scene.18 「干渉者」
【9月1日 午後3時30分】
【あきがみ夢公園】
昼下がりの秋神市、
駅前の喧騒から少し離れた小さな公園。
休日には親子の姿も見られるが、
平日の今はベンチも遊具も空っぽで、
ひっそりとしていた。
その静寂の中で──
ふいに、空気が軋むような音が走った。
空の高みから、
中央に穴の空いた青白く輝く歯車が、
ゆっくりと回転しながら降りてくる。
歯車が降りるたびに光が走り、
頭部から肩、胸元へと輪郭が描かれていく。
やがて全身が形を取り戻し──
光が消えたあとには、
薄水色の髪をシニヨンにまとめた女性が、
目を閉じたまま立っていた。
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scene.18 「干渉者」
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それは白咲リコ──いや、
“大人になった”白咲リコだった。
彼女はゆっくりと目を開け、周囲を見渡す。
胸元の懐中時計にそっと触れ、
静かに息を吐いた。
(……これが最後かも)
ブラウスの上に揺れる
懐中時計型のネックレスが、
淡く、頼りない光を放っていた。
その光は今にも消えそうだったが──
彼女の瞳だけは違っていた。
疲れをたたえながらも、
そこには確かな意志の光が、
はっきりと宿っていた。
◇
同じ頃、澄風女子学園の
校門を出て坂を下る歩道で、
ふたりの生徒が並んで歩いていた。
銀縁の丸メガネに、
ゆるやかなサイドテール
──天野チヤ。
その隣で、グレーのショートカットに
穏やかな笑みを浮かべる
──霧島ユウ。
今日あったことや他愛ない話を交わしながら、
歩道をゆっくりと歩いていた。
駅前の広場に差しかかった、そのとき──
「……あの、天野チヤさんと
……霧島ユウさん」
声をかけたのは、広場のベンチに
腰掛けていた女性だった。
ふたりは同時に足を止め、
その声の主に目を向けた。
淡い水色の髪に、黄色い縁の眼鏡。
胸元では、懐中時計の
ネックレスが揺れている。
大人びた姿──それでも、
図書室で何度も話した
あの白咲リコの面影が残っていた。
「……リコ、さん……?」
チヤがつぶやく。
その隣で、ユウが「誰……?」と
声をかけかけた、そのとき──
女性は、布でできた
小さなしおりをそっと取り出した。
それは、数ヶ月前、
チヤが手作りして、リコに渡したものだった。
「わたし……白咲リコです」
指先がしおりに触れる。
──そして、ふっと微笑んだ。
「……うん、やっぱり……リコさん、だね」
「すみません、少しだけ、
お時間をいただけませんか」
やわらかな笑みを浮かべながら、
二人にそう告げた。
「お話ししたいことがあるんです。
──できれば、静かな場所で」
その言葉に、チヤはユウと
視線を交わし、うなずいた。
「……うん、わかった。場所、移そう」
そして三人は、駅前の広場をあとにする。
目指す先は駅前の裏路地に佇む静かなカフェ。
──ロマール。
◇
【9月1日 午後4時5分】
【カフェ・ロマール】
扉を開けると、
柔らかな鈴の音が静かに店内に響いた。
漂うのは、コーヒーと焼き菓子の甘い香り。
カウンター奥から、低く澄んだ声が届く。
「いらっしゃいませ」
三人の視線の先にいたのは、
オーナーの夢守コヨミだった。
白いカップを丁寧に拭き終えた彼女は、
布巾をそっと置き、
優雅な微笑みをたたえながら
ゆっくりと歩み寄ってくる。
その視線が一瞬、
リコの胸元で揺れる懐中時計に向けられたのを
チヤだけが、確かに見ていた。
けれどコヨミは何も言わず、穏やかな笑みのまま
奥のテーブル席を指し示した。
「どうぞ、こちらへ」
三人は無言のまま、その手に導かれるように
店の奥へと歩を進めた。
腰を下ろすと、コヨミは水の入ったグラスを
一つずつ、丁寧に置いていく。
やわらかく微笑みながら、
「少しお待ちください」と言い添えると、
カウンターの奥へと静かに戻っていった。
やがて、トレーを手に再び現れる。
テーブルにはティーポットと
小ぶりな三人分のカップ。
