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ellipse  作者: 華里仁
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第6話 地区予選

 目を開けると、カーテンの隙間から朝日が柔らかく足元を照らしていた。

 まだ少し眠い目をこすりながら時計を確認する。


 ――よし。


 ベッドから体を起こし、いつものルーティーンに入る。

 顔を洗い、自分の顔を見つめる。自分の目が、いつもと違うような気がした。


 ――さぁ。勝負だ。


 心の中でつぶやき、陸上部のジャージに着替えダイニングへ向かう。

 ユニフォームは持った。ゼッケンも、忘れていない。スパイクも確認した。


「おはよう。海里。」


「おはよう。」


 いつも早起きの母は、テーブルに朝食を並べてくれていた。

 正午のレースということを言っていたからか、消化しやすいメニューが並べられている。

 テーブルの上には食事とは別に、栄養補給用のゼリーとスポーツドリンクが置いてあった。

 父は昨晩仕事で帰って来るのが遅かったので、まだ寝ているらしい。


「いよいよ、ね。」


「うん。」


「体調は?」


「大丈夫。」


 母は隣に座り、そっと私の頭に手を乗せる。

 温かいぬくもりが、私の全身を包み込むようだった。


「頑張っておいで。」


「……うん。ありがとう。」


 朝食を食べ終えて立ち上がると、ナナが足元に寄って来る。

「頑張って来るね」と言うと、ナナは尻尾を振って口角を上げている。

 まるで、「がんばってね」と、返答しているようだった。


 荷物を持って玄関に向かうと、母がナナを抱いて後ろからついてくる。

 すると、階段から父が降りてきて、一言「かましてこい」と声をかけてくれた。

 スニーカーを履き、玄関のノブに手を置く。

 深呼吸をし、扉を開ける。


「行ってきます。」


 笑顔で手を振る両親の顔を見ながら、まだ静かな朝の中に足を踏み出した。


 ◇◆◇


 会場に着くと、陸上部と見てわかる人が何人か歩いていた。

 先日のミーティングで言っていた集合場所に着くと、何人か部員が集まっている。


「あ! 海里おはよう~!」


「朱、おはよう。」


「聞いてよ~。昨日さ、ユニフォームの準備してたらノエルにまとわりつかれちゃってさ~!」


 ノエルって確か、朱の家にいるオスの猫だっけ。

 この前4歳のお誕生日会をしたって言ってたな。

 それよりも、朱の緊張感の無さに少しため息が漏れた。

 もう少し緊張感を持ったらいいのに……。


「ねぇ海里、聞いてる? それでね、ノエルと遊んでたらパパとママに怒られちゃってさ~……。」


「……そうなんだ……。」


 まだ話が続きそうだったので、適当に相槌を打ちながら自分のバッグからスポーツドリンクを出した。

 2口くらい飲んだ後に周囲を見渡すと、陸上部の部員がほとんど集まっていた。

 キャプテンは顧問の先生と話をしている様子が目に入る。


「集合!」


 キャプテンが部員に声をかける。

 全員列を作って集まり、私はいつも通り、後ろの方に並んだ。


「もうわかっていると思うが、今日から3日間の地区予選会はタイムレースだ。インターハイへ向けた第一歩目だ。各種目一発勝負になるから、各自時間まで調整しておくように。以上!」


