scene.15 「ふたりのしるし」
【7月18日 午前7時12分】
【白咲リコの自宅】
父はいつも通り早くに仕事へ出かけ、
家には母とふたりだけだった。
朝食を終えた食卓。
手を伸ばして片付けようとしたとき、
向かいの母が、どこか上の空で
食器を重ねているのが目に入った。
──その時だった。
手元がふらついたのか、
一枚が滑り落ち、カランと床に転がる。
同時に、母の身体が静かに
崩れるように傾いて――
「お母さん!」
声が、玄関にまで響いた。
慌てて駆け寄り、スマホを手に取る。
震える指先で番号を押し、救急車を呼んだ。
母の頬に触れると、
温もりはあり、呼吸もあった。
けれど、目を覚まさない。
どくどくと脈打つ心音が、
全身に広がっていく。
頭の奥で、見覚えのある光景がよみがえる。
倒れる影。
崩れる背中。
──ただの夢だと思っていた。
そう信じたかった。
でも今、それが現実になって、
自分が引き寄せたんじゃないかと思うと、
息が詰まった。
◆
【7月18日 午前9時48分】
【秋神市総合病院・本館1階総合受付ロビー】
病院の白い廊下を父と並んで歩く。
エアコンの冷気に触れても、
体の奥は熱いままだった。
母が救急診察室へ運ばれたあと、
看護師に案内されてロビーへ移動した。
連絡を受けた父は、すぐに駆けつけてくれた。
父は受付で状況を確認し、
そのまま隣に腰を下ろして、
無言で手を握ってくれた。
張りつめていた全身から、
すこしずつ力が抜けていく。
まぶたも上がらなくなる。
あれほど騒がしかった心音が、
ゆっくりと静まっていく。
そのまま、
意識は静かに沈んでいった。
* * *
そこに、見覚えのある背中があった。
制服の裾が、風に揺れている。
手にしていたのは、一枚の紙。
それを胸に抱えるようにして
立ち尽くしていた。
「どうして……
さよならなんて、書いたの……」
かすれた声が届く。
泣いている。
駆け寄ろうとした。
けれど、足が動かない。
声も出ない。
伸ばした手は、届かなかった。
後ろを向いた背中が、遠ざかっていく。
「待って……ちがう、そんなつもりじゃ……」
彼女の頬を伝う涙と一緒に、
別れの文字がにじんで──消えた。
* * *
「白咲さん、奥さまの検査が終わりました」
看護師が穏やかな声で告げる。
「リコ、起きなさい」
肩に触れる感触。
まぶたを上げると、
すぐ近くに父の顔があった。
「お部屋に戻られましたので、
ご案内しますね」
看護師の言葉にうなずき、立ち上がる。
立ちくらみのような感覚が残るまま、
足元に広がる廊下の白さが、
いつもよりまぶしく感じられた。
◇
【7月18日 午後12時38分】
【秋神市総合病院・東館213号室】
病室の扉が開く。
白いカーテンの奥、
ベッドに母の姿があった。
まだ目を閉じたまま、
安らかな呼吸が続いている。
モニターには安定した心拍数が映り、
機械の音が、静かな病室に
一定のリズムを刻んでいた。
椅子に腰を下ろし、その寝顔を見つめる。
──大丈夫。ちゃんと、呼吸してる。
それだけで、張りつめていた何かが、
ふっとほどけた。
ベッドのそばの椅子に座り
少し目を閉じると、夢で見たことを思い出す。
* * *
ひとつは──
母が倒れてしまうけれど、
すぐに元気になって笑っている夢。
もうひとつは──
母が少し苦しそうに病室に横たわり、
長い入院を続けている夢。
どちらも鮮やかで、
現実と区別がつかないほどだった。
もし、
どちらかが本当に起こってしまうのなら……
* * *
気づけば少し眠っていたようで、
病室の窓から差し込む光が、
少しだけ傾きはじめていた。
時計の針は、
午後3時を少し回ったあたりを指している。
──そのとき。
かすかな声が、耳に届いた。
「……リコ。ありがとうね」
ベッドに横たわる母の声は、
まだ少し弱々しかったけれど、
それでも、いつものやさしい響きだった。
返事の代わりに、そっと首を縦に動かす。
目の奥がじんと熱くなる。
どれほど不安だったか、
どれほど怖かったか。
伝えようとした途端、
胸がつかえて言葉が出てこなかった。
母は、手をそっと握ってくれた。
「ねえ、お母さん……」