そして、クッキーを添えた小皿を
やさしい所作で、それぞれの前に置いていく。
「よろしければ、少し落ち着いてからで。
……ご注文は、あとで伺いますね」
最後にそっと一礼すると、
コヨミは静かにその場を離れていった。
リコはその背を目で追いながら、
小さく「ありがとうございます」と呟く。
そして、バッグの口を開け、
中から一冊の、小さな手帳を取り出した。
擦れた表紙には
いくつもの折り目が刻まれ、
何度も開かれた跡が残っている。
リコは、手帳の表紙に
一瞬、目を落とし──
「……信じてもらえるか、
わかりません。でも……」
小さく息を吸って、
ふたりを正面から見つめる。
「……変なことを言うかもしれません。
でも……チヤさんは、
なんとなくわかっている気がします。
一拍おいて、リコははっきりと言った。
「わたし、未来から来たんです。
先輩たちに……伝えたいことがあって」
ユウは眉をひそめながらも、
じっとその瞳を見つめていた。
「……未来から来たって、
そんないきなり言われても……
漫画じゃないんだから」
リコは、ユウの胸元あたりに視線を落とす。
「……その銀の鍵のネックレス、
チヤさんからもらったものですよね?」
ユウは、ぎょっとしたように目を見開き──
ぴくりと肩を揺らす。
ネックレスは、制服の下に隠れていて、
外からは見えていない。
「それと──未来のチヤさんに言われました。
こう言えば、ユウさんはきっと
信じてくれるって」
リコは小さく息を吐き、
そのまま、静かに言葉を続けた。
「バラは……十二本になった、って」
その言葉を聞いたチヤが、ふっと微笑んだ。
「未来のわたしがそんなこと……」
そう囁きながら、
机の下でそっとユウの手を握った。
「……信じても、いいかもね」
ユウは少し驚いたように、隣を見た。
チヤは何も言わず、
ただやわらかなまなざしで
見つめ返していた。
そのやりとりを見ていたリコは、
わずかに微笑んだ。
──これなら、きっと伝えられる。
そう思いながら、手帳をそっと開いた。
「まず……わたしが、
どうしてここに来たのか。
順を追って説明しますね」
そう言いながら、
テーブルの中央に置かれた
ティーポットに手を伸ばし、
ふたりのカップに紅茶を注いでいく。
湯気の立ち上るその香りが、
ほんの少しだけ、場の緊張をほどいた。
ロマールの落ち着いた空気の中で、
ゆっくりと語り始める。
◇
「……香坂ユイさん。
わたしのクラスメイトだった彼女は、
いつも小さな手鏡を持っていました。
でも、その鏡には──
霧のような“何か”が、
取り憑いていたんです。
……その存在は、
誰かを想う気持ちを、
まるで養分みたいにして
取り込んでいたんです。
やさしさや不安に
寄り添うふりをして、
気づかないうちに、
心の奥に入り込んできて……
ユイさんは、それに気づかないまま、
少しずつ、心を蝕まれていきました。
──そして、その存在は、
やがて、わたしの懐中時計にも
気づいたんです。
宿っている能力は、未来を見ること。
そして、その“見た未来”を書けば、
現実にする力。
それからもうひとつ。
大人になってから得た、
過去に戻る力。
……その存在は、
時計の能力を奪おうとして、
ユイさんを操って狙ってきたんです。
最初は、気づけませんでした。
手鏡に飲み込まれてしまったユイさんは、
もう、自分では止められない
存在になっていて……
わたしには……何もできなかった。
だから、過去に戻ることにしたんです。
この力を使って──未来を変えるために。
そのとき、思ったんです。
『ユイさんが持っていた鏡さえ壊せば──
中にいた“それ”も、
きっと一緒に消えるかもしれない』って。
……でも、甘かった。
鏡を割ったことで、
“それ”は壊れるどころか、
封じられていた力を
解き放ってしまったんです。
鏡は砕け、
破片となって散らばりました。
そして、“それ”も
同じように分散して……
器を失った“それ”は、今度は──
愛する想いを抱いた大勢の人たちの心に、
取り憑いていくようになったんです。
……結果的に、最悪の未来を