「はい」と全員が返事をし、その場から離れる。

 結局、マイルの参加は見送られたので、気持ちに少し余裕が出来ている。


「じゃあ、競技の招集時間がまだの人たちはテント設営手伝え! それ以外アップして待機!」


 キャプテンの声で全員が動き始める。

 私の招集完了時刻は12時15分。8組中2組目の第4レーン。

 まだ時間はある。

 ドリンクをバッグの中にしまい、テントの設営場所まで移動した。

 移動するときにすでに待機している他の学校の人たちに目をやると、マッサージをしていたり、スマホをいじっていたりと、時間の使い方は様々だった。

 地区予選の会場は県総体の会場と同じところだから、少しでも多く会場の雰囲気に慣れておかないといけない。

 こういう待機時間から、すでに勝負は始まっている。

 私は、無駄な時間を使いたくない。

 今の自分はどのくらいなのか、ここで分かる。


 設営場所に着くと全員慣れたもので、すぐにテントは設営できた。

 もうやることはほぼ無い。


 ――よし、少し身体を動かそう。


 ただ待っているだけでは、心も体も落ち着かない。

 荷物を持ち、ウォーミングアップ会場まで移動することにした。


 ◇◆◇


 招集時間になると、他の学校の選手たちが続々と集まり、競技場の空気は一層緊張感を帯びてきた。

 レーンごとに分けられたベンチへ座り、ゆっくりと腰を下ろす。

 招集場所はいつも異様な雰囲気に包まれている。


 足を叩く人、知り合い同士なのか話をする人。鉢巻を何度も巻き直す人。

 その中で私は、目を瞑りゆっくりと呼吸を繰り返す。

 どんな場所でも瞑想ができるのは、特技と言っていいのかもしれない。


「では、移動します。」


 ――きた。


 ゆっくりと目を開け、立ち上がる。

 誘導員の後にぞろぞろとついていった。


 1組目の選手がスタブロを自分のスタートポジションに持っていく。

 設置を終えてすぐにスタートの練習が始まり、全員がスタート位置まで戻って来る。


「オンユアマーク」


 会場に合図の音声が響き渡る。

 全員がスタートの位置に着き始める。

 私も目を閉じ、スタンデングでスタートの姿勢を取る。


「セット」


 軽く前傾になり、集中する。


 ――パァン!


 スタートの合図とともに「ガチャン!」とスタブロの反発音が聞こえ、選手たちが飛び出していく音が聞こえた。

 目を開けると、全員が最初の直線に差し掛かっているのが目に入ってくる。

 自然と心臓の鼓動が早くなってきた。


 ――落ち着け……落ち着け……。


 1組の選手達が、次々とフィニッシュラインを駆け抜けてくる。

 最後の一人がフィニッシュラインをきって、全員がコースから出ると、係員がスタブロとレーンナンバーの標識を持って各レーンに置いていく。

 いよいよ、か。


 いち早く自分のレーンに行き、スタブロの調整をする。

 ラインに踵を合わせ、歩測で距離を測り、高さを合わせ、固定する。

 いつもの流れだ。練習と何も変わらない。

 すぐにスタートの姿勢を取り、調子を確かめる。

 うん。問題ない。

 スタートの位置に戻り、ぐるぐると腕を回す。

 これも、いつも通り。

 その瞬間、心臓がドクンと大きな音を立て、足が震えそうになった。

 でも、すぐに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出して、体の緊張を解いた。


「オンユアマーク」


 音声が耳に入って来た瞬間、周りの音が全く聞こえなくなった。

 競技場の喧騒も、風の音も、何もかもが遠くに感じる。

 スタブロに足を乗せ、静かにその瞬間を待つ。

 スタートの合図が鳴り響く瞬間まで、自分の身体のすべてを集中させる。


「セット」


 背筋を伸ばす。

 一瞬、息を止める。


 ――パァン!


 その瞬間、足が力強くスタブロを押し込むのを感じた。

 一歩踏み込むたびに身体が前方へ加速していく。

 風が顔をかすめ、足を速く動かすたびに、心臓の鼓動がさらに早くなるのを感じる。


 ――いける。乗れてる。


 最初のカーブを抜けた時、5レーンの選手の後ろ姿がどんどん近くなってきた。


 ――焦らないで……まだ……まだ……。


 直線に入り、5レーンの選手を抜く。

 一瞬、熱い空気が身体の後方に通り抜けた。

 ピッチはまだ上がる。ストライドも問題ない。

 少しずつ、だが確実に前に見える選手の後ろ姿が近くなる。


 ――呼吸はまだ乱れていない。次のカーブで、捉える。


 2つ目のカーブに入り、私の目の前から選手の姿が消える。

 スパイクはタータンを捉え、前へ行けと言うように反発を返してくる。

 心臓の鼓動が急激に速くなり、足に重さを感じてくる。


 ――まだ……ここから上げる。


 カーブを抜け「フッ」と呼吸をし、肺に酸素を流し込む。


 ――上げろ……上げろ!


 心の中でピッチを上げるように何度も言い聞かせる。

 足と腕が重い、呼吸も辛い。

 意識が限界を迎えそうになるけれど、足を動かし続ける。


 ――ラスト……!……。


 フィニッシュラインが近づき、ラストスパートをかける。

 もう、何も考えられない。ただ、前へ進む。


 フィニッシュライン手前で前傾になり、いつもよりも太く見える白い線を超えた瞬間、身体中が酸素を求めてくる。

 腰に手を当てながら呼吸を繰り返し、止まりたいと言っている足を無理やり前へと進める。

 少し朦朧とする意識の中、フィールド内に表示されているタイムに目をやった。


「56.89」


 公式での自己ベスト。

 喜びそうになったが、まだこれは地区予選。しかもタイムレース。

 私が目指しているのは、ここじゃない。

 だけど、総体に向けた準備は整った。


 誰にも見られない様に小さくガッツポーズをして、トラックを後にした。

良かったらまた次話も見に来てください。

評価いただけますと、とても励みになります。

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