scene.20 「鏡の呼び声」
【9月2日 午前6時30分】
【香坂ユイの自室】
スマホのアラームが、
枕元で控えめに鳴り出した。
顔をしかめながら掛け布団の中で手を伸ばす。
目を開けないまま、
指先が慣れた動きで画面をタップ。
アラームが止まる。
「……おはよう」
(……おはよう)
どこかで聞こえた気がした声。
でも驚かない。
当たり前のようにその言葉を受け入れる。
この声と朝の挨拶を交わすのは、
もう日課になっていた。
「今日も……ネネちゃんに会えるね」
(……そうだね)
鏡のふちをそっと撫でた。
「ちゃんと、笑えるかな……わたし」
(だいじょうぶ。いつものユイなら、きっと)
──優しい声。
それが誰のものかなんて、
もう気にしていない。
◆
夏休みは、あっという間に
過ぎてしまった気がする。
8月のはじめ、みんなで海へ行った。
その日のことを思い出すだけで、
胸の奥があたたかくなる。
けれど、その後はなかなか会えなかった。
ネネちゃんは家族と海外に行っていたし、
わたしもお盆には祖父母の家へ。
スマホでメッセージは送りあっていたけど、
会えない日々の中で、
ふと心細くなる夜があった。
寂しいと思ったとき、
心の中で声がしている気がした。
最初は自分の思い込みだと思っていた。
でも、何度も繰り返すうちに──
それが、本当に誰かの声のように思えてきた。
(ユイは、ひとりじゃないよ)
────────‡────────
scene.20 「鏡の呼び声」
────────‡────────
その声が、鏡越しに
聞こえてくるようになったのは……
いつからだったろう。
夏祭りの日に見ないと決めたはずなのに、
気づけば毎朝のように手に取っていた。
まるで、そこにあるのが当然みたいに。
鏡は何も言わない。
ただ静かに、こちらを映し返すだけ。
それなのに、「わかってるよ」って
言ってくれているように──
あたたかく、笑ってくれる気がしていた。
……でも、昨日。
夏休みが明け、
久しぶりにネネちゃんと会って思い出した。
あの日、夏祭りの夜に交わした約束。
「もう、見ない」って、たしかにそう言った。
ネネちゃんは信じてくれてた。
だから──これ以上、裏切りたくない。
もし、このことを知ったら、きっと……
失望される。
そう思って、手鏡に目を落とした。
立ち上がり、机の引き出しを開ける。
奥から出てきたのは、
柔らかく包まれた、ひとつのリボン。
おそろいで買った、あの夏の日の記憶。
──触れるのが、少し怖い。
今の気持ちじゃ、
まだつけられそうになかった。
でも、それを見つめることで、
ようやく思い出せた気がした。
あの日、何を願っていたのか──
手鏡を淡い黄色の巾着に入れ、
リボンの隣にそっと置く。
あの夏の、約束のとなりに。
引き出しを閉じた指先に、
ほんのかすかな名残が残る。
それを断ち切るように、息をひとつ整える。
──もう、大丈夫。
……そう思いたかった。
机の上の本棚に立てかけてある
折りたたみの鏡を手に取って開き
メガネをかける。
鮮明になった視界に
映る髪の乱れを見つめて、ため息をひとつ。
ゆるく束ねていた髪のゴムを外し、
毛先からゆっくりとヘアブラシを通していく。
階下からは、焼きたてのトーストの
香ばしい匂いがふんわりと漂ってきた。
そのままクローゼットの前に立ち、
制服に着替える。
襟元を整え、スマホを片手に部屋を出て
キッチンへと向かった。
お母さんがすでにトーストを焼いていて、
「いただきます」と静かに手を合わせた。
一口かじると、ジャムの甘さが口に広がる。
……その味すら、なぜか少し遠くに感じた。
きっと、さっき引き出しを
閉じたときのことが、
まだ心の奥にひっかかっている。
食器を洗い終え、
「ごちそうさま」と声をかけると、
すぐ後ろから手が伸びてきて、
小さなランチバッグが手渡された。
「はい、お弁当」
「……ありがとう」
そのいつもの重みが、
手のひらにそっと馴染んで、
少しだけ胸のざわつきが和らぐ。
階段を上がり、自分の部屋へ。
バッグの中身をひとつずつ確かめる。
財布、ノート、ペンケース……
手鏡以外は、全部ある。
スクールバッグのチャックを
きゅっと閉める。
深呼吸をひとつして、部屋の扉に手を伸ばした
──はずだった。
気がつけば、また机の前に立っていた。
(……あれ?)