作ってしまったのは、わたしでした」
リコは一度言葉を止め、
カップを手に取り、
ミルクティーを一口飲んだ。
「だから、もう一度過去へ戻って──
先輩たちに相談して、力を借りて
なんとか、“それ”を倒しました。
けれど……今度は──」
リコはわずかに目を伏せ、
言葉を探すように息を吸った。
「……わたしの、大切な人。
綾瀬ノノに、取り憑いてしまったんです。
彼女は、取り憑かれたあとも……
わたしに、それを気づかせないように、
ずっと……。
……気づいたときには、もう……」
そう言いかけたリコの声が、
かすかに震え、言葉が続かなくなった。
沈黙が落ちたその空気。
チヤが静かに口を開く。
「……大丈夫、リコさん」
その声は、驚くほど優しかった。
「無理に言葉にしなくてもいい。
ここまで話してくれて、ありがとう」
そう言って、
チヤはそっと手を差し出す。
何かを求めるわけでもなく、
ただ、そこにある温もりだけが
リコを支えていた。
リコは、小さくうなずき、
震える呼吸を整えるように
深く息を吐いた。
この時計の力を使えば、
「……たぶん、もう、
過去へ戻る力は残っていないんです──」
その瞳には、かすかな寂しさが宿っていた。
「先輩たちの力を借りるのは、これで二度目。
そして──これで最後にしたいんです」
ユウが小さく息を呑み、
ためらうように問いかける。
「……それで、私たちは……
どうすればいいの?」
リコは目を伏せ、
言葉を選びながら口を開いた。
「……明日、ユイさんが学校で、
“それ”に乗っ取られそうになります。
そのまま放っておけば──
ユイさんは“それ”を拒絶しようとする。
でも、それでは、
不安定なまま共存が続いてしまう。
……そしてある日、突然、
取り返しのつかないことが
起きてしまうんです」
リコは手帳を開き、
あるページをめくった。
その指が、ひとつの記述の上で止まる。
「だから──“高校生のわたし”に、
その夢を“書かせる”必要があります。
書かれた夢は、現実になる。
そして、明日の夜──
ユイさんは“それ”に一度、呑まれます」
リコの声に、揺るぎない決意がにじむ。
「そして……先輩たちの力で、
“それ”を倒してほしいんです」
ユウが、不安そうに眉を寄せて問いかけた。
「……“倒す”って言っても、
どうやって?
私たちに、そんなことできるの?」
リコは、はっきりと頷いた。
「わたしに過去に戻る力をくれた存在……
その方たちに……会ってほしいんです。
それで今日、こうして……来ました。
わたしは、“過去に戻る”ことしかできません。
でも、“あの鏡に取り憑いているものに
立ち向かえる力”は
……あなたたちにしかないんです」
「……どうして、私たちなの?」
チヤの問いに、リコは一瞬うつむき、
それからふたりの顔を見て、静かに答えた。
「わたしの知っている人のなかで──
あなたたちの想いには、
“誰かを守りたい”っていう
強い力がありました。
それは未来でも、ずっと変わらなかった。
だから……」
「──もう、いいよ」
ユウが、ぽつりと口を挟んだ。
「なんか、全部知られてるみたいで……
ちょっと、恥ずかしくなってきちゃった」
そう言って、
目をそらすようにクッキーをかじる。
その様子に、チヤがくすっと笑った。
「そういうとこ、可愛いね、ユウちゃん」
ふたりの間に、やわらかな空気が流れた。
「……それじゃ、私たちで──
明日の放課後、リコさんに話してみる」
「ありがとうございます」
リコは、安堵の笑みを浮かべながら頷いた。
「……わたしは、屋上にいるはずです。
ひとりで考え事をしていて……
きっと、明日も同じ場所に」
「──そして、これを」
リコは手帳を、チヤの前に差し出す。
「この中には、未来でわたしが見たこと、
してきたこと……全部が書いてあります」
チヤは受け取る手を少しだけ迷い、
それでも──しっかりと受け取った。
その手元、手帳の上に──
ユウがそっと、自分の手を重ねる。
ふたりは目を合わせると、
静かに頷き合った。
◇
「おつかれさま」
やわらかな声が静かに届いた。
カウンターの奥からコヨミがやって来ていた。
