scene.16 「風が変わる日」
【8月28日 午後4時5分】
【白咲リコの自室】
夏休みの宿題は、とっくに終わっていた。
特に予定もなく、暑さに気力を奪われ、
ただぼんやりと時間が過ぎていく。
ベッドに寝転びながら
スマホで漫画を読んでいたリコは、
ふと、スワイプする手を止め、
表示されている時間に目をやる。
午後4時を、少し過ぎていた。
部屋の隅に
傾きかけた陽射しが差し込んでいる。
スマホから視線を外すと、
エアコンの風の音が微かに聞こえた。
──ユイさんを助けたい。
そう願いながらも、
どうすればいいのか分からないまま、
夏休みの数週間が過ぎていった。
みんなで海へ行ったあの日のことは、
今でも胸の奥に残っている。
確かに楽しかった。
けれど同時に──
あの夜、電車の中で感じた
ひやりとした不安も、消えずに残っていた。
あの日以来、香坂ユイさんの
夢を見ることはなかった。
それどころか、不思議な未来の夢さえも、
記憶に残らなくなっていた。
時々、何かを見ている気がする。
けれど目覚めるたび、
その記憶は霧が晴れるように消えていく。
まるで、未来そのものが、
少しずつ遠ざかっていっているようで──
枕元に置いている懐中時計に指先を伸ばした。
ほんの少し冷たい金属の感触が伝わってくる。
──わたしに、何かできるのかな。
そんな思いが浮かんだとき、
不意に陽日リナさんの声がよみがえる。
「うちのオーナー、
タロットとかすごく当たるって有名なんだよ」
ユイさんの不穏な夢を見た数日後──
様子が気になって注意深く見ていたとき、
彼女がそんな話をしていたのを思い出した。
(……ロマール、行ってみようかな)
──今は、
何かにすがりたかったのかもしれない。
思い立つと、ゆっくり身を起こした。
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scene.16 「風が変わる日」
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【8月28日 午後6時38分】
【カフェ・ロマール】
夕暮れが街を包み始める頃、
リコはカフェ・ロマールの
扉を静かに開いた。
小さな鈴の音が涼やかに鳴り、
木の香りと焼き菓子の甘い匂いが、
ふんわりと漂ってきた。
カウンターの奥では、
リナが大きなマグカップを両手で拭きながら、
手元の作業に集中していた。
彼女は接客用の
やわらかな笑みを浮かべて顔を上げたが、
入ってきたのがリコだと気づくと、
思わず声を弾ませた。
「いらっしゃ──あっ、リコちゃん!」
手元の作業を止めると、軽やかに声をかけ、
すぐ隣のバイト仲間にも小さく目配せした。
「知り合い?」
隣でマグカップを拭いていた子が、
リナに小声でたずねた。
黒縁の大きなメガネをかけ、
前髪がきれいに揃った黒髪ロングのその子
──真壁ルカ。
一見すると地味に見えるが、
目元にはさりげないアイライン、
耳元には小さなピアスがきらりと光っていた。
「知り合いっていうか、
こないだ海に一緒に行った仲よ」
リナは笑いながら言った。
「……マジで?
