scene.12 「たのしかったね」
電車を降りて、改札を出る。
外に出ると夕日がまだ眩しい。
いつも待ち合わせしている
ベンチの前でふたりは立ち止まった。
(今日だけは……少しくらい、いいよね)
雪城ネネは小さく息を吸ってから、
香坂ユイの腕にそっと抱きつく。
そして、少し照れたような笑顔で見上げた。
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scene.12 「たのしかったね」
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夏休みが始まったばかりの午前、
王洲港駅のロータリーには
観光客や家族連れの姿がちらほら見える。
海風が運ぶ潮の香りと、
公園から聞こえるセミの声、
この小さな港町に
夏のはじまりを告げていた。
「わあ、潮の匂い!
いいねえ、港って感じ!」
陽日リナが
両手を大きく広げて深呼吸すると、
その隣で月森ミナがふっと笑った。
「まだ到着したばかりなんだから、
そんなに飛ばさないの」
「だって、楽しみにしてたんだもん。
今日のネネちゃん、
すっごい気合い入ってるよね?」
そう言って隣に立つネネに視線を向けると、
恥ずかしそうに髪を指先でいじっていた。
「え、そ、そうかな……?」
銀髪をふんわりと高めでまとめた髪に、
ピンクと白のリボンと
金の星チャームが揺れている。
白系のトップスにミニスカートを
合わせた私服は、
どこか見てもらいたい気持ちがにじむ、
可愛らしい装いだった。
「……すっごくかわいい」
思わずユイの口から出たその言葉は、
控えめながらもしっかりと届いた。
「え、な、なにか言った……?」
「ううん、なんでもないっ」
顔を赤らめてそっぽを向くユイの様子に、
リナがニヤニヤしながらネネを肘で小突く。
「はいはい、青春だねえ〜」
「それ以上いじると
ネネちゃんが逃げちゃうよ」
ミナの穏やかなツッコミに、
ネネがぷくっと頬をふくらませる。
「もう……そういうんじゃなくて、
今日はちゃんと楽しみたくて、
えっと……その、みんなと!」
「うんうん、
じゃあそろそろ水族館行こっか!」
リナの掛け声で、
四人は王洲港水族館へと歩き出す。
水族館に向けて歩き始めて、
ミナはふと隣を見る。
リナはTシャツにパンツ、
キャップをかぶったラフなスタイルで、
ハンディファンを顔に当てながら歩いていた。
「暑くない? 入る?」
ミナは手元の傘を少し持ち上げて、
太陽を隠すように傾ける。
「あっ、ありがと」
リナはにこっと笑って、
すっとミナの腕に自分の腕を絡め、
身体を寄せながら
ハンディファンを彼女の方へ向けた。
そのとき──
「──イチャイチャすんなー!」
後ろからネネの声が飛んできて、
リナが「えっ!?」と声をあげると
ミナがきゅっと身をすくめた。
◇
水族館は、
駅から歩いて十分ほどの場所にあった。
海中の景色が描かれた青いタイルと、
ガラス張りの二層構造が特徴的な建物で
家族連れやカップルでにぎわっている。
入場ゲートをくぐると、
最初に出迎えてくれたのは
「近海のいきもの」コーナーだった。
「……あ、見て。イカだって〜」
ネネ水槽を覗き込むと
ガラスの向こうで、半透明の身体を
ゆらゆらと動かしながら、
アオリイカが泳いでいる。
イカは、水槽に置かれた、
石でできた建物の廃墟のような
オブジェに近づいていく。
丸い窓のような穴から、
ひょいっと体をくねらせて
中に入ってしまった。
「……あ、どっかいっちゃった」
少し残念そうに呟くと、
ユイは隣で、くすっと笑いながら言った。
「また出てくるかもね」
少しして、
ペンギンコーナーに足を運ぶと
ネネとユイは並んで
水槽を楽しそうに見ている。
──その、少し後ろ。
「……ねえ、ふたりとも、
今日はなんかいい感じじゃない?」
リナが声をひそめながら、
横のミナにささやく。
「うん、なんか……ちょっとずつ、
距離が縮まってる感じ」とミナは頷いた。
「──あっ、あっち見て!
クラゲのコーナー!」
ネネの声が弾んで、前を指さす。
「行こ行こ!