変わらぬ微笑みをたたえたまま、
小さなメモを持っている。
「ご注文、そろそろ伺っても大丈夫かしら?」
コヨミのやわらかな声に、
少し張り詰めていた空気がふっとゆるむ。
リコは静かに笑って、ふたりに目を向けた。
「……なんでも頼んでくださいね」
「ほんと? んー……チヤ、どうする?」
チヤはそっと左手の袖をずらし、
腕時計に目を落とした。
「……もうすぐ、五時か」
少し考えるように視線を落としたあと、
ユウの方に顔を向けて、やわらかく笑った。
「ねえ、このケーキ、半分こしない?」
「いいね、それ」
ユウはクッキーを一つ手に取り、
軽くかじってから、ぽつりとつぶやいた。
「このクッキー、美味しいし……
もうちょっと欲しいかも」
ふたりがそれぞれの
注文を決めるのを見届けてから、
リコもやわらかく微笑んで言った。
「じゃあ、わたしも。
チーズケーキと──ミルクティー、
お願いします」
「かしこまりました」
コヨミは丁寧に頷きながら、
手元のメモにさらさらと書き込んでいく。
そして、やわらかな声とともに一礼すると、
静かにカウンターの奥へと戻っていった。
「そういえばさ。
リコさんって、今いくつなの?」
リコは少し笑って、ふたりの顔を見た。
「えっと……今年、二十五歳かな」
ユウは軽く目を丸くして、
それからぽつりと続けた。
「……ってことは、
私たちって……二十七歳くらい、ってこと?」
「そうですね」
「ねえ、未来の私たちって……どんな感じ?」
ユウがふと問いかける。
リコはほんの少し困ったように笑って、
小さく肩をすくめた。
「んー、それがですね、チヤさんに、
“あんまり話すな”って言われていて……」
ユウはくすっと笑いながら、
すぐ隣のチヤに目を向けた。
「……チヤらしいね」
手に取っている紅茶の入ったカップを
ゆらゆらと揺らしながら、問いを重ねた。
「じゃあ……私ってさ、
未来で何か仕事してたりするの?」
リコは少し思い出すように上を見た。
「詳しくはよく知らないんですけど、
たしか、ブライダル関係の仕事をされてるって
聞いたことがあります」
「へえ……」とユウがぽつり。
チヤが、少し笑いながら横から口を挟んだ。
「けっこう乙女なところあるから、
ぴったりかもね」
ユウは、ちょっと照れたように
視線をそらすと、カップにそっと口をつけ、
紅茶を一口飲んだ。
「お待たせしました」
コヨミがケーキとティーカップの乗った
トレーを手に現れる。
手際よくテーブルに並べていき、
最後に小さく会釈をして、
カウンターへと戻っていった。
ほんのり甘い香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
「わ、おいしそう……」
ユウが目を輝かせながらケーキを見つめる。
チヤはそっとフォークを手に取り、
ナイフでケーキを半分に分けた。
「……こっち、ちょっと大きいけど。いい?」
「うん、ありがと」
三人はケーキやクッキーを口に運びながら、
とりとめのない話を交わしていく。
話題はころころと移ろいながら、
あたたかな時間が流れていった。
◇
「じゃあ、私たちはそろそろ──」
ユウが言うと、リコはふたりに向き直る。
「今日は……本当にありがとうございました。
おふたりがいてくれて、よかったです」
「うん。また明日、ね」
ふたりがやさしく微笑む。
リコはふたりを見送るように、
カフェの扉をそっと開けて外に出た。
夕暮れの風が頬をなで、
遠ざかっていく背中を、静かに目で追う。
「……また、明日」
声に出すことなく、小さく唇を動かした。
しばらく、夕暮れの空を見上げていた。
すると──
「……運命の輪は、回っているみたいですね」
背後から、静かな声が届く。
リコが振り返ると、
コヨミが扉をそっと開け、
寄り添うように立っていた。
「──どうぞ、中へ」
そう言いながら、コヨミは扉を開けた。
その言葉に、微笑み返し、
店の中へと戻っていった。
扉の鈴が、小さく優しい音を響かせる。
夕暮れの秋神市。
街の一角に、静かに佇むカフェ・ロマール。
窓硝子は夕陽を受けて
きらきらと輝いていた──