あたし誘われてないじゃん!」
カウンターの内側で、
ルカが少しむくれたように眉を上げる。
「あんた、先輩と
デートするとか言ってたでしょ?」
リナが肩をすくめると、
ルカはカップを拭く手を止めて、
小さくため息をついた。
「……陽日が誘ってくれてたら、
絶対そっち優先したのに」
「なによ、この浮気者」
リナはそう言って、
わざとらしく彼女の肩を小突いた。
「いてっ」と笑いながら、
目元に親しげな表情が浮かぶ。
リコはふたりのやりとりに微笑みながら、
カウンターの端にそっと腰を下ろした。
「すみません、何か甘いもの
……ありますか?」
リナがすぐに顔を輝かせる。
「もちろん! ちょうど今、チーズケーキと
ガトーショコラがあるけど、どっちにする?」
「……じゃあ、チーズケーキをお願いします。
あと、ホットミルクティーも」
「了解〜」
そう言いながら、リナは手元のメモに
注文を書き込み、ふと顔を上げた。
「でも、めずらしいね。ノノちゃんは?」
「今日は……少し、ひとりで考えたくて」
そのやりとりを見守っていた
カウンターの奥から、
ゆっくりと一人の女性が歩み出てくる。
紫がかった長い髪が、
歩みとともに静かに揺れる。
夢守コヨミは、落ち着いた声で言った。
「……何か、悩んでいることがありそうね」
問いかけというよりも、
まるで見透かすような、そんな声音だった。
一瞬、リコは戸惑ったが──
やがて、そっと頷いた。
「……友達のこと、なんです」
コヨミはふと店内を見渡し、
再びリコの方へと顔を向けた。
「少ししたら、閉店の時間なの。
よかったら──そのあと、
ゆっくりお話ししませんか?」
「……はい」
そう答えたリコは、
目の前に置かれたチーズケーキに
そっとフォークを入れる。
口に運ぶと、とろけるような甘さが
ほんの少しだけ、
心を落ち着かせてくれる気がした。
◇
【8月28日 午後8時00分】
【カフェ・ロマール】
案内された店内奥のテーブルに
重厚なタロットカードの束が置かれた。
コヨミはゆったりと椅子に腰を下ろし、
リコにやさしく声をかける。
「……まずは、教えてくれる?
あなたが今、何に悩んでいて──
何を知りたいと思っているのか」
リコは少し黙ってから、
静かに息を吐き、口を開いた。
「……友人に、よくないことが
起こる気がするんです。
今のわたしに、その子のために
できることがあるのか、それを知りたくて」
カードを手に取ったコヨミは、
ふわりと微笑んだ。
「そうね……
“ケルト十字”で見ていきましょう。
この形は未来の流れと、
あなたが抱えている問題の解決方法を
探るのに向いているの。
──きっと、あなたの想いにも
応えてくれるはずよ」
コヨミはカードの束を手に取ると、
ゆっくりとリコの前へ差し出した。
「まずは、あなたの手でシャッフルして。
気持ちを込めながら、ゆっくりで大丈夫」
一瞬迷ったようにリコがカードを受け取る。
両手で静かに切り始めると、
紙の擦れる音が部屋に静かに広がった。
「……ありがとう。
それじゃ、私が展開していくわね」
コヨミは手早くカードを切り、
一枚ずつ、テーブルの上に並べていく。
十字に、そして縦に──
そして、目を閉じてひと呼吸おき、
一枚目のカードにそっと指をかけた。
《ソードの8》
そして、次々にカードがめくられていく。
《ペンタクルの4》
《カップの6》
《ソードのエース》
《カップの2》
《ワンドの5》
《ペンタクルの9》
《悪魔・逆位置》
《ソードの10》
──再び、《ソードの8》
コヨミがゆっくりと顔を上げた。
「……最後の一枚、引いてみて」
静かな声に、
リコは小さくうなずく。
手を伸ばし、
カードの端に指先をかけたとき
胸の奥で、ひとつ鼓動が跳ねる。
ほんの少し、迷いながらも
一枚をそっと、裏返した。
《運命の輪・正位置》
めくったカードを、
リコはじっと見つめた。
円を描くように描かれた輪──
その周囲に、
様々な象徴が散らばっている。
コヨミが、静かに口を開いた。
「……あなたが助けたいと
思っているその子こと
どれくらい知っているかしら?」
リコは、はっとして顔を上げた。
言葉を返せずに、ただ小さく瞬きする。
「《運命の輪》が出たということは──
いま、流れが動き出そうとしているサイン。