視線を向けると、母がやさしく頷く。
「……少し前にね、
お母さんが倒れる夢を見たの」
その言葉に、母は少しだけ目を見開いた。
「最初は、ただの怖い夢だと思ってた。
でも、何度か見るうちに……もしかしてって」
バッグから日記帳を取り出し、
ページをめくる。
そこには
「お母さんが倒れる。
でも、すぐに元気になる」
そんな内容が、簡潔に書かれていた。
文字のいくつかは少し滲んで見える。
母はそのページに目を落とし、
静かに指をすべらせる。
「……夢で見たこと、なんだよね?」
軽くうなずくと、
母は一呼吸おいて言葉を続けた。
その顔に、ほんの少しだけ懐かしさがにじむ。
「私も、お母さんから受け取った頃……
あの頃も、よく夢を見ていたわ」
リコはわずかに瞬きをして、
母の顔をじっと見つめた。
「未来のこと。
起こるかもしれない出来事を、夢で見るの。
でも私は、あなたみたいに
日記には書かなかった。
ただ……心に留めていただけだった」
言葉のひとつひとつを受け止めながら、
リコはそっと頷いた。
「……お母さんは、
そんな夢を見るって分かってて、
どうしてわたしにくれたの?」
問いかけに応えるように、
母は視線を落としながら、
テーブルの上で指先をなぞる。
「……お母さんね、
リコにこの時計を渡そうか、
ずっと迷ってたの。
これを持っていると、
不思議な夢をたくさん見るでしょう?
その夢のことで、
悩むことも多かったから……
だから、本当は渡さない方が
いいんじゃないかって思ってたの」
小さく息をついて、目を伏せながら微笑む。
「でも……夢で見たのよ。
あなたがこの時計を持って、
友達と一緒に楽しそうに笑ってるところを。
……だから思ったの。
この時計は、私やおばあちゃんみたいに、
ただ夢を見るだけじゃなくて──
あなたには、きっと
役に立たってくれるじゃないかって」
そっと視線を落とし、
胸元の懐中時計に指先を添えた。
ひとつ息を整えてから、顔を上げる。
「……さっき、ノノが泣いてる夢を見たの」
母は穏やかにうなずいた。
「予知夢って、
必ずしも現実になるとは限らないのよ」
──長い間、
いろんな夢を見てきた母の言葉だった。
その声に、胸の奥で張りつめていた何かが
ほんの少し、やわらいでいくのを感じた。
「……だから、もう大丈夫。
きっと元気になるって、そう信じてる。
だから、ね。
早くノノちゃんのところに行ってあげて」
母がそう言って微笑む。
頷いて立ち上がり、
スマホを手に取ろうと周囲を見回した。
──ない。
さっき、待合でうたた寝してしまったときに、
椅子に置き忘れたのかもしれない。
「ちょっと、探してくるね」
立ち上がろうとすると、
母が微笑みながら言った。
「携帯のことは大丈夫。
看護師さんにお願いすればいいのよ。
……それより、早く行ってあげて。
ノノちゃん、きっと待ってるわ」
「……うん」
父は、そんなわたしたちを
見守るように微笑んでいた。
「じゃあ、ノノちゃんの家まで送っていこう」
「……行ってくるね」
母がもう一度、私の手を握る。
「リコ……あなたの夢は、誰かを幸せにする。
私は、そう信じてるから」
その手のぬくもりを胸に抱いて、
静かに立ち上がった。
◇
【7月18日 午後3時53分】
【綾瀬ノノの自宅前】
父の車が静かに停まり、
助手席のドアを開けて外に出た。
バッグの紐を肩にかけ、門の前で足を止める。
インターホンを押すと、
すぐに玄関のドアが開いた。
「リコちゃん? いらっしゃい」
やわらかな声とともに、
顔を見せたのはお母さんだった。
いつもと変わらぬ穏やかな笑顔。
けれど、その表情にはどこか
心配の色も混じっている。
「ノノなら、部屋にいるわ。
朝からちょっと元気がないみたいで……」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げて靴を脱いで玄関を上る。
門の前では、父とノノのお母さんが
言葉を交わしていた。
その様子を背に、
階段へと向かい一段ずつ上っていった。
ノノの部屋の前で足が止まる。
手を伸ばしかけて──
夢のことを思い出し、ふと、ためらった。
でも、
扉の向こうにいる彼女を思い浮かべると、