夏休みが明けたばかりで、
まだ頭がぼんやりしているせいかもしれない。
そう思って、深く考えないまま部屋を出た。
◆
家を出てから、駅までの道をゆっくりと歩く。
「ユイちゃん!」
顔を上げると、向こうの横断歩道の先──
朝日を背に、雪城ネネが
ひらひらと手を振る姿があった。
手を振る勢いのまま、駆け寄ってくる。
スクールバッグにつけられたキーホルダーが、
ぱたん、ぱたんと
小さく跳ねるように揺れていた。
「おはよ〜!」
その笑顔はまるで
夏の光をそのまま連れてきたみたいで──
一瞬、まばたきした。
「……おはよう」
ちょっとだけ頑張って、笑ってみせた。
今の自分には、それが精一杯だった。
でも、その小さな笑みを
ちゃんと受け取ってくれたみたいに
やわらかく微笑み返すと、
すっと隣に並んできた。
そのとき、視界の端で何かが揺れる。
髪に結ばれた、編み込みリボン。
朝の風を受けて、ふわりとそよいでいた。
いつもと変わらないはずなのに、
なぜか、胸の奥がほんの少しざわついた。
ネネちゃんは隣で、
何か楽しそうに話し続けていた。
身振り手振りを交えながら、
リズムよく歩く足取り。
わたしは頷いたり、
相槌を打ったりしていた──
つもりだった。
でも、言葉の意味は
ほとんど頭に入ってこなかった。
足元に続く影がふたりぶん並んでいるのを、
ぼんやりと見つめていた。
気づけば、校門をくぐり、
昇降口を抜け、教室の前まで来ていた。
──夏休みが明けて、
ネネちゃんに会えたはずなのに。
どうしてだろう。
心のどこかが、
まだ遠くに置き去りのままだった。
◆
【9月2日 午前8時3分】
【澄風女子学園・1年A組】
教室に入ると、
すでにほとんどの生徒が揃っていて、
あちこちで朝の会話が交わされていた。
ざわめきの中、いつもの席へ向かい、
バッグを机の上に置く。
窓の外に視線を向ける。
朝の光が少し眩しい。
何気なくチャックを開けて、
教科書を取り出そうとして──
ふと、手が止まる。
見慣れたものが目に入った。
淡い黄色の巾着。
(……どうして?)