でもそれは、“何もしなくても変わる”という
意味じゃないの。
自分で気づき、選び取らないと……
輪は動かないまま止まってしまう」
その声に、胸の奥がざわめいた。
──ユイさんのこと。
どれだけ、知ってるんだろう。
夏の終わりが近づいている。
もうすぐ、新学期が始まる。
きっと、そこからが本当の始まり。
……ちゃんと向き合わなきゃ。
ユイさんのことを知りたい。
知らなければ、何も変えられない気がする。
◆
【9月2日 午後12時53分】
【澄風女子学園・1年A組】
新学期が始まってまだ間もない昼休み。
教室には、夏休み気分の名残と
にぎやかな笑い声があふれていた。
「購買、プリンまだ残ってるかなー。
お昼食べたあとって、
ちょっと甘いの欲しくならない?」
「リナってほんと甘党だね〜。
クッキーもいいけど、今日はプリン気分かも」
ふたりは笑いながら立ち上がる。
「ちょっと行ってくるねー。
リコちゃんも、
何か欲しいのあったら言って?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
リナとネネは顔を見合わせて笑い合うと、
そのまま教室をあとにした。
それにあわせて、
みんながそれぞれの席へと戻っていく。
ユイは一度立ち上がり、
ネネの机に向けていた自分の机の向きを戻す。
そのままカバンを持ち上げて、
チャックを開け、お弁当箱をしまい始めた。
リコも、それに合わせるようにして
立ち上がる。
──今なら、話しかけられるかもしれない。
夏休みの終わり、
ロマールで占いを受けたときの
コヨミの言葉が頭をよぎる。
気づいて、手を伸ばして、選んでいくこと。
それが、今の自分にできること──
小さく息を整えて、
リコはユイの隣へと歩み寄った。
「ユイさん……
今、ちょっといいですか?」
ユイはちらりと顔を上げ、
穏やかに微笑んだ。
「リコちゃん……うん、大丈夫」
その笑顔はやさしかった。
けれど、どこか疲れているようにも見える。
リコは少しだけ迷い、言葉を継いだ。
「……少しだけ、お話してもいいですか?」
ユイは頷く。
ふたりはその場に立ったまま、
机を挟んで向き合った。
リコは視線を合わせるのを
少しためらいながら、遠慮がちに切り出す。
「ユイさん……その、最近なにか……
不思議なことってありませんでしたか?
たとえば、鏡を見ていて……
ちょっと変だなって、思ったこととか──」
ユイはほんの一瞬、表情を曇らせた。
けれどすぐに、
笑みを取り戻して首を横に振る。
「ううん、別に。なんにも……ないよ」
リコは目を伏せ、
言葉を探しながら唇を噛んだ。
──あの夜、電車の中で感じたことは、
きっと間違いじゃない。
“あの鏡”には、何かがある。
そう思った。
「……ユイさん。
あの、いつも持っている鏡……
今も持ってますか?」
ユイの手が、
カバンの取っ手を握ったまま止まる。
その指先が、わずかに震えていた。
「ううん……もう使ってないよ。
……見ないって、決めたから」
どこか、自分に言い聞かせるような
口調だった。
「……そう、なんですね」
そのとき──
ユイが突然、息を呑む音が聞こえた。
手を口元に当て、
カバンからポーチを乱雑に引き抜くと、
そのまま教室を飛び出していった。
リコは呆然と立ち尽くす。
──何が起きたの……?
すぐに我に返り、
机の間を縫うようにして教室を出る。
廊下に出ると、ユイの背中が目に入った。
ポーチを胸に抱えたまま、
何かに追われるように廊下を駆けていく。
行き先は、トイレだった。
リコは足音を忍ばせながら、
少し距離をとってその背中を追う。
やがて、扉が音を立てて閉まり、
リコはその手前で立ち止まった。
中から、水道の蛇口をひねる音。
それが響いて、すぐに静寂が戻る。
リコは息を詰め、
そっと手を伸ばしてドアに触れた。
軋まないよう、ほんのわずかだけ押し開ける。
視線の先、
洗面台の前に、ユイが立っていた。
けれど彼女が見つめていたのは、
備え付けの鏡ではない。
手に持った小さな手鏡。
その瞬間、すっと鏡面がこちらを向く。
まるで、リコの視線を
察知したかのように──
手鏡の角度が、わずかに変わった。
鏡の中のユイが、
まっすぐこちらを見ている。
無表情。
なのに、
その瞳だけが確かにリコを捉えていた。
