scene.17 「ひとつの結末」
【7月19日 午後8時40分】
【香坂ユイの自宅】
住宅街に夜の闇が広がっても、
蒸し暑さだけは消えずに残っていた
ユイの部屋──
彼女はお風呂に入るため、部屋を出ていった。
水の流れる音が微かに伝わるのを確認すると、
影は静かに動き出した。
足元には、壁際に置かれた古い室外機。
その上に身を乗せ、軒下の排水管を伝って
二階の窓へと手を伸ばす。
窓は、風を通すためにわずかに開いていた。
開いた窓の縁に指をかけ、
影は猫のような身のこなしで
音もなく室内へと滑り込んだ。
足音ひとつ立てることなく
部屋に足を踏み入れ、
机の引き出しへと迷いなく手を伸ばす。
目的は決まっていた。
引き出しの奥、淡い黄色の巾着袋。
手に取ると、巾着の口をゆっくりと解く。
その中には、小さな手鏡。
月明かりがわずかに反射し、鏡面が揺れる。
躊躇いながらも鏡面をそっと覗き込む。
──その瞬間だった。
鏡面がかすかに脈動し、
そこから赤黒い霧が一気にあふれ出す。
ゆらりと、霧の奥に蠢くもの。
それが“見えた”と思った刹那──
黒い影が、触手のように鋭く伸びる。
はっと息を呑んだ次の瞬間には、
壁に向かって投げつけていた。
鏡が壁にぶつかった瞬間、
甲高い音を響かせて砕け散った
細かな破片が宙に舞い、
月明かりを受けて、儚くきらめく。
その一つひとつから、
赤黒い霧が滲むように立ち上り、
空気に溶けるように消えていった。
そして、室内には再び静寂が戻った。
(……壊した。これで、きっと──)
その影は、闇に紛れるように窓辺から消えた。
◆
【9月2日 午後3時35分】
【澄風女子学園・1年A組】
夏休みが明けて、
授業が再開してからまだ間もない放課後。
月森ミナは、隣の席の陽日リナを見て言った。
「ねえ、明日の英語の小テスト、大丈夫?」
「えっ、テスト?
……なにそれ、初耳なんだけど……!」
「……やっぱりね。
今日の3限、寝てたでしょ。
先生が、明日小テストやるって
言ってたじゃない」
「えっ、寝てるのバレてた?」
「……見た瞬間に分かったよ。
気持ちよさそうに寝てたもん」
「テスト……どうしよう……」
リナが机に突っ伏すようにして、うめいた。
「しょうがないな。
勉強付き合ってあげる。教えてあげるから」
「……ミナさま、女神……!」
教室を出ようとした雪城ネネが、
ちらりとこちらを見て立ち止まった。
「おやおや〜?
リナちゃん、今からお勉強〜?
めずらし〜い!」
わざとらしく驚いたように声を上げ、
くすくすと笑いながらリナの机に歩み寄る。
「ちょっ、なにその言い方……!
明日のテストの準備してるだけだし!」
慌てて言い返すリナを、
ネネはにんまりと見つめた。
「ふ〜ん、そっかそっか。
……でもミナに頼ってばっかだと、
そのうちお仕置きされちゃうかもよ〜?」
そう茶化してから、ひらひらと手を振った。
その隣にいた香坂ユイが立ち止まり、
リナに向かって小さな声で
「がんばってね」と微笑みかけた。
ふたりは手をつなぎ、そのまま並んで
夕暮れの廊下を楽しそうに歩いていく。
「……夏休み明けたら、
なんかあのふたり、いい感じになってたよね」
リナがぽつりとつぶやくと、
隣のミナは少しだけ笑って頷いた。
「そうね……
やっぱりあの鏡が原因だったのかな」
「そういうの、信じるんだ」
「うん、ちょっとね……」
ミナはそっと胸に手を当てた。
「今から勉強って、テンション下がるなぁ」
リナは机に頬杖をついて、ため息をつきながら
ちらりとミナの方を見る。
「はいはい、じゃあ――始めましょ」
椅子をリナの隣に寄せ、腰を下ろすと
ノートを開いてペンを取った。
◆
教室には、すでにほとんどの
クラスメイトがいなくなっていた。
夕方の光が窓から差し込み、
机の上に長く影を落としている。
「ねえ、ここどうすんの?