ネネちゃんとクラゲ、なんか合いそうだし」
リナがすかさず言うと、ネネが振り向いた。
「それってどういう意味?」
「いやー、透き通ってて、ふわふわしてて、
でも意外と毒あるって感じ?」
「毒はないよっ」
笑いながら小突き合うふたりを、
ユイが笑顔で見守る。
その横で、ミナも静かに微笑んでいた。
クラゲのコーナーは、
薄暗い通路に並んだ大小の水槽が並び、
ライトアップされた色とりどりの
クラゲがふわふわと揺れている。
「きれい……」
ネネが水槽にぴったりと顔を寄せる。
彼女の目がきらきらと輝いて見えた。
「……ユイちゃん?」
ふいに、ネネが振り返る。
ユイは驚いて目を瞬いた。
「さっきから、ずっとこっち見てない?」
ネネが尋ねると
「ご、ごめん……
ネネちゃんがきれいで、つい……」
ユイの言葉に、
ネネの顔が一気に真っ赤になる。
「な、なにそれ、ずるい……」
「……ずるい?」
「うん、かわいいって、
ちゃんと言ってくれたら、
もっと嬉しかったのに……」
「か、かわいい……!
かわいいよ、ネネちゃん……!」
あまりに真剣なユイの声に、
ネネが口元を押さえて吹き出した。
「ふふっ……ありがと」
クラゲの揺れる青い光の中で、
ふたりの肩が触れ合っている。
──そして、その背後で。
「……青春だねえ」
「うん、ほんとにね」
ミナは、ふたりが並んで
笑いあう様子を見つめながら、
昨日の夜のことをふと思い出していた。
鏡をめぐって、すれ違いかけたふたり。
でも、今日の彼女たちの笑顔は、
そんな不安を溶かしていくようだった。
──きっと、もう大丈夫。
そんなささやかな願いが、
胸の奥に芽生えていた。
◇
水族館でのひとときを終えた四人は、
王洲港駅前のショッピングモールへと
足を運んでいた。
モールの三階にあるフードコートは、
ガラス越しに海が見える開放的な空間で、
夏の日差しが差し込んでいる。
窓際のテーブルに腰を下ろした四人は、
トレーを並べて思い思いに
昼食を楽しんでいた。
「あちちっ!」
たこ焼きを頬張ったリナが、
口を小さく開けたまま、
ふうふうと息を吹きかける。
「ちゃんと冷ましてから食べなきゃ……
ほら、飲んで」
ミナが、自分のストロー付きドリンクを
さりげなく差し出した。
リナはドリンクを受け取ると、
たこ焼きをなんとか飲み込みながら、
もごもごとつぶやいた。
「……はりはと……」
そのまま、もう一口飲んでから、
ふと視線を落とす。
「ごめん、ついちゃった」
リップをナプキンで拭こうとすると──
ミナはドリンクをそのまま受け取り、
何事もなかったように口をつけた。
リナは思わず「あ……」と小さく呟いて、
照れくさそうに、微笑む。
「ちょっと、
こっちが恥ずかしいんですけど?」
と、ネネの声。
ドリンクを飲んでいたミナは、
吹き出しそうになり、
慌てて手で口を押さえる。
「あら〜、ピュアなネネちゃんかわいい〜」
リナがニヤニヤしながらからかうと、
ネネは顔を赤くして、
ぷいっとそっぽを向いた。
そんな中、ユイはストローで
アイスティーを飲みながら、
ネネの方にちらりと視線を向けていた。
「……ネネちゃんも、
そういうの……したいの?」
聞こえるか聞こえないかくらいの声だったが、
ちょうどネネの耳に届いてしまったらしい。
「そ、そういうのは……えっと……!」
顔を真っ赤にしてうろたえるネネに、
リナがすかさず「かわい〜」と茶化して、
ユイも恥ずかしそうにうつむいた。
◇
昼食を終えると、モール内の
雑貨エリアへと足を運んだ。
様々なキャラクターのキーホルダーが
並ぶ売り場の前で、
リナとネネがテンション高めに
盛り上がっている。
「──あっ、
これネネちゃんの推しキャラじゃん!」
「ほんとだ!やば、買わなきゃ……!」
「二人ともまだ何か付けるの?」
「えー、いいじゃん。
ミナも、スクバになんか付けようよ」
「私はいいよ。
あんまりごちゃごちゃするの、苦手だから」
そんなやり取りを横目に、
少し離れた場所にいたユイは、
ふと目に留まったあるリボンに足を止めた。
──それは、ネネが普段つけているものと、
まったく同じリボンだった。
ピンクと白の二色の生地。
金の星チャームが、
光を受けてきらりと揺れる。
ユイは、おそるおそる手に取る。
(……ネネちゃんと、おそろい)
それは、まだ言葉にもできない、
