第9話 県総体予選
県総体当日。
朝から空はどんよりと曇っていた。時折、風が吹くたびに湿った空気が肌にまとわりつく。
ウォーミングアップの会場では午前中に競技のある選手達が、自分のペースでアップを行っている。
時間が経つにつれて、選手たちの表情が険しくなっているのを見ると、自然と心臓の鼓動が高まってくる。
梅雨の時期が近付いているせいか、午後からは雨が強くなるらしい。
私が出る400mの予選は総体の初日に行われる。
予選は午前中に行われるが、準決勝と決勝は午後だ。
つまり、勝ち進めば雨の中で走ることになるかもしれない。
「海里、どう? 調子は。」
アップを終えて会場の端でスパイクの紐を緩めていると、朱が声をかけてきた。
ニコニコと手を振りながら隣に座る。
朱は3日目に競技が行われるから、今日は応援だけだ。
とはいっても、男子の応援だろうけど。
ふとトラックを見ると、男子の中距離の選手達もアップを終え、ぞろぞろと戻ってくるのが見えた。
「うん。大丈夫。」
「……海里は相変わらずだねぇ。」
「そう?」
「そうだよ。緊張とかしなさそうだもん。鋼のメンタル? みたいな。」
「……。」
「そんなわけないでしょ」と言いたくなったが、気持ちを乱したくなかったのでそれ以上会話をするのを止めた。
そんな私に気を遣うわけでもなく、朱は話を続ける。
「いよいよ私たちも最後かぁ。ねぇ、陸上やってて楽しかった?」
「……まだ、終わってない。」
「あ、そっか。」
朱はスッと立ち上がり、「がんばってね」とだけ言い残し、中距離の男子選手の元へと走っていく。
なんなんだろう、この子は。私の心を乱しに来たのだろうか。
朱は3日目だから余裕があるの? もう、負けた気でいるの?
悪気があるつもりじゃないんだろうけど、もう終わった気でいるのが妙に腹立たしくてしょうがなかった。
ふぅっと深呼吸をし、マイナス思考に陥りそうな自分を引き戻す。
だめだ。こんなことで乱されるな。
今は自分のことにだけ集中しよう。
招集時間は10:00。1組目、第3レーン。
まだ時間はある。ゆっくりと深呼吸をして立ち上がり、空を見上げた。
厚くて黒い雲が、徐々に近づいている。
――私はまだ、ここでは終わらない。
そう自分に言い聞かせ、アップ会場を後にした。
◇◆◇
「海里、そろそろ招集会場に迎え。」
部の待機場所で準備を終えた時に、顧問の先生が声をかけてくる。
「調子はどうだ。」
「悪くないです。」
「そうか、わかっているとは思うが、予選は身体の調子を見ろ。前半は飛ばしすぎず、テンポを作れ。だが、気を抜くなよ。」
「……はい。」
先生に一礼をし、スパイクと水分のボトルが入っている手提げバッグを持ち、招集会場に向かう。
朱と話をしたせいなのだろうか、妙に心がざわつく。
それが、苛立ちなのか緊張のせいなのか、理由はわからない。
気持ちを切り替えるために、もう一度今日のレースの戦略を頭の中で確認する。
スタート、カーブ、バックストレート、カーブ、ホームストレート。
自分が走るイメージを高めていく。
――負けない。
そう頭の中で繰り返しながら歩いていると、いつの間にか招集会場に到着した。
招集会場には、数人選手が集まっている。
表情を見ると、皆引き締まった表情をしている。自然と緊張感が増してきた。
私は予選1組目。ジャージを脱いでユニフォーム姿になり、スパイクの紐を結びなおした。
ベンチに座り、目を瞑り、ゆっくりと呼吸を整える。予選の目的は、決勝に向けた調整だ。全力で走る必要はない。
むしろ、ここで力を使いすぎては本番で足が動かなくなる。あくまで身体の調子を見る。
最後にスピードを少しだけ上げて、フォームの確認をする程度。それで十分だ。
だけど、出し惜しみはしない。後悔はしたくないから。
まずはスタートだ、スタートに集中しよう。
「では、1組目の選手は移動します。」
――よし。
誘導員の後に続き、1組目の選手が移動を始めた。
トラック上には、すでにスタブロの準備がされている。
走って自分のレーンに行き、すぐにスタブロの調整を始めた。
スタートラインに踵を合わせ、距離を測り、高さを合わせる。
そして、滑らない様にピンがついている支柱をしっかりと踏む。
いつもやっていることだ。何の問題もない。
設置を終え、すぐにスタートの姿勢をとって感触を確かめる。
これも問題ない。むしろ、調子がいいくらいだ。
一度深呼吸をしてふと空を見上げると、雲がどんどん黒くなってきている。
ポツッと顔に小さな水が当たるのを感じた。
天気予報って、当たるんだな。
「オンユアマーク」
音声が耳に入り、私はゆっくりとスタート位置へ向かった。
スタブロに足をセットする。
少しだけ足の裏に力を込め、しっかりと力が反発するか確認する。
「セット」
上体を少しだけ持ち上げ、前傾姿勢を作る。
——パンッ!!!
ピストルの音が響く。身体が反射的に飛び出した。
スタートは問題ない。2歩目3歩目と、徐々にスピードが上がる。
いつも通りのリズムを意識して、ストライドとピッチを一定に保つ。
バックストレートまではとにかく力を使わず、楽に。
体幹を意識しながらタータンからの反発を感じながら前へ前へと前進していく。
隣のレーンの選手がすぐ近くまでいるのを感じた。でも、気にしない。私のレースは、私が決める。
——第3コーナー。
ここから、少しずつギアを上げていく。まだ全力じゃない。でも、スピードは徐々に乗せる。
雨が降る前の湿った空気が、肌にまとわりついてくる。
――ホームストレート。
軽くピッチを上げて加速する。心臓の鼓動と呼吸のリズムが上がってきた。
チラッと横目で左右のレーンを確認する。
大丈夫、上位2名には入っている。
そのままフィニッシュラインを駆け抜け、ゆっくりとスピードを落としていく。
空を見上げながら、乱れている呼吸を整える。
電光掲示板に映し出される名前とタイムを確認しないと。
「1 藤浦 海里 1:00.85」
リズムも良い、身体の調子も大丈夫。予定通りのレース展開ができた。
ここまではいい。でも、これで終わりじゃない。
一呼吸つき、もう一度レースの展開を改善するために、すぐにトラックを後にした。
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