現在完了って、
なんかごちゃごちゃしてきた……」
「うん、これは“have”のあとに
過去分詞つけるやつ。
ほら、“I have visited”とか、
“She has seen”とか、そんな感じ」
リナのノートにさらさらと
簡潔な字を書き込んでいく。
ミナの横顔は真剣で、
でもどこか楽しそうでもあった。
「すご……かっこいい……」
「そうやって褒めてもダメ。
授業ちゃんと聞いてれば、
残ってまでテスト勉強しなくて済んだのに」
「……でもさ、たまには
こういうのも、いいかも?」
そう呟いたリナは、
ふと教室内に視線を巡らせた。
夕方の光だけが差し込む静かな教室には、
もう誰の気配もない。
その静けさを確かめると、
リナはそっとミナの方へと体を傾けた。
ミナもまた、静かにリナを見つめ返す。
まるで「……ここで?」とでも
問いかけるように、わずかに首を傾けながら。
リナは、少し照れたように笑みを返した。
──そのまま。
彼女はゆっくりと腕を回し、
前から抱きしめるように
ミナの胸元へ顔を寄せていく。
ミナはその温もりを受け止めながら、
そっと視線を教室の扉へと向け、
周囲に誰もいないことを
もう一度だけ確かめた。
そして──
彼女の髪に、ほんの軽く口づけを落とす。
そのまま、
指先で優しく髪を梳くように撫でた。
リナは顔を胸に埋めたまま、
指先で制服をそっとなぞった。
「……ミナ」
くぐもった声で、そっと名前を呼んだ。
そして、唇を寄せるようにして、
ゆっくりと顔を近づけた。
頬に触れるか触れないか──
そんな距離で一瞬だけとどまり、
やがて、ふっとやさしく触れた。
ミナは何も言わず抱き返し、
ゆっくりと──唇を重ねた。
そして、自然と深くなっていく。
そのぬくもりに応えるように、
リナは前に回していた手を
ミナの太ももへ滑らせた。
彼女の肩が、わずかにぴくりと動き
吐息が漏れた。
その瞬間──
閉じたまぶたの裏に、
ふっと赤い光がひらめいた気がした。
ずるり──と、
太ももに添えた手の下で何かが動く。
背筋に冷たいものが走る。
指先が、濡れて粘つく感触をとらえる。
リナは、はっとして目を開けた。
目の前にいたミナが、赤黒く濁った瞳で
じっとこちらを見つめていた。
口もとはかすかに歪み、
それはミナのものとは思えない
どこか作り物めいた笑みを浮かべている。
……なに?
そう思った瞬間。
何かが腰に巻きつき、一瞬で背を這い上がり
喉元へと絡みついた──
◆
【9月2日 午後5時18分】
【秋神市内・住宅街】
世界のひとつの終わりを見つめる、
ふたりの見届ける者。
ひとりは、薄金の髪に星のような光を放つ瞳。
もうひとりは、
虹を映したように煌めく白銀の髪。
その先で、
一人の女性が必死に走り続けている。
「この世界も、
辿り着けなかったのですね……」
星の瞳を持つ者が言った。
その隣で、もうひとりがわずかに頷く。
女性は、そのまま住宅街の奥へと走り抜け──
やがて、
人目につかない公園の隅に足を止めた。
息を整える間もなく、
胸に手を当てると、空間が軋む音が響く。
その足元に、
青白く輝く巨大な歯車のような光の輪が、
音もなく現れた。
輝く輪は、ゆっくりと回転しながら上昇し、
身体を通り抜けていく。
周囲の空気が震え、
衝撃波のようなものが辺りを走る。
彼女の身体が、ぶわりと二重にぶれた。
一瞬、苦痛に顔を歪め──
だがすぐに、強い意志を宿した瞳で、
まっすぐ前を見据える。
決意を、その身に刻むように。
そして、
その姿は歯車のような光とともに消えた。
静まり返った公園。
残されたブランコだけが揺れていた。
上空から、ふたりはそれを静かに見送る。
「……今度こそ、届きますように──」
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scene.17 「ひとつの結末」
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