小さな憧れのような気持ちだった。
「──ユイちゃん、なにかいいのあった?」
背後から、ネネの声。
ユイはびくっと肩を跳ねさせて、
慌てて振り返る。
「えっ……あ、ううん、なんでもない……」
そして、手にしていたリボンを、
そっと元の場所に戻す。
「そっか〜。
あっ、リナ、見て見てこれ!」
ネネが駆けていく背中を、ユイは見送った。
胸の奥で、何かがそっと芽生えては、
また引っ込んでいくような、
不思議な感覚だけが残った。
──まだ言葉にはできない。
でも、たしかにそこにある想い。
ユイは、もう一度だけリボンに目をやって、
それからネネのあとを追って歩き出した。
◇
窓の外には、オレンジ色に染まる
街の屋根が流れていく。
電車が減速し、
ホームにアナウンスの声が流れた。
「──次は、秋神。秋神です」
ネネとユイは、静かに席を立つ。
その気配に、うとうとしていたリナが、
はっと顔を上げた。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
ネネが振り返って声をかけると、
リナは眠そうに目をこすりながら、
にっこり笑った。
「んーん、大丈夫。
ふたりとも、気をつけてね〜」
「うん、またね」
扉が開き、ふたりがホームへと降りた。
夏の夕暮れの風はまだ熱気を帯び、
駅の構内をゆっくりと通り抜けていく。
窓の中では、
リナがまだ少し眠たそうに手を振り、
隣でミナも軽く手を振っている。
扉が閉まり、電車がゆっくりと走り出す。
ふたりはそのまま、
しばらく無言で見送っていた。
改札を抜けた瞬間、
斜めから差し込む夕陽が、
ふたりの顔を照らした。
一歩外に出ると、光が目に入り、
思わずまぶしそうに目を細める。
見慣れたベンチのそばまで来ると、
ユイが口を開いた。
「……今日は、ありがとう。ネネちゃんと、
また……こうして出かけられて、嬉しかった」
ネネは小さく息を吸って、
ユイの腕にそっと抱きつく。
そして、照れくさそうに
笑顔で見上げて言った。
「うん。……すごく、たのしかったね」
視線が合うと、
ユイは恥ずかしそうに目を逸らした。
ネネは腕からゆっくり離れた。
ほんの少し、
名残惜しそうにユイの顔を見つめる。
そう言って手を振りながら、
少しずつ別々の道へ歩きはじめる。
そのとき、ネネがふと立ち止まり、
振り返った。
「うん、また明日──あっ、よかったら、
明日一緒にお買い物でも行かない?
まだ行きたいお店あったし……
ユイちゃんとなら、楽しいと思うから」
ユイは、そっと微笑んだ。
「……うん、行きたい」
ふたりは手を振り合い、
それぞれの家の方向へと歩いていった。
◆
ユイは部屋に戻ると、
まず窓辺へ向かった。
カーテンを捲り窓を開けると、
熱気のこもった部屋に
少し涼しい風が室内に流れ込む。
頬を撫でる風に目を細めながら、
小さく息を吐くと、
お出かけ用のバッグをベッドの上に置いた。
ファスナーを開けて中身を取り出し、
ポーチやチケットの半券などを
ひとつずつ整理していく。
ネネのはしゃいだ声が、ふと耳によみがえる。
揃って覗き込んだ水槽、
笑い合って、照れて、少しだけ心が近づいた、
そんな一日。
ユイは、そっと頬を緩めた。
明日もまた、ネネと一緒に出かける。
そう思うと、胸の奥がほんの少し、
温かくなる気がした。
──そのとき、バッグの底に、
見覚えのある小さな布袋が
入っているのに気づいた。
「……えっ?」
そっと取り出すと、
淡い黄色の巾着。
朝、置いてきたはずだった。
たしかに、今日は持っていかないと決めて、
机の引き出しにしまったはずなのに。
「……どうして……?」
ユイは巾着を握りしめ、
しばらくじっと見つめたあと──
おそるおそる、その口をほどいた。
中から現れたのは、やはり、あの手鏡。
カーテン越しに差し込む夕焼けの光が、
鏡の表面をぼんやりと照らしていた。
そこには──自分の顔が映っている。
見慣れたはずの、はずの顔。
けれど、確かに違和感があった。
まるで、どこか遠くから、
それを見つめているような感覚。
ユイはそっと鏡から目を逸らし、
巾着にしまい直した。
そして、机の引き出しを開ける。
鏡を入れ、音を立てないように、
そっと閉じた。
──もう、見ない。
そう決めたはずだった。
けれど、その手は、わずかに震えていた──




