scene.09 「やわらかな雨音」
7月はじめ。
ホームルームが終わったばかりの教室は、
帰り支度をする声でまだ賑やかだった。
椅子を引く音や笑い声が
あちこちで響いている。
陽日リナは自分の机の上に
スクールバッグを置き、
帰り支度をしていたが、
ふと窓の外に目をやった瞬間、
視線が止まった。
「……あれ、降ってる?」
いつの間にか、梅雨らしい細かい雨が、
窓を伝ってしとしとと流れていた。
それを見て、はっとした。
……そうだ、傘忘れた。
あわててバッグの中を覗き込む。
やっぱり、どこにもない。
(うそでしょ、今日に限って……)
ため息をついたところで、
すぐ横の席で帰り支度をしていた月森ミナが、
呆れたようにこちらを見た。
「傘、忘れてたの?」
「持ってる?」
「うん。折りたたみだけど。
仕方ないから、入れてあげる」
「やったー! ミナちゃん、神!!」
思わず声が弾んで、
肩に掛けたバッグの
キーホルダーが軽く揺れた。
小さく笑みを浮かべながら
傘を手に取る彼女と、
並んで教室をあとにした。
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scene.09 「やわらかな雨音」
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廊下は帰る生徒たちで賑わっていた。
その向こう、
小走りで通り抜けようとする姿が
目に入り、思わず声が出る。
「ソラちゃん!」
その声に、彼女――相川ソラは
ふいに立ち止まり、
振り返ってふわりと
笑みを浮かべ、軽く手を振った。
「あっ、リナちゃん」
「もう帰り?
そういえば今日、バイトの日だったよね」
「うん。その前にちょっと、
寄りたいところがあって」
「そっか。今日はバイト頑張ってね」
「うん、ありがと」
それだけ言うと、
彼女はまた小さく手を振り、
小走りで廊下の奥へ消えていった。
「……相変わらず、ふんわりしてるなぁ」
ぽつりとつぶやくと、
隣から「そうね」と
小さな声が返ってきた。
そのまま並んで階段を降り、
下駄箱の前でスニーカーに履き替える。
昇降口を出た瞬間、
ほんのりと湿った空気が
肌にまとわりつく。
思わずため息をつきながら、
前髪を指先でつまんで伸ばす。
「……ちょっと今日、湿気やばくない?」
「梅雨だし、しょうがないよ」
霧雨のような細かな粒が漂い、
街の景色がかすかに滲んで見える。
降り始めたばかりの雨が、
地面を濡らしていた。
「さ、入って、小さいけど」
傘を広げて差し出す彼女に、
遠慮がちに入る。
歩きはじめは肩が触れない程度の
距離を保っていたけれど、
いつの間にか自然と並び、
肩先がそっと触れ合っていた。
「なんか、落ち着くね。こういうの」
「……雨の日、けっこう好きなの」
彼女の声は静かだけど、
傘の中だと近くに感じられる。
「ありがと」
「……どういたしまして」
彼女の返事は短くて、
でもやっぱりやさしかった。
傘の中。
二人きりの空間で、
雨音が一定のリズムを刻んでいた。
そのテンポが、ふいに変わる。
最初は小さな雨音だったのに、
傘を叩くたびに勢いを増していく。
風も混じり始め、
傘の内側にまでしぶきがかかった。
「……あれ、ちょっと強くなってきた?」
顔を上げると、
彼女も周囲を見回しながら頷く。
「うん、このままじゃ
びしょ濡れになりそう」
「どこか雨宿りできそうなとこ……」
視線を巡らせて、ふと気づく。
「あっ、あそこ」
指差した先は、
歩道から少し奥まった場所にある
小さな公園の東屋の屋根だった。
水たまりを跳ねながら、
彼女の手を引いて駆けだした。
◇
公園の東屋へと駆け込んで、
肩で息をしながら顔を見合わせた。
「はぁ……間に合ってよかった……」
濡れた前髪を指で払いながら、息を吐く。
雨はさっきよりも
さらに激しくなっていて、
夕立のように打ちつけていた。
屋根の下でも、
しぶきが足元に跳ねる。
「……ちょっと濡れちゃったね」
ミナが、カーディガンの袖口に
目を落としながらつぶやく。
さっと脱いで軽くはたくと、
水滴がぱらりと落ちた。
それをバッグの上に掛け、
ベンチへ腰を下ろす。
同じようにカーディガンを脱ぎ、
軽く振ってからバッグに掛ける。
隣に腰を下ろすと、
濡れた髪先から小さな雫が落ちていった。
それを見た彼女が、
「あとでちゃんと乾かさないと風邪ひくよ」
そのままそっと手を伸ばして
髪先を指先でつまみ、
やさしく水気を払ってくれた。
東屋の中は広すぎず、
ベンチも自然と肩が並ぶくらいのサイズ。
植え込みが目隠しのようになっていて、
歩道からは中の様子がほとんど見えない。
「……なんか、秘密基地みたいだね」
「うん。……落ち着くね」