思考が一瞬、止まりかける。
でもそれより先に、
こみ上げてきたのは焦りだった。
そっと周囲に目を走らせ、
気づかれないように
巾着をポーチの中へと押し込む。
そのまま、バッグの奥へ滑り込ませた。
チャックを閉める指先が、
わずかに震えていた。
気づかれていたらどうしよう──
そんな不安が頭をよぎり、
おそるおそる振り返る。
ネネちゃんは、机にノートを広げて
朝の準備をしているところだった。
こちらに視線は向いていない。
少しだけ、安堵の息がこぼれたその時、
チャイムの音が鳴り、
朝のホームルームが始まった。
担任の声が教室に響くけれど、
意識はどこか遠くにあった。
ノートを開いても、
文字はほとんど目に入ってこない。
話す言葉も、黒板の内容も、
なぜか現実感がなかった。
巾着の感触が、まだ手に残っている気がする。
(……ネネちゃんに見つかったら、
どうなるんだろう)
そんな考えが、ふいに胸の奥を掠める。
◇
【9月2日 午後12時40分】
【澄風女子学園・1年A組】
いくつかの授業が過ぎて、
昼休みのチャイムが鳴る。
ざわめく教室の中で、
ユイはそっと顔を上げた。
椅子を引き、机をくるりと回して
ネネの机と向かい合わせに並べる。
視線が合うと、ふたりの間に
やわらかな空気が流れた。
そこへ、陽日リナが軽やかにやってくる。
「ごはんタイムだ〜!」と笑って、
机の端に弁当箱を置く。
そのあとを追うように、
月森ミナと綾瀬ノノ、白咲リコも集まり、
それぞれの席から弁当やパンを持ってくる。
教室の一角に、
いつもの昼休みがはじまった。
リナがから揚げを頬張りながら、
ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえばさー、
ネネちゃん、イギリスで何食べてたの?」
ネネは口元をおさえて、
んー……と少し考える。
「えっとね、お父さんが
よく行ってるお店に連れてってもらったの。
フィッシュ&チップスっていうのが
有名らしくて」
「わあ……本場の、ってことだよね。
いいなあ」
ノノが目を細めて微笑む。
ミナが「お父さん、イギリスで
お仕事してるんだっけ」と、たずねると、
ネネは「うん」と小さく頷いた。
「もう何年かロンドンにいて。
なかなか帰ってこれないから、
夏休みに会いに行ったんだ〜」
リナが「海外で働いてるとか、
めっちゃかっこよくない?」と
声を弾ませると、
ネネは少し照れくさそうに笑った。
「ずっと忙しそうだったけど……
ちょっとの時間でも一緒にいられて、
嬉しかったな」
ユイは黙ってその会話を聞きながら、
お弁当の端に残った卵焼きに
ゆっくり箸を伸ばしていた。
◆
【9月2日 午後12時53分】
【澄風女子学園・1年A組】
「購買、プリンまだ残ってるかなー。
お昼食べたあとって、
ちょっと甘いの欲しくならない?」
「リナってほんと甘党だね〜。
クッキーもいいけど、今日はプリン気分かも」
ふたりはそんなことを言いながら、
楽しそうに教室を出て行った。
机の向きを戻しながら、
つい、背中を目で追ってしまう。
自分のバッグを置いて
チャックを開け、お弁当箱をしまっていた。
──ふと、視線を感じた気がして、
手が止まる。
「ユイさん……
今、ちょっといいですか?」
(……来たよ。懐中時計の子)
声がして、思わず顔を上げた。
少しだけ、どきっとした。
「リコちゃん……うん、大丈夫」
自分でも、そう答えられたことに驚いた。
口元に浮かんだ微笑みは
思いのほか自然だった。
「……少しだけ、お話してもいいですか?」
(……ネネちゃんと、
一緒になりたいんでしょう?)
その声に、気づいたら頷いていた。
リコちゃんに返したつもりだった。
でも──本当に応えたのは、
どちらだったのか。
「ユイさん……その、最近なにか……
不思議なことってありませんでしたか?
たとえば、鏡を見ていて……
ちょっと変だなって、思ったこととか──」
(……やっぱり、
私たちのことに気づいてる)
一瞬、視線が彷徨う。
でもすぐに笑って、首を横に振った。
「ううん、別に。なんにも……ないよ」
その言葉を口にしている間、鼓動の速さが
どんどん増していくのがわかった。
「……ユイさん。
あの、いつも持っている鏡……
今も持ってますか?」
(ネネちゃんを、今なら奪えるんじゃない?)
バッグの取っ手をつかんだ指先が、
小さく震えていた。
「ううん……もう使ってないよ。
……見ないって、決めたから」
──その瞬間。
(……いま!)
