第7話 目標の共有
地区予選の一日目が終わり、日が沈んだ頃になっても、まだ熱が冷めていなかった。
家で夕食を終えた後も、心臓がまだレースのリズムを刻んでいるような気がする。
公式の自己ベストを更新した喜びと、この先へ進める手応え。
けれど同時に、まだまだ足りないという焦燥感もあった。
「母さん。私、ちょっと一人で散歩してくる。」
「あら。ナナと一緒じゃないの?」
「うん……。一人で歩きたい気分だから。」
ナナを見ると、物寂しそうに私を見つめている。
今日はちょっと、一人で行きたい気分なんだ、ごめんね、ナナ。
何かを感じ取ったのか、ナナはお気に入りのベットでくるまった。
「そう……。じゃあ、気を付けて行ってらっしゃい。」
「うん。」
母にそう告げて、玄関を出る。
ジャージ姿に着替え、スニーカーを履き、玄関を開けると少し冷え始めた夜の空気が身体を包み込んだ。
ゆっくろと深呼吸をし、空を見上げると星が綺麗に見えている。
北の空にはひときわ目立つ北斗七星が浮かび上がっている。
北斗七星に指を指し、そこから目当ての星を探す。
北極星。常に輝き続け、航海者たちが目印としていた星。
――走りたい。
体が自然にそう訴えているのを感じる。今日はレースを走ったばかりだから、本当は休むべきだと頭では分かっている。
けれど、身体が休めといっていない気がした。
無意識に河川敷の方へ向かっていた。
◇◆◇
堤防上のタータンに足を乗せた瞬間、心がざわつく。
「……走ってみようかな。」
気づけば、スタートラインを意識するように距離標の横で足を揃えていた。
夜の静けさの中、遠くで川の流れる音がする。
街灯の明かりがぼんやりと照らす中、軽く屈伸をして、ゆっくりと体をほぐす。
――今日の感覚を、忘れないうちに。
誰もいない。音もない。けれど、レース前と同じように深呼吸し、無意識に「セット」と頭の中でつぶやいた。
そして、地面を蹴る。
最初の一歩が地面を押し、体が前に進む感覚。自然とスピードが乗り、タータンの上を駆け抜けていく。
呼吸が一定のリズムを刻み、心臓がそれに合わせて鼓動を速める。
夜の風が頬をかすめ、世界が加速する。
ただ無心で走る。体の中に溜まっていた熱が、地面に放たれていく感覚があった。
視界の先に、誰かがいることに気づいたのは、その時だった。
向こうから、こちらへ向かってくる影。
一定のリズムで地面を蹴り、確かなスピードで進んでくる。
この音は、全力だ。
思わずスピードを緩め、堤防の端の方に寄った。
――力強い。
タータンを踏みしめる音が徐々に大きくなってくる。
力強く、でもどこか軽やかなその足音は、どこか心地よさを感じる。
次第に大きくなるその影を目で追った。
距離が縮まる。
街灯の光の下、肩のブレが少なく、無駄のないストライド。
そのランナーの顔がはっきりと見えた。
――斗士輝。
互いにまっすぐ前を向いたまま、すれ違う。
吹き抜けた熱い風が、私の髪を乱していく。
ふと振り向くと、斗士輝は見えないゴールが見えているかのように、前だけ向き続けている。
その後ろ姿は、あっという間に小さくなった。
――いい音、出してるじゃん。
心の中でつぶやき、私もペースを上げた。
疲れているはずなのに、足が軽く感じる。
もう少しペースを上げようかとも思ったけど、止めた。
なんだか今は、足元から聞こえる音をちゃんと聞いてみたくなったから。
◇◆◇
地区予選が終わり、束の間の学校生活が戻る。
陸上部は全員県総体に進出することができた。
だが、次の県総体の結果次第で引退する人も出てくるだろう。
私はまだ、ここでは終われない。
教室の窓から外を眺めながら、予選会一日目の夜のことを思い出していた。
――夜にあんなに全力疾走してるってことは……。
考えすぎかもしれないけれど、すれ違った瞬間の感覚で確信があった。
「……おす。」
横から低い声がして、振り向くと斗士輝が立っていた。
「……どうだった、地区予選。」
自分の席に座り、私を見る。
急に会話をされて驚いたが、すぐに冷静になる。
地区予選のこと覚えてくれてたのか……。
「……自己ベス、更新。」
「……そっか。次、県総体?」
「うん……。大体二週間後……。」