指先が自然と動いていた。
「……入ってもいい?」
返事はない。
軽くノックしてから、
そっとドアノブを回した。
部屋の中は遮光カーテンは閉じられ、
薄暗かった。
投げ出されたスクールバッグ。
ベッドには、
制服のまま丸くなった小さな背中。
顔を枕に押しつけるようにして、
ノノが横になっている。
「……ノノ」
呼びかけると、肩がびくりと揺れた。
「……リコ……?」
かすれた声が、枕越しにこぼれた。
赤くなった目の縁が、
泣いていたことを物語っている。
何も言わず、
ベッドの端に腰をかけた。
彼女は、動かずにこちらを見つめる。
「会いに来たよ」
その一言でゆっくりと身を起こし、
そのまま、抱きついてきた。
「よかった……ほんとによかった……」
そっと手を添え、優しく彼女を引き離す。
その瞳を確かめるように、顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 何かあったの?」
彼女は小さく頷き、
机の上に置かれていた一枚の紙を手に取った。
「これ……昨日の夜、ポストに入ってたの。
リコの字に、すごく似てて……
でも、内容は……」
差し出された手紙を受け取り、
目を走らせた瞬間、
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
──“もう会えない” “さようなら”
まるで未来を断ち切るような、
冷たい言葉たちが並んでいた。
「そんな……わたしじゃない。絶対に」
でも、確かに自分の字に似ている気がする。
手紙をぎゅっと握りしめる。
読めば読むほど、
胸の奥が締めつけられていく。
「……それに、お昼すぎにも来たの。
スマホから、同じような……」
その言葉に、はっとする。
――病院で気づいた時、
手元にスマホはなかった。
「……たぶん、誰かに使われたんだと思う。
わたしのスマホ」
それ以外、思いつかなかった。
彼女の目に、また涙がにじんでいた。
「……信じかけたの。
けど、信じたくなくて……
だから、ごめん。疑ったりして……」
「ううん。気にしないで」
そっと手を取る。
指先がふるえていて、強く握り返してきた。
「……スマホのこととか、
どうしてこんなことになったのかは、
正直まだ全然わかんない。
でも──会えてよかった」
そう言ってから、ふと気になって尋ねてみた。
「……ねえ、さっき
わたしの字に似てたって言ってたけど、
覚えててくれたの?」
照れくさそうに笑いながら、
うなずいてくれる。
「……覚えてるよ。
よく一緒に勉強してるし、
もう見慣れてるから」
その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。
思いついて、バッグの中を探る。
「……ねえ、何か、ここに書いてみて」
「……え?」
「ノノの字……
ここに残しておきたいの。
ずっと、大切にしたいから」
頷くと、
両手でそっと日記帳を受け取ってくれた。
そして、今日の日付の欄に、
ゆっくりと丁寧にひとこと――
「リコ」
と、書いた。
「……じゃあ、わたしも」
その隣に、「ノノ」と書き添える。
ふたりの名前が並んだそのページは
柔らかな光を受けて、
どこか特別な意味を持っているように見えた。
「これ、宝物にしようね」
笑顔が向けられる。
そのとき、ノノのスマホが震えた。
メッセージが届いた音だった。
彼女は画面を覗き込むと、
すぐに親指を動かして返信を打ち始めた。
送信を終えて、ふっと息をつく。
「……リナちゃんからだった。
わたしたちのこと、
みんな心配してくれてるみたい」
「やさしいね」
ふたりの間に、自然と笑みがこぼれる
――遠くで、ぽん、と乾いた音が響いた。
夏祭りの合図花火が、空に弾けたのだろう。
ノノが、窓の外を見てつぶやいた。
「……今日、夏祭り、だっけ?」
「うん。でも……今は、ここでよかった」
並んだふたつの名前を、黙って見つめる。
そのページに記された名前──
誰にも見せない、
ふたりだけの小さなひみつ。
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