「……っ」
急に胸の奥がきゅっと
締めつけられたようになり、
思わず口元を押さえる。
勢いよくバッグの中へ手を突っ込み、
ポーチを乱暴に引き抜いた。
息が詰まりそうな感覚のまま、
そのまま教室を飛び出した。
◆
廊下を駆け抜けながら、
どうにか呼吸を整えようとしていた。
でも、胸の奥で鼓動がうるさい。
頭の中に、あの声がまだ反響している。
誰かに見られたかもしれない。
……そんなことを考える余裕すらなかった。
とにかく、一人になれる場所へ。
トイレの扉を押し開け、
まっすぐ洗面台に駆け寄る。
蛇口をひねり、
冷たい水を両手ですくって顔にかけた。
濡れた指先を軽く振る。
ふと、据え付けの鏡に目をやる。
映った自分と、視線がぶつかった。
──その瞬間。
ふっと何かが抜けるような感覚がした。
ポーチのチャックに指がかかり、
気づけば、巾着に手が伸びていた。
(……いや、だめ)
心の中で叫んでも、指は止まらなかった。
そのまま巾着の口をほどいて、
手鏡を取り出す。
そこには、感情のない顔が映っていた。
まるで他人みたいに、なにも語らない目。
(……これ、本当にわたし?)
鏡が、ゆっくりと傾く。
手の中で、なにかに導かれるように。
鏡面に、リコちゃんが映った。
扉のそばで立ち尽くしてる。
目を見開いて、こわばった表情。
まるで、恐ろしいものを
見てしまったかのように──
すぐ後ろに、もうひとつ影が映る。
ノノちゃんだ。
「……リコ?」
声が聞こえた、その瞬間。
何かがはじけるように──
意識が現実へと戻ってきた。
鏡の中の“わたし”を、しばらく見つめていた。
はっとして視線を逸らし、手鏡を巾着に戻す。
慌てて足元に落ちていた
ポーチを拾い上げ、その中にしまい込む。
ほんのかすかな声が、唇からこぼれた。
「……ごめんなさい」
その言葉は、誰に向けたのかさえ
よく分からなかった。
◇
──教室へと戻る廊下の途中で、
リコが小さく声をかける。
「……このことは、誰にも言わないから」
その言葉に、ユイは一瞬だけ立ち止まり、
ゆっくりと頷いた。
教室に戻ると、
いつもの昼休みの空気がまだ残っていた。
「ユイちゃん、おかえり〜」
「プリン、ちゃんと取っておいたよ?」
リナはユイの机に横向きに腰掛けて、
ネネと笑い合いながらプリンを食べていた。
机には未開封のプリンが
三つ並んでいる。
ユイたちは微笑み返しながら、
そっと席へ戻っていった。
──まるで、何もなかったかのように。
◆
【9月2日 午後9時18分】
【香坂ユイの自室】
ベッドの上で体育座りをしていた。
制服のまま眠ってしまったらしく、
スカートの裾が少しくしゃっとしている。
部屋の中は静かで、
窓の外からは虫の声だけが聞こえてくる。
机の上には、巾着に入ったままの鏡。
──帰ってすぐ、
バッグから出して置いていた。
知らないうちに持ち出していたことが、
なにより怖かった。
そして、それ以上に──
(ネネちゃんとの、約束……
破っちゃった)
唇を、そっと噛みしめる。
あの日、夏祭りの夜に、たしかに誓った。
「もう、見ない」って──
自分で決めたはずだった。
それなのに、裏切ったのは、
わたしのほうだった。
……夏休みのあいだ、何度も見てしまった。
ひとりで眠るのがつらかった夜。
会えない時間を、
あの鏡と一緒に過ごしていた。
つまり、“見ない”と決めた約束を、
少しずつ、何度も、
自分から破っていたということ。
怖かった。
それ以上に、情けなかった。
……でも、今日の昼休みのことを思い出すと、
今度は、違う恐怖がこみ上げてくる。
あのまま誰かを傷つけていたかもしれない。
もう、
この鏡を手元に置いておいてはいけない。
そう思った。
そっと立ち上がり、
机の上の巾着に、手を伸ばした。
──そのときだった。
巾着の口元から、
もわっと赤黒い霧が立ちのぼる。
まるで蒸気のように広がり、
熱を帯びたそれが、指先に触れた。
じり、と焼けるような感触。
思わず手を引っ込める。
霧はすぐにかき消えたが、
巾着の中に眠る“何か”が、
反応したことだけはわかった。
そして──
(……へえ、私を捨てるんだ)
耳元で、囁くような声がした。
ぞくりと背筋が冷えた。
(あんなに頼ってたのに……
もう、いらないんだ?)