「そうだ、これで」
バッグに手を伸ばしかけたところで
「大丈夫。私、持ってるから」
そう言って、
彼女のバッグからタオルを取り出した。
「この前、くれたやつだよ」
微笑みながら差し出し、
そのまま、あたしの髪先にそっと触れさせる。
「……ミナ?」
呼びかけても返事はなく、
ただ穏やかな表情のまま、
タオルをやさしく動かし続けていた。
少し照れ笑いを浮かべながら、
その優しさに身を委ねた。
静かにタオルが動き、
肩に触れた温もりが、
ゆっくりと腕へと滑っていく。
柔らかな布越しに伝わる体温と、
重ねられる気遣い。
やがて、その指があたしの手元に触れた瞬間──
思わず手が動き、そっとその手を握った。
彼女の指が一瞬、戸惑うように止まる。
けれど、離れることはなく、
指先をゆっくりと絡めて受け入れてくれる。
息を静かに吸い、吐く。
そっと肩にもたれかかる。
絡めたままの手は、
膝の上であたたかく重なっていた。
小さな声で、ぽつりとつぶやく。
「ねぇ……一緒の高校に入れて、よかった」
「……頑張ったからね」
その言葉とともに、
絡めていた手をそっとほどき
あたしの肩へとまわり、
やわらかく包み込まれる。
自然に引き寄せられると、
彼女の腰に手を回した。
右手を膝に置くと、
すぐにその上へ温もりが重なり、
指先がためらいがちに絡んでくる。
そのまま、
言葉もなく寄り添っていた。
やがて、ざあざあと
打ちつけていた雨音が、
静かに和らいでいく。
間を置きながら落ちる雫の音を、
黙って聞いていた。
顔を上げると、
空は少し明るくなっている。
「……ちょっと、小降りになってきたね」
彼女がぽつりと言った。
「うん。……そろそろ、行こっか」
立ち上がり、ひとつの傘を広げる。
その中に自然と肩を寄せ合って収まった。
傘の内側に生まれる、小さな世界。
小雨が静かに降り続くなか、
ふたりの距離は、
ぴたりとくっついたまま。
そっと腕を組めば、
その温もりがさらに近くなる。
──濡れないように、というのは、
もうただの言い訳だった。
◇
電車の座席で、
彼女の肩に寄りかかりながら、
窓に映る自分の顔と、
隣で静かに本を読む姿を
ぼんやり眺めていた。
少し明るさは戻っていたものの、
空はまだ低く沈み、
ビルの窓や信号の光が滲んで揺れている。
頬には、タオルのやわらかな感触が
まだ残っている気がする。
握った手の温もりも、
肩越しに伝わったぬくもりも──
なんで、あんなに
自然にできちゃったんだろ。
そう考えた途端、
胸の奥がふわりとあたたかくなった。
電車がゆるやかにカーブを曲がる。
その揺れに身をまかせながら、
バッグの肩ひもを指先でいじる。
──ミナと、
最初にちゃんと話したのって……。
* * *
中学一年の春。
まだ新しい制服に少し慣れない頃。
校庭の隅、木陰のベンチに座って、
一人で本を読んでいる子がいた。
風に揺れる黒髪。
開かれたページをそっと押さえる、
細くしなやかな指先。
その姿を遠目に見つけ、
思わず立ち止まる。
──なんか、かっこいいかも。
思わずそう思った瞬間、
足が勝手に動いていた。
「ねえ、それ面白いの?」
背後から声をかけると、
彼女は少し目を丸くして振り返る。
「……詩集、だよ。
……なんていうか、静かな言葉って、
あとから思い出したりするから」
「静かな言葉って?」
「たとえば──
誰かのこと、好きって叫ぶより……
何も言わなくても通じ合う、
みたいな感じかな」
「へえ……なんか、オトナっぽいなあ。
あたし、そういうの全然読まないからさ。
ねえ、ちょっとだけ聞かせてくれたりする?」
そう言うと、彼女は数秒、考えて──
本を開いて見せてくれた。
その隣に、何も言わず腰を下ろす。
少し難しかったけれど、
彼女の声に耳を傾けていた。
休み時間の終わり際、
自然な流れで連絡先を交換して、
クラスは違ったけど、
その日は一緒に帰った。
それから、もっと知りたくなって、
少しずつ話しかけるようになった。
最初は控えめだった彼女も、
やがて自分のことを
色々話してくれるようになった。
隣にいると、安心できる。
優しいだけじゃなくて、
ちゃんと見てくれているような気がする。
──たぶん、こんな気持ちになるのは
自然なことだったのかも。
* * *
そして、今日。
濡れた髪をタオルで
そっと拭いてくれたときも──
やっぱり、あのときと同じ気持ちがした。
電車が駅に近づくアナウンスを流す。
「まもなく、大日、大日です──」
その声に合わせて顔を上げ、
もたれかかっていた肩からそっと身を離す。
隣では、彼女がうっすらと目を開け、
読んでいた本をぱたんと閉じた。
……明日から、どうなっちゃうんだろ。
そんなことを思いながら、
静かに立ち上がった──