リコの息が止まる。
声も出せず、
身じろぎひとつできないまま、
ただ、鏡の中のユイを見つめ返していた。
そして──
ユイが、にやりと笑った。
ぞくり、と背筋が冷たくなる。
リコの目が、恐怖に見開かれた。
──そのときだった。
「リコ?」
背後から聞こえた、呼び声。
綾瀬ノノだった。
教室を飛び出したのを見て、
心配になって後を追ってきたのだろう。
リコは、反射的に振り返る。
張り詰めていた空気が、
その瞬間、ふっと緩んだ気がした。
再び視線を戻す──
鏡の中のユイは、
もうただの映り込みだった。
本人も、手鏡を持ったまま、
ぼんやりとした表情で、
洗面台の前に立ち尽くしている。
ユイは、鏡を持ったまま、
かすかに肩を震わせた。
その手が、ゆっくりと下がっていく。
床に落ちていたポーチに手を伸ばし、
手鏡をそっと中へとしまい込む。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな、
かすかな声だった。
「もう見ないって、決めたのに……
怖かったよね、ごめん……」
その目には、怯えと、
自分を責める色がはっきりと浮かんでいた。
リコは一瞬言葉を探し、
それから小さく笑って首を横に振った。
「……大丈夫。
わたし、ただ心配になっちゃって……
それだけだから」
ユイの瞳に、かすかに安堵の色がにじんだ。
「……ごめんね。もう……大丈夫、だと思う。
教室……戻ろう?」
かすかに震えていた声が、
少しずつ落ち着きを取り戻していく。
リコはそっと頷いた。
ノノが一歩、
ユイに寄り添うように歩み出す。
その背中を見つめながら──
たった今起きた恐ろしい出来事。
鏡に映ったあの顔が脳裏にちらつき、
胸が締めつけられる。
振り払うように頭を振り、静かに後を追った。
◇
【9月2日午後3時35分】
【澄風女子学園・1年A組】
授業はほとんど頭に入らないまま、
チャイムの音だけが遠く響いていた。
ホームルームが終わり、
教室を出ようとしていたノノに、
リコは小さな声で声をかけた。
「ちょっと……屋上、行ってくるね」
ノノはバッグを肩にかけながら、
ふとリコの顔をのぞき込む。
「……ユイちゃんのこと、気になってる?」
リコはほんの一瞬、視線を落とし、
それから静かに頷いた。
「うん。ちょっとだけ……考えたくて」
ノノはそれ以上は何も聞かず、
やさしく微笑んだ。
「……そっか。じゃあ、
わたしは先に帰ってるね。
無理はしないでね」
ノノの言葉に、リコは静かに頷いた。
そしてひとり、屋上へと向かう。
夕方の風が、まだわずかに
夏の熱気を残しながらも、
どこか秋の気配を運んでいた。
リコはその風を胸いっぱいに吸い込み、
ゆっくりと吐き出す。
──あの鏡、どうすればいいんだろう。
思考を巡らせていたそのとき、
背後で カシャン と小さな音がした。
屋上の扉が、静かに開かれる。
「リコさん」
やわらかな声に、リコは振り返った。
屋上の扉の前に立っていたのは──
図書室で何度か言葉を交わした先輩。
──天野チヤだった。
ふわりと結んだ茶色のサイドテールに、
丸い銀縁のメガネ。
柔らかな目元と
穏やかな雰囲気は、変わらない。
その隣には、
見覚えのない生徒が立っていた。
グレーのショートヘアに、
澄んだ銀の瞳。
凛とした雰囲気を纏いながらも、
どこか人を包みこむような
優しさを感じさせる佇まい。
チヤが一歩前に出て、微笑む。
「こうして話すの、たぶん初めてかもね。
……図書室では、よく顔を合わせてたけど」
声の調子はいつも通り穏やかで、
けれどほんの少し、真剣な響きを帯びていた。
「この子は、霧島ユウ」
隣に目を向けながら、やさしく紹介する。
ユウは静かに会釈して、一言だけ言った。
「よろしくね」
リコも軽く頭を下げ、微笑み返した。
「よろしくお願いします。
……でも、どうしたんですか?
わたしに何か?」
リコの問いに、
チヤはふわりとした笑みを浮かべたまま、
そっと頷いた。
「──香坂ユイさんのこと、
考えていたんでしょう?」
不意に名前を出され、
リコはわずかに目を見開いた。
「わたしたちは、あなたのこと、
少しだけど、知ってるつもり」
その声が静かに落ち着くと同時に、
屋上にひとすじの風が吹き抜けた──