息を呑むと、巾着の中で──
ごそり、と何かが動いた。
反射的に、半歩後ずさる。
するりと巾着の口がひとりでに開き、
中から鏡がゆっくりと滑り出す。
まるで意思を持つかのように。
赤黒い霧を纏いながら、
ゆっくりと宙を漂い──
目の前で、ぴたりと静止した。
薄闇の中、その鏡面がじんわりと
妖しく光を帯びはじめる。
(もう少しだったのに。あと少しで──
あの力を、手に入れられたのに)
(ずいぶん、がんばって
抵抗してくれたね……ユイ)
言葉を失ったまま、
ただ目の前に浮かぶ鏡を見つめていた。
体が動かない。
手のひらが、じわりと湿っていく。
心臓の音が、脈打つように響いていた。
助けを──誰かに、求めたい。
でも、思い浮かぶのは──たったひとり。
——ネネちゃん……
その名前を呼びたかった。
けれど、声にはならなかった。
喉の奥でつかえて、
かすれた吐息に変わるだけ。
瞳の奥が、じんわりと熱くなる。
けれど、涙すら出せずにいた。
(……ネネちゃんのこと、
こんなに好きなのに)
(どうして──伝えられないの?)
鏡の中の“誰か”が、
まるで心の奥をなぞるようにささやく。
(怖いの? 拒絶されるのが?)
(それとも……あの子の隣に立つ“資格”が、
ないって思ってる?)
言葉なんて、返せるはずもなかった。
全部、図星だったから。
(言えないなら──
私が代わりに、伝えてあげようか)
(ユイの“全部”を──)
「やめて……」
ようやくの思いで声を絞り出す。
掠れたその声は、
自分でも驚くほどか細くて、泣きそうだった。
「それだけは……絶対、ダメ……」
震える手が、胸元をぎゅっと掴む。
鏡の中の“それ”は、ただ静かに──
けれどどこか愉しげに、微笑んでいた。
(じゃあ、ユイが言ってあげなよ。
ネネちゃんに)
(言わなきゃ、何も変わらないよ?
このまま何も言わないで、
全部失ってもいいの?)
(──ねえ、ユイ)
(“いつ”告白するの?)
震える唇が、かすかに動く。
「……それは……」
言葉が、そこで途切れた。
喉の奥で何かがつかえて、
次のひと言が出てこない。
(じゃあ、このまま何も言わないで、
誰かに奪われても、いいんだ?)
「……いや……やだよ……」
絞り出すように、震える声が漏れる。
息が苦しい。
でも、それだけははっきりしていた。
「ネネちゃんは……
誰にも……渡したくない……」
喉の奥が焼けるみたいに苦しくて、
でも、その気持ちだけは嘘じゃなかった。
(……そんなに好きなんでしょう?)
(だったら……)
(──奪っちゃえよ)
気づけば手が動いていた。
ゆっくりと──
まるで迷いなど初めからなかったように、
自分の頬に触れる。
赤縁のメガネが、静かに外され、
ぽとりと床へ落ちた。
顔を上げる。
その瞳は赤黒く染まり、
深い水の底に沈んだようにただ濁っている。
もう、瞳の奥には光のきらめきすらなかった。
そして、静かに口元が歪む。
それは、ふだんのユイとはまるで違う、
甘く艶やかな微笑み。
──その笑みを湛えたまま、
鏡へと手を伸ばす。
すうっと体から霧があふれ、
風が走り抜けてカーテンが大きく揺れる。
その隙間から──夜空が覗いた。
鏡に浮かぶのは
沈んだ瞳と、光を失いかけた新月の影。
ふたつの闇が、妖しく重なっていた──