いつもならここで会話は終わる。
だけど、斗士輝にはスタートを見てもらった恩もある、か。
「あ、あのさ……。」
「何?」
「スタート。見てくれて……ありがとう。参考になった。」
「……いいよ。次も、頑張れよ。」
「……うん。」
斗士輝は前を向き、バッグからノートとペンケースを取り出した。
静かにノートを開き、何かを書いている。
他人の事などどうでもいいはずなのに、ふと気になり再び声をかけた。
「それ、何書いてんの? 宿題?」
「ん? うーん……。多分見てもわかんねぇよ。ほら。」
斗士輝に渡されたノートを見ると、確かに理解出来ないような記号や単語が書かれている。
7:20~
BP 100kg×1r 85kg×5r×2 70kg×10r×3
DP 20kg×10r×5
16:00~19:00
パススキル、コンタクトスキル、FW・BK合わせ、コンビネーション、ウェイト。
(反省)
サインの伝達ミスが多い。全体の意思疎通弱い。8サイド初速出遅れる。改善する必要あり。
「……これ、何?」
「練習内容と反省。一応、キャプテンだしな。記録付けておこうと思ってただけだ。」
「斗士輝、キャプテンだったんだ。それより、この『BP、DP』って?」
「……。ベンチプレスとダンベルプレス……ウェイトの内容。曜日で部位は変えるけど、一人でやってる。」
「え……。夕方の練習にもウェイトって書いてる……。まさか、朝もやってんの?」
「やってる。……誰にも言うなよ。これ、見せるのだって正直恥ずかしい。」
斗士輝の気持ちはなんとなく理解できる。
私も自分の練習メニューのノートを誰かに見せようとは思わない。
これ以上は見てはいけない気がして、ノートを閉じた。
「なんで……見せてくれたの。」
「さあ。お前なら、馬鹿にしないって思ったんじゃね。」
「馬鹿にしないよ。だって……。」
「私も書いている」。そう言いかけて止めた。自分の弱みを出してしまうようで、それ以上言葉が出なかった。
だが、斗士輝は見せてくれたのに自分は見せないことに、少しだけ心がモヤモヤする。
『馬鹿にしない』か……。この気持ちはすごくわかる気がする。
やっぱり、この人はただ見た目が怖いだけの人じゃない。
自分のやっていることに本気で向き合っているから、普通の人には怖く見えるだけなんだ。
強くならないといけない。その想いの積み重ねが、メッキのように自分の身体に少しずつ塗られていく。
だから、本音は言わない。いや、言えないんだ。
自分が本気で、本音を語っても誰にも理解されないし、見向きもされない。
むしろ、『馬鹿にされる』。それを、この人は知っている。
あの夜の全力疾走も、全力で自分と戦っていたんだ。
一人で、孤独に……。
私は思い切って、自分のカバンからノートを取り出した。
一番後ろの何も書かれていないページを開き、机に置く。
「ねぇ……。斗士輝の目標は?」
「全国。」
「……じゃあ、お互いのノートに自分の目標書こうよ。」
「……。わかった。」
他の人のことなんてどうでもいいはずなのに、自分でも驚く言葉が出たことに内心焦った。
中身を見られたらどうしようと一瞬ドキッとしたが、斗士輝は何も言わず開いたページのまま受け取り、何かを書き始めた。
私も斗士輝のノートに目標を書く。書いたのはもちろん、『全国入賞』。
斗士輝から開かれたページのままのノートを受け取り、書いてくれたものを見る。
――『全国ベスト8。自分の全力を出し切る。 斗士輝。』
ふと、『出し切る』という言葉に目が留まった。
試合や毎日の練習で自分が思っていることを斗士輝が書いたことに、少し動揺した。
そっか、やっぱりそうなんだ。
このノートに書いた目標は、誰も知らない、本気同士の誓約だ。
「……いけよ。全国。」
「うん。」
一瞬だけ視線が交わり、斗士輝が前を向く。
言葉は少なくても、今なら分かる。
自分たちは、それぞれの道を走っている。けれど、目指す場所は同じだ。
そこに辿り着くまで、私は走り続ける。
でも、初めて誰かと走れるような気がした。
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