
「……わたしが、
気づいてないって思ってた?」
リコは小さく首を振った。
「ううん。ノノなら、
きっと気づいてるって思ってたよ」
それから彼女は目を伏せて言った。
「……昨日の夜、
ちょっとだけ決めたことがあるの。
でも、まだちゃんとは話せない。
……もう少しだけ待っててくれる?」
その言葉に、不安が胸に広がった。
手にしていたスマホをそっとしまい、
思わず口にしてしまう。
「……朝から、ネネちゃんも、みんなも、
リコのことを見ていない気がしてた」
言葉にすると、胸の奥がざわつく。
「……こんなことになるって
分かってて、やってるの?」
責めるつもりなんてなかった。
ただ、それだけが知りたかった。
「……うん。分かってて、
やってるんだと思う」
「……どうして?」
その問いにすぐ答えず、
小さく息を整えるような仕草。
やがて、静かに顔が上がる。
「わたしの大切なひとは、
ずっと忘れないって聞いたから」
リコは微笑みながらそう言ったけれど、
その瞳はわずかに潤んでいた。
言葉を返さず、ただ一歩、近づく。
そして、小さな体を抱きしめた。
彼女の腕もわたしの背中へと回される。
身を預けてくるその身体から、
かすかな震えと、
小さなすすり泣きの気配が伝わった。
リコの頬に、温かな雫がひと粒落ちる。
その涙に気づき、抱きしめる腕に、
ほんのわずかに力を込める。
しばらくそのまま、
離れずに、そっと耳元に顔を寄せる。
「……ねえ、約束してくれる?
何があっても……
ちゃんと、わたしに教えてね」
返事の代わりに、額が肩に触れた。
やがて、そっと体を離す。
リコは袖口で涙を拭い、
照れくさそうに笑ってみせた。
まだ帰るには、少し早い気がして、
そのまま並んで公園の奥へ歩いていく。
並んだブランコを見つけて、
ふと笑みがこぼれた。
「……ねえ、久しぶりに乗ってみない?」
「うん……いいね」
腰かけて、小さく足を蹴る。
きぃ、と鎖が鳴る。
「……よく、この公園で遊んだよね」
そう言うと、
隣からくすっとした笑いが返ってきた。
「小学生の頃に戻ったみたい」
しばらく、言葉もなく揺れる。
「……なんだか、
こうしてると全部夢みたいに思えてきた」
リコがぽつりと呟いた。
「夢なら……いい夢を見ていたいな」
そう返すと、ふと目が合った。
揺れのリズムに身を任せながら、
そっと微笑む。
ふわりと、やさしい笑みが返ってきた。
──やがて空は少しずつ色を変えはじめる。
リコが先に立ち上がり、手を差し出した。
「……帰ろっか」
その手をしっかりと握り返す。
繋いだまま、ゆっくりと歩き出した。
公園の入り口で立ち止まり、
そっと彼女の瞳を見つめる。
そして──
いつもと変わらない声で、やさしく言った。
「……またあした」




